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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
御方の祝福とともに I
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御方の祝福とともに I 007

 石を削る音だけが、工房に満ちている。


 カン、カン、カン。


 規則正しい音ではなかった。止まっては続き、続いては止まる。迷いながら削っているような音だった。でも男の手は、止まっていない。


 ルグ連邦の東の外れに、小さな街アストがある。峻厳な山々に囲まれた連邦の中でも、アストは特に山に近い街だった。街の背後には岩肌をむき出しにした急峻な山が迫り、街の前には細い川が流れている。住む者の多くは岩人族で、石を削り、金属を叩き、魔道具を作ることで生きてきた街だ。


 初夏の日差しは、山の影で少し遮られていた。それでも工房の中は温かい。石の壁が昼間の熱を蓄えている。削った石の粉の匂いが、部屋の中に静かに漂っていた。乾いた、鉱物の匂い。男にとっては、息を吸うのと同じくらい馴染んだ匂いだった。


 工房は街の外れにあった。石造りの建物で、天井が高く、窓が小さい。光は少ないが、岩人族の目には十分だった。床には石の粉が積もっている。工具が壁に並んでいる。作りかけの石細工が棚に並んでいる。鍛冶の道具もある。魔道具の材料もある。


 男はその工房で、六十年以上働いてきた。岩人族の男だった。身の丈は人族より少し高く、肩幅が広く、手が大きかった。岩の肌は、長年の仕事で更に硬くなっていた。指先には細かい傷が無数にある。どれがいつできた傷かは、もう覚えていない。


 今、男が削っているのは石像だった。


 高さは膝丈ほど。まだ形が定まっていない。人の形をしているが、どの種族かもわからない。顔はまだ彫られていなかった。


 ナスレスクの像だった。


 妻が倒れたのは、三月前。朝、台所で倒れているのを男が見つけた。呼吸はあった。でも目を開けなかった。医者を呼んだ。医者は長い時間かけて診て、それから男に言った。


「天命に近づいています」


 男は黙って聞いた。


「岩人族の寿命は長い。でも限りはあります。奥様は、その限りに近づいておられます」

「治らないのか」

「治る、治らないという話ではありません」


 医者は静かに言った。


「時間は、まだ少しあります。でも、覚悟はしておいてください」


 それから男は、工房に籠もるようになった。ものづくりをしていないと落ち着かない性分だった。若い頃からそうだった。悩んでいるときも、怒っているときも、悲しいときも、手を動かしていれば少し楽になった。手が止まると、頭の中がうるさくなる。


 だからナスレスク様の像を彫り始めた。最初は理由がわからなかった。ただ、石を手に取って、彫り始めていた。気づいたら、像の形になっていた。


 後から考えれば、祈りたかったのかもしれないと思った。でも男は祈ることに慣れていなかった。神殿には行っていた。礼拝は欠かさなかった。でも自分の言葉で祈ることは、ほとんどなかった。言葉より手の方が、男にはわかりやすかった。だから、像を彫ることにした。


 奥の部屋に、妻がいる。気配があった。呼吸の音が、壁越しにかすかに聞こえた。男はその音を聞きながら、石を削り続けた。


 音が聞こえている間は、まだいる。そう思いながら、削り続けた。





 石を削りながら、記憶が浮かんだ。妻と出会ったのは、男が二十の頃だった。


 アストの市場だった。男は工具の材料を買いに来ていた。女は薬草を売る店の手伝いをしていた。市場の石畳には、乾いた薬草の匂いと、切り出したばかりの石の埃っぽい匂いが混じっていた。


 最初に話しかけたのは、男だった。珍しいことだった。男は口数が少なく、見知らぬ人間に話しかけることをほとんどしなかった。でもその日は、何かが男を動かした。


「その石、どこで仕入れた」


 女が首に下げていた石のことだった。薄い青みを帯びた石で、男には見覚えがなかった。どの山で採れる石か、気になった。


 女は少し驚いた顔をした。それから答えた。石の産地を、詳しく教えてくれた。男は礼を言った。立ち去ろうとした。


「あなた、何を作るの」と女が聞いた。

「石細工だ」

「どんな」

「いろいろ」


 素っ気ない答えだった。でも笑った。


「今度、見せて」


 男はその言葉に、少し戸惑った。自分の作ったものを見せてほしいと言われたのは、初めてだった。それが始まりだった。


 結婚したのは、四年後。男は急ぐつもりはなかった。でも女と会う回数が自然に増えていった。工房に来るようになった。男が作ったものを、いつも丁寧に見てくれた。褒めるだけでなく、どこがいいかを言葉にしてくれた。男にはその言葉が、ありがたかった。


 妻は薬草の知識が深かった。石の性質にも詳しかった。話していると、新しいことを知ることが多かった。


 男が結婚を申し込んだのは、ある冬の夜だった。炉の前で二人でいた。特別な夜ではなかった。いつもと同じ夜だった。でも男は、その夜、申し込んだ。


「俺と一緒にいてくれ」


 それだけだった。愛しているとは言わなかった。そういう言葉は、男には言えなかった。昔からそうだった。気恥ずかしかった。直接的な言葉を口にすることが、男にはできなかった。


 女は少し間を置いてから言った。


「ずっと待ってたのに、遅かったわね」


 それが返事だった。


 子宝には恵まれなかった。何年か待ったが、子供は来なかった。男は何も言わなかった。妻も何も言わなかった。ある夜、妻が言った。


「ごめんなさい」

「何が」

「子供のこと」


 男はしばらく黙った。炉の火を見ていた。


「おまえのせいじゃない」

「でも」

「おまえがいればいい」


 それだけ言った。それ以上は言わなかった。言えなかった。言葉が出てこなかった。


 妻はそれ以上何も言わなかった。しばらくして、妻が男の隣に来て座った。男は何も言わなかった。妻も何も言わなかった。ただ、二人で炉の火を見ていた。


 その夜のことを、男はよく覚えている。


 子供がいない代わりに、二人だけの時間が長かった。妻は工房によく顔を出した。男が仕事をしている間、薬草を整理したり、帳簿をつけたりしていた。話すこともあったし、黙っていることもあった。男は口数が少なかった。でも妻は、それを不満に思わなかったようだった。少なくとも、そう見えた。


 ある日、妻が言った。


「あなたが石を削る音、好きよ」

「うるさくないか」

「うるさい。でも好き」


 男は何も言わなかった。でも、その言葉はいまも覚えている。





 像の顔を彫り始めたとき、男は手を止めた。


 顔が決まれば、完成に近づく。完成させたくなかった。


 なぜかと問われれば、うまく言えなかった。でも男には、わかっていた。像が完成したとき、何かが終わる気がした。奥の部屋の妻の呼吸が、止まる気がした。


 理屈ではなかった。でも、そう思った。


 だから顔を彫るのを後回しにしていた。体の輪郭を整えた。衣の折り目を彫った。手の形を丁寧に作った。やれることを全部やった。顔だけ、後回しにし続けた。


 でも手は止まらなかった。止めることができなかった。手を動かしていないと、頭の中がうるさくなった。妻の呼吸の音が、大きく聞こえすぎた。


 だから削り続けた。顔以外の全てを、何度も何度も削り続けた。


 石を削りながら、記憶はまだ続いた。


 二人で過ごした年月は、長かった。岩人族の寿命は長い。百年近く、二人でいた。


 その間に、街が変わった。建物が増えた。新しい道ができた。知っている顔が減って、知らない顔が増えた。世代が変わった。


 でも工房は変わらなかった。石造りの壁も、高い天井も、壁に並んだ工具も、ほとんど変わらなかった。男が少しずつ手を入れながら、同じ場所に同じように在り続けた。


 妻もそうだった。変わった。当然、変わった。若い頃の顔とは違う顔になった。体も変わった。でも男には、妻が妻であることは変わらなかった。何がそうさせるのか、言葉にはできなかった。でも変わらなかった。


 ある年の秋、妻が工房に来て言った。


「今日は何を作ってるの」

「魔道具の修理だ」

「見ていていい?」

「好きにしろ」


 妻は工房の隅に椅子を出して、座った。男は修理を続けた。二人とも、しばらく黙っていた。やがて妻が言った。


「あなたが作ったものの中で、一番好きなのはどれかしら」


 男は手を止めずに答えた。


「さあ」

「ないの?」

「たくさん作ってきた。一つを選べない」

「じゃあ、わたしへの贈り物の中で」


 男は少し間を置いた。


「首飾りだ」

「どれ?」

「最初に作ったやつ」


 妻はしばらく黙った。それから言った。


「まだ持ってるわ」

「知ってる」

「毎日つけてるのよ」

「そうだな」


 男は手を止めずに言った。でも、その会話は覚えている。


 最初に作った首飾りは、男が三十の頃に作ったものだった。石細工の仕事を覚えて、少しずつ腕が上がってきた頃だった。妻に何か作ろうと思った。理由はなかった。ただ、作りたかった。


 どんな石を使うか、長い時間考えた。妻がどんな石を好むか、観察した。妻は青みを帯びた石を好んでいた。首に下げていた石も、薄い青みの石だった。同じ色の石を探した。アストの近くの山で採れる石の中から、一番色の近いものを選んだ。


 形を考えた。何度も試作した。気に入らなくて壊した。また作った。完成したのは、半年後だった。


 渡すとき、男は何も言わなかった。ただ、差し出した。妻は受け取って、しばらく黙って見ていた。それから言った。


「きれい」


 男は何も言わなかった。でも、その言葉が嬉しかった。





 妻の呼吸の音が、変わったのは夕方だった。


 男はすぐに気づいた。長い時間、その音を聞き続けてきたからだった。浅くなっていた。間隔が、少し変わっていた。


 男は像を置いた。工具を置いた。立ち上がった。奥の部屋へ向かった。


 妻は寝台に横たわっていた。目を閉じていた。顔は穏やかだった。苦しそうではなかった。ただ、眠っているような顔だった。


 男は妻の横に座った。妻の手を取った。冷たくはなかった。まだ温かかった。妻の胸が、ゆっくりと上下していた。男はその動きを見ていた。


 何か言おうとした。言葉が出なかった。


 昔からそうだった。大切なことほど、言葉にならなかった。愛しているとは言えなかった。ありがとうとも言えなかった。そういう言葉は、男には言えなかった。気恥ずかしかった。直接的すぎて、言えなかった。


 だから黙って、手を握った。


 しばらくして、妻が目を開けた。男を見た。焦点が合っているかどうか、わからなかった。でも、男の方を向いていた。妻の口が、少し動いた。声は出なかった。でも男には、何を言おうとしているか、わかった気がした。


 長い年月をともに過ごしてきた。言葉がなくても、わかることがあった。


 男は妻の手を、少し強く握った。それだけだった。言葉はなかった。でも、それだけで十分だと思った。


 妻の呼吸が、静かになっていった。浅く、浅く、静かになっていった。男はその手を握ったまま、動かなかった。


 初夏の夕暮れが、窓から差し込んでいた。山の影が長くなっていた。どこかで鳥が鳴いていた。工房の石粉の匂いが、かすかにした。


 長い時間のように感じたが、実際にはそれほどでもなかったかもしれない。


 妻の胸が、止まった。


 男はしばらく、動かなかった。手を握ったまま、動かなかった。


 窓の外で、鳥がまた鳴いた。


 男はゆっくりと立ち上がった。妻の手を、布団の上にそっと置いた。


 妻の顔を見た。穏やかだった。苦しんだ様子がなかった。眠っているような顔だった。


 長い時間、一緒にいた。七十年近く、一緒にいた。


 子供はいなかった。でも二人でいた。それで十分だったと、男は思った。十分すぎるほどだった。


 工房に戻った。ナスレスク様の像が、作業台の上にあった。顔がまだ彫られていない像が、夕暮れの光の中にあった。


 男はその像の前に膝をついた。


 長い時間、そうしていた。何も言わなかった。言葉は出なかった。でも、何かが胸の中にあった。言葉にならない何かが。


 やがて、男は口を開いた。


「長い間、一緒にいさせてもらえました」


 静かな声だった。


「妻は、穏やかな生を全うできました」


 少し間を置いた。


「それだけで、十分です」


 また間を置いた。


「ありがとうございます」


 それだけだった。男にしては、長い言葉だった。


 しばらく膝をついたままでいた。工房の外では、初夏の夜が来ていた。山の向こうに、最後の光が沈んでいった。


 男は立ち上がった。像を見た。顔がまだなかった。完成していなかった。


 完成させたくなかった理由が、もうなくなっていた。


 でも今は、まだ彫る気にはなれなかった。


 男は像の横に、別の石を置いた。それから工具を手に取った。石を削り始めた。


 新しい石だった。何を彫るか、最初から決まっていた。


 妻の顔だった。


 男は手を動かした。石を削った。手を動かしていないと、やっていられなかった。頭の中がうるさくなった。だから削った。


 でも今夜は、少し違った。頭の中が静かだった。うるさくなかった。


 それでも手は動いた。止める理由がなかった。止める気もなかった。


 カン、カン、カン。


 規則正しい音だった。迷いのない音だった。


 工房に、石を削る音だけが満ちていた。


 その音は、夜が深くなっても続いた。

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