第二章 召喚獣のざわわな夏休み。〈17〉
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1時間ほど間をおいて朱音さんが右肩に大きなスポーツバッグ、左手にエコバッグをたずさえてもどってきた。
自分やまりるの着替えのみならず食材も調達してきてくれたらしい。
冷蔵庫の中は1~2日で底をつくほど逼迫した状況ではないが(冷凍食品が充実している)こまやかな心配りがありがたい。
朱音さん不在の間、こちらで特筆すべきことはなにもなかった。
一度だけまりるのトイレタイムがあり、オレと菜々美ちゃんで若干右往左往したものの、菜々美ちゃんによると、どうやまりるはトイレの仕方を理解したらしかった。
たぶんおそらく、つぎはひとりで大丈夫だろうとのこと。
また、まりるは菜々美ちゃんの名前につづいて瑞希の名前もおぼえた。
「ナナミ。ミズキ。キチク」
と云う瑞希の悪意に満ちたしりとりでオレの名前はまだきちんとおぼえられていない。純粋無垢(?)な童女に鬼畜とよばれたくはない。
朱音さんの帰還に菜々美ちゃんが席を立った。
「それじゃ菜々美、いっぺん学校にもどらなくちゃいけないんで、お暇しますね」
「いや~、ホントありがと! ナナミンいてくれて、チョ~助かった! ジャージはあとで洗ってかえすから」
朱音さんが菜々美ちゃんの手をとって労をいたわった。
「おつかれさま。ありがとうナナミ」
めずらしく瑞希も菜々美ちゃんへ感謝の言葉を口にした。
「あ、オレ、下までおくっていこうか?」
少しでもふたりきりになれる時間がほしくて、下心から思わずそう云ってしまったのだが、
「ううん。いいよ。大丈夫」
とあっさり拒絶された。
玄関へ足を向けた菜々美ちゃんに気づいたまりるがいぶかしげに小さく首をかしげた。
「……ナナミ?」
さっき朱音さんがでていった時はよくわかっていなかったようだが、今度は菜々美ちゃんがどこかへいなくなると察したのだろう。菜々美ちゃんはまりるの頭をなでるとやさしい声で云った。
「大丈夫だよ。菜々美、明日もまりるちゃんのようす見にくるから。……いいですよね、アカネさん?」
朱音さんがまりるの背中へ手をまわしてうなづいた。
「悪いけどそうしてくれる? その方がこのコもきっと安心すると思う」
「よかった。それじゃ失礼します。まりるちゃん、また明日」
笑顔でまりるに手をふると、菜々美ちゃんが玄関をあとにした。
……でかした、まりる! やってきました、大どんでんがえしっ!
オレは心の中で小さくガッツポーズした。あくまでまりるが目あてとは云え、明日も菜々美ちゃんがオレんちへきてくれるなんて! 明日も菜々美ちゃんと逢えるなんて!
一歩まちがえば、今頃オレはヘンタイの烙印を押されて、菜々美ちゃんから完全にきらわれていたかもしれないのだ。そう考えれば、この状況は充分にプラスと云ってさしつかえあるまい。
「……着替えてこなかったのか、アカネ?」
オレがささやかな幸せを噛みしめていると、瑞希が朱音さんへ訊ねた。
云われてみれば、朱音さんは制服姿のままだ。なにが気になったのかわからなかったが、瑞希の発した疑問に朱音さんが応えた。
「どうせ、うち帰ってシャワー浴びて着替えてきても、こっちもどってきたら、また汗かくに決まってんじゃん。マリルンの着替えもあるし、こっちでシャワー浴びようと思って」
「なるほど」
「てなわけで、カオルちゃん、シャワー借りるね。おフロ場どこ?」
「あ、こっちです」
オレが浴室へ案内すると、給湯装置やシャワーを確認した朱音さんが満足げにうなづいた。
「タオル借りてよい?」
「洗面台の下の棚です」
「さあさあ、マリルン。一緒にシャワー浴びよう。カオルちゃんに汚されたし汗もかいたし気もち悪いでしょ?」
「汚してねえし」
「る~?」
オレのツッコミも意に介さず、朱音さんは着替えの入ったスポーツバッグ片手にまりるを浴室へあっさり拉致した。
洗面所(脱衣所)のひき戸が閉まると、オレは人口密度の減ったリビングのソファーへ腰を下ろし、我知らず安堵の吐息をもらした。
考えてみれば、この家に瑞希以外のだれかが訪ねてくることなどない。その瑞希とて毎日いるわけではない。それなりに和気藹々(あいあい)していたとは云え、菜々美ちゃんや朱音さんの存在に緊張していたのだろう。
「そうか。あれがあった」
弥勒菩薩半跏思惟像のポーズで沈思黙考していた瑞希がひとりごちると突然立ち上がった。
「どうした?」
「私もお泊まりの支度をしてくる」
そっけない口調でそう云いのこし、瑞希もうちをでていった。だれもいなくなったリビングのしずけさが妙によそよそしかった。




