踏み出す一歩
「最後。」
タケミの低い声が、試験場へ響く。
「カイン。」
「はい。」
カインは短く返事をすると、静かに前へ出た。
その瞬間、周囲の空気が僅かに変わる。
「英雄イサナの息子か……。」
「どんな戦い方をするんだ?」
受験者達の視線が、一斉にカインへ集まった。
期待。
好奇。
中には、値踏みするような視線も混ざっている。
カインはそれらを気にすることなく、試験場の中央へ立った。
「カイン!」
後ろからセトの声が飛ぶ。
振り返ると、真っ赤に腫れた拳を掲げていた。
「頑張れよ!」
カインは僅かに笑う。
「ああ。」
その隣では、アランも緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「気を付けて。」
「分かってる。」
やがて、職員達が一つの檻を運んでくる。
先ほどまでとは違い、何人もの職員が周囲を警戒しながら慎重に押していた。
――ガァン!!
突然、鉄格子が大きく揺れた。
「うわっ!」
一人の職員が思わず手を離す。
檻の中では、一頭の灰色の狼が牙を剥き、何度も鉄格子へ体当たりを繰り返していた。
低く唸りながら、視界に入る者全てを獲物のように睨みつけている。
「まだ開けるな。」
タケミが静かに告げる。
「開始の合図までは、そのままにしておけ。」
「はい!」
職員達が檻を押さえ直す。
それでも狂ったような体当たりは止まらない。
鉄格子が軋むたび、受験者達の間に緊張が広がっていく。
「なんだ、あれ……。」
「さっきの鎧猪より危なくないか?」
タケミは檻の中を見つめながら、淡々と口を開いた。
「狂狼。」
その名に、何人かの受験者が息を呑んだ。
「本来、狼属は警戒心が強く、自ら人里へ近付くことは少ない。」
「群れを大切にし、不必要な争いも避ける。」
「だが、ごく稀に異常な闘争本能を持って生まれる個体がいる。」
「目に入るもの全てへ襲い掛かり、死ぬまで牙を止めない。」
「それが狂狼だ。」
カインは黙ったまま、その姿を見つめていた。
体格は普通の狼より一回り大きい程度。
闘争本能の高さは、暴れ回る様子を見て嫌でも伝わる。
そして何より、檻の中ですら目で追うのが難しいほど、その動きは速かった。
「では……。」
タケミが右手を上げる。
職員達が檻の扉へ手を掛けた。
狂狼は扉の向こうに立つカインを見つめ、低く唸る。
カインも視線を逸らさなかった。
一瞬。
狂狼の動きが止まる。
まるで、檻が開く瞬間を待っているかのようだった。
「始め!」
タケミが右手を振り下ろす。
同時に扉が開かれた。
次の瞬間。
狂狼の姿が視界から消えた。
「っ!」
カインは反射的に刀を抜く。
目の前へ牙が迫っていた。
身体を捻り、紙一重でかわす。
狂狼の牙が、頬を僅かに掠めた。
地面へ着地した狂狼は、間を置かずに振り返る。
すぐさま再び駆け出した。
「速っ……!」
受験者達から声が上がる。
カインは刀を構え、迫る狂狼を目で追った。
右。
左。
低く沈み込んだかと思えば、次の瞬間には真横へ回り込んでいる。
刀を振るう。
だが、その切っ先は灰色の毛を掠めるだけだった。
狂狼が後ろ脚で地面を蹴る。
カインは刀を盾にするように構えた。
牙と刀身がぶつかる。
ガキンッ!
「くっ……!」
予想以上の衝撃に、カインの身体が後ろへ押される。
狂狼はすぐに離れ、再び距離を取った。
低く姿勢を落とし、こちらを睨んでいる。
次はどこから来る。
カインは目を凝らす。
狂狼の身体が僅かに動いた。
右。
そう判断した瞬間には、既に左側へ回り込まれていた。
「っ!」
振り返る。
鋭い爪が腕を掠めた。
服が裂け、細い血の筋が浮かぶ。
「カイン!」
セトの声が響く。
「大丈夫だ!」
短く返しながら、カインは狂狼から視線を外さない。
見えていないわけではない。
動き出してからなら、追うことはできる。
牙も。
爪も。
どこを狙っているのかも分かる。
だが――。
(始まりが見えない。)
動き出す、その一瞬。
どこへ飛び込むのか。
どちらへ回るのか。
その初動だけが掴めない。
だから、いつも僅かに遅れ、後手に回り続けている。
「英雄の息子でも苦戦するのか……。」
「速すぎるんだ。」
「目で追うだけでも精一杯だぞ。」
周囲の声が聞こえる。
カインは呼吸を整えながら、刀を握り直した。
(見えてる。)
もう一度、狂狼を見る。
低く構えた身体。
獲物へ狙いを定める瞳。
僅かに開いた口から漏れる荒い呼吸。
(目では追える。)
狂狼が駆け出す。
カインはその動きを追う。
見えているのに、反応がやはり一瞬遅れる。
狂狼の牙が肩を掠めた。
カインは数歩よろめきながら、踏みとどまる。
(目で見てから動くから、遅い……?)
その時。
ふと、少し前の記憶が頭をよぎった。
『抜刀なら、やっぱ刀だろ。』
そう言って、父はカインのために刀を用意した。
ある日の訓練中。
イサナは突然、何かを思い出したように手を叩いた。
『そういや、刀にはこういう技術もあったな。』
『こういう技術?』
『漫画でよく見たんだけど――』
『漫画?』
『あぁ……それは置いといて。』
イサナは誤魔化すように笑うと、カインから刀を借りた。
『刀を鞘に収めた状態から、一瞬で抜いて斬るんだ。』
『それ、普通に抜いて斬るのと何が違うの?』
『格好いい。』
『……それだけ?』
イサナは刀を鞘へ納めると、近くに立っていた木の前へ歩いた。
静かに腰を落とす。
一瞬。
イサナが踏み出した、と思った次の瞬間、木の枝が音もなく地面へ落ちた。
『居合いっていう技術らしい。刀を使う街で実際にやってる奴を見たこともある。』
『父さん、使ったことあったの?』
『今のが初めて。』
『……初めて?』
『多分、こんな感じだろ。』
イサナは笑いながら刀を返した。
当時は、ただ父親がまた変なことを始めたとしか思わなかった。
(……使えるかもしれない。)
速さで勝てないなら、追わなければいい。
相手が来る、その一瞬だけを待つ。
カインは大きく息を吐いた。
そして。
刀を鞘へ納める。
周囲がざわついた。
「おい……。」
「刀をしまったぞ。」
「なんだ、諦めたのか?」
「カイン……?」
セトも、不安そうにその姿を見つめる。
カインは答えなかった。
腰を僅かに落とし、鞘へ納めた刀の柄へ右手を添える。
狂狼が低く唸る。
獲物が武器を手放した。
そう判断したのか、口元から涎を垂らしながら姿勢を低くした。
カインは目を閉じる。
(目だけに頼るな。)
呼吸を整える。
周囲のざわめきが、少しずつ遠ざかっていく。
聞こえるのは、自分の呼吸。
そして、狂狼の荒い息遣い。
(呼吸を読む。)
狂狼が地面を踏む。
爪が石畳を僅かに引っ掻く。
(音を聞く。)
空気が揺れる。
狂狼の身体が沈む。
後ろ脚へ力が集まる気配。
(感じろ。)
ほんの僅かな変化。
目では捉えられなかった、動き出す直前の一瞬。
それが、はっきりと分かった。
狂狼が地面を蹴る。
一直線にカインへ飛び掛かる。
「カイン!」
セトが叫ぶ。
カインは目を開いた。
一歩。
前へ踏み出す。
同時に、刀を抜いた。
――キン。
澄んだ音が響く。
カインと狂狼の身体が交差した。
狂狼はそのまま数歩駆ける。
一歩。
二歩。
三歩。
そして。
ドサリ。
力を失い、地面へ崩れ落ちた。
試験場が静まり返る。
カインはゆっくりと刀を鞘へ戻した。
カチン。
小さな音が、やけに大きく響いた。
「……そこまで。」
職員が静かに告げる。
その声を合図に、止まっていた空気が一気に動き出した。
「やった!」
「今の何だったんだ!?」
「一瞬で斬ったぞ!」
「カイン!」
セトの声が誰よりも大きく響く。
カインは深く息を吐くと、タケミへ向き直った。
「ありがとうございました。」
そう言って頭を下げる。
タケミは何も言わず、静かにカインを見つめていた。
その目が何を見ていたのか。
カインには分からなかった。
◇ ◇ ◇
全ての実技試験が終了し、受験者達は再び広場へ集められた。
朝に比べれば人数は大きく減っている。
だが、先ほどまでとは違う緊張が広場を包んでいた。
これから、合格者が発表される。
セトは落ち着かない様子で拳を開いたり閉じたりしている。
「痛くないのか?」
カインが腫れた拳を見る。
「痛ぇよ。」
「じゃあ動かすなよ。」
「落ち着かねぇんだ。」
「余計に腫れるぞ。」
そんな二人の隣で、アランは静かに前を見つめていた。
表情は落ち着いている。
だが、両手は強く握られていた。
やがてタケミが一歩前へ出る。
「これより、合格者を発表する。」
広場が静まり返った。
職員が名簿を開き、一人ずつ名前が呼ばれていく。
「セト。」
「はい!」
大きな声で返事をする。
セトは嬉しそうにカインを見る。
カインも僅かに笑った。
名前は続く。
そして。
「カイン。」
「はい。」
返事をした瞬間、セトが手を掲げた。
カインも自然にその手を打つ。
パァン、と乾いた音が鳴る。
「いってぇ!」
カインは呆れながらも、少しだけ笑った。
アランもそんな二人を見て、僅かに口元を緩める。
だが。
最後まで、アランの名前が呼ばれることはなかった。
「以上。」
職員が名簿を閉じる。
アランは小さく息を吐いた。
「やっぱり駄目だったかぁ。」
「アラン……。」
カインが声を掛ける。
アランは少し悔しそうに笑った。
「大丈夫。」
「今の自分じゃ足りないって、ちゃんと分かったから。」
その言葉に、カインは何も言わなかった。
ただ、静かに頷く。
タケミは合格者達を見渡した。
「合格した者は、本日より狩人として登録される。」
「だからと言って、もう一人前だと勘違いするな。」
「自分の力を見誤るな。」
「そして必ず、生きて帰れ。」
合格者達は真剣な表情で、その言葉を聞いていた。
「以上で、狩人試験を終了する。」
一礼する者。
歓声を上げる者。
肩を落とす者。
それぞれが、それぞれの思いを胸に広場を後にしていく。
カインもセトと並び、歩き出した。
英雄の息子としてではなく。
一人の新人狩人として。
その一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
受験者達が去った後。
職員達は檻や道具の撤収作業を始めていた。
狂狼を運んでいた檻には、何度も体当たりされた跡が残っている。
それを見ながら、一人の職員が苦笑した。
「まさか、本当に狂狼を試験へ使うとは思わなかったな。」
「俺もだ。」
「鎧猪でも十分危険だっただろ。」
別の若い職員が、周囲を確認してから小声で尋ねる。
「やっぱり、英雄の息子だったからですかね?」
近くにいた年配の職員が、呆れたように眉を寄せた。
「馬鹿。」
「タケミさんに限って、そんな理由で相手を選ぶものか。」
「じゃあ、どうして……。」
その声が聞こえていたのか。
タケミは足を止める。
僅かに振り返り、短く答えた。
「一次試験を見た。」
「狂狼を相手に、自分の力を示せる可能性が最も高かった。」
それだけ言うと、タケミは再び歩き出す。
職員達は顔を見合わせた後、黙って作業へ戻った。
やがて撤収作業も終わり、広場から人の姿が消えていく。
最後に残ったタケミは、静かになった試験場を見渡した。
鎧猪の甲殻が砕けた跡。
狂狼が駆け回った爪痕。
今日ここで、何人もの若者が己の力と向き合った。
タケミは小さく息を吐く。
「……将来が楽しみな狩人達が、また生まれたな。」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
漫画は多分
某抜刀斎のやつ




