第1話「呪われた屋敷に、住み着くことにした」
不動産屋の主人は、契約書にサインするセシルの手元を、何度も覗き込んできた。
「本当によろしいんですか。あの屋敷は、その」
「幽霊が出るという噂ですよね。存じています」
「噂ではなく、実際に出るという報告が複数ありまして」
セシルはペンを止めずに、最後の欄まで書き終えた。「家賃がこの金額なら、幽霊の一人や二人、我慢します」
主人は困った顔をしたが、それ以上は止めなかった。契約は成立した。
家なき令嬢というのは、思ったより惨めな響きだった。父の代で家が傾き、遠縁を頼って渡り歩いた末に、セシルの手元に残ったのは僅かな持参金と、行く当てのない自分自身だけだった。普通に部屋を借りる金もない。だから「呪われた屋敷」の破格の家賃に、迷わず飛びついた。
幽霊など、貧乏より恐ろしいものではない。
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屋敷は、想像していたより整っていた。
埃は積もっているが、崩れかけた様子はない。石造りの造りはしっかりしていて、庭の木々も手入れされた跡がうっすらと残っている。誰かが長い間、大事にしてきた場所なのだと、玄関をくぐった瞬間にわかった。
荷物は少ない。鞄一つを部屋の隅に置いて、セシルは埃を払い始めた。
最初の夜、寝台に横になってすぐ、それは現れた。
部屋の隅に、青白い光がぼんやりと浮かんだ。輪郭が徐々にはっきりしていく。若い男の姿だった。騎士の装束を纏い、腰に剣を下げている。透けた身体の向こうに、壁の模様がうっすらと見えた。
悲鳴を上げるべきかどうか、セシルは一瞬迷った。迷っている間に、男が口を開いた。
「……客人か」
落ち着いた声だった。恐ろしさより先に、丁寧さを感じさせる声。セシルは寝台の上で身を起こした。
「あなたが、この屋敷の幽霊ですか」
「幽霊、という呼び方は好かないが」と男は言った。「そう呼ばれても仕方ない身だ。名はアーロン。この屋敷の、元の主だ」
セシルは少し考えて、「セシルと申します」と名乗った。「今日からこの屋敷を借りることになりました」
アーロンは目を細めた。「借りる、と言ったか」
「はい。破格の家賃で助かっています」
「……それは、私が客人を追い出し続けてきたせいだろうな」とアーロンは苦笑した。「すまなかった」
「追い出すおつもりですか、私も」
「いや」とアーロンは即座に言った。「お前を怖がらせるつもりはない」
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翌朝、目を覚ますと、部屋がいつもより綺麗になっていた。
埃が払われている。昨夜片付けきれなかった荷物が、綺麗に棚に収まっている。セシルは驚いて周囲を見回した。
「起きたか」
アーロンの声がした。窓辺に、透けた姿で立っていた。
「これは、あなたが」
「他に誰がいる」とアーロンは言った。「物には触れないが、少し力を込めれば動かせる。この屋敷の中でだけだが」
セシルは寝台から出て、綺麗になった部屋を見渡した。「ありがとうございます。でも、なぜ」
「客人には、快適に過ごしてほしい」
あっさりとした答えだった。しかし人を襲うどころか、世話を焼いてくる幽霊というのは、セシルの想像していた「呪われた屋敷」とは随分違った。
「一つ聞いてもいいですか」とセシルは言った。「なぜ私を襲わないんですか。他の住人は、皆逃げ出したと聞きました」
アーロンは少し黙った。
「見せてしまったのだろう」と言った。「怖い姿を、うっかり。それで皆、逃げた」
「今は、見せないようにしているんですか」
「お前を怖がらせたくない」
それだけ言って、アーロンは窓の外へ視線を移した。透けた横顔が、朝の光の中で少し寂しそうに見えた。
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その日から、奇妙な同居生活が始まった。
アーロンは物に触れないが、屋敷のどこに何があるか全て知っていた。井戸の水の汲み方、薪の乾かし方、庭で採れる食べられる草花——十五年、あるいはもっと長い間、この屋敷を守ってきた男の知識が、セシルの生活を支えた。
夜になると、二人で話した。セシルの身の上、アーロンがこの屋敷でどう過ごしてきたか。アーロンは自分の死について、多くを語らなかった。「昔のことだ」とだけ言った。
セシルは聞かなかった。聞いていい話ではない気がした。
ただ、夜が更けるたびに、アーロンの輪郭が少しだけ薄くなる瞬間があるのに、セシルは気づいていた。
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