1 激怒
如何なるときも精神の平衡を乱すことなかれ。
魔法使いの基本的な約束事だ。
電信技師だろうと、工作員だろうと、精神の平衡が乱されれば、行動にわずかなブレが生じる。それと同じ。
だが、魔法使いは精密な積み重ねによって森羅万象を動かす。
理論を実践し、周囲に影響を及ぼし、己の力加減でその強弱を調節して、技を作り上げる。
精神の乱れによる一万分の一ミリのブレだってとんでもない失敗に繋がる。
周りの環境にも、己の身にも、破滅が及ぶ。
だから、精神の平衡は、魔法使いにとって、基本中の基本だ。
如何なるブレだって、起こさない。
いつでも透徹された心で、そこに存在する。
だが、この時ばかりは冷静でいられなかった。
俺の心は激しい怒りと動揺で大爆発を起こしていた。
なぜ。
「誘拐犯は例の主張を繰り返している政治団体です。テロリストではなかったはずですが、迂闊でした。悪かったですね、ロイ」
メイファ大佐の赤い唇が動くのを見ながら、ぐっと拳を握り込んだ。
隣には目をギラギラさせているマイユがいる。そんな顔をしている妹は初めて見たが、俺と同じ気持ちなのだろう。
俺は震える声で呟いた。
「なぜ」
「リナは貴方たちグリフェーン兄妹の弱味だと思ったのでしょう。先程人質の交換条件にグリフェーン兄妹を打診してきました。勿論、貴方たちを差し出さずにリナを取り戻します」
「リナに俺を召喚できる魔法をかけておいたのに」
メイファは虚をつかれたように青い目をぱちくりさせた。
「どんな条件でかけたんですか?」
「目の前に殺したい人間がいたら反応できる召喚」
一瞬絶句され、メイファ大佐とマイユ両方から呆れた声が上がった。
「それではいけませんよ」
「この間、リナは戦争のない国から来たって言ってたじゃない。リナはのんびりしてて素直で人を信用する子だよ。極めて平穏に生きてきたの丸わかりじゃない。今はこの世界に定着しきれていないから呆然状態だし・・・リナは人に死んでほしいとか思ったりしないんだよ」
そうなのだろうか。
分からない。
殺してやる。
自分の身を守るために、俺に向かってきた弱い兵士は、目を見開いて、ボロボロの軍服のまま、弾がひとつも残っていない機関銃を振りかざして走ってきた。
追い詰められたら、人は、追い詰めたものに殺意を抱くのではないのか?
俺の思い違いも、記憶も、今はいい。
俺はリナを守れなかった。
握り締めた掌に、爪が食い込んだ。
敵のアジトは見当がついている。
軍で作戦を立てるから、声を掛けられるまでじっとしていろ。
暫く頭を冷やせ。
そうメイファ大佐から命令が下され、マイユと本部の廊下のベンチに並んで座った。
騒がしく、軍人が行き交う。
俺の頭は沸騰して温度が下がりそうになかった。
真っ白になる頭で、しびれる指先を眺め、さきほど見た光景を思い出していた。
アランのフィッシュ&チップスの店を、突然武装組織の一員が強襲する。
銃を向け、黒ずくめの男たちは、真っ直ぐリナを狙い、連れて行った。
アランの店の防犯カメラに撮影されていた一部始終の映像を思い出す度、脳髄が焼き切れそうな程、身体が沸騰する。
これは一体何だ。
どうすれば収まるんだ。
リナ。
大丈夫か。無事なのか。
泣いていないか。
「お兄ちゃん」
マイユがこちらを見ていた。
ギラギラとした怒りを宿した黒い瞳で。
「まさか、黙って見ているつもりはないよね?」
急に、頭が冷めて、すっと冴えた気がした。
「ちょっと待ってろ」
俺は透過魔法を使って、作戦会議室に潜り込み、アジトに違いないといわれる建物の住所と見取り図を見て、暗記した。
そして、誰にも気づかれないまま、マイユのもとに戻った。
マイユは既に立ち上がって、ストレッチをしていた。目は輝いている。
「場所が分かった」
「了解」
「お前、軍を離れて久しいだろ」
マイユは不敵な表情で俺を見上げた。
「これは軍事行動ではない。怒りのままに行動する限りなく復讐に近い理知的な救出行為及び報復行為である」
一息に言ったマイユの静かな口調には荒れ狂う心ぶりが表れている。
俺は頷いた。
「行くぞ」
そのまま、駆け出した。
すれ違う顔見知りの軍人たちの制止の声も聞かずに。
マイユと連携行動をとるのは初めてだった。戦争のときは別々に投入されることが多かった。
だが、これは違う。
きわめて個人的な行為。
法律も、軍規も超えてしまった。
俺たちは怒っていた。
大事な人間を奪われた、そのことに。
期待されるほど糖度は高くありませんが、『無条件で愛される』とはそれなりの理由があると思います、というロイさん編になります。
お付き合い頂けると幸いです。