第1話:絶対零度の視界、あるいは不遜なる後輩の誕生
世界が「数字」でできているなんて、誰が言った言葉だったか。
1ヶ月前、僕の視界に突如として現れたそれは、他人の内心を無機質なフォントで暴き出す、最悪のバグだった。
登校風景。すれ違う生徒たちの頭上には、32、45、あるいは8といった数字が躍っている。
僕に対する「心の壁」、あるいは「好感度」とでも呼ぶべきその数値は、僕という人間がいかに周囲にとって「どうでもいい存在」であるかを残酷に証明していた。
だが、僕はそれでよかった。波風の立たない、無関心に守られた平穏。それが僕の望む高校生活のすべてだったから。
あの日、生徒会室の重厚な扉を開けるまでは。
「……失礼します。頼まれていた資料の整理、終わりました」
放課後の静寂。西日に照らされた部屋の奥、一ノ瀬瑞希先輩はそこにいた。
学園の象徴、才色兼備の化身、3年生。
彼女の頭上を見上げた瞬間、僕は自分の目がついに壊れたのだと思った。
『-100』
マイナス。それも、三桁の極北。
今まで見てきた中で、どんなに仲の悪いクラスメイトでさえ、せいぜい「12」程度だった。なのに、一度もまともに会話したことのないはずの先輩が、僕に対して絶対零度の嫌悪を抱いている。
僕は戦慄した。と同時に、奇妙な高揚感を覚えた。
これだ。これほどまでに嫌われていれば、今後一切、彼女の人生に僕が混ざり込む余地はない。これこそが、僕が手に入れた「究極の安寧」のチケットだ。
「あら、ご苦労様。そこに置いておいてちょうだい」
一ノ瀬先輩は顔を上げず、冷徹なまでに澄んだ声で告げる。
僕はあえて、彼女が最も嫌悪するであろう「生意気で、礼儀を欠いた後輩」を演じることに決めた。
このマイナス100という数字を、1ミリも動かさないために。
「先輩。この資料、わざわざ僕みたいな下っ端にやらせる内容じゃないですよね。先輩の仕事の振り方、正直言って非効率的で迷惑です」
静寂が、より一層深まった。
普通の男子生徒なら、彼女に声をかけられただけで舞い上がる。そんな彼女に対し、僕はあえて「迷惑だ」と吐き捨てた。
一ノ瀬先輩が、ゆっくりと顔を上げる。その鋭利な美貌が、僕を射抜く。
「……非効率、ね。私に対してそんなことを言うのは、あなたが初めてよ」
彼女の瞳に、わずかな温度が宿った。
僕は頭上の数字を凝視する。動くな。そのままでいろ。
だが、無情にも数字はピクリと震えた。
『-100』
……変わらない。
よし。僕は内心でガッツポーズを作った。
彼女の鉄壁の嫌悪感は、僕の不遜な態度程度では揺るがない。これこそが僕が求めていた関係性だ。
「明日からは、もう少しマシな仕事を用意しておいてくださいよ。一ノ瀬先輩」
僕はあえて彼女を「呼び捨て」にする寸前で「先輩」を付け加え、ギリギリの不敬を保ったまま、部屋を後にした。
廊下に出ると、背中に冷たい汗が流れていることに気づく。
あの一ノ瀬瑞希に喧嘩を売る。それは本来、学園生活における自殺行為だ。
だが、僕には視えている。彼女の「-100」という数字が。
この絶対零度の数値を死守し、彼女という太陽から最も遠い場所で生き抜く。
それが僕の選んだ、新しい学園生活のルールだった。




