一~
~春風を追い越して~
五月十日火曜日
この世の不幸や苦しみ、不条理の類は、すべて人間の作り出した虚構なのではないか。空を彩っている夕焼けを見ながら、山郷功治は思った。
丘からの坂を下り始めた自転車は、夕方の潮の匂いのする空気を功治の身体にまとわせることを許したが、坂の半ばに来るころには、その空気すらも引き裂くようにスピードを増した。功治は自転車の勢いを、自らの勢いに変えたいと願った。坂を下りきるころには、滑走路を飛び立つ飛行機に自転車を重ねながら、限界までスピードを上げていく。あまりのスピードに耐えられず、自転車の車輪が乾いた音を立てた。今にも壊れてしまいそうだと悲鳴をあげる自転車に容赦せず、功治はペダルを踏む足にさらに力を込めた。そしてハンドルを握った両手を、それっ、とばかりに力いっぱい引き上げた。
このまま空へ―。
「いっけー」
背中を目いっぱい反らした功治の視界が、暮れかけの空で満たされた。それは思ったよりも多くを闇に侵されていて、束の間、功治は言葉を失くした。
今日という日が終わる-。
その郷愁に似た想いは、功治の胸を優しく絞めつけたが、闇が連れてくる安らかな夜への愛おしさが、その締めつけを解いた。
気の早い星のいくつかは、夜を待てずにきらきらとまだ薄明るい空に瞬いている。その出始めの星たちの光の儚さと、その輝かんとする一途な思いに、功治は自分が広い宇宙に抱かれていると悟った。
その刹那、功治は自転車とともにふわっと浮き上がり、ゆっくりと空へ浮かんでいける気がした。
数センチだけ浮いた自転車の前輪が、再び地面に着地した途端、功治は我に返って前を向いた。
「だっめかー」
落胆の息とともに、大きな声を空に吐き出した。その途端、自転車は車道のアスファルトからはみ出し、畑の畝をいくつか越えて止まった。
「なんだ?」
前を走る誰かの声には応えずに、功治はもう一度さらに大きな声で
「だっめかー」
そう畑の中から暮れていく空に投げつけた。功治には、その声がやがて天空まで届き、大気の天井に跳ね返り、やがて下降気流となって地上に吹き降ろし、今度は上昇気流となって自分の体を自転車もろとも天高く吹き上げてくれるのではないかという妄想が浮かんできた。
そうさ、空まで飛んでやる―。
功治は自分でも可笑しくて堪らなくなり、大声で笑った。
「功治、どうした?」
畑で留まっている功治を、自転車を停めて眺めている山浦毅には上を向いて笑う功治が見えていた。
街へ向かう自転車の一団にすぐに二人は追いついた。野球部員たち十五台の自転車が列になって夕闇の中を進む。列の後ろにつけた毅の鼻孔を、道沿いの家から上がる夕餉の匂いが通りぬける。
「うおー」
「カレーさまー」
「かあちゃーん腹減ったー」
空腹を叫ぶ雄たけびが、一列に伸びた自転車の列の前から順々に上がる。それはこれから戦に向かう武者たちの鬨の声のようであり、赤ん坊が腹を空かせて乳をねだる泣き声のようでもあった。
「腹減ったー」
功治の太い声が毅の後頭部をまたゴツンと小突いた。
街を抜けると道は畑の中を通り、次の街へと伸びていく。
長い間、静岡県立高岡高校へ生徒を送り込んできたその道は、使い込まれたアンティークのようだと功治は思った。中央の白線は所どころ薄く消えかけていて、アスファルトには老人の目尻に刻まれた皺のようなひびがたくさんあった。朝、高岡高へ向かう生徒たちは温かくこの道に迎え入れられ、帰りも同じように送り帰された。功治が初めてこの道を通った時でさえ、いつか幼い頃に通ったことがあるのではないかと思わせる何かが、そこにはあった。その道は雨の日に小さな水溜まりを無数に作り、雨が上がるとその水溜まりが真っ青な空を拾った。映し出された青空が濡れたアスファルトに煌めく様は、天の川を思い起こさせた。
長く伸びた自転車の列の後ろから車のライトが近づくと、自転車はアスファルトを外れ、土の上を走る。野球部員たちは、暖気と寒気とが混じりきっていない春の夕闇の中を走っていった。
〜巨人〜
五月十七日火曜日
「うっす」
三時を過ぎた頃、キャプテン野村雄太がユニフォームを詰めた野球バッグと教科書や参考書ではち切れそうな茶色の学生カバンを提げて部室に入ってきた。
「野村のカバン、ぼろぼろだな。毎日全部持ち帰ってるもんな。カバンの悲鳴が聞こえてくるわ」
野村はその声には応えず、自分の椅子に腰かけた。
国公立組が部室に訪れ始めると、それまで気だるく流れていた時間が熱を持って流れ始める。練習を前に、少しずつ部員の士気が上がり始めるのだ。
「お前ら国公立組は、この時期になっても課題が多くて大変だな」
ユニフォームを着てグラブを手入れしている私大組から声がかかる。
「俺らは三教科だけ対策しとけばなんとかなるから楽だけど、国公立志望はやんなきゃいけないことが多くてやばそう」
エースの芝川がグラブにオイルを馴染ませながら言う。
「私大も選考方法がここ数年で変わりすぎて進路担当の先生も『どう指導していいか分からん』って困ってたぞ。そういう意味じゃ、ある程度自分で対策しなきゃならないそっちも大変だろ」
野村は学生服を脱ぎ、アンダーシャツに腕を通しながら淡々と芝川に持論を述べた。
「野村は遠征先のホテルでも英単語を覚えたもんな」
過密日程の遠征でも、大会前でも、野村が受験勉強を怠らないことは誰もが知っている。
「私大組は、空き時間があるから今のうちからコツコツやってりゃ、夏の大会が終わってからでも充分挽回が効くよな」
野村より先に着替えていた国公立組の鍋川が羨んだ。
「確かに国公立組よりは勉強時間はあるんだけどなぁ、練習前に勉強しようって気合は入んないよ」
五月の連休明けに、勉強にも気合を入れると豪語して頭髪を一層短く刈った内山が、まだ青白い頭をぐるぐると回しながら気だるそうに言った。
そんな部員たちの進路談義を、毅はグラブにオイルが染み込んでいくのを見ながらぼんやりと聞いている。
五月も半ばになれば、インターハイ予選で散った他の部活の三年生は、既に受験勉強を本格的に始めている。進学校でありながら部活が盛んな高岡高の生徒たちの中には、チームや団体の解散前に、一足早く部活動を退く生徒も一定数はいた。例年野球部の中にも一人か二人はそういう部員もいるのだが、今年は誰一人としてそのような部員はいなかった。
「うーすっ」
勢いよくあけられた扉から一瞬外光が差し込んだが、すぐに大きな影に遮られ、部屋はまた薄暗くなった。功治が入ってきたのだ。両耳にかけられたヘッドフォンからは曲と歌詞がはっきりと聞き取れるほど音が漏れている。上履きを捨てるように脱いで、大柄な体で床に散らかったスパイクやグラブを足先に引っ掛け踏みつけ、隅の椅子に向う。一九五㎝の功治の提げるカバンは野村の物よりもずっと小さく見えた。功治が腰掛けた途端、パイプ椅子は悲鳴を上げるように軋んだ。
「功治! お前はどうなんだ?」
功治が椅子に腰掛けると間髪を入れずに山崎が白い歯を見せて訊いた。
「功治! いつまで自分の世界に入ってんだよ!」
自分に話を向けられたことに気付かない功治に駆け寄って、山崎が大声で叫んだ。部室全体が笑いに満ちた。皆功治が何と答えるかに耳をそば立てている。
「あ?」
心酔していた音楽から切り離された功治は癇に障ったのか、一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに居直って聞き返した。
「お前は進路をどう考えてるんだ?」
「あ?」
「お前はどこの大学に行って、将来はナニモノになるんだって!」
「将来か……俺は、宇宙へ行く!」
「ウチュウ?」
あちこちで声が漏れた。
「お前……」
部員たちは、冗談とも本気とも取れぬ功治の答えに、どう反応してよいのやら分からず一瞬押し黙った。
「ウチュウ? ピカチュウの間違えじゃね?」
内山が立ち上がり、青白い頭をくるんくるんと振り回りながらおどけて見せた。
行き場を探していた部員たちの思いが一気に流れ出たように笑いが部室に渦巻いた。
それを部室の隅で聞いていた毅は、功治らしいその言葉に舌を巻いた。
「功治、いくらなんでも〜」
「大変だぞ、宇宙飛行士は」
一斉にその無謀さをたしなめ、また笑う声があがり、毅もそれらの声につられた。
「そうだぜ功治、いくらなんでも……」
しかし言いかけたその言葉は、行き場を失った。毅には、身長二m近い大男がロケットに乗り込んでいく映像が妙にはっきりと脳裏に映ったのだった。しかし、その場にいた誰も毅の前にだけ現れた宇宙飛行士の姿など知る由もなかった。
「さあ、練習! 練習!」
他の部員からの声も全く気にせず、手早く白い練習着に着替えた功治は、グローブとスパイクを持つと立ち上がった。功治に用具を蹴飛ばされてはかなわないと部員たちは散らかった用具を急いで功治の前からどけた。騒然となった部室を、功治は大股で扉へ向かう。隙間から陽の差す扉へ進む眼鏡をかけた八頭身の大男は、毅には純白の宇宙服を着てロケットに乗り込む宇宙飛行士に見えた。
鈍い衝突音とともに、部室が揺れた。
「でっ」
勢い余った宇宙飛行士は、頭を下げるのを忘れ、鴨居にそのままの勢いで額をぶつけた。うずくまる大男を前に、部室は再び笑いの渦に飲まれた。
~鼓動~
ノックが始まった。
初夏の訪れを匂わせる風が、程よく水気を含んだ茶色のグラウンドの上を心地よく駆けていく。ボールが弾むたびに土が水飛沫のように飛び散る。ボールとバット、硬いもの同士がぶつかる乾いた音が、等間隔で響く。バットに弾かれたボールは、まるで飛魚が海面を飛ぶように跳ねていく。打つ者とそれを受けるものとの張り詰めた空気と、受ける選手に向けられる叱咤と激励の声が、そこを別世界に変えていた。ダイヤモンドと称される内野だけが熱を帯びていく。外野からその光景を眺めている功治は、その時だけは内野手を嫉む気持ちになった。
毅の動きが良い-。
功治はランニングや筋力トレーニング中心の冬場の練習が明けてからの三ヶ月で、毅の守備範囲がレギュラークラスに近付いていることに気づいていた。
ベンチ入りもあるかもな-。
毅は今までずっと、試合に出ることはおろか背番号をつけてベンチに入ることもできない選手だった。これまで功治は七月に始まる夏の大会で、毅がベンチ入りすることを何度も想像しようとした。しかし、そこに表れるのは、決まって背番号の無い小さな背中だった。泥だらけの練習着と真っ白な試合着。そのコントラストが毅らしさとして功治の中に定着していた。
闘っているんだ、誰もが-。
自らを奮い立たせるように、功治は自分に言い聞かせた。
全身の汗腺が、蛇口を開いたように、汗を体外に流し出している。動くたびに顎や鼻先、時には睫毛から汗が滴る。毅の体は徐々に疲労に侵されていた。少しずつ考えられることが減っていく。視界も睫毛の上から滴る汗でしばしば曇る。そんな時も毅は自分を俯瞰していた。自分は数多い内野手の中で、相変わらず冴えない選手であると。
まだまだ、自分はこれからだ-。
毅は口の中に入った土を脇に吐き捨てた。そしてボールを打ち込んでくる監督の坂田に叫んだ。
「もういっちょ! さあ来いっ、ノッカー!」
一、二塁間に打たれたボールに、毅は良いスタートを切った。腕を伸ばしても届かないとみると、左足で踏み切って飛び込んだ。グローブの先を掠めて、ボールはライトへ抜けていった。ライトの位置で、陸上部の練習を避けながらキャッチボールをしている功治の前にそのボールが転がって行った。
七月十日に始まる全国高等学校野球選手権大会の県大会予選においてベンチ入りメンバーは、六月下旬に決まる。そのメンバーに入るためには、遅くとも五月中に監督の坂田に、練習で実力を認めさせたかった。そうすれば練習試合に出場する機会を得て、結果を残すこともできる。
残された時間は少ない-。
内野のノックが終わり、外野ノックが始まる。坂田がさらに力を込めてバットを振り抜く。叩かれたボールは、羽ばたく鳥のように、空を切り裂いて飛んでいく。小さいボールがさらに小さくなり、その色すらも確認できないほど小さな点になったころ、走り込んできた外野手のグローブにおとなしく収まっていく。一人目の外野手がそのボールを取る前に、次のボールが放たれ、同じ方向に次の外野手が走り出す。同じ軌道のボールが等間隔で放たれ、それに合わせて選手が走り込む。コンピューターに予め選手の走力がプログラミングされたかのように、選手の追いつけるぎりぎりのところにボールが打たれる。
九十メートル近くも離れている所から飛んでくるボールは、功治の手前に来てもまだ、飛びたいという欲を失ってはいないようだった。最後の力を振り絞って自分を振り切ろうとするボールを、功治は目いっぱい左手を伸ばして掴み取った。
「ナイスキャッチ!」
オレンジ色がわずかに染み入った空を仰ぎ、功治は胸いっぱいに息を吸い込んだ。二、三歩進んで立ち止まり、額にできたばかりのたんこぶを撫でた。
~二人の世界~
全体練習が終了すると二人は、練習を始める。まだ全体練習を終えたばかりの冷めない体から、一度尽きたはずの力が、こうして湧いてくるのが、功治も毅も不思議だった。まずはバットを片手で五十回振る。右打ちの功治は左手、左打ちの毅は右手で。それを三セット。その後両手で素振りを五十回。それを五セット。次に、肩の上に構えたバットを腰の回転を利用して臍の前まで振り下ろす。その先はバットのヘッド重みを使って振り切る。
バットの軌道に無駄はないか。
バットの重みに体の軸がぶれていないか。
視線はバットがボールを捉える位置から外れてはいないか。
好打者は自分の体の動きを精密に検査する装置を自分の中に持っていなければならない。それは何かを考えたり感じたりする能動的な作業ではなく、精密機械が正常に起動するかを正確に検査する至極受動的な作業である。その点検作業が正しく行われていくうちに、バットを強く速く正確に振る力と感覚が、身体に備わっていくのである。毅が熟読しているバッティング理論についての文章だった。
全体練習後の二人の練習メニューは毅が考えたものだった。
素振りが終わると次はティーバッティング。斜め前から打者の前にボールを軽く投げ上げ、打者はそれを前のネットに打ち込む。おおよそ百球ずつ交代で打つ。
毅がボールを上げ、功治が打ち始めた。
樵が深い山林で樹齢何十年もの大木を切り倒す。樵が振り下ろした斧が幹に刺さり、その音が静かな山林に響く。
功治と練習をしていると、そんな情景が毅の脳裏に浮かぶ。これまで見たこともない世界の有様を、ありありと毅の脳裏に映し出してしまうほど、功治のスイングは圧倒的な力に漲っていた。バットは、構えられた位置からボールを捉えるまで、無駄の無い軌道をとっている。毅の目の前を通り過ぎていく木のバットがぼわんっと唸る。ボールは微かな残像を残してネットに打ち込まれる。バットがボールを弾く音が、暮れた校庭に放たれる。ネットが、打球を受け止める度にきゅっきゅっと鳴る。一心不乱にボールを打ち込んでいる功治の姿に毅は見とれた。
この精密さと力強さを持つ大男だったら、これから対戦する強豪校をも跳ね除けてくれるかも知れない。功治が自分たちの大きな夢を叶えてくれるという甘い想いが、毅の心を占める。毅の記憶が独りでに遡る。
冬空の下で、功治は重いベンチプレスを軽々と持ち上げていた。去年の大会では、強豪校を相手に孤軍奮闘し、上級生中心のチームを勝利に導いた。
これまでは遠いところから見ていた功治の凄さは、近くで見るとなお、やはり桁違いだった。走攻守バランスのとれた今年のチームが、好調の功治に率いられれば、甲子園出場も現実味を帯びる。聖地、甲子園。その土を踏む。その時はもう目前に迫ってきている。あと二ヶ月もすれば、夢は叶ってしまうかも知れない。
しかし、俺には別の闘いがある-。
毅は我に返った。県予選のメンバー二十人。甲子園のベンチに入るためには、さらに絞られた十六人の中に入らなければならないのだ。今、自分はチーム内の競争の中でどの位置にいるのだろうか。これから追い抜いていかなければならない部員の数に、膨らんだ毅の胸は急に萎み始めた。
功治が五箱目のボールを全て打ち終えた。
「五百打った。ちょっと休憩すっか?」
「いや、やっと体が温まってきた。まだいい。今度はお前が打て」
功治は半袖のアンダーシャツを肩までたくし上げた。褐色の上腕二頭筋の上半分は生まれたばかりの赤ん坊の肌のような白さだった。
この練習メニューは、バットを徹底的に振るということにその意義があった。ずっと前から毎日この練習を実践していた毅に比べて功治にはバットを振り続ける体力はなく、二人で始めた当初はすぐに音をあげていたのだが、今ではその頃が嘘のように毎日着実に功治もメニューを終える。
「とりあえずもうひと箱ずつな」
余裕の一言を吐いた功治とその言葉に黙って頷く毅の間を、夏の匂いを運ぶ夜風が通り抜けた。
功治は神奈川県湯河原町に住んでいて、他の部員が居残りで練習する中を片道一時間以上かかる家路を急いだ。しかし、功治の実力は神奈川県内の有名私立からも声がかかったほどで、入部当初から部内でも一目置かれていた。そして、彼の纏うつかみどころの無い飄々とした空気と、憎めない頓珍漢な挙動が、押しも押されぬ中心選手でありながら、いじられ役でもある唯一無二な待遇を彼に与えていた。
一九五㎝という高校球児としては規格外の体格をもつ功治は、強肩の外野手で、時には投手も任される四番打者だった。一方で、小柄で身軽な毅は、地元の小中学校のどこのチームでも練習熱心な補欠の内野手だった。部内やクラスでも目立たぬ存在であった毅に対し、功治は部を離れても異彩を放つ存在だった。野球だけでなくあらゆる点で違う二人の間には、高校入学以来常に一定の距離が在った。二年生まで、二人は同じ部にいながら必要以上の会話や交流のない間柄だった。そんな二人が関わりをもつようになったきっかけは、三年のクラスが同じになったという単純なものだった。長引く不況で国公立進学を志望する生徒が増え、国公立を目指す生徒の一部が私大進学クラスの教室を間借りするようになったため、国公立志望の山郷功治と私立志望の山浦毅は同じクラスで出席番号が前後になった。それまで接点のなかった二人だったが、野球の話題になればまるで親友のように意気投合した。
毅を惹きつけたのは、功治が想像以上に冷静で、かつ論理的な眼差しを野球に向けていることだった。大袈裟に言えば、独特の世界観で野球を観ていた。功治は高校に入学して間もない頃から試合に出て活躍していた。そんな功治を動物的なセンスのままに球を打ち返している選手として毅は見ていた。しかし改めて功治と話してみると、それは自分の思い違いであることを知った。功治は、その風貌に似つかわしくないほど、緻密な計算をし、相手への洞察を利かせていた。それは一瞬のうちに湧いて出る発想ではなく、短時間の思索で至る結論でもない。功治が大男になるずっと前から、勝負に対して真摯に向き合ってきた末に手にしたものだろうと毅は思った。
「試合が始まる前に勝負がついている打席もある」
という言葉は、功治が語った最も興味深いものだった。練習を怠っていたせいで試合で満足のいくスイングができなかった自らへの戒めの言葉として聞いていたが、他方でもっと違った意味でその言葉が吐かれたのかも知れぬとも毅は考えていた。
一方功治にも、毅との関係が深まることで、変化が起きていた。毅と親しくなった三年生の四月から毎日の素振りとティーバッティングに付き合うと自ら言い出し、毅と何百回もバットを振り、ボールを打ち込むようになっていた。その地道な練習が功治の打力の底力になっていることを本人も含めチームメイトも認めるところとなっていた。
~輪廻転生~
五月十八日水曜日
自主練習を終えた二人は駅前の牛丼屋へ入った。
「どうして夜に牛丼屋で飯を食ってるやつってこんなに醜いやつばっかなんだろなー」
功治は入ってくる客の顔を見て言った。
「なんてこと言うんだ」
呆気に取られた毅には答えず、功治は続けた。
「なあ、インドでは子供が乞食として生きていくために、マフィアに頼んで腕を切り落としてもらうらしいな」
「コジキって、ホームレスのことか?」
「まあ、そんなところだ」
そう言うと功治は椅子の下に置いたバッグから雑誌を取り出し、肩を折ってあったページを開けた。毅も本屋で平積みになっているその雑誌を見たことはあるが、いい大人の読むものと思って手を伸ばしたことはなかった。手の届くところで目にしていながら開いてみたことも内容を想像したことも無かったので、実際にそれを功治が手に取って捲っているのを見ていると、先を越されたような気持ちになった。が、すぐにそれほどのものでもないような気にもなった。でもすぐに、いくら哀れであろうとも、遠い外国の地の子供たちの惨事に、功治がどうして興味をそそられるのだろうかと考えた。そして毅は友人の広い好奇心と、独特の心の動きにまた一歩出遅れてしまったような気になって、それもまたどうでもよいことだと自分に言い聞かせた。
「オンライン版には載ってないリアルな記事がこっちには載ってるんだ」
功治はそう付け加えた。
「インドって一年生の頃に倫理の時間に何かやったよな?」
そう言って毅は気になる功治の話から逃れるように、向かいの客に視線を移し、そのとき学んだ遠いアジアの国のことを思い出そうとした。「インド」や「印度」という文字を毅は牛丼の置かれたテーブルの上に何度か人差し指で書いてみた。
シャカ。
仏教。
ヒンドゥー教。
ガンディー。
新興国。
カースト。
ガンジス川。
いくつかの言葉が浮かんでは来たが、それらの言葉は、ばらばらに天井と毅との間をぷかぷかと浮遊しているだけで、何も彼に語りかけてはこなかった。
「この写真見てみろよ」
功治が指差したのは褐色の肌をしたまだ小さい子供の写真だった。彼には手首から先がなかった。その子は、乾き切っていない左手の切断部を右手で力なく支えている。しかし、彼の眼光は、今まで毅が誰からも向けられたことのない強い光を放って、毅の目を捕らえていた。
「すげえな……」
毅はその少年の視線に束の間怯んだが、その雑誌を掴んで引き寄せた。
「そう思うだろ? こんな小さな子が、命がけで毎日食い物を手に入れてる……」
記事には、最貧層の子供たちは将来職業に就くことも、小銭稼ぎをすることもできず、生まれたときから物乞いとして生きていくことが決められている。だから時には彼らの親が子供の体に傷や障害を与えて物乞いにすることがあると書いてあった。
「っへー……こんな子供がインドにはたくさんいるって……」
カーストは昔に比べると大分無くなってきてるとも功治は付け加えて続けた。
「俺たちが七、八〇〇円で牛丼食ってる。こりゃなんかおかしくねえか?」
「まあな」
毅はそう答えると、途切れ途切れに聞こえてくる功治の話を頭の片隅で聞きながら、平衡感覚を失った意識で、シャカやカーストという文字が浮かんでいる宙をぐるぐると見回した。
「なあ功治、シャカって仏教だよな?」
「そうだよ。それがどうした?」
「仏教ってそういうの認めてるのか?」
「そういうのって?」
「だから、子供が腕切ってコジキするのをだよ」
「そもそもインド人の多くが帰依しているのはヒンドゥー教だ。ただしヒンドゥー教も仏教もキリスト教も、認めるも認めないも、人間が勝手にやってることだろ。どんな崇高な宗教や矛盾のない法律があっても、戦争や人殺しはなくなんないだろ。宗教が戦争を起こすってこともあるだろ」
「だから、そういう理屈を言ってるんじゃねえよ」
「どした? 急に」
功治は毅の褐色に焼けた頬が、少し紅潮しているのを見て取った。
「そんなら功治、リンネなんとかってどういう意味だっけ?」
「リンネテンショウって言うのが普通。リンネテンセイって言うのも聞いたことあるけど。要するに生まれ変わりだよ。魂は何度も生まれ変わりをして永遠に生き続ける」
「ああ、ちょっと何となく思い出してきたぞ……」
「転スラ、知らねえの? 何にも知らねえんだな」
「テンスラ? 興味ねえな」
毅に朧げな記憶が蘇ってきた。
「えっと〜インドで一番信者の多いヒンドゥー教では、前世の行いが今の生まれに影響を与えると考える。だから貧しく生まれたり、障害を持って生まれても、それは前世の行いの結果だからあまり哀れまれたりしない……そんなふうに授業で習わった気がするな」
「そうな、意外と憶えてるな、毅」
「でもさ、生まれ変わりだとか、前世だとか、そんなの関係なくね? それとこんなひどいことがどう繋がってくるんだ?」
「俺にそんなことまで聞くな」
「たしかに!」
毅は自分が功治の繰り出した話題に入り込んで、いつの間にか熱くなっていた自分が可笑しかった。功治は黙って牛丼を掻き込んでいる。今口にあるものを飲み込んだら、きっとまた語り始めるだろう。
「そう言えばさ、最初はな、倫理の授業、全然つまらないと思ってたからさ、ずっと数学の問題を解いてたわけな」
口の中の物を水で胃袋に流し込むと功治はまた語り始めた。
「あん、教師は誰だっけ?」
「上野な。上野が『今は倫理の時間だから数学なんかやるな』っつーわけな」
「ごもっとも」
「俺は人類が生み出した最も美しい学問であり芸術とすら思える数学に対して『数学なんか』って言われたことにカチンと来たな」
「アホか」
功治のつぶらな瞳は見開かれ、正面を見ながら瞬きすらしない。どうやら上野とのやり取りが鮮明にどこかに映し出されているようだ。
「だから俺は、『倫理を数学的な方法で解いていました。それでも文句ありますか?』って言い返したわけな」
「完全にいっちゃってるやつじゃん」
その功治らしい強引で滑稽な物言いに、毅は思わず吹き出した。でも功治なら言いかねないと思い、テーブルに散らばった茶色い肉汁で光る米を備え付けの紙で拭き取りながら訊いた。
「そうしたら、上野は何だって?」
「『ほう、面白いことするじゃないか』って」
毅の想像の中で、上野の四角いゴリラ顔が困った顔で笑う。
「上野のおっさんも負けてねーじゃん」
「それでよ、『実は数学と哲学はもともと根本は同じだ』って、そう言うわけな」
「難しくてわかんないな。どーいう意味?」
「『ソクラテスもアリストテレスも哲学者であり数学者でもあったんじゃないか』って。『この世界の成り立ちを証明する方法の一つが数学で、もう一つが哲学だ』って言ってた。確かにアインシュタインも哲学的なことを言ってるしな。空間は縮み、時間はゆっくり流れる」
「は? ますますわかんねー。お前はとことん何を考えてんの分かんねー」
功治は半分になった牛丼に二つ目の生卵を入れて、紅しょうがを一つまみ放り込んだ。卵と丼の中で混ぜる箸の音がしたかと思うとそれをぺろりと功治は飲み込むように平らげた。
「それでさ、その時間はずっとそんな感じで上野の話は脱線してたけど、その話が面白くてさ。それ以来俺は上野の授業は一番前の奴に席を替わってもらって最前列で聞いてた」
「お前が最前列に座ったら後ろのやつが迷惑だろ。黒板見えねーし」
「それは平気だ。しっかり席は選んだ。後ろは滝瀬」
「サッカー部の?」
「あいつは早弁したいから俺の背中を借りて安心して早弁してたな」
「持ちつ持たれつってやつだな」
功治が片手を挙げて店員を呼んだ。
「牛丼大盛り。もう一つ」
「あ、俺は並一つ」
「まさに社会貢献だろ」
「はあ」
「滝瀬は毎週その時間は喜んでたぜ」
二人は声を合わせて笑った。笑いがおさまる前に、牛丼大盛りと牛丼並が運ばれてきた。
「汁だくって言いませんでしたっけ?」
功治の強引な物言いに、店員は頭を下げた。毅は左手首に巻かれた腕時計を見た。何時に店に入ったか忘れたが三十分は経っているだろう。二杯目の牛丼を受け取りながら、目の前に置かれている一杯目の丼の底を覗いた。そこには一粒の米も残っておらず、掻き込んだ時にできる箸の跡が乾いた肉汁の上に残っていた。食事を得るために手首を切り落とした子どもの強い眼光が丼の底に映った。丼を置き、左手首から時計を外した。衣服を剥ぎ取られたようになった左手首は、日焼けが薄く白かった。その白さに和美を思い出した。
「鮭定食一つ」
功治の大きな声が奥にいた店員を呼んだ。
和美という濁りのない真水が、毅の胸に一滴落とされた。それは瞬く間に毅の胸を充たしすぐにも溢れ出しそうになった。
毅はそれを押し隠すように、左手首の上に右手を載せた。
功治は少しすると鮭定食をも平らげた。手持ち無沙汰になった友人に、毅は昔話を振った。
「お前は小学生の時から秀才だったんだろ?何をやっても成績はずっとクラスで一番か二番だったって……」
「中学から私立に行った女子には勝てなかったな、たしか」
スマホの画面を覗き込みながら功治は答える。太い右手の人差し指で、意図した操作ができるのか、傍から毅は口を出したくなる。
「お前の指じゃ無理だろ。棒で操作できるのを買った方がいい」
「そうだった。学級委員長とか目立つのはみんなやってたあいつにはいつも負けてたな」
功治は毅の心配などよそに話を続ける。
「中学からその子は私立に行ったな」
「そっか……」
カウンターにスマホを置いて、今度は割り箸の先を奥歯で潰すことに必死になっている功治の横顔を毅は見た。客の消えた店の隅に、大きな丸刈りの小学生が体を目いっぱい使ってブランコを漕ぐ姿や、小さな机に背中を丸めて座り、宇宙や星の本を読み耽る姿を毅は想像した。
「功治、お前ほんとは将来何になりたいんだ?」
「あん? なんだよまたそんなこと聞いて。今日のお前はいつもとちょい違ってておもしれえな」
二人は黙って目を見合わせた。
「宇宙飛行士!」
二人の声が重なった。示し合わせたように二人の笑い声が響いた。
「将来のことなんて、そんなことは今はどうでもいいんだよな、毅」
「確かにそーだ」
「今は野球しかないだろ」
サラリーマンばかりが入れ替わり訪れる夜の牛丼屋で、収まりそうにない会話に勤しむ自分たちは、滑稽で収まるべきところにきちんと収まることのできない存在だと毅は思った。それは笑えることでもあるし、考えようによっては泣けることでもあるような気がした。
功治が黙ってまたスマホをいじり始めたので、毅も牛丼の残りを食べながら和美のことを考え始めた。和美の掌はだいたいいつも冷たかった。手をつなぐとよく彼女は毅の温かい掌に驚いた。掌だけでなく、大抵どこも毅のほうが温かかった。まめでごつごつした掌が和美の傷一つない柔らかな肌を汚してしまわないか心配になったが、小さな傷くらいならつけてしまいたい気になることもあった。
ヒンドゥー教についてひとしきり調べ終えた功治は横目で毅を見た。空になったコップを右手に持って回しながら物思いに耽り始めた毅を確かめて、またインドの子供について考え始めた。
あの子は、なぜそんな過酷な運命を生きなければならないのだろうか-。
ヒンドゥー教の説くとおり、あの子自身に理由があるのだろうか。本当に因果応報に裏打ちされた生まれ変わりなどあるのだろうか。だとしたら生まれ変わりはいつまで遡ることができるのだろう。今目の前にある結果は、何らかの行動の結果であり、その結果には必ず原因がある。そしてその原因も何かの結果であり……すると、無限に繰り返す原因と結果の末端に彼は存在する。それならば、その始まりはいつなのだろう。それとも人間は死んでしまえばそれでお仕舞いなのだろうか。この世界は、ただの始まりと終わりをもった無数の命で構成されているのだろうか。
脇や胸が急に熱くなり、汗がにわかに功治の肌に滲み、喉が渇いた。功治はカバンに牛乳を忍ばせてきたのを思い出した。
隣の大男がカバンから何かを取り出そうとする気配がした。見ると、カウンターに置かれたのは昼食時に配られる赤い牛乳パックだった。それをコップに注いで、グイっと一飲みに飲み干そうとしている。
「ぎゅーどんにはぎゅーにゅー」
口の周りに白い髭を生やした大男が向き直ってにんまり笑った。毅は口の中の牛肉と白米とが混ざり合ったものを吹き出しそうになるのを堪える。咽こんだ毅と対面のカウンターに座った客の目が合った。紅生姜を乗せた牛丼を無造作に口に放り込む客の顔は全体に紫がかっていて、いつか毅がうなされて夢に見た、人を死へとさらっていく死神を思い起こさせた。彼の両頬の痘痕が奇妙なほどに浮き出て見えた。
「あれが八〇〇円で命をつないでいるやつの顔だ」
牛乳で白くなった唇を小さく動かして功治は言った。
「『やつ』って言っても、八〇〇円で牛丼食ってるのは俺たちも同じだろ」
息を整えて毅は言った。
八〇〇円だって、一ヶ月食べ続ければけっこうな金額になるし、特にお前は、牛丼を何杯も食べる。一年間に換算すれば大金だと言おうとして思いとどまった。
「そーなんだ。それだから問題なんだなー」
そう言ってまた空になったコップにパックに残った牛乳を注いだ。
「だから何が問題なんだ」
「俺らもこんなこと続けてたらあんな顔になっちまうって。あんな汚ねーおっさんになっちまうんだな」
「……」
「インドの子供は自分の片手を懸けて飯を食う。でもこっちはそれをたった八〇〇円でやってる。インドの子供の命よりも俺らの命の方がどれだけ安いかって、そういう話な。お前ならこの話の意味は分かるよな」
功治の丸く仁王のように見開かれた目がレンズの向こうから毅を見ている。茶碗の中の牛丼を懸命に掻きこむ男性とインドの子供の姿が重なる。毅は息苦しくなり、食べかけの肉汁の染みた白米を一思いに口に入れた。
「もう食えねー」
向かいの客が勘定を終え、足早に店を出て行った。白い半袖のワイシャツから出る細い陽に焼けた腕がくいと曲がった時、毅の脳裏にはいつか見た少年の姿が映った。
中学生の時に出会ったある選手のことを思い出した。
彼も片腕だった。
左打席に立ったその選手は、右手一本で、低めいっぱいのストレートを掬い上げて大きなセンターフライを打った。前進守備のセンターが後ろ向きに倒れながらグラブに打球を収めた。センターのプレーを称えるチームメイトの声に同調しながら、毅の目は、一塁ベースを回ってベンチに戻るその片腕の選手に釘付けだった。
「どうした?」
「いや何でもない。でも、それが問題だって言われても、俺たちにとっちゃどうしようもできないことだろ。あのおっさんだって好きでこんな安い飯を食ってんじゃねーかも知れねえぞ」
「確かにその通りだ。高い飯だけ食ってりゃ良いって訳でもないしな……つまり、この問題の大きなところはよ、自分が望もうが嫌おうが否応なしにそのでっかい流れって言うか、渦の中に巻きこまれちまうってことだ。知らないうちに、安物で腹を膨らませて、安物で着飾って、そのうちみんな汚ねえものになり果てていくんだな。地球上の物がその引力に逆らえないようにな……」
汚ねえものに成り果てる……本当に自分たちは汚いのだろうか?
功治の言葉が毅の意識をまた天井の下の空中に引き寄せた。しかし、そこにはもう何も浮かんでおらず、縦と横に等間隔で直線を這わせた何の変哲もない薄茶色の天井があるだけだった。充分に腹が膨れ、功治の語る「大問題」に付き合うのが鬱陶しくなった時、カバンの中のスマホが震えた。
和美からだ。
「おつかれー」
毅は彼女の顔を思いながら電話に出た。重石を載せられていたように苦しかった胸に新鮮な空気が入ってきたようで、胸が晴れた。
「風呂から出た?」
彼女の現実離れした美しい肢体を想像できることが嬉しかった。
和美は汚くなんかないさ、今も、これからも-。
少なくとも横で無邪気に牛乳を飲んでいる功治にはまだ知らない世界を自分は知っている。それだけでも充分な気がした。
和美が風呂から上がった後の数分の間、毅は彼女と話すことを許された。陸上部員として毎日グラウンドを走る彼女も、在京の国公立を志望している。受験勉強と陸上競技の練習で、自由な時間はほとんど取れない。和美は今日あった出来事をいくつか話すと電話を切った。
電話を切った毅は、明日もまた和美と会えると思うと、ズボンの中が硬くなった。毅にはそれまで自分を呑み込もうと迫ってきていた「大問題」など、もう恐れるに足らぬものになっていた。
そんな毅をよそに、功治はまたひとしきりこの世の不条理について饒舌に語り、物思いに耽っていたが、何かのスイッチが切れたように、毅の背中を叩いた。
「出るか?」
毅の返事を待たずに椅子の下に置いてあるバッグを軽々と引き上げた。それをそのまま肩にかけて釣りの要らない勘定をカウンターに置いた。その一連の動作には、一切の無駄がなく、毅は感心した。
自転車に跨ったまま、毅は駅へ向う功治の背中を見送った。和美のことで頭がいっぱいで、帰ってからは勉強が手に付かないと打ち明けた時に見せた功治の無愛想な顔を思い出しながら。
暖かい向かい風の中を、毅を乗せた自転車はゆらゆらと泳ぐように進む。サドルから伝う滑らかなコンクリートの感触をいつになく心地よく感じた。そして、中学の頃に出会った片腕の選手のことを、功治に今度話さなければいけないと思った。
「あ、いけね」
毅はバットを入れたバットケースを牛丼屋に置き忘れてきてしまったことを思い出した。
~性教育と宇宙~
五月十九日木曜日
松村は教卓の横で授業開始のチャイムが鳴るのを待っていた。松村はここ十年で三度サッカー部をインターハイ出場に導き、昨年の冬の選手権で初めて全国大会出場を果たした名将と言われる監督だ。白髪の混じった髪を後ろに撫で付け、体育教官室の奥の席から教官室全体を見渡すように座っている。体育教官たちからも一目置かれる存在である。松村はチャイムが鳴り終わるのを待たずに、自分で号令をかけて五校時目の保健の授業を始めた。
「陰茎の内部には、左右一対の陰茎海綿体と、その下側にある尿道海綿体の計三本が通って端まで続いており、陰茎の大半を形成している……」
毅の後ろの席の香山愛は淡々と陰茎の形成や性質について音読している。
松村は、男性器の記述は女子生徒に、女性器の記述は男子生徒に読ませていく。女子生徒が読み終わると次は名簿を見て男子生徒を指名する。生徒たちは従順に教科書に線を引いていく。来週から始まる中間試験の勉強に寸暇も惜しい生徒たちは言葉にできない焦りと苛立ちを息として吐き出していて、教室の空気は重苦しい。本来なら保健分野は一年時に学習を済ませておかなければならないのだが、カリキュラムの不備がここへきて明らかになり、未履修の授業を今受けていた。
その時も、毅は和美のことを考えていた。音読される言葉が和美の一糸纏わぬ身体を連想させ、毅の想像は膨らんだ。まだ唇を重ねただけの毅はそれ以上和美のことは知らなかったが、始まった想像の中で、和美の衣服を一枚ずつ脱がし、舌や指を駆使して和美を快楽へと導くことに懸命だった。
「山浦くん、当たったよ。九十六ページ」
後ろの香山が背中を強くつついた。普段真面目で滅多に崩した表情を見せない香山は悪戯な目で毅を見る。
「膣を通って……」
毅は上ずった声で慌てて読み出した。その声に教室がざわめいた。
「山浦、お前は授業をきいとらんかったな!」
真っ赤になった毅が香山を振り返ると、彼女は教科書の九十八ページを開いていた。吹奏楽部の彼女の手は日に焼けておらず透き通るように白く細い。その細くて白い人差し指が毅の鼻の頭をつついた。
「ひっかかったね」
毅のどこかで香山の白い指と和美の白い肌が結びつく。香山の髪の匂いが誘うように毅の鼻孔から胸に沁み、毅は和美の女の匂いを思い出し、毅は性器が硬くなるのを堪え切れなかった。
毅が笑われながら、教科書を読み始めたのを聞きながら、功治はスマホを机の下で操っていた。
窓際の一番後ろ。そこが功治の指定席だった。席替えしても必ずその定位置を手に入れてしまう。机上に置かれた教科書は閉じたまま、授業が始まってからずっと空を見ている。五月半ばの青空は、うっすらと夏の光を湛えつつ、少しずつ梅雨の匂いを増してきてもいる。波の音と共に校舎のある丘陵に昇ってくる海風は、まださらりと心地よかった。
自分にとって無益な授業は聞かない。その代わりにスマホから、思いついた言葉をブログに書き込む。功治の秘めた日課だった。ブログに詩や散文を書いていることを誰にも教える気はなかった。「ウチュウジン」というハンドルネームは、気に入っていた。
何万光年も遠くにあるあの星はいつ生まれたんだろう
何億光年も遠くにあるあの星はいつ生まれたんだろう
こんなにも遠く離れた所まで、その息吹を届けてる
なぜ、あの星はこの星まで瞬きを届けるのだろうか
そんなに瞬いても、きっと誰一人、何も返せないのに




