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俺は下半身の筋肉をフル稼働させ、駆け出し、男に組みつこうと飛んだ。
「冷静さを失っちゃぁ……ダメだよなぁ」
男はニヤリと笑った。
飛びついた俺の腹を男の膝が捉え、深く、入った。
息が出来ない。苦しい。胃から熱いものが込み上げてきた。
続けざまにこめかみを殴られ、視界が激しく揺れる。間髪入れず、左足に横凪の蹴りが入った。
男の一撃一撃がダンベルでも振るわれたかのように、重たい。
蹴られた足は、力が入らず、何度立ちあがろうと力を入れようがガクガクと震えて力が入らない。
視界がチカチカと歪み気を張ってないと意識が飛んでしまいそうだ。
「これで仕事完了だな……連れていくぞ」
男は麗奈の髪を掴むと痛がるのも気にとめず、引き摺りながら俺に歩み寄った。
「…………っっ、おばえええええ!!!!」
言う事を聞かない足で立ち上がろうとしたが、うつ伏せに地面に倒れた。
なんでだよ……なんでこんな大事な時に限ってまた足なんだよ……。動けよ……。
「助けてええええええ!!!!」
俺の後ろで、唯が大声をあげ、男の視線が唯の方を向いた。
「警察も呼んだわよ!時期に来るわ。早く逃げた方がいいのではなくて!?」
唯はスマホを男に見せつけ、怒りを剥き出しにして言った。
「そうか。ならこの子だけで我慢するとしよう。2人も担いで警察を巻くのは骨が折れる」
男は麗奈の髪を掴んだまま、乱暴に持ち上げた。
プチプチと髪の切れる音が聞こえ、麗奈は痛がり、涙を流した。
麗奈の足を地面から浮かせ、もう一度、麗奈の腹を思い切り殴りつけるとぐったりとして動かなくなった。
「悪く思うなよ。仕事なんだ……」
「待て……待てよ!!」
男は麗奈を肩に担ぎ、俺に背を向けた。狙い澄ましたように黒い車が車道で止まり、男は麗奈を乗せると自分も乗り込んでいった。
「唯……これを車に向かって投げてくれ……」
「わかったわ」
唯にキーホルダーを渡した。
これは保険だ。キーホルダーにマグネットが着いているなら車にもくっつく筈。
唯が放り投げたキーホルダーは弧を描き、地面に当たると、バウンドして走り去る寸前の車のバンパーに張り付いた。
その様子を俺は地面を這いずりながら、見ている事しか出来なかった……。
麗奈を連れ去られた、その事実だけが残った。
「唯。立たせてくれ、警察が来る前に……行かないと……」
今事情聴取で時間を取られるのはまずい。
直ぐにでもGPSを作動させて麗奈を追わないと内藤の事だ、麗奈に乱暴な事をするのは間違いない。
「……警察なんて呼んでないわよ、向こうも、多分見逃したのよ。私たちのこと」
さっきの奴も内藤が警察とグルになってるのは知ってるはずだ。警察に連行されたところで、その後俺達を悠々攫って行くこともできる。
なら、何故俺を見逃した?麗奈じゃなくて俺でもよかっただろ……。早く、早く行かないと……。
「唯。俺は麗奈を追う。お前は山本さん達に連絡を取ってくれ……」
「馬鹿を言うのはやめなさい。その足でどうするの?」
「約束なんだ……あいつの傍にいるって約束したんだ!だから俺は行かなきゃ行けないんだよ!!」
唯を頼るのを止め、ガードレールを支えにして震えの止まらない足で立ち上がる。折れてはいないと思うが力が入らない。
「それで?そのまま行ってもミイラ取りがミイラになるだけだわ」
「それでも……あいつは寂しがり屋だから一人で誘拐されて心細いはずだ、俺がいけば……」
身代わりくらいにはなれる筈。そう言いかけた俺の言葉は、唯のビンタによって遮られた。
俺は、麗奈が連れ去られてから数分経って初めて、唯と目があった。
意地らしく何かを我慢するような表情で、ゆらゆらと揺れる赤い瞳には不安の色が浮かんでいる。