7月11日
私はベッドで目を覚ます。時間は午前五時。ループに入る前の私としては、ずいぶん早い起床だ。
同じ部屋のはずなのに、どこか少しずつ違う。壁に掛かったカレンダーには「2029年7月」と印字されている。
それを見て、私は小さく息を吐いた。
スマホを探すと、棚の上の非接触型充電器に張り付いている。
どうやら機種変しているようだ。手に取ってみるとサイズ感の違いに戸惑う。マイちゃんに電話をかけた。
ツーコールで『もしもし?』と声が聞こえる。
少し遠慮がちな声。
「マイちゃん? だよね」
そう呼びかけると、すぐにいつもの明るい声が返ってくる。
「私のナオコさんだ〜! 良かった!!
“舞さんっ”とか言われたらどうしようかと思ってたの」
あのもう一つの記憶の中の私たちは、友達止まりで“さん付け”で呼び合っていた。
「良かった。マイちゃんも、私のマイちゃんで」
『ですよね♪』
その明るい調子に、思わず笑みがこぼれる。
『それはそうとナオコさん。
ナオコさんの部屋に、天さんの作品置いてあります?』
「まだ本棚見てないけど、たぶんあると思う」
記憶をたどっても、あの本を処分した覚えはない。
『だったら、すぐに着替えて外に出ましょう! 本当の意味で“7月12日”に行くために!』
そうだ。今日は7月11日。
一年後に飛ばされたとはいえ、まだループ世界に舞い戻る危険は残っている。
私たちは、再び巻き込まれないために、天環の作品と距離を置ける場所を探した。
結局選んだのは二子玉川。
「“十一”」と関係がなく、天環の作品も展示されていない安全な地。
十一ではない数字の場所だ。
午前11時ごろ、多摩川の河川敷へ。
ここなら他者と五メートル以上離れられる、とマイちゃんが推した。
あの“11時11分”を無事に超えたら、近くのカフェで休めばいい。そういう意味でも最適な場所と彼女は力説した。
今年の今日は曇り空。少し雲行きが怪しい。
“雨の前の香り”はするが、けれど次の天気が読めない。
それがなんだか、久しぶりに「生きている実感」をくれた。
平日の水曜日。蒸し暑く、人もまばら。
そんな河川敷で、私たちは腕時計を覗き込みながら、肩を寄せ合って時間を見つめ続けた。
11時6分。
11時7分。
……ゆっくりと、秒針が進んでいく。
11時8分。
11時9分。
11時10分。
……そして。
11時11分。
11時11分1秒。
2秒。3秒。4秒。……5秒。
6、7、8、9、10、11。
12、15、30、45。
11時12分30秒。
周囲の風景は、何も変わらない。
穏やかで、ただ静かな夏の午前。
息を詰めていたことに気づき、二人で同時に大きく息を吸い込む。
そして顔を見合わせ、笑ってしまった。
「……生きてる」
「生きてますね〜」
再び二人で微笑みあう。
そのまま手をつなぎ、デパートなどある方向に向かう。
あえて蔦屋や本屋の入ったビルは避け、裏通りにある店を選ぶ。
冷房の効いた喫茶店に入り、ギンギンに冷えたドリンクで乾杯。
「生き返る〜」
「ですね〜」
二人で幸せのため息をつく。
スマホを確認するが、他のルーパーたちとは連絡がついていない。
土岐野と佐藤のSNSアカウントは残っているのが、メッセージを送っても既読にならない。
あの二人が無視するはずもないのに。
やはり、“ループ世界”と“外の世界”は繋がっていないのだろう。
この時の私たちは、11:11:11を無事に越えたことを心から喜び、大切なことを、ひとつ、忘れていた。
「ナオコさんの作品、私が描けるって喜んで外に出たんですけど……。
1巻が、すでに“私が描いた”ことになって出版されてて、ちょっと拍子抜けなんですよね」
「私の記憶では、マイちゃんが相談しながら一生懸命描いてくれたんだけど。
マイちゃんの中では違うの?」
マイちゃんは眉を寄せて、少し首を傾げた。
「うーん……。私にとっては、あっちの世界で過ごした時間が“本物”なんです。
でも、記憶にある行動ってどこか現実味が薄くて……」
「その感覚、わかる気がする。
私も、執筆途中だった作品が完成してて、“ゲラ”で戻ってきてたの。
確かに仕上げた記憶はあるけど、自分の作品って感じがしなくて……。
まるでAIが自動で仕上げたみたいな感覚」
「ですよね〜。
ま、二巻は心を込めて描きますから! 本気モードで!」
「私も、締め切りが許す限り修正入れて、全力で足掻いてみる」
久しぶりに感じる仕事に対する興奮や緊張。
それが、今はただ嬉しかった。
「新作、楽しみにしてます! ナオコさんの新作がまた読めるなんて〜♪」
私たちは、解放を喜びながら笑い合った。
「……それで、ルーパーのみんなとは?」
「まだ連絡がつかないけど、一人だけ、連絡できる元ルーパーがいる」
「加留間遥監督ですね!」
「うん。先輩元ルーパーとして、何か分かるかもしれない」
スマホを手に取り、X(旧Twitter)を開く。
加留間遥にDMを送るために。そして首を傾げる。
画面には、奇妙なトレンドが並んでいた。
悪詐欺
月代零
11時11分
天環
【悪詐欺コンセプトカフェで事故】というニュース記事を引用したコメントがタイムラインを埋めていた。




