異世界~
~異世界~
五月二十三日月曜日
一学期中間テスト初日。三時間のテストが終わって閑散とした校舎内を毅と和美の二人は歩いていた。校舎内は暖かく、陽の当たるところでは汗ばむほどだ。二人は二階の毅の教室前の廊下でしばし語らった後、他のカップルたちと同様に、どこへ行くでもなく歩き始めた。行く当てもなく、ただ二人が一緒にいるためだけの徘徊。受験勉強と部活に明け暮れて、普段はSNS上だけ繋がり合う恋人たちにとって、午前中でテストが終わるこの日の午後は、関係を深めるためにはまたとない機会だった。
時刻は正午を少し過ぎた。自転車で連れ添って近くのコンビニに昼食を買いに行ったり、駅前の喫茶店に場所を移して勉強をするカップルもいた。毅は自らの身体を、目の前を漫然と流れる時間に浸すことで、えも言われぬ心地良さを味わっていた。意味のない会話を紡ぐことに酔い、他愛もない話が和美から流れるように語られるのを待った。どんな些細なことでも友達や教師の助けを求めることをしない和美が、こうして二人で過ごす時だけは甘えた表情を見せる。そんな時間が、和美への想いをさらに深めていった。
会話が途切れると、少し乾いた風が二人の間を漂った。いつもなら廊下の気だるく不愉快に感じる空気さえも、なぜか気にならなかった。二人だけの時間の積み重ねに、毅の身体は火照り始め、五感を麻痺させるような酔いが、身体の中を回っていくかのようだった。毅は夢を見ている心地さえしてきた。二人は互いのテンポに合わせ、一歩また一歩、確かめるように歩き、二組のカップルとすれ違った。彼らは三年生同士のカップルで、互いに顔は知ってはいるものの、言葉を交わさず、すれ違いざまにちらりと視線を交わすだけだった。恋人を持つ者同士の誇らしさを確かめ合い、自分たちを自慢げに晒しあった。その静かないささか儀式めいた所作は、毅と和美の気持ちをまた少し昂ぶらせた。三組目のカップルとすれ違うと、毅と和美はどちらともなく二人だけになれる「安全な場所」を探し始めた。恋人同士が何組も徘徊している校舎内に、そんなところを探すのは容易ではないと毅は言った。が、和美はそんな毅の手を引いて早足で歩き出した。はやる気持ちとは裏腹に、毅の両脚からは力が抜けていく。毅は和美に置いていかれまいと焦りながらついていった。
和美が遠くなる―
小さくなる和美の背中。
背中に張り付くワイシャツ。
透けるブラ紐。
揺れるスカート。
和美に導かれるままに辿り着いたのは、体育館に隣接した女子トイレだった。
毅は忍び足でそこに足を踏み入れる。心なしか淀んだ空気に、自然と呼吸が浅くなる。初めて踏み入れた男子禁制の空間には、芳香剤の臭いに混じってすえた臭いも確かめられる。毅は自分が新たな世界に飛び込んだことを悟った。
確かに、部活が休みの今日に限ってはここを使う生徒は少ない。もちろん男子トイレと比べれば清潔で安心感のある場所。ここが、今の自分たちにとっては「安全な場所」だ。
四つ並んでいる個室の一番奥に、和美は毅を招き入れた。薄ピンクの扉が静かに閉まり、金属が擦れる音を立てて鍵が閉まる。毅は胸の高鳴りとともに、霧のような何かが胸を満たしていくのを感じ、咽せた。開いたままになっていた便座カバーを閉め、その上に膝を立てて和美は毅に向き合った。迷いの欠片すら感じられない和美の動きが、目の前で進んでいく。毅の身体からは力が抜け始めたが、性器だけは強張って下腹部にはぴたりと張り付いている。あれこれと考えあぐねる間もなく、和美の舌が毅の半分開いた唇を押し開ける。熱い、毅は戸惑う。いつもなら遠慮がちに入ってくる柔らかな舌が、口の中を掻き回してくる。毅も応えるように精一杯荒く和美の胸を揉み、スカートの下に右手を伸ばす。
二人の動きが速まる。
「ね、じらさないでひと思いにしようね!」
風船が弾け飛んだような和美の声がタイルの壁に響く。早口に動いた和美の唇は紅くて、花びらのようだった。いつもは涼しげで切れ長な目尻は釣り上がり、細かく震えている。潤んだ目の奥から瞳が強く何かを訴えている。
和美の負けん気は弱気の裏返しであることを、毅は知っていた。和美が始めた喧嘩は、毅が謝ることでしか終わらない。自分から謝ることができないのも、和美の強すぎる自尊心の表れだと毅は捉えていた。今、和美も本当は自分と同じかも知れない。いつの間にか二人で、この不可思議な世界に迷い込んでしまったのだ。でも自分から誘った和美は、絶対に引き返すことなどできないのだ。
和美はくるりと毅に背中を向けると、四つん這いになった。ひだのついた紺のスカートが臀部を守るように隠している。毅は急いでベルトを外し、ファスナーを下ろす。ズボンがすとんと床に落ち、ベルトの金具が小さな音を立てる。
毅はスカートの裾を摘み上げた。真っ白な下着と透き通るような肌が毅に迫り、和美の汗の匂いが立ちこめた。
汚れ一つない肌に触れるのに、自分のどこがふさわしいのか。毅はまめだらけの掌と、土が入り込んだ爪を見て呆然とする。
「脱がしてよ」
和美の声が尖る。
しなやかな筋肉を柔く白い肌が覆う、引き締まった臀部がににじり寄る。毅は恐る恐る下着を腿まで下げた。和美の匂いが放たれ、毅は一瞬眩暈に襲われた。うっすらと産毛に覆われた白い臀部の左右にえくぼに似た窪みが見える。湿った薄紅色の秘部には、縮れ毛が張り付くように生えている。
それは大きな白い花の中で、黒い蝶が蜜を吸っているように見えた。
毅は、自分がこれまで周到に用意してきた段取りが、ひと息に吹き飛ばされてしまったことを悟った。
焦ることはない-。
そう自分に言い聞かせた。
落ち着こうと毅が息を吸い込むと、鼻孔から忍び込んだトイレのすえた臭いと、強くなる和美の匂いとが、這うように毅の身体の隅々に侵し入って来て、さらに毅を乱した。
観念して毅は自分の右手の人差し指を舐めた。和美の秘部に恐る恐る指を伸ばし、指の腹を秘部に沿って這わせる。和美が身をよじり、便座カバーが音を立てて軋む。
棒のような自分の性器。
白い花の中で蠢く蝶。
各々が不調和に息を凝らして、毅の次の動きを待っている。
毅は自分の汗で濡れたシャツを脱いで個室の扉に掛けた。
「そんなとこに掛けたら、見つかる!」
和美の声に慌ててシャツを取った。
「誰かいるのか?」
廊下の方から声がした。
「施錠をするから出てきなさーい」
声の主が近づいてくる足音さえ聞こえる。
どうしてよいのやら考えることももはや毅には難しくなっていた。
和美の声を聴きつけて廊下から誰かが入って来るに違いない。
職員室から最も遠い体育館の横にあるトイレ。だから安全なはずだった。でも、誰かが見回りに来てもおかしくはない。いや、むしろ見回りに来ないはずはないのだ。時間が来れば職員が必ず体育棟の施錠に来る。それがもっと遅い時間かと思っていたが、試験期間中はその時間が早いのかもしれない。
学校中に知れ渡る-。
そんなことになったらどうなる―。
去年の修学旅行先のホテルで関係を持ったカップルが、ネットの掲示板で匿名の刺客たちに槍玉に上げられた。数週間後、二人は別れ、女子生徒は居場所を失い高岡高を去った。廊下を歩く疲弊しきった男子生徒が脳裏に蘇る。毅も掲示板に何事か書き込んだ。突如懺悔に似た気持ちに満たされ、胸がつまった。限界まで高ぶった感情が掻き乱され、錯綜としていく。ぎりぎりまで注がれたコップからこぼれ出した水のように、毅が抱えきれなくなった不安が溢れ、それが麻酔のように全身の力を奪っていく。意識の錯乱は、毅の思考を止め、恐怖や焦りも嘘のように霧散してゆく。消えた焦りとは裏腹に、毅の体は震え始め、顔から血の気が引く。心臓が胸を叩く。鼓動に呼応するように硬くなった性器が微かに揺れる。
シャツの上から和美の腰を掴んでいた両手は冷え切って、和美に触れている感触もはっきりしない。長い時間が一瞬で流れ去ったのか、それとも一時が長く自分の前に居座っているのかわからなくなった。
ここにいるのは本当に和美なのか―。
ひょっとすると、校舎を徘徊するうちに、自分だけがどこか別の世界に迷い込んでしまったのではないか。もしかすると自分は誰かに嵌められ、窮地に追い込まれているのではないか。
「ねっ!」
そう言って振り返った和美には動揺の色すら窺えない。しかし、そこにいるのは和美に違いなかった。彼女は、毅の両手を振りほどき、毅の陰茎を強く握った。
「コンドームくらいはやく着けなよ!」
鈍痛が雷光のように毅の身体を駆け巡りながら、毅の身体から立っている力を搾り取った。
毅の顔に生温かい白濁液が滴る。二度三度と噴射された粘液は胸や腹へ流れていく。
視界の端で花弁の形をした光の欠片がちらちらと舞っている。呼気が気管を通る度に、熱い風が擦り傷を舐めるような痛みが喉に広がる。
便座と壁の隙間に座り込んだ毅は、そこから出て行く和美を観ていた。下着を履き直し、上履きをつっかけて鍵を開ける。二人の「安全な場所」から飛び出して行く和美を、まるでスクリーンに映し出された映像を観るように遠くに観ている。
勢いよく扉が閉まる音が、少し遅れて毅の空っぽになった胸に響いてきた。見上げた天井からは、ファンが回る音が澄んで聞こえていた。
~永遠~
五月二十五日水曜日
「永遠ってあるの?」
和美は盆に載った食器を下げるのさえも忘れている。
「たとえば、人間は死ぬな。必ず。それは不変の事実だよ。人間だけじゃなくて、この世界のものには必ず終わりは来る」
「うん」
和美は背中を背もたれから離し、テーブルに肘をついて功治の言葉を待ち受ける。その理屈に矛盾や曖昧さがあれば、すかさず論破してやろうという格好に見える。昼休みの終わりを告げるチャイムや、生徒たちが教室に引き上げる物音にも和美が反応する様子はない。
「それに、宇宙に始まりはあるかってことも重要なんだな」
「そうなの? 終わりがあるものには始まりがある。それで、始まりがあるものには、終わりも来ると考えるの?」
「そうだ。そう考えるのが妥当だな」
「確かに……でも、私たちの知っている範囲で、つまり私たちも含めた命や物質に終わりがあって、そして始まりがあるからと言って、全てにそれを当てはめるのも無理があるんじゃない?」
「そんなことはないな」
「そう言い切れる理由は?」
「それは……俺たちの生きているこの場所が、宇宙まで含めた全世界の一部であるならば、その一部で見出せる法則は、普遍的であるはずだと考えるべきだ」
「でもね、その、『はず』だとか『べき』だとかいう話じゃないでしょ。事実は私たちの思考や思想とは必ずしも一致しないってのも、もう一つの事実でしょ。この際、どっちの事実に私たちはのっかるかってことで結論は大きく異なるんじゃない?」
「まあな……」
功治は珍しく眉間に皺を寄せ、眼鏡を中指でずり上げた。
「その事実を導き出すための形而上の話なわけだから、今俺たちがしている話は。論理的に世界について推察していくには、目の前にある自明の事実から始めて、それらを緻密に精査してな、証拠として積み重ねて本質にいくしかねえからな」
「なるほどね、あくまでその立脚点を主張するのね」
そう言うと和美は功治の目を覗き込んで、一度背筋を伸ばした。そしておもむろに立ち上がり長いテーブルの周りを歩いて戻り、こう言った。
「わかった、今は功治君の立ち位置から話し合うことにしようよ」
「それなら話は簡単だな。だから、俺たちには必ず死という終わりがあって、同じようにこの地球にも、他の星にも、もちろん太陽にも終わりがある」
「それで、それらすべてに誕生があるってことでしょ?」
「そう。繰り返しになるが、そうすると、この宇宙にも終焉がある」
「でも、外側では何かが在るんじゃないの?」
「とりあえず、この議論は宇宙の中に限定するって言うのが前提だな」
「分かってるって、今回は功治くんの立場から話し合ってるものね。つまり、永遠という概念は単なる観念でしかないってことになるのね」
毅はぼんやりと二人の話を聞きながら、学食の窓から見えるグラウンドを眺めていた。昼休みが終わったばかりのグラウンドでは、一年生がグラウンド整備の後片付けをしている。内野に水を撒き、土に水を含ませてからレーキでその土の表面を掘り返し、その後トンボで表面を均す。それは中学を卒業したばかりの一年生にとって、野球の基礎的なトレーニングにもなっている。
「わたし、宇宙のことなんか全然知らないから今度よく教えてね」
一昨日の女子トイレでの出来事などまるで毅の白昼夢だったのかと思えてしまうほど、和美はいつもと変わらなく見えた。それが繕ったものなのか、はたまた自然体なのか。毅は功治との議論に没頭する和美の隙を窺って和美の胸の内を探ろうと試みているが、毅が見る限り、和美はいつもと何一つ変わらぬ和美なのだった。
「宇宙はな、でかいよ。以上。アハハハ」
「そんなの知ってるし、そんなんじゃ全然わかんない」
「夕方、最初に見える星は金星」
「次に見えるのは?」
「水星だな」
「じゃあ、始まりっていつなの?」
「銀河系で最も古いとされている天体は一三〇億年前からあるな」
「じゃあ終わりは?」
「まだ分からないが、宇宙はどんどん大きくなっていって、最後は爆発するだろうってことにはなってるな、今のところ」
「へー宇宙は最後は爆発しちゃうの」
「毅もこの話に加わんなさいよ」
和美は外を見ている毅に物欲しげに訴えた。
「は?」
「こいつは、そういうの興味ないんだな」
「俺はお前ら変人とは住んでる世界が違うんだよ」
「何よ変人って」
時には深刻に、時には自然な笑顔で自分の友人との会話に没頭している恋人の普段見せない表情が少し気になった。が、すぐに午後の練習のことで毅の頭はいっぱいになった。補欠の補欠である毅には、練習試合でアピールするチャンスなどそう簡単には回ってこない。つまり練習でのプレーがすべてなのだ。新入生を受け入れてはや二ヶ月半、部内には新しい風が吹き始めている。昨秋の新人戦県ベスト4という戦果は、かつてないほど高い高岡高野球部への下馬評となって、有望な一年生が入部した。一年生がレギュラーを奪うことはないもののベンチ入りの競争が過熱したことは間違いなかった。練習で坂田にアピールして練習試合に出場機会を得て、結果を残す。六月中に決まるベンチ入りのメンバーに名を連ねるための最後の機会が迫ってきている。
開いている窓から一年生がグラウンドから走って戻ってくる足音が聞こえてきた。バタバタと学食横のロッカーで靴を上履きに履き替えている。あどけない声が、毅の耳にも届く。
まだ中学生みたいな奴らに負けてたまるか-。
「じゃ、俺は戻るよ」
「今日の毅は珍しく真面目だね」
「そろそろ古典の出席がやばい。これまで単位を落とす勢いでサボってきてるから」
「じゃあご自由に」
自分の意に沿わないことを毅がした時の和美の尖った声が背中に刺さったが、毅は我関せずを決め込んで歩き出した。背中で二人の息づかいを感じながら、食堂の出口に近づく。何も語らなくなった二人が気になって、毅がちらりと後ろを振り向くと、和美が功治を凝視している。睨まれた功治は、どうすれば良いのか分からず、たじろいだ色を身体全体から漂わせている。そんな功治を置いて毅は学食を出ていった。
「功治君は、『永遠なんて無い』って言うわけね」
和美は挑むような、誘うような目で功治に言った。
学食には、午前中で授業が終わって時間を潰している三年がポツンポツンと居残って席を埋めている。
「そういうことだな」
「でも永遠を感じることってあると思わない?」
「感じることは誰だってできるな。ただし感じるだけでそれは存在していないってこともよくあるな。それを錯覚という」
出口を出かけた毅は、どうしても二人の話の成り行きが気になり、そこに立って聞き耳を立てた。
和美の粘着質な話と、功治の無機質な話はいつまで会話として成り立って進んでいくのだろうか。観客としての毅は、口元にまだ笑みに成りきらない緩みを浮かべながら聞いていた。
「信じることで、感じることで、その想いや観念は永遠になるってことは有りうるんじゃない?」
「いくら信じても、想っても、それはすぐに消えてなくなっちゃうな」
「例えばね、例えばよ。わたしは両親の思いを受けて生まれてきて、そしてそれをわたしが引き継いでそれを子供に受け継がせて、その子から孫へって」
「仮にそれが続いても人類が滅びるか、地球が消えたら、それも消えるな」
「……」
「宇宙人がなぜ地球に来ないか、また何故人間が宇宙人を発見できないか知ってるか?」
「知らない」
和美の声が毅にも届く。
「それはな、文明がある程度発達すると、その星の環境を破滅的に変えてしまって、その生物も滅びるらしい。そうホーキングが言っていたらしい」
地を這うような低く重そうな声が床を伝う。
「へー」
和美が大きな目を見開いたのが分かる。
「宇宙では星ができては消え、生命が誕生しては滅びる。そんなのは宇宙の時間にしてみれば、ほんの短い時間の出来事だな」
「その星ができては消える短い時間の、さらに短い一瞬の、その中のそのまた一瞬に俺たちは生きてさ、そこの中で永遠がどうのと言っているわけだな」
返しようのない功治のスマッシュが立て続けに和美のコートに決まったようだった。
「でも、よ。でも……」
和美はどう返すのだ-。
毅は耳を澄ました。
「想いや、信じたものに場所は必要ないんじゃない? 想いや信仰には形も匂いも面積も体積もない」
功治は音も立てず聴いている。
「例えばわたしは本を読む。そのとき主人公の心の中に入り込むでしょ。そして、その人物を創り出した作家の心の中に入り込む。何十年も何百年も前の作家の心の中に、私はタイムスリップする。もうこの世に存在しない人の心の中に住み着くことだってできちゃうわけ。だから時間や空間なんて完全に無意味だし、はじめから宇宙を説明する数式なんて通用しない領域もあるの」
毅の場所からは功治の表情は窺えない。眼鏡を中指で動かしたのだけが見えた。
「だから、たとえわたしが死んでも、わたしの想いはずっっっと、ある場所に漂って残るんじゃない?」
「漂うには場所が必要だな。でもその場所は宇宙の消滅と同時に消える」
「想いに場所なんて必要ないんだってば! 想いがあれば充分なの! わかんないなー」
毅には、遅い昼食を摂っている生徒たちの皿とフォークが立てる音が聞こえている。
「わたしはずっと存在し続けるっていう確信がなければ、何も想えないし、すべてがいつか消えて無くなるなら、こうして自分が存在していること自体、すごく意味がないことに思えるし、不安で不安で仕方がないの」
「そう言われても、さっき言った通り、願望と現実は別物だからな……」
功治の言葉を聞くと毅は教室へ歩き出した。学食と教室棟を繫ぐモルタルを塗り替えられた真新しい廊下を歩きながら、和美の焦りはどこからくるのだろうかと考えていた。
和美が自分を置いてどこかへ行ってしまう。そんな彼女の後姿を、毅は思い浮かべてしまうことがあった。付き合いが始まった時も、和美に一方的に想いを告げられ、毅は気の利いた文句一つ吐けずに、黙って首を縦に振った。二年生になったばかりの四月の二週目の月曜日だけが、毅の内側に彩り鮮やかに塗り替えられていく。入部したばかりの一年生たちに、グラウンド整備の仕方を教えている時だった。聞き覚えのある声が体育館の方から自分を呼んだ。同じ中学出身の赤星佐智子が体育館の前にある水飲み場から手を振っている。毅が招きに応じて佐智子の方に歩いていくと、水飲み場の影からちらりと女子生徒が姿を見せた。その時の興奮を、毅の身体はいつでも思い出すことができた。佐智子は和美の親友だったのだ。佐智子の毅を茶化すように笑う悪戯な子供のような目から、毅はすぐにそれを悟った。
あの竹内和美が自分を求めている―。
腿や膝から力が抜け、次に心臓の打つ音が、ドン、ドンと鳴り、ビュンッビュンと頭に響いた。その高鳴りに合わせて目の前の景色が微かに白く明るくなる。嬉しいことのはずなのに、その場から逃げ出したくなる心持ちだった。雲のように柔らかい和美へと続くアスファルトを歩いた。
入学当初から毅はグラウンドを走る和美を見ていた。竹内和美は入学式の翌日に設けられた上級生と新入生の対面式で、式辞を読み上げて以来、全校に知れ渡った才女だった。体育館で在校生と新入生が向き合う狭間に立ち、和美は全校生徒の視線を一身に引き受けながら、緊張した気色を微塵も見せず、背筋の伸びた姿勢で堂々と中央に歩み出た。メモを持ち出す気配すらもなく、前を見てマイクの向こうにいる先輩たちを真っ直ぐに見て、自分で考えたことがありありと伝わる挨拶をした。
「……私たちは、決して名門高岡高校に入学したという名誉に甘んじることなく、日々学び、自分たちの可能性を探求していくことをやめません。仮に私たちが日常の喧騒や誘惑に流され、妥協している姿があれば、どうか先輩方は叱咤し、激励を以って私たちに向き合ってください」
そこで和美が最後に述べた言葉を毅は忘れられない。挨拶というよりは、高校生活への決意表明のような力の漲る一連の言葉たちは新入生全員の浮かれた気分に容赦なく鞭を打った。体育館の窓から注ぐ春の陽射しに暖められた体育館の空気が、見る見るうちに引き締まっていく様を毅は見た。前日の入学式で新入生代表で式辞を述べた男子生徒が、背中を丸めて前もって用意してきた挨拶文を抑揚のない声で読み上げたのとはまるで違っていた。
全校生徒の前で大役を果たした和美は、自然に注目を浴びるようになった。半年後の文化祭では、ミス高岡高候補に選ばれ、男子生徒たちから声を掛けられている姿を毅もあちこちで見かけた。しかし、和美はその誘いをひらりと舞うようにかわし、誰とも付き合い始める様子はなかった。
背丈は毅よりも高い一六四㎝。毅はミスコンのプロフィールでそのことを知った。毅の身長は一六〇㎝。
気高く上を向く鼻が引き立てる横顔。伸びた背筋。腰から真っ直ぐ大地に伸びた長く白い脚。許されるならば永遠に見ていることができるほど美しく映る彼女を、毅は入学から約一年間追いかけていた。
陸上部に入部した彼女は、その競技の中でも過酷な競技の一つと言われる四〇〇mを専門としていた。高岡高の運動部はサッカー部以外はグラウンドを共にしている。野球部やハンドボール部、陸上部は同じグラウンドで練習をする。暑い日も寒い日も彼女は爽やかな風を身に纏って毅の前を通り過ぎていった。陸上トラックの第三コーナーが、毅の守るセカンドのすぐ前を通っていた。ノックの最中も、陸上部の生徒たちがそこに走り込んでくる。ノックが中断される間、集団の先頭を走ってくる和美を観た。どんな表情をして、どんな腕の振りをして走っているのか。何度も観たことのある走りを、飽きることもなく来る日も来る日も眺めた。何度繰り返し観ても、すぐにまた観たくなった。近づいてくる選手たちのスパイクの音は、季節やグラウンドの状態によって変わった。しかし、先頭を走る和美の足音だけは、いつでも変わらぬリズムで毅に心地よく響いた。
白いTシャツに赤いランニングパンツ。
後ろで一つに束ねられた黒髪。
集団の足音と荒い呼吸を聞くと、毅の心には漣が立った。手を伸ばせば簡単に触れることのできそうな距離。毅の目の前を走り過ぎる和美の視線は、毅が思ったこともないほど遠くの目的地を見据えているように思えた。触れようと思えばいつでも触れられるその距離から、彼女との本当の距離を思うと、毅の胸はすぐに萎んだ。挑むように先頭を走る和美を眺める度に、野球を始めてから万年補欠の毅は、自分の恋心の無謀さに、ボールを追う力を吸い取られてしまうようだった。
そんな和美に好意を告げられた後、自分が何と答えたかは記憶にない。「いいよ」とぽつりと答えたと後から和美に聞いた。覚えているのはその先で、しばらく大きな波が、自分を抱いて揺らしてから、彼女が自分を求めているということをやっと受け入れることができた。
校舎を囲む柳の緑と、時が来たと咲き誇る桜の木が、強い春の風を受けて揺れている。ポケットからスマホを取り出して、「ウチュウジン」が投稿した散文を開いた。
日付は五月二十二日
どうする?
ニュートンが見つけた宇宙の法則が全てを支配するならば
りんごは木から等加速度直線運動で加速していき、やがて地面に落ちると決まっている
地球は一年に太陽を一回廻ると決まっている
俺の打った球は、ピッチャーが投げたボールの速さとバットの重さとバットのスピードで勝手にどこまで飛んでいくか決まっている
そんな風に俺の将来だって決まっている
俺の心臓がいつ止まるかだってきっと決まっている
アインシュタインが考え出した数式では
宇宙の始まりを表すことができない
時間を0にすると、空間が∞になってしまう
空間を0にすると、時間が∞になってしまう
その式を使って宇宙を説明しようとする人たちは何を考えている?
何もかも全部、間違いだったらどうするの
ねえ、どうするの?
~コイズミさん~
五月二十五日水曜日
駅前の牛丼屋で夕食を済ませた後、付き合って欲しいと言う功治の後を毅はついて行った。
牛丼屋から歩いて行けるところにある公園には夕食の残りを餌として与える女の手懐けた猫がたくさんいた。猫の餌の生臭い空気が、ビルに囲まれ風通しの悪い公園に漂う。陽が当たらない公園の脇を、毅は何度か通ったことはあるが、独特な生暖かい空気を湛えたその四角い空間に立ち入る気にはなれなかった。
そこを囲むように林立するビルの窓からこぼれる光に薄っすらと炙り出されるように見える公園に自分が近づいていく。どことなく現実味のない光景だ。葉を茂らせた木々の間から公園の中の様子が窺える。蛾の集る白い外灯が浮かび上がらせたベンチには一組のカップルが座っている。互いの体を寄せ合い、息のかかる距離まで顔を近づけて何やら囁き合っている。功治は毅が目を向けるものなどには気に留めない様子で、大きな歩幅でズンズン歩く。どうやら入口から最も遠いところにある便所に向かっているようだ。どこに行くのかという問いを毅は呑み込み、黙ってついて行った。便所の前は、弱い電灯の光が狭い円を描くように照らしていた。その光の円から少し外れた所に、壁に背中を預けて両足を投げ出している男と思しき人影が在る。その人影は腕を組み、首を垂れている。表情どころか目が開いているのかすら、毅からは分からなかった。
「おい、ここかよ」
声を潜めて毅は言った。
「おう」
「何だよ、何の用なんだよ」
「黙っていろよ。大事なことなんだな」
功治は躊躇することなく、その男に近づいていく。大きな背中の後を言われるまま毅はついて行った。
「こんにちは……んばんは」
その大きな背中から聞こえたのは功治の普段どおりの太く通る声だった。
しかし、自分はもしかすると見知らぬ世界に連れ込まれてしまったのかも知れないと毅は思った。かと言って今すぐにここから逃げなければいけないほど危うい事態が起きている訳でもなかった。諦観と好奇心の綯い交ぜになった心持ちで、毅は功治の背中から恐る恐る男に視線を送る。座っている男からは、嫌な臭いが漂ってきそうで、毅は口で息をした。功治は一体何をするつもりなのだろう。すると男はゆっくりと首をもたげた。寝ていたのか。腕を組んだまま、功治を見あげ、そして、その後ろにいる毅にも視線を送った。
「友人です。一緒に野球をしている」
そう丁重に紹介されては目を逸らそうにも逸らすことができず、毅は男に目礼をした。
「こんばんは」
男は毅を少し見ているようだったが、毅の声には反応せず、また功治を見上げて二言三言いった。すると功治はバッグのポケットから取り出したカップ酒と昼食時に配給される赤い牛乳パックを男に差し出した。
「おう。いつもありがとな。カルシウムはこれで補える」
潰されたような擦れ声で男はそう言った。
「いえ。また来ます」
「気をつけて帰れよ」
「はい。失礼します」
男の黄色い歯が、毅には何故か眩しく見えた。功治は男とそれだけ言葉を交わすと、くるりと向きなおり、歩き出した。さっきのカップルを探したが、もうそこにはいなかった。また先を行く功治の後ろを、毅は何とも説明のつかない心持ちでついて帰った。
「なんだよ、あのホームレスは。お前とどういう関係なんだ」
そう言い終える前に、昨秋の体育祭の後、赤組のだぼだぼのオリジナルTシャツを着た不審者が駅前にいるとの噂が立ったことを毅は思い出した。
「ちょっとした知り合いかな。元気な時はもっと愛想がいいんだ。今日はちょっと疲れてたのかな」
ふつう、そんな言葉がしっくりくる様子で、功治は続けた。
「死にたいと思ったことは無いか聞いたんだよな」
「……あのおっさんにか?」
「ちゃんとあのおっさんにも名前もあるんだ」
「名前も知ってるのか?」
「おう、コイズミさん」
小泉、古泉、どちらのコイズミなのかと考えたが、すぐにどうでもいいと毅は思った。
「そしたらさ、昔は毎晩死のうかと思ってたってさ。でも朝になると、腹の底から力が湧いてきて、何とか一日一日乗り切って来たらしい」
「何だよ、その力って」
「わかんねえよ。それ以上知りたければ、直接自分で聞いてみな」
「アホか。あんなホームレスと誰がわざわざ話をするんだ。ほんとに驚いたよ。何考えてんだおまえ」
毅の言葉に功治は応えず牛丼屋の前に止めておいた自転車の籠にバッグを入れた。大きなバッグを片手で軽々と扱う。自分には大きくて扱いにくいバッグもあんなに簡単に持ち上げる友人を毅はとっさに羨ましく思った。籠に入りきらないバッグの半分がはみ出しているのが不意に滑稽に思えた。
「じゃあな」
「あのおっさんに体育祭のTシャツをあげたのはお前か?」
「え? そんなこともあったかな〜」
駅前の駐輪場まで自転車に乗って帰る功治の後姿を、毅はぼんやりと見ていた。目の前で繰り広げられる出来事に意識がついて行かず、時間を置いて少し前の功治とのやり取りを追いかけていくのが精一杯だった。
「お前、今どこか怪我とかしてないか? 怪我じゃなくてもどっか痛いとこでもいいぞ」
立ち漕ぎで自転車を引き返してきた功治は、そう毅に聞いた。
「え? どうした藪から棒に。痛いところなんてどこにもねーよ」
「そうだよな……でも、もし痛いところができたら、いつでも言ってくれ!」
功治は大きな声でそう言うと、子供のような笑みを浮かべた。
「それどういう意味だよ!」
「もし痛いところがあったらな、さっきのコイズミさんとこ行こう。あの人には不思議な力があるんだな」
もう功治の言動についていけなくなり、もうお手上げ、とばかりに毅は力なく笑った。
功治が渡したカップ酒がおもちゃのように小さかったのを思い出した。
「あいつが持つと何でも小さくなっちまう。あいつは、小さな地球を抜け出して本当に宇宙にいっちゃうのかもな」
牛丼屋のオレンジ色のネオンが作る自分の薄い陰を毅は見た。
「俺はつくる陰も小さい」
あの男を功治はコイズミと言った。コイズミの顔を脳裏に浮かべながら歩いていると、交差点の方から、大きなクラクションと誰かの怒鳴り声が聞こえた。
死にたいと思ったことがあるかをあの男に尋ねたと功治は言った。その問いに腹の底から力が湧いてきたとあの男は答えたのだ。
毅は「ウチュウジン」の文章を思い出した。
ニュートンが見つけた宇宙の法則が全てを支配するならば、
りんごは木から等加速度直線運動で加速していき、やがて地面に落ちると決まっている
地球は一年に太陽を一回廻ると決まっている
俺の打つ球は、ピッチャーが投げた球の速さとバットの重さとスイングスピードでどこまで飛んでいくか決まっている
どんな物的な運動も行く先が決まっている
きっと俺の将来だって決まっている
ニュートンの見つけた宇宙の法則が正しければな
~駆ける毅~
六月六日月曜日
ベンチ入りメンバーを決める日が迫っていた。主力の実戦力を上げると同時に、補欠選手達は、実戦練習でふるいにかけられる。六月一週目の練習はノックが終わるとすぐに紅白戦に入った。
レギュラーを中心とする選手の紅組と補欠中心の白組に分かれた。功治は紅組のレフトで四番。調子を上げていた毅は白組のセカンドで一番打者として出場機会を与えられた。エースの芝川が白組に入り、紅組の主力野手と対戦する。
一回表、一番野村がレフト前ヒットで出塁。盗塁で二塁まで進んだが、二、三番を芝川が抑えツーアウトになった。しかし、四番の功治は初球のインコース低めのボール球をすくい上げてレフトオーバーを放った。二塁ランナーの野村は楽々生還し、レギュラー組が先制した。
エースと主砲の対戦だったが、緊張感がグラウンドを覆うより前にあっけなく勝負がついた形になった。
盛り上がる紅組ベンチを背に芝川は寝起きの子どもが寝ぼけ眼を擦るように、こめかみを伝う汗を拭った。
「スライダー以外は手を出すな」
二塁ベース上からベンチのサインを見ている功治は、セカンドを守る毅にだけ聞こえる声でそう言った。毅は黙って頷いた。
その裏、白組の先頭打者の毅は左打席に入った。実力ではまだセカンドレギュラーの紺野にかなわないが、セカンドの二番手の兵藤がショートで三番に入っている。目下のライバルは兵藤だ。今日結果を出して少しでも兵藤との差をつめたいところだ。いつもどおりバッターボックスのピッチャー寄りに立つ。まだ荒らされていないきれいな土にスパイクの歯で自分のスタンスに合うように土をならす。たとえ紅白戦だとしても、一打席一打席が自分の野球人生のすべてを懸けた勝負なのだと毅は知っている。
マウンドにはチーム三番手の二年生黒田。一八〇cmの長身で細身の黒田はストレートに力がある本格派の右腕。コントロールに多少の難がありボールが先行すると崩れやすい。まだ二年生とあって精神的にも脆く、試合の中でも調子に波がある。
初球。インコース低めのストレート。スライダー一本に狙いを絞っていた毅は見逃した。
「ストライーク」
主審の右手が挙がる。
膝元から浮き上がるような切れのある速球に毅の体は反応できなかった。
カウント0‐1
二球目。今度は毅のタイミングを外すような大きなカーブがやや抜け気味にアウトコースに外れた。
カウント1‐1
三球目。すぐにボールと分かるスライダーがホームベース前にバウンドした。ただし曲がりは鋭いと毅は見た。
カウント2‐1
キャッチャーのサインに頷く。黒田はテンポよく投げ込んでくる。四球目。スライダーが真ん中から滑るように毅の胸元へ入ってきた。スライダーを待ち構えていた毅の目は球の軌道を読みきった。バットに強く叩かれたボールは確かな手応えを残して一塁手と一塁ベースの僅かな隙間を抜けていく。あっという間にライト線に転がっていくボールを目で追いながら毅は一塁ベースを蹴り、勢いそのままに二塁ベースに頭から滑り込んだ。ベース上からベルトについた土を払いながらレフトを見ると、ベルトの前で小さく親指を立てる功治と目が合った。
立ち上がり不安定だった白組芝川も二回から落ち着き、紅組のレギュラー打線を抑えていた。補欠中心の白組も三回までにはチャンスらしいチャンスを作れずにいた。
四回の裏、白組の攻撃。ワンアウトからフォアボールで出塁した八番バッターで俊足の加藤がバントで送られ、ツーアウト二塁。加藤は黒田を揺さぶろうと大きくリードを取る。同点のランナーが気になる黒田は、何度かマウンドプレートを外した。
「バッター集中」
打者に集中できない黒田に、野手から声がかかる。
牽制球を一球投げ、ようやく打者の毅に一球目が投げられた。切れを欠いたストレートがアウトコース低めに外れた。黒田は二塁ランナーの加藤を意識するあまり投球に集中し切れていない。
「黒田、打たせろよ」
「後はバックが何とかするぜ」
レギュラーの野手から二年生の黒田を励ます声がかかる。
カウント1‐0
二球目。曲がりの悪いスライダーが真ん中からインコース低めに入ってくる。
来た!-
毅はボールを上から叩いた。掌に残るはずの手応えがまるでないくらい、バットは軽く振りぬけ、発砲音のような乾いた音を残してボールは低い弾道でライト方向へ飛んだ。
「ライト!」
選手達が声をあげる。一塁ベースに向かいながら毅はライトに取られると思い、舌打ちした。しかし背走するライトの背中を見て、ライトオーバーを確信し、一塁ベースを蹴る。
ライトの頭を越えれば加藤は生還し、同点、俺は三塁を狙える-。
ボールの行方に背を向けて二塁に向かう毅の耳に、ボールがフェンスの向こうにある駐輪場の屋根に当たる音が聞こえた。ホームランだ。両ベンチから驚きの声があがる。毅はダイアモンドを、飛ぶように一気に駆けた。
三打席目。
初球。指先を離れた瞬間に毅の体は、スライダーが再度投げられるのを確信した。黒田の指先に引っかかったスライダーはインコースから更に内側に食い込んでくる。インコース低めいっぱい。
また同じ球が同じコースに来たか-。
しかし、ストライクゾーンを外れるかも知れない-。
多少のストライクゾーンから外れたボールでも、今の俺なら仕留められる-。
腰を入れ、脇を絞ってスイングに入った毅はそのスライダーが、さらに鋭く切れて自分の体を掠めていくのが見えた。慌てて膝を引いく。
間に合うか?-
膝の動きと球筋がスローモーションのように見える。
ボールは左膝の内側に当たり、ぽとりとバッターボックスに落ちた。毅は、前のめりのまま、ホームベースの上に倒れた。
痛みを感じるよりも先に、諦めとも落胆とも言えぬ思いが一瞬のうちに立ち込めた。この怪我が治るにはどれくらいかかるのか。
もう間に合わないかもしれない-。
そう思った途端、未体験の痛みが、一瞬にして左膝から体を貫通するように脳に到達した。毅は左膝を痛め、途中で交代した。
「色気を出しすぎたな」
紅白戦終了後、膝を氷で冷やしながら、毅は功治とベンチに腰掛けていた。
痛いところを突かれた、と毅は思った。腕の短い毅はバッターボックスホームベース寄りぎりぎりに立つ。それでアウトコースのボールに対処できるようになるが、その位置に立つと、当然体に近いボールを避ける技術も求められる。いつもの自分なら、楽にかわせたボールだった。でも、今日は打ちにいった分、避けきれなかった。
一年生がグランドを整備し始め、二、三年の自主練習が始まっていた。
「お前、なんでスライダーを狙えって言ったんだ?」
二打数二安打、二打点、一本塁打。紅白戦での大当りは功治の言うとおりスライダーを徹底して狙った結果だった。
「そんなのは簡単だな。勝負の鉄則は相手の弱みに自分の強みをぶつける。これしかない」
「……で?」
「黒田の紅白戦前のピッチング練習見たか?」
「いや」
「それくらい言われなくても見ておけよな」
「……」
「あいつ、今日は左肩の開きがはやくて変化球の曲がり始めが早かった。あいつはそれを意識し過ぎて指先で修正しようとしてたからな。そんなことしたら余計に変化球のコントロールが安定しない。だから変化球はストライクとボールがはっきりと分かる投球にならざるを得ない。ストレートは切れがあるだろ。だからあのストレートをお前が打ってもヒットにはならない」
「甘いコースに来るスライダーを狙う。そういうことか」
「それに、いつもお前はバッターボックスのピッチャー寄りに立ってる。だからストレートと球筋があんまり変わらないスライダーの曲がり始め、一番打ちやすい球を叩けるわけだ。だからあんなミラクルホームランも出たわけな」
「相手の弱点に自分の強みをぶつけるって……」
「それに加えて黒田の勝気な性格な。一度打たれても、あえてその球で抑えに来る。今日のお前なら三打数三安打、四打数四安打の可能性もあった」
毅は向こう側のベンチで右肩を冷やしている黒田を見た。毅は唇を噛んで、右足のスパイクの歯で土を蹴っていた。土に紛れている砂がシャリシャリと軽妙な音を立てている。
「そっか、そう考えると、あの球に欲を出して打ちにいった俺がやっぱりアホだったな。無理をしなくてもまた打ちごろのスライダーが来たってわけか」
氷で冷やした左膝を押さえながら、毅は呟いた。
「すみませんでした」
毅は声のする方を見た。
右肩にアイシングをした黒田が立って頭を深く下げている。
「しょうがねえよ。気にすんな」
「ほんと、すみません」
「でもデッドボールになったスライダーだけやけに切れてたな」
毅は笑いながら言った。
「ほんと、ほんとにすみません。力みました。今日の山浦さんにはどこに投げても打たれるような気がして、ビビってました。だから厳しいところに投げようと」
「窮鼠猫を噛む、か。でも明後日くらいからは普通に歩けるようになると思うから大丈夫だ」
「二度打たれた球で勝負に来た……」
横から功治が口を挟む。
「俺はそういう黒田がいいと思うな。来年はエースだ。でも、熱くなりすぎるなよ。勝負は熱くなったら負けだな」
~消されたリズム~
その紅白戦を終え、毅を病院へ送るために二人は自主練習をせずに帰ることになった。左膝の痛みの取れない毅は功治の自転車に後ろから跨る。
「コイズミさん今日もいるかな」
毅は大きな背中に言った。功治の背中は、爽やかな汗のにおいがした。
「どうかな、あの人も最近意外と忙しそうだしな」
その背中から、いつもの陽気なリズムが周囲に放たれるのを毅は感じる。
「ホームレスがどんな理由で忙しくなるんだ」
音でも、匂いでも、温度でも、そのどれでもない何かが、垢抜けたリズムで、いつも功治から発せられていると、毅は感じていた。
「さあな。直接聞いてみな」
「でも、まずは病院いってレントゲン撮ってからだな」
「そりゃそうだけど、コイズミさんならお前の怪我の痛みも取ってくれそうな気がするな。病院行ってもレントゲン撮って湿布を山ほど渡して、腫れがひいて痛くなくなるまで動かすなって言われるだけだろ」
「たしかに」
「病院はコイズミさんみたいにすぐに痛みをとってくれるところじゃないな」
「コイズミさんって何者なんだ?」
「明日一度、とりあえず行ってみよう。最近は時々しかあの公園にいないから会えるか分からないけど、そしたら明後日でもいい」
二人とも明るいうちに帰るのは久しぶりだった。二人を乗せた功治の自転車は、スピードを上げ、一気に坂を下っていく。ジェットコースターに乗るように、後ろに乗った毅は目を閉じた。
「ふぉーー」
坂を下り終えると功治が気がふれたように叫んで、ハンドルを手放して両手を掲げた。
畑の中を一本伸びる道を抜け、二人を乗せた自転車は駅前のアーケード商店街に入った。夕方の道にはいつもと違う人々がいつもと違う景色の中に散らばっている。あまり見ない風景に、何故だか毅は得をした気持ちになった。
「わりいな、おやじがまだ帰ってないから。帰ってたら迎えに来てもらうんだけどな」
功治のコイズミさんの話に付き合う気も湧かず、自分から毅は怪我の話を逸らした。
「全然いい。トレーニングだと思えばなんともないし。おまけにお前は軽いし。あ、ってことはトレーニングにもなってないってことだな」
二人の笑い声は、人々から注目を浴びるほど大きくアーケードに響いた。
「ところで、お前のおやじさんはどんな人なんだ?」
「なんだ、急に」
「俺にはおやじはいないからな」
「俺のおやじは普通のサラリーマンだよ。普通」
「普通って言うのが俺には分からないからな」
「そうだな、仕事から帰ってきて、朝起きたらまた仕事に出かけて、休みの日にはゴルフに行ったり、家でゴロゴロしてる。野球には興味がないし、俺もおやじには興味はねえ。でも怪我した時くらい、車は出してくれる」
「おやじさんに反抗したことはあるのか?」
「中ぼうの頃は、やっぱりなんつうか、反抗期だったのか、とにかく親父がうざかったな。勉強してるのかって聞かれたら、俺の勝手だろって思ってムカつくし、逆にサボって成績が下がってきたのに親父が何にも言わないと、それはそれで俺に関心がないのかと思ってムカついた」
「反抗期ってそんなもんかもな」
「功治は、おかんに反抗しなかったのか?」
アスファルトの微かな段差を自転車が越える度に、毅の左膝が痛む。
「反抗し甲斐がないって言うか、俺も反抗する余裕も無かったし、それを受け入れる余裕もおふくろにはなかったんだろうな……」
毅からの予期しなかった問いかけに功治は、噛み締めるように離れて暮らす母親とのことを振り返った。今も湯河原の居候先に仕送りが来る。それ以外にも居候先にいくらか送っているのだと功治は思う。
「おやじが死んでしばらくしてからな、月に一回くらいおかしくなるようになった。夜にいきなり叫んだり喚いたり……」
「お前のおかんがか?」
「押入れに入って耳を塞いでたよ。おふくろのあんな姿を見るのは嫌だったけど、あんな風になったおふくろを置いて一瞬でも外に逃げることもできなかった。耳を塞いでも、声は聞こえてくるからな。声が聞こえなくなったら、押入れから出て、一人で布団に入ったな」
商店街のアーケードを抜けると空の西側がぼんやりと赤みを帯びていた。
夕方の澄んだ空気の中に、夕餉の匂いが時折混じる。
「腹へったなあ、功治」
功治は母の出す即席の味噌汁の匂いを思った。塩辛いやたらに濃い味の味噌汁で、何膳だって白い飯を食べられた。
「布団に入ってしばらくすると、おふくろが黙って俺の布団に入ってきてな。酒臭かったけど、近づくな、なんて言えなかったな」
「そうか、そうか、そりゃ、言えねえよな」
毅は相槌を打つ。
今よりもずっと小さな丸刈りの少年が暗い押入れで、膝を抱えて耳を塞いでいる。茜色に染まり始めた空に、功治は幼い功治を浮かべてみた。
いつの間にか功治の体からは、いつものリズムがすっかり退いているのに毅は気付いた。
「たまには俺の戯言に付き合ってくれるな?」
「どうした、いきなり?」
毅はおもむろにいつもとは違う温度で呟かれた功治の言葉に耳を傾けた。
「世の中にはいくつの世界があるのだろうな? それとも、全てを抱えている大きな世界がただ一つあるのだろうか……」
「あ? いくつの世界って、世界は一つだろ? そこにたくさんの国がある。うん、違うか? そこにさらにたくさんの人間がいいる。違うか?」
そう答えた毅の言葉はまるで独り言のように風に流されていった。押し黙った功治は、まるで意思を持つことを禁じられた機械のように、自転車をただ漕いでいた。
~和美の運命、功治の宇宙~
六月九日木曜日
その日のニュースは中部地方の梅雨入りから始まった。三日続いた雨はようやく梅雨のそれと認められた。
全国大会常連のサッカー部と違い室内練習場を持たない野球部は、梅雨に入るとグラウンドでの練習もあまりできず、室内での体力トレーニングとその後の自主練ばかりになる。
その日も室内での体力トレーニングは早く終わった。怪我が治っておらず早く帰りたい毅だが、親友と恋人の談義に当然のように付き合わされた。学食のテーブルで、聞きたくもない話を聞かされる。動画サイトに投稿されたメジャーリーグの試合を先週新調したスマホで見ていた。
「功治くんは、運命って信じてる?」
「運命?」
表情一つ変えずに功治は、和美の次から次へと湧き出してくる質問を大きな胸で正面から受け止めようとしているように毅には見えた。
「運命の定義によるよな。竹内さんの運命の定義が分からないと答えても、前と同じでかみ合わないよ」
「運命の定義なんて、考えたことない。運命は運命でしょ」
「運命の意味を分かりやすく、竹内さんの言葉で説明してくれよ」
「功治くんて、頭よさそうで、意外とものを知らないのね。運命って言うのはね、たとえばね、わたしと功治くんが今こうして話をしているけど、このことがずっと前から決まっていたかどうかってことよ。毅とわたしが同じ高校に進学して、付き合って、毅の友達だった功治くんとわたしが知り合って、今話をしている。これには前もって筋書きがあったかってことよ」
「そういう意味な」
「それなら運命はあるな。むしろ運命以外には何もない」
「へー、どうして?」
「例えば、星と星が宇宙で衝突して更に大きな星になっていくだろ。地球もそうして小さな隕石同士の衝突から出来上がったって俺は考えてるな」
功治は全て説明し終えた得意げな顔になった。
「で?」
毅は思わず口を挟んだ。
「最後まで落ち着いて聞きなってばー」
「その隕石同士のぶつかり合いは隕石同士が互いの引力によって引き付け合い、そうなるわけな。偶然のように見えて、その隕石同士は宇宙の無数の恒星や惑星同士の引力に影響を受けながら、ちょっとずつ進行方向を変えたり速度を変えたりしながら、長い長い、道なき道を流れてきて、その隕石にぶつかるんだな。その星の引力っていうのは全て宇宙の物理法則で説明が付く。つまりな、その二つの隕石の衝突って言うのは、万有引力を基にした無数の数式で説明がつくんだな。その二つの隕石が通ってきた道も速度も、すべて偶然はない。ただ、誰もその無数にある式を導けないし、それを前もって知ることが現実的にはできないだけだな。全宇宙の恒星や惑星の大きさと質量が分かれば、その衝突は予想できた。言い方を変えれば筋書きがあったってことになるんじゃないかな」
「つまり」
和美が、わが意を得たという顔をして言う。
「その法則が人間にもあてはまるという理屈ね」
「まあそういうことな。人間も宇宙の中の存在である以上、万有引力とは異なるだろうけど、ある法則に則って動いているはずだな。叩かれれば痛いと感じるし、褒められれば嬉しいだろ。そういうのは分かりやすい例で、もっと複雑なものも含めて人間の感情には人間の感情なりの、行動には行動なりの法則があるはずだな」
「感情は微妙で複雑だし、それは変化したりもするから、法則とか計算とかちょっと違うんじゃない?」
「どうかな、感情だって所詮脳内の電気反応でしかないんだな。要は電気信号の一種なんだからさ。しかし、それを考えたり予想したりするのは現実的に不可能だな。それは隕石の衝突と」
「同じってことよね!」
和美が顔を少し紅潮させている。
「ははーお前は、そんなこと考えてたのか。いつも仏頂面して」
毅はまた横槍を入れる。
「けっこう難しいこと考えてるのね。毅と違って、何か尊敬しちゃうな」
「そんなこと考えてるお前って、ぜってーキモいな」
「これまで多くの学者が運命について研究してきてるけど、結論はまだ出てないな。様々な物体の運動を正確に測定することはできない。確率的に高い予測はすることはできるけど、それはあくまで確率論だと主張する人もいる。でも最近では小惑星の地球への接近を事前に予測して衝突を回避するとか、昔に比べると桁違いに正確に物体同士の運動を予測できるようになってきてるだろ。と、言うことはだ。物体の軌道が事前に決まっているってことだと思うんだな。それを運命と呼ぶことはできるな」
「だから、そんなこと言っているお前がキモイって」
毅はもう慣れてしまった功治の奇行とも思える思考に呆れたが、功治は一向に気に留めることなく続ける。
「俺が言ってることがホントかどうかは確かめようがないが、全然難しいことじゃないんだな。俺はただ、身の回りにある唯一確実なことを元にして、それを他のことにも当てはめてるだけだ。取り合えず女子が必死になってる血液型占いよっかは、ホントに近いと思うな」
「功治くん、さっき言ってた、バンユウインリョクって何?」
「万有引力理論、物体がそれぞれの質量と呼ばれる量に比例し、かつ互いの距離の二乗に反比例する力によって互いに引き付けあう。つまりさ、万有引力ってのはさ、宇宙のすべての星が引力、引き付ける力を持っているんだけど、その力のことだな。
よく宇宙が無重力って言うけど、あれは性格な表現ではないな。宇宙ステーションの中で飛行士が浮いてるだろ。あれは地上高度四〇〇㎞の位置で飛んでるからなんだ。その位置は地球の引力と遠心力が丁度釣り合って、その結果、浮いてるだけなんだな」
「へー。そうなんだ知らなかった」
「そうなんだな」
「功治くん、すべての星って言った?」
「地球にも引力があるように、宇宙に存在するあらゆるものに、他のものを引き付ける力があるってことだな」
「へー」
和美はまたも感嘆の声を挙げた。
「ほんとか? 磁石でもないのに」
毅は解せない。
「お前たまには良いツッコミ入れるな。そう言えば、磁石は珍しいな。反発しあう力があるのは。基本他のものには引き付けあう力がある」
「へーー」
「だからさ、俺に言わせれば人は人を嫌いになったりはしないんだな」
「……」
「そういうところが意味が分からないんだって、お前は」
目を丸くして、気持ちのやり場に困っている和美を見て、こみ上げた笑いを堪えずに毅は笑った。
「また人間に応用しようってことまでは分かるんだけど……ね、功治くん、どういうこと?」
「たとえばだな。悪いことをしたくないって思ったとする。それは一見『悪』に自分が反発しているように取れるけど、実はその逆の『善』に」
「引き付けられてるってことね!」
「だから、ある人を嫌っている間、実は好きな人に引っ張られているんだな。俺はボール球が嫌いなんじゃなくて、ストライクの球が好きなんだな。ストライクに引き付けられているから、ボールには手を出せない。許させるならピッチャーが投げる球、全球打ち返してやりたいくらいだけどな」
昼休みが終わり、五時間目開始の予鈴がなった。
ホームランを打った
ボールよ、
フェンスなんて小さいこと言わず
もっと遠く遠く、
果てしなく遠くのものを越えていけばいいのにな
引力なんかに遠慮せず
翼をください
え? 翼? そんなもの欲しいんですか?
はい?
どうしてそんなもの欲しいのですか?
空を飛びたいからですか?
そうですか、俺は要りません
どうして欲しくないんですか?
だって翼で飛べるのは所詮は大気圏内
所詮は大気圏内
俺はそんなもの要りません、欲しくもありませんな
あははは
~深み~
功治が和美との議論を終えると、雨は上がっていた。二人は自転車でコイズミのいる公園へ向かった。コイズミは便所の雨よけの下に座っていた。
「にいちゃん名前は?」
「え?」
「自分の名前だよ」
「山浦毅、です」
コイズミは毅の答えを聞き流し、毅の膝を注視している。
「そこに腰かけてみな」
言われるままに毅はベンチに座った。毅が座るとコイズミは毅の前に屈んで毅の左膝に左右の掌を翳した。毅にはコイズミが焚き火に手を翳しているように見えた。
「コイズミさんのコは『今』ですか? 『古い』ですか?」
沈黙に耐えかねた毅はコイズミに聞いた。
彼はそれには応えず、じっと動かずに毅の膝に集中している。数分後、男は翳した両手をおもむろに外した。
「立ってみな」
そう言って毅を見て、立ち上がった。
「はい」
毅は立った。
「曲げてみな」
毅はコイズミの言う通りに恐る恐る屈伸をする。左膝、特にその内側に意識を集中し痛みを確かめる。
「痛くない。痛くないです!」
自分を苦しめていた痛みが抜けたことの喜びよりも驚きで毅の声は上ずった。
「跳んでも跳ねても今は痛くないはずだ」
「すげぇ……マジで、痛みが消えるなんて!」
「ただ一週間は持たないと思うから。また痛くなったら来い」
功治は野良猫を駄菓子でおびき寄せようと必死で、こちらの様子には一向に気付きそうにない。
「何でですか? なんで痛くなくなったんですか?」
「世の中には自分の見えないこともあるってこと。分からないこともあるってことだ。若い時から、それだけは覚えとくんだな」
「お前の連れにも言っておきな。あいつは何でも知りたがる」
毅は狭い公園を走り回る大男を見た。
「分かったと思ったら、また次に分からないことがくることになってんだ」
眠いからもう帰れと促され、毅はお礼代わりに買ってきた清涼飲料をコイズミに渡した。
「俺の名前は、古い泉で、古泉だ」
「あ……はい」
「お前、名前なんていったっけ?」
「山浦」
「タケシだったな」
男は黄色い歯を見せて、にやりと笑った。目は笑っていなかったので、作り笑いかと毅は思った。
「おまえ一見ちびだしぱっとしねえと思ったが、よく見りゃ女には苦労しねえ性質だな。マジで女には気をつけろ。『女は地獄からの使いだ』って言う言葉もある」
男は一層大きく歯を見せて笑った。相変わらず目だけは全く笑っていなかった。返す言葉もなく頭だけ下げて振り向くと、功治が再び降り出した小雨の中で、傘もささずに両手に猫を抱えて笑っていた。
毅は痛みが消えて軽くなった左膝の感触を確かめるように功治の方へ歩いていると、この前牛丼屋で功治に見せられた物乞いの少年の力強い視線と古泉の笑わない目が不意に重なった。
毅は後ろを振り返った。スマートフォンを忙しなく操作する古泉が、公園から片足を引きずりながら出て行こうとしているところだった。
~功治の恋~
六月七日火曜日
功治はまだ目の覚め切らない自分の身体にプラットホームの自販機で買った清涼飲料水を流し込んだ。ベンチに腰かけながら一口一口飲み込む冷たい液体に胸から腹がひんやりとする。湯河原駅のホームにはまだ人影はない。朝霧の薄くかかる無人のホームで一人、カバンから取り出すのはReadingの教科書。功治は英文を音読し始めた。馴染みのサッカー部の先輩から教えてもらった英語習得法は単純明快だった。ひたすら英文を音読すること。その先輩とはサッカーで高岡高初の冬の選手権出場を果たした年のキーパーの小崎勝だった。冬の選手権にまで出場して、在京の国立大に現役合格している。早朝の英文音読は小崎仕込の功治のルーティンである。二ページほど読み終えたら、ホームに列車が入ってきた。
湯河原駅から高岡高のある清水駅までは乗換えを含めて二時間弱、眠気に押し潰されそうな早朝の時間を、功治は列車の中で過ごす。始発の車輌にはまだ人はまばらで、人目を気にせずに済む。功治は立ったまま古文と漢文の音読に取り掛かる。小崎曰く、音読に勝る学習法はなし。
車内に人が増えてくると、ヘッドフォンで音楽を聴きながらドアの傍に立つ。その後二つ目のルーティンを始める。進行方向に頭だけ向け、打席に立って投球を見る要領で、猛スピードで向ってくるコンクリートの柱を目で捉える。目が慣れてくると柱に打たれている四桁の番号が見える。その四桁の番号を足したり、引いたりと計算をするのだ。次に動体視力を鍛えるために、線路に敷き詰められた石の形を目に焼き付けてみたり、線路際の道を自転車で走る高校生や犬の散歩をする人などをつぶさに観察する。線路沿いの桜の木が、燃えるように緑の葉を茂らせている。
功治は窓を開けた。枝が擦れる音が聞こえる。流れ込む風を鼻から吸い込む。
爽やかな空気の流れにさらされ、すっかり功治の頭も体も冴えてきた。
考えろ、考えろ、と功治は腕を組んだ自分に言い聞かせる。考えるものは何でもいい。木々の若葉や芽吹いて間もない草花の匂いが混じりあった空気が車輌に吹き込み続ける。功治は思索すべき何かが自分の奥から浮かんでくることを待っていたが、何も浮かんではこなかった。
大会の開幕を一ヶ月後に控え、下がり始めた自分の打率。
なぜ打てない?-
打てないことはないな-
俺が打てなきゃ優勝はない-
じきに打てるようになるな-
当初はシャボン玉が弾けるくらいの小さな音だった胸の中の囁きが、少しずつ耳障りな声となって聞こえだしていた。
車内アナウンスが清水川駅へ着いたことを告げた。列車が停車し、三輌目の一番前のドアから、彼女は開閉ボタンを押して入って来た。功治の目は方位磁針が北を指すように、彼女の方を向く。彼女のローファーのゴム底が木の床と擦れて小さく音を立てる。功治の体温は上昇して、肌とシャツとの合間の空気がにわかに温められる。微かに汗のにおいのする空気が鼻孔に昇る。功治は毎朝自身の身をもって人間の心と身体はつがいだということを思い知らされていた。
彼女は決まって清水南高校のある高田駅で降りた。高岡高と隣接した学区の清水南高校は静岡でも有数の進学校だ。サッカーやラグビーでは全国大会にも出ている文武両道の県立高校だった。きっと彼女も早朝練習で早い時間に通学しているのだろうと功治は踏んでいた。
彼女は列車に乗る二十分程度の時間の大半を窓から景色を眺めて過ごす。列車は南側に海を臨み、北側にはみかん畑が隙間なく埋め尽くす急斜面を背負って走っている。山間部の景色は絶景だったが、至るところに小さなカーブがあり、電車は車体を左右に振りながら進む。列車が揺れる度に彼女の栗毛色の穏やかにカールした髪が揺れる。揺れる髪に朝陽が射すとさらに鮮やかで暖かな色に輝いた。
彼女は決まって南の海が見えるドアの前に立った。遠く海を見る彼女が、窓から入る外光に眼を細め、その閉じていた口が微かに開き、「まぶしい」と呟いたように見えた。
そして、鋭くも薄く優しい朝の光にパチパチとその目が瞬く音を、功治の眼は拾っていた。大きくはないが、目尻が切れ長に伸び、まるで作り物のように綺麗な二重瞼が清新で、近寄りがたい冷たさを持っているように功治には感じられる。彼女に神々しいとも言うべきものを見つけ、近寄ることすらできないのである。
ドア二つ分の距離は功治にとっては実に絶妙で、功治の空想は自由奔放に列車の中を飛び回った。
ある朝のこと。スポットライトより鋭く優しいその日の朝の光に照らし出された彼女はいつもに増して目映く、危うく誰かに盗まれてしまうのではないかと思うほど美しかった。彼女はいつも右肩に大事そうに掛けているカバンを網棚に置き忘れた。翌日功治が彼女にそれを手渡したことから二人の交流が始まる。そして毎朝通学の二〇分の間、お互いに親しく話すことになり、次第に二人の仲は深まっていった。毎朝功治の顔を見ると彼女は花のように笑い、昨日の取り止めのない出来事を語る彼女の声は、小鳥が囀るように可愛らしく車内に響き、功治の胸にこだました。功治の冗談に笑う彼女は、白い頬をピンク色に染めていた。
しかし、現実には、一向に彼女は車内に忘れ物をする気配はなく、それどころか彼女は荷物を入れたカバンと紫紺の弓袋に包まれた弓を片時も離さずに持っていて、網棚に荷物を置くのすら功治は見たことがなかった。
功治が名前も知らない彼女を見つけてから、もう二年が過ぎようとしていた。いつの間にか膨らみ始めた蕾は、幾つもの季節を過ぎて、功治の胸の中で目いっぱいに膨らんでいる。
彼女を見つめる功治の前を、季節はずれの観光客の一団が通り過ぎた。
~毅と古泉〜
六月八日水曜日
駅前の商店街の裏通り。周りを雑居ビルに囲まれ、冬には陽の射さない公園に一人のホームレスがいる。ついこの前まで別の世界のことだったことが数日の間に毅の中で確かな熱を持つことになっていた。妙なことに、ずっと前からあたかも身体の一部であったかのように極当たり前に毅の中で居場所をみつけ、棲みついていた。
公園の奥のベンチに腰掛けているその男を功治に紹介され、左膝の痛みを取ってくれた古泉と名乗る男。彼に近づいていく。
「こんちはっす」
後ろから大きな声で挨拶した毅に男は振り向いた。
「また来たな」
「また、来ました」
「おう」
「一昨日はありがとうございました」
「痛みはどうだ?」
一昨日は擦れて潰れていた声は、少し潤いをもって聞こえた。
「昨日は持ったんですが、今朝起きたらまた痛みが出てきました」
「そうか、意外と早かったな。出してみな」
「はい」
毅がそう答えたと同時に、細かい雨が降り始めた。
「こっちに来な」
トイレの小さな屋根の下で弱い霧のような雨を凌ぎながら、古泉は毅の左膝を見ている。
「どうやって暮らしてるんですか?」
会話の糸口を探すでもなく、毅は抱えていた疑問をそのまま口にした。
「興味あるのか?」
古泉は目線と両手はそのままに口だけ動かして答えた。
「いや、は、はい」
「この辺を仕切ってるやくざが回してくる日雇いの仕事をしてんだ。仕事がなくて金がない時はここの水だけを飲んで過ごすときもある。それに週に一回だけ、教会の炊き出しがある」
「一日いくらくらいもらえるんですか」
思った以上に古泉との会話が上手く運んでいることに嬉しくなって毅は興奮気味に捲くし立てた。
「だいたい五千円だ」
「一日五千円か……」
高いのか安いのか、日雇いの賃金の相場を知らずに訊いた毅は、感想を言いあぐねて、ポカンと古泉の顔を見ている。
「やくざには一万円くらいまわってるけどな、俺たちはその半分もらえれば良い方だな」
「そりゃひどいですね!」
毅はようやく言うべき言葉を見つけることができた高揚感からそう言った。古泉は、そんな毅が可笑しいのか、口元に笑いを湛えながら続けた。
「やくざも俺たちを定職に就いたり定住させたりしない程度に飼いならす。上手く働くように仕向けてんのよ」
「それもまたひどいですね」
「ひどいって言えばひどいけどな。俺たちみたいな生き方してる人間にはちょうどいいんだよ……」
毅は次に言うべき言葉を少し考えて、思い当たったように言った。
「持ちつ持たれつ?」
「そうだな。上手いこと言うじゃねえか!」
男の笑い声は強くなってきた雨の中に乾いて響いた。自分の笑い声に乗せられたように、古泉は勢いを得て話す。向かいに建つビルの上に視線を向けている。
「俺も若い頃はちゃんと仕事してたんだぜ」
陽光を遮っているビルの上に放つように、古泉は言った。そうして鼻を鳴らすと、自慢話をするように語り始めた。
「でっけぇトラックでよ」
「トラックの運転手ですか」
「そうよ。それこそ全国を走り回ってたよ」
古泉の声はさらに熱がこもってきた。毅には大きなトラックに乗り、大音量でラジオを聴きながらハンドルに手を掛けている古泉の姿が浮かんだ。
「へー」
「トラック乗ってた頃はモテたんだぜ」
毅の頭の中で、トラックの助手席に、若い女が加わった。
「寝ないでいくら走り続けてもあの頃は平気だったな」
「へー」
「俺は上の者とは上手くいかなかったが、後輩はかわいがってたからよ。全国に散ってる後輩から自分がこれから向かうところのことを全部無線で教えてもらってな。そのお陰で会社では一番要領よくやってたよ」
「なんでトラックの運転手を辞めちゃったんですか?」
「にいちゃん、たばこ持ってねえか?」
「ないです」
「持ってるわけねえか」
「すみません」
ばつが悪そうに毅は笑った。
「ちょっとしたきっかけでな」
「はあ……」
「おう、どうだ?」
そう言うと急に古泉は毅に膝の具合を尋ねた。
「……痛くないです」
毅はさっきまで痛みのあった左膝を確かめながら二度三度と屈伸をする。
「ちょっとそこら辺を走ってみろ」
古泉に促された毅は傘をさしながら公園の中を小走りに走ってみたが、痛みは嘘のように消えていた。
それを確かめた古泉は、立ち上がって腰を伸ばし、水飲み場まで歩いて行き、口を濯いで水を飲み終えるとトイレの前に戻って腰を下ろした。
「さっきは、すいません。立ち入ったこと聞いて」
「ま、座れよ。倉庫で積荷をしてた時によ、事故ってな」
毅も古泉の横に腰を下ろした。
「もしかして、それで今も足をひきずってるんですか?」
毅に答えるように男は自分の右膝を擦った。
「倉庫で積み下ろしをしてた時のことよ。大きな会社の社員が運転してたトラックが潰しやがったのよ。そいつが、全然後ろを確認してなかったからよ、百対ゼロで向こうが悪いんだ。膝から下が完全にぐちゃぐちゃよ」
「……」
「その大きな会社は、俺の会社の親会社だった。その方から仕事中の事故じゃなくて、交通事故ってことで処理してくれと俺の会社の社長に注文が入った。労災で処理すると月給の七割しか給料もでない、交通事故でということになれば保険が効くからって。親会社の言うことだから俺も社長も逆らえねえし。給料分も補償が出るならそれでいいじゃないか」
「はあ。そうっすよね」
「退院して職場に戻ろうとしたら、俺の仕事は無くなってた」
「えっ?」
「親会社が口止めのために辞めさせたんだ。うちの社長も足が悪くなった俺をもう雇えなくなったのか」
「そんな……」
「泣き寝入りはしたくねえ。だから監督署に行って、不当解雇ってことで、もらう分は有給分も含めて全部取り返したけどな」
「すごいじゃないですか!」
「そんなこんなやってる途中でさ、馬鹿らしくなってきてよ」
「おかしい権力に立ち向かって勝利を勝ち取ったんだから、むしろすごいじゃないですか」
「こんなのに勝ちも負けもねえよ。人生地道にコツコツやってきてもよ、俺にはツキって言うかな、なんて言ったら良いのか分からねえんだが、星の下としか言えないんだな。そんな星廻りしか回ってこねえ」
「ホシマワリですか?」
「にいちゃんよ」
「はい」
「俺には、ちゃんとした親父がいねえ。お袋一人で育てられてな。お袋の付き合ういろんな男のところ連れ回されてよ。まあにいちゃんにこんなこと話しちゃぁいけねえんだけどな」
「いけなくないですよっ」
「まあ、とにかく話しきれねえいろんな辛い目にあってきたんだけど、勉強なんかはできなかったけど、仕事だけはちゃんとしてきたつもりよ。それでも元気な体を取られちまって。俺たちみてえのはよ、体がちゃんとしてねえと満足に働けねえのよ。こんな足してちゃ使ってもらえねえんだ」
「……」
「誰も恨めねえよ。俺が恨むのは自分の星回りだよ。俺は生まれた時から上手くいかねえように決められてるんじゃねえかってな。それが三十過ぎたら分かっちまったんだ……それから十年ずっとこういう生活だ」
「古泉さんは、死にたくなったことはないですか?」
不意に毅は功治から聞けずにいた男への問いを口にしていた。それまで毅の左膝に向けていた視線を、雨で色濃くなったアスファルトに落としてポツリと言った。
「そりゃあ、一度や二度じゃねえ。何度もあるよ」
「どうして、死ななかったんですか?」
男の体の芯にまで届きそうな淀み一つない澄んだ声だった。
「いつか、這い上がってやるよ」
そう言って、また口元だけで笑った。
「いつかは這い上がってやるって、そう腹の底から声がしたんだ」
「……」
「俺はもう一度這い上がってやろうと考えてんだ」
~マウンドで「羅生門」~
六月十九日日曜日
メンバー選抜を翌日に控えた六月の第三日曜日、毅は初めて練習試合一試合目の途中で守備についた。いつもは二軍中心のスタメンが組まれる二試合目での出場だった。その試合、紺野が六回に訪れた絶好の逆転のチャンスで送りバントを失敗し、そのペナルティとしてベンチに下げられた。かわりに左膝の怪我から復帰したばかりの毅が、セカンド二番手の兵藤を差し置いて二番セカンドで途中出場するかたちになった。
六回終了時点で、スコアは高岡高三点、対する富士の下高四点。
七回表、富士の下高はヒットとフォアボールと送りバントで、ワンアウト二塁三塁。打順は三番。勝負どころと見て、バッテリーと内野手はマウンドに集まった。この試合二回目である。
「要は羅生門の下人になれるか、ってことだろ。野村が言いたいのは、そういうことだろ」
ピンチで内野手がマウンドに集まる時に、敢えてそのゲームについて話さないというのが、今のチームの約束だということは毅も知っていた。試合中にあれこれと話し合うことより、追い込まれた投手の気分を切り替えることが大切という野村の発案に誰も反論しなかったそうだ。だが、実際にどんな話がピンチを迎えたマウンドでその都度されているかは補欠の毅は知る由もなかった。
「なんか、ちょっと違うところもある気がするけど、簡単に要約すればそういうことだな」
野村が飄々と言う。どうやら五回のピンチで集まった時の続きを話しているらしい。
「そうした方が論点が明らかになっていいんじゃね」
そう言ってサードの村上がグローブを叩く。
「俺は回答は保留だな。下々の者の意見を聞いてからにしよう」
「なんだよ、それ」
「なら俺はありだ」
「俺も」
毅を除く五人が言い澱むことなく口々に意見を口にする。
「そりゃそうだ、俺も」
「もちろん俺も。飢え死にしそうになればそれくらいのことはするだろうな」
「どうかな……」
「皆がありってことにすると、逆をいくやつが一人いないとつまんなくね? 俺は逆をいく。なしだ!」
「そう言われるとなしって気もしてくるな……」
「法律がどうの言う前に、まず人としておかしくねえか?」
「死ぬか生きるかの時に、『人としておかしい』なんて理屈は立たないね」
毅はグローブで口元を隠して、その討論の流れについていくのが精一杯だった。
「いや、老婆も下人も、死ぬか生きるかって瀬戸際には立たされていないだろ。充分に理性が働く状況と俺には読めるよ」
「どうかな、ひどい商売でもしなけりゃ、すぐにでもその瀬戸際に追いやられる状況とも俺には読めたが」
「そもそも、遺族の分からぬ死人の服や髪の毛を剥いでも、誰も不幸にしていない。誰かを殺して身包み剥がしたっていうなら別だけど」
「その理屈では誰にも迷惑をかけなかったら、何しても良いってことになるな。売春だって何ら問題はないって」
「ああ、柴田が言ってるのはそういう理屈だし、俺もそう思う」
「そんなこと言ったら、遅刻しそうな時に車の来ない赤信号を無視したやつを警察は何て言って取り締まるんだ? 誰も不幸にしてなくね?」
一瞬、マウンドに沈黙が流れた。主審がマウンドに歩いて近寄ってくる。
「それは『道路交通法違反です』だろ?」
沈黙を破ったのは毅だった。笑いとともにマウンドに柔らかな空気が吹いた。
「よし!バッテリーはこのピンチを乗り切るために善処してくれ」
機を捉えたようにポーカーフェイスで野村が言い、各々が自分のポジションに戻っていった。
「次は別の話にしねーか?」
ずっと不服そうだったファースト鍋川がぽつりと言って土を蹴った。
柴田がミットで口元を隠し、芝川にだけ聞こえる声で一言告げた。次に毅の尻をミットで叩いて毅に言った。
「グッジョブ!」
毅は訳も分からず得意げな気分で胸が温かくなった。
~毅の躍動~
七回のピンチを切り抜けた芝川は、八回を三者凡退で切り抜けた。高岡高は八回裏にヒット二本を連ねてツーアウト二、三塁とし、ワンヒットで逆転、というチャンスをつくった。次のバッターがヒット性のセカンドライナーで倒れ得点には繋がらなかったが、高岡高に試合の流れが来ているのは明らかだった。高岡高は九回表の富士の下高の攻撃を三者凡退で退け、九回裏の攻撃に良い流れを繋いだ。
九回裏ワンアウトから一番野村が、右中間を破る三塁打で出塁した。
毅に打順が回ってきた。大抵勝負の山場は、選手同士の力関係を中心に、両チームの様々な要因がいくつも絡み合って展開する。ここでは、二つのサインが出る可能性がある。一つはスクイズバント。投手が投げると同時に野村がホームに走り出し、毅はどんな球が来てもバントでボールを転がす。内野手がそのボールを取りにいく間に野村がホームに滑り込むという作戦だ。二つ目はヒッティング。毅と投手の勝負だ。九九パーセントの確率でスクイズだと打席に向かう毅は考えた。しかしサインは状況に応じて変わる。投手が一球投げるごとに変わるし、牽制球が入るだけでも変わることがありうる。ボクシングの選手が最初から勝負を決するアッパーやストレートを打たないのと同じように、こういう場面では互いのベンチも初球から思い切った動きを起こすことは少ない。攻撃側も守備側も相手ベンチの出方を見ながら、自らの目論見が企てとして成功しやすい状況を引き寄せてからカードを切るのである。
相手ベンチやバッテリーもスクイズバントを警戒し過ぎてボールを先行させ、毅をフォアボールで出すことにはしたくはない。毅が出塁すれば、それは逆転のランナーになり、打順はクリーンナップへ回る。そうなると攻撃側の高岡高が、有利に試合を進んでいくことになる。
バッターボックスから毅はベンチのサインを見る。坂田が左右の手を忙しなく動かす。帽子のつばを摘み次に掌で胸に軽く触れた。それは「待て」のサインだった。
やはり、初球は見逃せか-。
毅は顎を引いて頷いた。内野は定位置よりも前を守る前進守備だ。絶対に一点を取られたくない時にとる守備位置。富士の下高は、最終回、俊足の同点のランナーを還したくない。この守備位置は定石通りだと言える。前進守備は野手の正面に打てば三塁ランナーは生還できないが、逆に少しそれれば外野に打球は抜けていくリスクのある守備でもある。当たりの悪いボテボテのゴロならば野村の走力と内野手の守備力との勝負になるが、よほどの好守を見せない限り、判断の良い俊足の野村の足が勝り、生還するだろう。もちろん外野フライでも野村は生還できる。最悪なのは、毅が三振したり内野フライをあげたりすることだ。バッテリーも控えの毅に本来の二番バッターの打力があるとは考えなければ、なおさら一点を確実に取る可能性の高いスクイズバントを警戒するのは当然である。
いくら控えのバッターと言えど軽率な投球はしまいとピッチャーはマウンドでの動作が少し固くなっているように毅の目には映る。ピッチャーもそれを自覚してか一度三塁に牽制球を送った。走者を刺す気のない自分の間合いを確かめるような牽制球だった。三塁手からの返球を受けた後で両肩から力を抜く動作をし、プレートをスパイクの刃で撫でている。毅はその間に、ベンチの奥で立ってこちらを見ている功治が、右手拳を握ってバットを小さく振る仕草を見せたのが目に入った。
俺に、打てと?-
様子を窺う初球、甘い球が来る-。
しかし、サインは「待て」だ-。
セットポジションからピッチャーが左足を上げて初球を投げ込んできた。
真ん中高めのストレートだ-。
毅はバットを上から被せるようにボールを叩いた。投げ終えてまだ体勢の整わないピッチャーの右肩の上を抜けていく打球の軌道を、毅は二歩三歩と一塁ベースへ駆け出しながら見ていた。絵に描いたようなセンター返しだった。一瞬の静寂の後高岡高ベンチからは歓声が上がる。一塁ベースを回った毅は、センターが打球をファンブルした隙を突いて二塁ベースに頭から滑り込んでいた。三塁から野村が生還し、スコアは四−四の同点。
両足で二塁ベースに立ち、盛り上がる三塁側のベンチを見ながら、口の中に吸い込んでしまった土を噛んだ。あっという間の出来事だった。目の覚めるようなヒットを打った感触を右手左手の両掌に探したがその微かな余韻すら残っていなかった。
続く三番村上がデッドボールで歩き、不調にあえいでいる四番の功治が2―0からの三球目を狙い澄ましたようにレフトへスリーランホームランを放った。七―四で高岡高のサヨナラ勝ちだった。九回の裏、球威の落ちてきた投球を毅の初球攻撃が追い詰め、功治が止めを刺した、胸のすくような試合だった。
試合が終わるといつものようにベンチ前に集合し、すぐにミーティングが始まった。
「最終回の山浦。あれはだめだ。単なる結果オーライだ。あれじゃ野球は勝てん。山浦だけじゃなくて他のもよく聞いとけ。野球の一球は自分の一球とは違う。チームの一球だ。自分が打ちたい球が来てもチームのために我慢しなきゃならん時もある。それが野球だ。野球は可能性のスポーツだ。それぞれの局面で、より成功する可能性の高い選択を積み重ねていく。その先に勝利があるんだ。いいか! その可能性を判断するのは監督の俺だ。俺が勝負の責任をとる。その俺の意図を正確に汲んで選手のお前らが動かなかったら勝てる試合も勝てなくなる。ピッチャーと山浦の力関係、山浦の打率の低さを考えればあの場面は絶対スクイズだ。スクイズがしやすいカウントまで持っていくのも勝負の内だ。それで、そのスクイズを確実に決めるのもバッターの仕事だ。山浦は四番じゃない。レギュラーでもない。たまたま出た試合で、図に乗るのもいい加減にしろ。チームの歯車になる気がないやつは使いものにならん」
練習試合後、珍しく坂田からジュースの差し入れがあった。それを見ると、監督としても今日の勝利に価値を見出したのだろうと、功治は言った。電車の中でようやく腰を下ろせた安堵感からあくび交じりに毅に今日のことを詫びた。
「悪かったな。俺が打てなんて言ったからな」
「いや、いいんだ。レギュラー組の出る一試合目でヒットを打てただけでも自信になったよ」
「監督さんはミーティングでお前に厳しいこと言ってたけど、試合で結果を出したことには変わりはないと思うけどな」
「まあな」
「目の覚めるようなクリーンヒットだったな。俺もお前の作った流れに乗せられて一発かませたからな。忘れてたホームランを打つ感覚が蘇ったよ」
興奮した功治はいつも以上に饒舌だった。
「……俺も打ちたかったから打ったまでだし」
一抹の不安感を噛み締めながら毅は言った。
「今日の一打でベンチ入りに近づいたな」
毅の心理を見透かしたように功治が励ました。
「それはどうだかな~。サイン無視と合算でプラマイゼロってとこじゃねえか。それよりさ、下人って許されるかって話してた。マウンドで」
毅は自分の評価についてこれ以上話したくなくて、試合の途中でなされた奇妙な話し合いについて功治に話した。
「『下人』って?」
「芥川龍之介の『羅生門』に出てくるだろ? 老婆を襲う男だよ」
「ピンチのマウンドでようやるな。やつらも」
「お前はどう思うよ」
「さあな、お前の彼女だったら絶対に許さないだろうな」
「確かに」
「自分が生きていくためには、許されるって言い分も俺には分かるけどな」
「それも確かだ」
「生き方に上等と下等があるか知らんが、生き方についての問題かもな」
「安い物にばかり飛びついて、安い者に成り果てていくなってのがお前の持論だろ、功治?」
「でもさ、あの下人の生き方ってのは、必ずしも安くない気もするな」
「そっか?」
「門の上で、盗みをしているばあさんを発見して、何かが燃え始めたんじゃねえのかな。っていうか、自分の中に隠れていた何かを見つけてしまったってことかもな」
「別に下人は楽な生き方を選んだわけでもないと」
「そうな。自分らしい生き方ってもんが分かった……そんな読み方もできるんじゃねえ?」
自分らしい生き方。功治の言葉に、毅は、知らぬ間に古泉の後姿を思い描いている自分に気がついた。




