第二章 召喚獣のざわわな夏休み。〈14〉
「……これって?」
「記憶喪失?」
杏條センパイとオレのつぶやきに瑞希が頭をふった。
「いや。一般的な記憶喪失は逆向性健忘。思いだせないのは宣言的記憶、すなわち意味記憶あるいはエピソード記憶だ。言語や日常習慣まで忘れることはない」
よく記憶喪失と云うと「ここはどこ? 私はだれ?」なんてお決まりのセリフがあるように、なにもかも忘れてしまうわけではない。
記憶喪失とは、自身が体験してきた〈記憶〉を忘れてしまっただけであって、身体が〈体験〉そのものを忘れてしまったわけではない。
言葉も話せるし文字も読める。トイレのつかい方もわかっているし、十円玉と五百円玉を見せれば、それがお金でどちらが高額かと云うことも理解できる。
記憶喪失以前に運転免許をとっていれば、自分がいつどうやってそれをおぼえたのか思いだせなくても、交通ルールを遵守して車の運転をすることもできる。存外、日常生活に支障はない。
また、記憶喪失にはケガなどによる外因性とストレスなどによる心因性のふたつがある。童女の頭や身体には目立った外傷がないため、心因性の記憶喪失と考えることができる。
ツカツカと童女のもとへ歩みよった瑞希がゆっくりとした口調でたたみかけた。
「ハロー。ニーハオ。ボンジュー。アンニョンハシムニカ。グーテンターク。ブエナスタルデス。ドブリジェン。メルハバ。ナマステー。サッラームアレイコム。フーテミッターフ。ヒューヴェーパィヴェ。ボンジョルノ。スラマッパギ」
世界主要言語の「こんにちわ」であるらしい。
なぞの童女は黒髪で、いわゆるアジア系の面立ちをしていたが(日本人と外国人のクウォーターと云われてもおかしくないほど鼻筋の通った美しい顔をしている)外国出身の可能性を考慮したわけだ。
瑞希はいずれかの言語に反応をしめすと期待していたようだが、童女の反応はかわらなかった。
菜々美ちゃんと瑞希の言葉にはなんの反応もしめさなかった童女が、学生議会室のすみにたたずむオレの姿を視認すると、
「るる~!」
とうれしげな声をあげてオレの背中へとびついた。
「え? いや、ちょっとなに?」
狼狽するオレを尻目に女性陣の冷たい視線が突き刺さる。
「……カオルくん?」
「ち、ちがうっ! 誤解だ、菜々美ちゃん!」
なにが誤解か知らないが、とにかくオレは否定した。やましいことはなにもない。それでもボクはやってない。
「言葉や記憶をうしなっても、身体がセバスちゃんをもとめているなんて……!」
「すでに調教済みだったと云うわけか」
「んなわけあるか~~っ!」
オレの抗議が学生議会室へむなしくこだました。
8
議論の結果、記憶喪失の童女を警察で保護してもらうことにした。
女性陣が瑞希の「全裸童女の神かくし」と云う大胆な仮説を鵜呑みにしたわけではないものの、とりあえずオレに童女誘拐拉致監禁が不可能なことは納得してくれたらしい。
警察には「杏條朱音学生議会長と瑞希が校内巡回中に人気のない校舎の裏手で気絶している全裸の童女を発見した」と説明することにした。
そうすれば、オレや菜々美ちゃんはもとより、杏條朱音学生議会長や超絶天才少女の瑞希へ妙な嫌疑がおよぶこともない。ひとり暮らしのオレとはちがって完璧なアリバイもある。
そんなわけで、オレの腕へしがみつく記憶喪失の童女をつれて、オレたちは高校をあとにした。
記憶喪失童女はとくに衰弱しているようすもなく足どりもしっかりしていたが、別の問題が発生した。
成人男性、すなわち大人の男の人の姿にひどくおびえるのだ。
杏條センパイ、菜々美ちゃん、瑞希で童女を守るように歩いていても、オッサンとかとすれちがうだけで身体をふるわせ、足をとめてしまう。雑居ビルから宅配業者の兄チャンが威勢よくでてきたところと鉢あわせした童女は、
「きゃむっ!」
とさけんでオレの背中へとびついた。瑞希が童女に貸しあたえたブカブカの上履きだけが地面へとりのこされる。オレはふるえる童女をおぶったまま杏條センパイへ訊ねた。
「杏條センパイ。ちょっと、このコを警察までつれていくのムリっぽくないすか?」
「なんかかわいそうです」
童女の脱いだ上履きを拾い上げながら菜々美ちゃんも追従した。
「そうだね。ちょっち反応が過剰かもかも。どう思う、ミズキュン?」
「たしかに。このまま警察署へつれていってもパニックを起こしかねない。おそらくは心因性の記憶喪失患者にこれ以上精神的負荷をあたえるのは得策ではないな」
「じゃあどうする? 学校へもどるってわけにもいかないよね?」
「人気がなくって、このコを安全にかくまえるところきゅん……」
女性陣がその場にたたずんで沈思黙考した。午后とは云え、まだまだ暑い夏の陽射しと背中へ密着する童女の体温とでオレはホットサンド状態であった。輻射熱のキツいアスファルトの往来でじっとしているのは相当にシンドイ。
当惑するオレたちを尻目に瑞希が涼しい顔で云った。
「問題ない。私についてこい」
瑞希が迷いのない足どりでオレたちを導いたのは勝手知ったるマンションのドアの前だった。表札に『香坂』とある。
……とどのつまりは、オレんちだった。




