愛は時を忘れさせる
月日はあっという間に流れていく。二年というのは思ったよりも短かった。
ついに訪れた竜鎮祭の日、グレーテルはこの日のための特別な衣装に身を包んで舞台袖に立っていた。長いリボンで飾られた、純白の天使のようなドレスだ。
向かいの袖にいるのはラインハルトだ。眼前には期待で胸を膨らませた民衆がじっとこちらを見守っている。緊張で足が震えたが、最前列に半透明のヴィルフリートの姿があることを見つけて勇気づけられた。
音楽が始まる。何度も練習したせいか、考えるより早く身体が動いていた。グレーテルとラインハルトはほぼ同時に舞台の上へ躍り出る。
二人はともに美しく舞い、中央に辿り着いた。グレーテルは跪き、手にしていた剣をラインハルトに渡す。一方で立ったままのラインハルトは、アセビを編み込んで作られた花冠をグレーテルの頭に載せて剣を受け取った――――この瞬間、二人は“花冠の乙女”と“勇者”になった。
ラインハルトの力強い剣舞とグレーテルの可憐なステップは、まるで歯車が噛み合っていくように緻密な芸術を創り出す。冷たい切っ先が乙女の柔い肌のすれすれを通るたびに民衆は息を飲み、ひらひらと踊るリボンが勇者を絡め取ろうとするたびに頬を緩ませる。危険と隣り合わせの舞に誰もが魅せられていた。
舞は終焉に近づいていた。グレーテルは踊りながら高くせりあがった舞台奥へ昇っていく。壁にはドラゴンを模した絵が描いてある。壁との隙間の下にはちょうど観客には見えない位置に柔らかなマットレスが敷いてあった。
グレーテルを追うようにラインハルトも昇ってくるが、彼が辿り着く前に花冠の乙女はそこから身を投げた。ぼすん、受け止められた音は勇者の慟哭を表すような激しい音楽に掻き消されて観客席までは届かない。
ラインハルトがドラゴンの絵に向けて剣を投げる。その剣が正確に眉間を貫いた刹那、万雷の拍手が響き渡った。
「上出来だ! さすがは我が弟子、どんな大舞台も完璧にこなす度胸と実力は称賛に値する!」
拍手の音にも負けない大声は、グレーテルのよく知る青年のものだ。その声はグレーテルにしか聴こえない。
「小僧、お前のことも褒めてやろう! よくぞ寸分違えず踊りきった! まあ、娘の相手役という意味では俺のほうがふさわしかっただろうがな!」
自分を褒めたたえるのを忘れないのはいつものことだ。ふっと微笑んだグレーテルは、気だるい達成感に包まれながら目を閉じた。
*
「ここは……」
むくりと起き上がる。被ったままだったらしいアセビの花冠がぽすりと落ちた。
石造りの冷たい祭壇のようなものに寝かされていた。祭壇の周りはアセビの花で飾られている。大きな部屋のようだ。周囲は薄暗く、ひんやりとしている。壁の端にはたいまつが煌々と燃えていた。照らし出される壁はまるで岩のようで、ここが普通の広間ではなく広い洞窟だという印象を受けた。
「……起きてしまったか、花冠」
「ああ、なんということでしょう。せめて眠ったままだったら、まだ救いがあったというものを」
グレーテルは一人ではなかった。グレーテルの前にはハインツとラインハルトがいた。ハインツは聖書を、ラインハルトは剣をそれぞれ持っている。ラインハルトの剣は、先の演舞で使っていたものとよく似ていた。けれどこれはあの剣のような、刃が潰された装飾用のものではない――――実戦で使う、本物の剣だ。
「え……と、これは一体、どういうこと?」
ちゃり、と。身じろぎした瞬間、涼やかな音がした。見ると、手首に細い金の鎖が巻きついている。垂れたそれは祭壇の上に繋がれていた。
金の鎖はあまりに美しくて繊細で、ともすれば装飾品のようにも見える。しかしそれはすべての魔術師を只人以下にする恐ろしい戒めだ。魔力を封じる拘束具に囚われていると気づき、グレーテルはさっと顔色を変えた。
「何のつもり!?」
身体に異変はない。衣装の乱れもない。舞のときに身につけていた、花冠の乙女のドレスそのままだ。けれど今おかしなところがないからといって、これからもないとは限らない。
黒茨の杖は手元になかった。呪文を叫んでも、ヴィルフリートはここに来ることができない。仮に杖があったとしても、魔力が封じられていては何の意味もなかったが。
「儀式を始めるんですよ。本当の、竜を鎮める儀式をね」
落ちた花冠を拾い上げ、ハインツは硬い声で告げた。無機質な目がじっとこちらを見ている。呆然とするグレーテルに構わず、ハインツは花冠を再びグレーテルの頭に乗せた。
「“花冠の乙女”。その役割は、人に土地を奪われた竜に怒りを鎮めてもらうための慰み者です。贄をその手で竜へと捧げる役割を背負った者を人は“勇者”と讃え、彼は神と人を繋いだ神官としてこの地に王国を築きました。……やがて人の世の統治にこそ熱心になった王の一族は、信仰の導き手となることを神殿に一任しましたが……王権を得るゆえんとなった“勇者”の役目だけは担い続けてきたのです」
知っている伝説と違う。そんな話は聞いたこともない。けれどハインツの暗い顔は、冗談を言っているようには見えなかった。
「民に見せる祭りは終わった。ここからは、神に捧げるための儀式だ」
そう言ってラインハルトは剣を掲げた。彼も悲しそうな、苦しそうな顔をしていた。
別に親しかったわけでもないが、勇者役と乙女役としてそれなりに一緒にはいたのだ。そもそも、これから人を殺めるのだから、平然としていられるわけがないだろう。
もしかしたらラインハルトがやたらと冷たかったのは、こうなるとわかっていたからだったのだろうか。いずれ自分が殺す者と親しくしていても、自分がつらくなるだけだ。それはいわば牧場主が食用の豚に名前をつけて可愛がるような愚行なのだから。
「ひ、人でなし! 悪党! ど変態! 神の名を借りれば何してもいいと思ってるわけ、この殺人鬼! そっちのあんたもよ、それで聖職者とか笑わせないで!」
せめて時間を稼いでこの拘束を壊すための隙でも作ろうと、思いつく限りの罵倒を並べる。しかし聞こえないふりでもしているのか、ラインハルトもハインツも何も答えなかった。
「御身を癒す美しき献身の花は、ここに咲いている――神よ、受け取りたまえ」
「いやっ……!」
ラインハルトは使命をまっとうしようとする。葛藤に鈍ったように弱々しく剣を構えた。しかし持ち主の意思にかかわらず、剣自体の冷めた輝きは変わらない。
悲鳴を上げるが、とっさのことにグレーテルは何もできなかった。思わずぎゅっと目をつむる。
「俺のっ! 弟子にっ!! 何をしてくれているこの下等生物どもがぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
暗い世界の中。重い扉が開け放たれた、そんな音が聞こえた。
地の底から響き渡るような、怒りに満ちた声が反響した。
「隷属せよ、桎梏の抱擁ッ!」
「なッ――! だ、誰だ!?」
「君は確か……いつぞやの夜会で、グレーテルさんが連れていた……? ど、どうしてここが!?」
鞭のようにしなった茨がハインツとラインハルトを拘束する。二人の視線の先、洞窟じみた闇の向こう。そこに、杖を支えにしてなんとか立ちながらぜぇぜぇと肩で息をする青年がいた。
「ヴィル……フリート……!」
涙がこぼれる。ヴィルフリートはくわっと目を見開いて一喝した。
「無事で何よりだ、探したぞこの不良娘が! 一体いつまで外をほっつき歩いているつもりだ!? 何時だと思っている、ついに時計の見方も忘れたかたわけ! 遅くなるなら一言言ってからにしろ、そして俺の杖を手放すな! おかげで見つけるまでだいぶ時間を食っただろう! この神殿は広すぎる! 嫌な予感がしたから聖なる気が濃そうな場所を当たったが、結局しらみ潰しになる羽目になったわ!!」
黒茨の杖の石突を地面に力強く叩きつけ、ヴィルフリートは怒鳴り続ける。
「しかし俺は、手塩にかけて育てた愛弟子がそんな非行に走るわけがないと知っているからな! つまりはすべてそこの虫けらどものせいだろう! 嫁入り前の娘をかどわかした罪、そして俺をあちこち走らせた罪! 万死に値する!」
軽蔑しきった目でハインツとラインハルトを一瞥したヴィルフリートは、そのままつかつかとグレーテルのもとに歩み寄ってきた。力任せに金の鎖を引きちぎり、優しく抱き寄せてくれる。
「夢の中の俺は、肝心な時に間に合わなかったようだがな。しかしこれは現実だ。俺は世界で一番優秀な魔術師だぞ? 弟子の危機に駆けつけるなどたやすいことだ」
「……ええ、ありがとう」
ヴィルフリートは黒茨の杖を持たせてくれた。頬を伝う涙がこれ以上あふれてしまわないよう、グレーテルは彼に身体を預けたままそっと目を閉じる。
全力で走ってきたからだろう、伝わってくるヴィルフリートの鼓動は少し早い。けれどその音も、ぬくもりも、すべて彼が間違いなくここにいるという証明だった。
「アセビの花などお前には似合わん。お前を飾るにふさわしいのは、真紅の輝きをもって咲き誇る大輪のバラよ」
ヴィルフリートはグレーテルの被っていた花冠を奪い取る。彼はそのままそれを床に放り、ぐしゃりと踏みにじった。
「――さて。蛆虫以下の卑怯で下劣な痴れ者よ。この娘は俺のものだ、貴様らごときに触れることは能わず。しかし俺は寛大な男ゆえな。裁く前に、何か申し開きがあるなら聞いてやろう」
グレーテルを離さないまま、祭壇に腰掛けたヴィルフリートは威圧のにじむ声で問う。身じろぎしようとするハインツの身体を茨蔓がまるで生き物のように這い、逃れようともがくラインハルトの身体を強く締めつけていた。
「……贄を捧げなければ、竜の怒りで国が滅ぶ。あの竜は破壊神の化身だ、逆らうことなど……」
「はっ。なるほど、なるほど。どうやら俺がぼんやり覚えていた噂のほうが歴史の真実で、なお最悪なことに今も受け継がれている因習だったとはな。この娘は俺が目をかけたほどの逸材だ、神が欲するのも仕方あるまい。だが、みすみす神ごときにくれてやると思ったか?」
つまらない威信のために消された、残酷な神の真実。神に勝つために策を弄した人間と、その犠牲になった乙女。いつぞやヴィルフリートが小耳に挟んだその物語は、舞台となる国の名前が違ったために竜鎮祭とは結びつかなかったが、まあ五百年もあれば国の名前が変わるような出来事もあるだろう。地図の上では、この国の版図はヴィルフリートの記憶よりも広大になっていたようだったから。
「おい貴様ら、破壊神だ創造神だとくだらんものに祈るぐらいならこの俺に祈ったほうがいいぞ。俺の名こそを畏れ、俺に跪くがいい。別に救いはせんが、苦しめもしないからな」
「何を……!」
神をも恐れない魔術師は傲慢に告げる。曲がりなりにも神に仕えるハインツはその不敬さに目を見開いたが、ヴィルフリートは気にも留めなかった。
「グレーテル。お前の血を祭壇に垂らせ。神やら悪魔やらは、大体そういうものでおびき出せる。贄を求めるような血腥い輩ならなおさらな。ほんのちょっぴりでいいぞ! 後ですぐ治してやる、大丈夫だ!」
「え……? こう、かしら」
グレーテルはまどろみから醒めたようにぼんやりと目を開け、黒茨の杖の棘の部分を強く握る。もう恐怖などは感じていないようだ。この完全無欠の大天才、ヴィルフリートの腕の中にいるのだから当然だが。
指の腹から滴り落ちた血が祭壇に垂れる。その瞬間、目もくらむような神々しい輝きが広間を満たした。ハインツもラインハルトも顔を背け、グレーテルもまぶしげに目を閉じた。しかしヴィルフリートはグレーテルの抱く杖に手を添えただけで、怯え慌てるどころかそれ以上動くこともしない。
「お前が神か? しかし悪いな、贄の乙女などぽっと出の端役風情には贅沢すぎる。というわけで、俺がいただいていくぞ。元からこの娘は俺のものだ、貴様も文句などはあるまい」
世界を揺るがすような咆哮がとどろいた。しかし怒れる神になど一瞥もくれず、悠久を生きる賢者は不遜な言葉を静かに紡ぐ。
「醜い獣が。図に乗るな、貴様の時代はすでに終わりだ――悔い改めよ、避けられぬ終焉」
たった一言。それだけで激情は苦悶の音に変わった。
無数の茨の棘が鱗を貫く。迸る血に構わず、茨は傷口から体内へと侵食を始めた。意思があるように動く茨は、やがては心臓すらも握りつぶすだろう。
神の化身たる竜は茨に蝕まれたままのたうつこともできず、徐々にその姿も消えていく。それこそが当然だと言わんばかりに、ヴィルフリートはにっと笑った。
「この天才魔術師が舞台の上にいるのだぞ? ありきたりな悲劇など許すと思うか? たとえ用意された脚本があったとしても、そんなもの力づくで変えてやる。俺が手を加えてやったほうが面白いからな!」
神の威が消えたのを察したのか、グレーテルがおずおずと目を開けた。ハインツとラインハルトも、何が起きたかわからないという顔をしている。
「ヴィル、手が……!」
異変にまっさきに気づいたのはグレーテルだった。ヴィルフリートの身体が、末端から黒い茨に覆われていく。しかし瞠目するグレーテルとは対照的に、ヴィルフリートは泰然と構えたままだ。
「……ん、ああ。そうか、このタイミングでか。時間切れだ、グレーテル」
だから、次はお前が自分で俺の塔に来い――――続く言葉は、これが悲しい別れなどではないことを示していた。
だからグレーテルは力強く頷く。魔王が眠る、茨に覆われた石造りの高い塔。呪われたその塔に近づく者はいないが、それがどこにあるかは誰もが知っていた。
「そこの腰抜けども。貴様らの所業は許せんが、伝令役として仕方なく生かしておいてやる。感謝しておけ」
ヴィルフリートはハインツとラインハルトをねめつけた。“魔王”の名は嫌いだ。だが、それが可愛い弟子を守る盾となるならいくらでも名乗ろう。
「あらゆる者に伝えよ。竜は黒茨の魔王が滅ぼした、ゆえに花冠の乙女グレーテル・ローゼンガルトはその代価として魔王がもらい受ける運びとなったとな! ああ勘違いするなよ、この娘以外の贄などいらん! しかし俺を讃える祭りならばいつでも大歓迎だ!」
事実がそのまま伝えられるとは思わない。これからもこの国は、片割れを失った創造神ともうどこにもいない破壊神に無意味な信仰を捧げるのだろう。
けれど、これでグレーテルには新しい箔がついたはずだ――――神すら退けた魔王の贄と彼女にかかわるすべてのものを、一体誰が害そうと思うだろう。
「黒茨の魔王だって!? 実在していたというのか!?」
「ああ……ああ、僕は一体何に祈ればいいんだ……?」
茨に飲み込まれた賢者は、やがて跡形もなく消え去った。彼の本来のありかに戻ったのだ。先ほどまでヴィルフリートがいた場所をじっと見つめ、グレーテルは黒茨の杖をより強く抱きしめた。
* * *
――――その日、とある馬車が国の果てにある呪われた塔のもとに停められた。
アメジストの目をした御者が扉を開けると、立派な剣を持った護衛の少年と、黒い杖を手にした紅い髪の少女が出てくる。
「ここまででいいわ。多分、あなた達のことは拒むでしょうから。気をつけて帰ってね?」
黒い三角帽子の広いつばを上げ、漆黒の茨で覆われた塔を見上げた少女は楽しげに笑う。お気をつけてと言葉を返し、御者と護衛は深く頭を下げた。
「貴方には、本当に申し訳ないことをしました。たとえ大切な人の頼みであっても、神託を書き換えるなど……」
「俺からも改めて謝罪をさせてほしい。これが役目だからと、神に命じられたことだからと、思考することもやめたまま大きな罪を犯すところだった」
「別にもう怒ってないわ。神託が間違いだったことも、殺されそうになったことも。あたしに全部押しつけたっていう巫女姫様とやらには直接一言言いたかったけど……でも、少しは感謝してるのよ」
いつか見た悪夢があった。あれは多分、“花冠の乙女”にならなかったグレーテルの姿だ。
たとえすべてが嘘だったとしても、何故か“花冠の乙女”の真実を知るらしい巫女姫にとっては損な役回りを押しつけただけであっても、それでグレーテルは救われた――――あんな残酷な未来は決して来ない。
茨の塔に足を踏み入れる。黒い茨はまるでグレーテルを歓待するかのようにひとりでに道を開けた。多くの血を吸ったその棘は、決してグレーテルを傷つけない。
蜘蛛の巣どころか埃の一つもない、けれど二百年間閉ざされた塔。拓いていく茨に導かれるように、グレーテルはその場所へと向かう。最上階のそこは寝室だった。自分大好きな彼らしく、壁には彼の大きな肖像画がかけられている。グレーテルはくすりと笑い、ベッドに近づいた。
「ヴィル、起きて。いつまで寝てるの?」
眠り続ける塔のあるじは、三日前に別れたときとまったく同じ姿をしている。さらさらの黒い髪、赤い瞳を閉ざすまぶたを縁取る長いまつげ、すっと通った鼻筋と形のいい唇、なめらかな白皙の肌。本当に、黙ってさえいれば絵になる男だ。確かにグレーテルよりは少し年上に見えるが、その年の差が五百以上あるとは誰も思わないだろう。
寝ている隙をついて頬にそっと口づけを落とす。ヴィルフリートは身じろぎ一つしなかった。物は試しと唇にキスしてみる。いつぞやのお返しだ。もっとも、こんなことで目覚めるわけ――――顔を上げた瞬間、意地悪くきらりと輝く赤い瞳と目が合った。
「ああ、よく寝た。さて、この呪われた大賢者を眠りから目覚めさせた姫君はお前か? まあ、多少は成長したから認めてやろう。その褒美として願いを叶えてやるぞ。最初に叶えるのは、お前の初恋でいいだろう?」
「勝手にあたしの初恋の相手を決めないでよ。就職先の世話って言って。……あなた、本当はとっくに起きてたんじゃない?」
「さて、なんのことかわからんなぁ」
食えない魔術師はかかと笑って起き上がる。彼が呪文を唱えると、手のひらの上に一輪のバラが現れた。それをグレーテルの三角帽子のつばに飾り、ヴィルフリートは満足げに頷く。
「うむ。やはりお前にはバラがいっとう似合う。それには俺の魔術がかかっていてな。永遠に枯れ朽ちないのだぞ。そのうちコサージュか何かにしてやろう」
「あら。あたし、アセビの花も結構好きよ? もちろん、一番好きなのはバラだけど」
いつか二人で旅をしましょう。ずっと塔の中にいるのもいいけれど、たまには外の世界の魔術に触れて見聞を広げないと。あなたと一緒なら、きっと何をしても楽しいわ。幸せな未来を思い描き、グレーテルは呪文を紡いだ。
花が咲いたアセビの枝が、グレーテルの手のひらの上にちょこんと乗る。けれどそれは、神様に捧げる犠牲の花などでは決してない。
「でも、まずは悪魔を喚び出さないとね。あたしだけおばあさんになるのはいやだもの」
「なるほどな。確かにそうだ。天才とは常に孤独なものだが、五百年待った果てにせっかくすべてを分かち合えるものが現れたのだぞ。それがたかだか数十年で失われるのは実に惜しい。それもまた世界の損失の一つに数えられるだろう!」
ヴィルフリートの胸ポケットに枝を挿し、グレーテルは傲慢に笑った。
――――その国には、建国祭の翌日に執り行われるとある祭りがある。
呪われた塔に棲む恐ろしい黒茨の魔王に捧げられた、生贄の魂を慰めるための鎮魂の儀式だ。
神に捧げた舞のあまりの美しさに、悲劇の乙女は魔王に見初められてしまう。人々は自ら犠牲を選んだ誇り高い娘の献身を忘れず、同時に人智を越えた魔王を畏れた。
贄は紅薔薇の花嫁と呼ばれる。祭りの日は民で溢れ返り、彼女の悲しみを癒せるようにあえて賑やかで華やかなものが催された。
盛大なこの祭りを一目見ようと、時期になると各国から旅人が集まる。その中には男女ともに隻眼の、二人組の魔術師が必ずまぎれているという。
一説によると、この祭りを興した者の一人である公爵の夫人がこの二人の旅人をやけに恐れていたとか、片田舎のとある農家に死んだはずの花嫁からの手紙が数十年間毎年届いていたとか、何十年と経っても同じような者達がまったく変わらない姿でやってくるとか、彼らは実は不老不死だとか、あるいは彼らこそが件の魔王と花嫁だとか根も葉もない噂がまことしやかに囁かれているが、その真実はすべて闇の中だ。