7 轟音
ぐらぐらと揺れる。
俺は人間。
それを認識すれば、自分に闇が降りかかると、俺はきっとどこかで理解していた。
人間が人間を殺せば罪になる。
魔法の能力をつけていく過程で、ギルファロに教え込まされて来た。
それを深く考えたことはなかった。子供ながらに、深く考えたら、身につけるべき能力に対する精神のブレが生じると予感していたのかも知れない。
ギルファロは戦争をしながら、戦争や人殺しを肯定しなかった。
倫理観、法律とその精神を学び、丸暗記してその規定を守りながら、〝最強の兵器〟となる矛盾を抱えるなんてことは、おそらく通常の心理状態では有り得ないことなのだ。
だから、施設に預けられて同じ魔法の訓練をしていた多くの子供たちが、精神を壊し、魔法に失敗して、消えていった。
自分自身を分解する恐怖。人体を研究し、成分を理解し、破壊する恐怖。倫理観を学びながら、戦争を否定されながら、人を殺す恐怖。
法律と軍規を順守する立場を一番に教えられた俺とマイユだけが成功したのは、感情よりも先にそれがあったからだ。
俺はそういう兵器だった。
だが、リナは俺を人間だと言った。
戦争も、一人一人人間の集合なのだと。
顔も分からないまま遠くにいる軍隊の兵士を一人残らず殺した。
彼らの一人一人にはおそらく家族がいて、親がいて、友人がいたはずで、俺がその力を行使して一振るいするだけで、殺した人間より何千何万の人間が激怒し、慟哭した。
リナが奪われて、激怒した後だから分かった。
大切な存在がいる。愛しく思い、奪われれば怒りを感じるようになった今、俺は自分が戦争として多くの恨みと呪いを作り起こしてきた存在だったと意識する。
その大切な存在が、日々世界を知って、毎日を確かに大事にしながら生きているのなら、尚更だった。
ああ、俺に機関銃を振りかざし、奇妙な形相で迫ってきた兵士。
殺してやると言いながら。
俺に奪われそうな自分の大事な人生を守ろうとする、必死な表情だったのだ。
今更ながら、俺はギルティ・ファローナの言葉を思い出す。
兵器よ、人を殺すことは罪なのです。貴方たちも罪を被ることになる。
すべては人々の望みです。
平和でありたいという呪われた望みと、生き続けたいという祝福に満ちた恨みを貴方たちは背負ってゆく。
俺は平和に生きたいと願う者のために平和に行きたい人間を大量に殺してきた。
誰かのかけがえのない人間を奪ってきた。
きっとその誰かは、先日の俺のように、焼けつくような怒りを覚えたのだろう。
気付いた事実は、俺を打ちのめした。
こんな俺がリナを求めて、リナを大切にしたくて気持ちを持っているなんて、おかしな話だ。
事件の後、俺の中は様々な思いが入り混じって、ひどく不安定になった。
生活は元の通りに戻ったし、むしろ前より三人の仲が良くなったが、リナが自分の部屋で元の世界で使っていた通信機器を手に取って眺めているのを度々見かける。
その様子を見ていると、激しい思いが駆け廻った。
ねえ、リナ。俺に心を戻しておいて、どこかに行きたいなんて、帰りたいだなんて思わないでくれ。
自分の心をそのまま押し潰してしまいたくなるほど、苦しかった。
俺は俺が存在していることが怖くなった。
それはもう、世界中をめちゃくちゃに破壊し尽くし、自分が力尽きるまで暴れ回りたくなるくらい。
過去の戦争を思い出し、その重大性に荒れ狂う。
その衝動を身の内に暴れさせていながら、普通でいられたのは、リナがいたからだ。
リナはいつも、目の前にあるものや、目の前にいる人間を真っ直ぐ見る。
今の俺を肯定してくれている。この世界を気に入っている。
なら、俺は世界をめちゃくちゃに破壊したりしないし、リナの気持ちを守る。こんな自分をひた隠しにする。
俺はリナが好きだと言ってくれた俺でいたかった。
ロシア人冒険家の発信機が電波の届かないところまで行ったという要するに行方不明の報告をまとめた書類を眺めながら、俺はつい呟いてしまった。
「どうすればリナを守れるんだろう」
それに反応したのはピンクの髪の通信技師だ。
「やっぱりこの間のことがあるからか?」
「それもある。治安はいいが何も犯罪がないわけではないし・・・」
「俺らが心配なのはリナちゃんがどうかなっちゃってアンタが暴走することだけどな」
考えたくもない。
そんなことになる前に確実にリナを守りたいし、自分でも感情のまま走った行動でリナに嫌われたくない。
そこへオレンジ色の髪をした電気技師が口を挟んだ。
「初歩的なところだと、通信機器じゃないか?持たせるの」
「お!そうだよ、それが一般的だ。というかグリフェーン君、持っていなかったのかい?」
「・・・通信機器?持っていない」
「「ええっ」」
ピンク頭とオレンジ頭の声がぴったり合わさった。
「電話もできるしメールもできるし、便利だぞ。戦時中で通信記録残しちゃいけないとかじゃないんだから、家族で買えば」
「そうそう。妹さんにもいいんじゃないかな。学生で持ってない子はいないらしいぞー」
「怖かったり、ちょっとしたことだったり、待ち合わせだったり、はたまた助けて!てことだったり。メールや電話してもらえれば、駆け付けることができるぞ」
召喚魔法をリナにかけておくよりタイムロスがあるらしいのは気になるが、遠くにいても連絡をとれるのは魅力的に思えた。
異世界に戻ってしまったら・・・使えないだろうけれども。
「分かった。買う」
「決断早いな!」
その日の帰りに、ピンク頭とオレンジ頭がついてきて、あれこれ電器店で指導されながら通信機器を購入した。
帰宅してリナに通信機器をあげると、リナは嬉しそうにその通信機器を眺め、うきうきした表情で俺の写真を撮った。
俺とマイユの通信機器の連絡先と、メイファ大佐の連絡先を入れておいた。どこから聞きつけたのかメイファ大佐が「通信機器を買うなら私の番号も入れなさい」と伝令を寄越したのだ。その程度で伝令が使われて若干可哀相だった。
メイファ大佐とリナは、茶飲み話をするようになって大分仲良くなっていたようだけれど、まさかリナはメイファがこの国の総帥であるなんて思いもよらないだろう。
似たような通信機器が元の世界にもあったため、リナは簡単に使いこなしていた。
「すごいな」
「うーん、でもメールはちょっと大変かも。文字をもっと覚えなきゃ」
「いざとなったら、電話をくれ」
「分かった。あっ、でも絵文字は可愛いね!」
ぴかぴか動いている動物の絵文字を見せられて俺は首を傾げた。リナはおもしろいものに関心がいく。
俺はリナから送ってもらった二人の写真を見て、温かい気持ちになった。
銀縁フレームで顔を強張らせている俺の隣で、リナはポーズをとって可愛い笑顔をしている。
泣いて、世界を拒絶していた少女が、こんなふうに笑顔になっていると思うと、たまらなかった。
よかった。
リナのこんな笑顔が見れて、嬉しい。
俺は生きていてよかった。
何万人も殺しておいて言えたギリじゃない。
それでも、そう思わずにはいられなかった。
目を瞑ると俺が殺した人々の顔が、分かるはずもないのに、それと分かる状態でずらりと並んでいる。
みんな、一様に怒りに目を光らせて、俺を見ている。
戦闘機、戦車がずらりと並び、集中砲火を浴びせてくる。
破壊し尽くそうとするが、間に合わない。
その中に一人、見覚えのある子を見つけて冷水を浴びせられたような気持になる。
彼女は俺を見つめている。暗い、黒い瞳で。世界を拒絶した茫然とした表情でいる。
多くの人間に囲まれて殺されそうになりながら、細心の注意を払って人々を薙ぎ払う。
こんなところにいてはいけない。
その思いに突き動かされて、俺はリナの手を引っ張って逃げ出した。
こんなにたくさんの人がいる中、他の人間はゴミみたいに蹴散らして、俺はリナだけを助けようとしている。
そう気付いた瞬間、破壊の魔法にブレが生じ、たくさんの人間の手が俺を捕える。
リナの手が離れた。
引き離され、表情のないリナの姿が真っ黒に塗り潰されていく。
守れない。守れない。
「ロイ。ロイ」
リナの声に揺さぶられて、目が覚めた。
真っ暗な部屋で、リナが俺を見つめている。
ここはリナの部屋だ。
眠れないことが多くなって、今は安定しているリナの側につい寄って行って寝ている。
なら、さっきのは夢か。とても嫌な夢だった。
「・・・リナ?」
「うん」
リナが目の前に、きちんといる。
心配そうに覗き込んでいる。暗がりでも、あんな目をして俺を見ていないことが分かった。
はーっ、と安堵の吐息を漏らした。
「嫌な夢を最近見る」
「嫌な夢?」
「大事な人を・・・守れない」
自分の発する声は、随分と弱々しかった。
「戦車で、戦闘機で、攻撃してくる。酷い目に合わせたくないから、連れて逃げるんだ。でも追ってくる」
「・・・何が?」
「俺が殺したひとたち」
引き離されたリナを思い出して、脳髄が溶けるかと思うほど悲しみを感じた。
俺にはリナを守る資格なんかない。リナを守ろうとするこの手は多くの恨みにまみれている。
リナを攫ったあの組織だって、俺に殺された家族がいた人間で構成されていたのかも知れない。
俺がリナを保護していたら、どうしてもリナを大切に思う気持ちを止められないけれど、この先また誘拐されるかも知れない。
どうして、こんな俺にメイファ大佐はリナを預けたりしたんだ。あんまりじゃないか。
こんな思い、知りたくなかった。
その時、髪を撫でられた。
優しい指先を感じて目を開けると、リナが思いつめたような顔をして俺の髪を撫でていた。
鼓動が激しくなる。だが、その感触が懐かしい気がして、激しい混乱と胸の痛みがすぅっと溶けて和らいだ。
言葉を選び取るように、ゆっくりとリナは言った。
「ロイ、でもごめん、大変だったと、大変って言葉じゃ語り尽くせないほどだと思うけど、私は今、ロイが大切。だから、ロイが苦しいのは、辛いよ」
俺は驚いた。
リナも俺を大切だと思ってくれているのか。
その瞬間。
俺は腕を伸ばしていた。
「じゃあ、抱き締めてくれないか」
「だっ・・・!」
「覚えてないか。俺とマイユは君がちょっと前までうなされていたときは、必ず君を抱き締めて寝ていた」
リナの顔が真っ赤になったのが夜目にも分かった。
が、リナは俺の隣に潜り込んで抱きついてきた。
すかさず俺はリナを抱き締めた。小さくて柔らかな体を包み込む。
今、守られているのは俺の方だった。
兵器のくせに、どうしようもない救いを求めている自分は汚かった。
それでもリナにとって「大切」だといえる存在になれているのなら、人の心を持つようになった俺は俺でいられると思った。
鼓動が響く。
リナを抱いて目を瞑っていると、血流の音が聞こえた。
リナの温かい体を抱いていると、一人の人間がこの腕の中で生きているという恐ろしい事実に、ひどく安心してしまう。
リナを構成している人間としての成分は、轟音を立てて生命を維持している。
その轟音は俺を殺した多くの人々を構成していた成分でもある。
そして、俺を構成している成分でもある。
蠢いて、轟いている。
多くの人間の生命活動と、人間関係と、感情とが、世界ではめまぐるしく動いている。
「総帥が仰っていたことの意味が今は分かる気がします」
課の部屋に茶器を持ち込んで優雅に紅茶を淹れていたギルティ・ファローナ総帥ことメイファ大佐は、柳眉をきゅっと上げて俺を睨んだ。
「総帥?誰のことです。変なことを吹聴するようなら骨の髄まで残らないよう焼き殺しますよ」
言っていることが限りなく炎の魔法使い総帥的なんだが。
「・・・貴女は俺たちに苦しむことを望むと言いました」
私は、いつか貴方たちが、自らの苦しみに目覚めることを望む。
そして、苦しみの果てに幸福を掴むことを望む、子供たちよ。
心に響かなかったあの時の言葉が、このところ甦ってくる。
泡沫が水底から浮かび上がってくるように。
おそらく俺はギルティ・ファローナ総帥がかけた言葉を、七年越しで理解した。
「俺は今苦しんでいます。自分自身の存在と、リナへの思いに挟まれ、自分がどれほどのことをしてきたかを思い知って」
硬質な色を湛えた青い目を、憂うように眇めさせる。
その表情は、普段あっけらかんとしたメイファ大佐が、残酷で理想家な矛盾だらけの総帥だと思い出させる。
「すべて、ギルファロが命じたことです」
「そして、それは罪だと」
「そう。私にとっても、貴方にとっても」
じんわり、メイファ大佐の言葉が身に染み込んだ。
初めて、あの戦争を共にした人間としての思いを共有できた気がした。
メイファ大佐は微笑んで訊ねた。
「リナのことが好きですか」
俺は頷いた。
「はい」
「・・・そうですね。リナと話していると、私も自分が誰だか忘れてしまいますね。彼女は真っ直ぐ私を見て、理解しようとしてくれますから。あの戦争も、絶望も、怒りも、何もかも経験していなかった頃の素直な自分に戻れるような気がします」
矛盾だらけの主張を掲げ、圧倒的な力で以てすべてをひれ伏させた総帥も、遠い日を眺めることがあるのか。
俺はメイファ大佐の言葉に頷いた。
リナは俺たちの今しか知らない。
少しずつ過去を知り、俺のことも知りながら、それでも『現在』を信じている。
俺の現在ありのままを信じてくれているから、肯定してくれているから、俺は自らの深い闇にまみれた過去に強い恐怖と悔恨と否定を抱きながら、ここに世界を肯定して存在していられる。
俺を大切だと言ってくれる、大切な人がいる。
その事実は、知ってしまったら、もう手放せない。
「ところで貴方とリナは付き合っているのですか。とても仲が良いようですが」
メイファ大佐の質問に、俺はふと気付いた。
リナが笑うと嬉しいし、触れたくて体中の血が逆流するような感覚に陥る。
恋をしていると思う。
そうやって、俺は確かに物凄い執着をリナに感じているが、そういえばリナと付き合っているわけでもないし、リナの気持ちを確かめたわけでもない。
しかも、今気付いたが許可もとってないのにリナの布団に潜り込んだり抱き締めたりしていたのか俺は。
「俺は猥褻罪で捕まるでしょうか」
「はっ?!何を言ってるんですか貴方、リナに何かしたんですか?」
驚くメイファ大佐に事情を説明すると、大佐は呆れたように言った。
「嫌がっていないのなら大丈夫ではありませんか。そんな嫌がられていない添い寝程度のことで猥褻罪にはならないと思いますよ。それにしても貴方が恋に無知で無意識なのが恐ろしい」
リナは嫌がっていないと思いたい。
いや、俺のことは嫌いではないはずだ。
そんなゆらゆら揺れる心を持て余して、何ともいえない気分になっていると、額に手を当てて深刻そうに考えていたメイファ大佐が俺の目を見据えた。
「リナがいない貴方のことを考えるととても恐ろしいのですが、貴方によく考えて欲しいことがあります」
声の調子の違いに、俺は背筋を伸ばす。
リナがいない、というところに、心は過剰に反応していた。
「先日魔王を召喚しました」
告げられた言葉に、俺はぽかんとした。
「魔王?」
「上級幹部のみの立合いで行ったのであまり知られていませんが。異世界と連絡をとるためです。なんだかヘドロが人型をしているような形の魔王でした」
異世界。
それはリナの故郷を指している。
指先が冷たくなる。ぐっと握り込んだ。
「魔王は異世界人が迷い込むことに関して、穏便に対応すると約束してくれました。当該異世界にいる魔王に私たちの依頼書を転送してくれるそうです。その先は、向こうの魔王の判断で誰か世界を渡れる者が来るだろうと言ってました」
「世界ごとに魔王がいるんですか」
「私たちも知らなかったことですが。そうらしいです。まあ、私たちはこの世界に魔王がいることすら知らなかったのですがね」
「世界を渡れる者。そんな者がいるんでしょうか」
「それが、いるんだそうです」
メイファ大佐の青い瞳が、動揺している俺の目を捕えた。
「異世界人が元の世界に帰れる手段が現実的になります。その時、リナの気持ちをしっかり聞いてあげなければいけませんよ」
優しい口調なのに、俺は打ちのめされていた。
過去に、異世界人を元の世界に戻そうと研究してきた魔法使いが、幾度も失敗していることを知っている。
それほど、世界と世界を渡る法は難しく、ほとんど不可能といわれている。
亀裂がどうしてできているのか分からない。無作為に現れるので場所も特定できない。
これまで、異世界人が元の世界に帰るのは不可能だった。
本当だったらこちらに迷い込むこと自体が不可能なことなのだろう。
長年に渡り、例外的な状況がこの世界では起こっていた。
メイファ大佐に告げられた内容の意味を、俺は正確に理解していた。
リナが帰ると言ったら、リナを返さなければならない。
そして、きっと二度と会えなくなる。