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ペトリコールに融けるふたり  作者: 白い黒猫
鏡合わせの未来

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二重の記憶

 喫茶店【Onze bonheurs】に入ると、私たちは当然のように、あの席に案内された。

 前に来たときは、顔合わせの緊張で景色を味わう余裕などなかった。

 けれど今日は違う。

 天(ソラ)環(タマキ)は、遠足の前の子どものように店内を見渡し、はしゃいでいる。

 窓の外では、クレーンが鉄骨を持ち上げていた。


「ここ、来たかったのよね〜! どうせならスペシャルアフタヌーンセットでしょ?」


 明るい声が静かな店内に弾む。

 彼女はこの日も、いつも通り“今”を全力で楽しんでいた。

 このセットの目玉であるスフレの焼き上がりには十五〜二十分ほどかかる。

 お茶を飲みながらサンドイッチなどををつまみながら待つのが、この店の流儀。

 サンドイッチが出てきたのは十一時六分。

 窓の外で、クレーンが鉄骨をゆっくりと吊り上げていく。


「こうして天先生にお会いするなら、本持ってくればよかった! サイン欲しかった〜」


 マイちゃんが残念そうに言うと、天環は嬉しそうに笑う。

 私は頷きながら、わざと“ひらめいたような顔”を見せた。


「あっ、この上に本屋あったよね?」


「スフレ焼き上がるまで時間ありますし! 買って来ちゃいますか!」


 マイちゃんの目が輝く。予め用意していた小芝居。

 私は天環の方を見て、手を合わせた。


「すぐ戻りますので、待っててもらっていいですか?」


 彼女は無遠慮なことを人に平気でする分、他者のそういった行動にもおおらかである。


「いいわよ〜。あ、それならついでに時雨先生の新刊もお願い。私もサイン欲しいかな♪ 後でお金払うから」


 天環は華やかに笑う。

 良かった。一緒に行くと言われなくて。


「もちろん!」と答えて、命華の表紙が描かれた私の初版本の入った荷物をその席に残し、離れることに成功する。


 気づけば十一時九分になっていた。

 エスカレーターを上がる途中、胸の奥がざわつく。

 全ては予定通り。後は時間がくれば良い。

 ラノベコーナーへ向かう途中、突然、ズズーンと建物全体を揺らす振動が走った。

 店内のあちこちで悲鳴が上がる。

 このフロアからは外の様子は見えない。

 私は頭を押さえ、崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

 マイちゃんも苦しそうに頭を抱えている。

 記憶が、時間が、頭の中で交錯していく。

 知らない記憶が流れ込む。

 そこでは、顔合わせの日にたまたま通りかかった天環を、幹元さんが呼び止めたことで同席することになった。

 私だけにサインをもらうのが気まずく、マイちゃんが天環の本を買いに行き、私も同行した。

 そのとき幹元さんは電話で席を外していて……天環だけが、事故に巻き込まれ死亡した。

 そんな惨劇を共に体験したことで、マイちゃんとの絆は深まる。共作した漫画も好評を博す。

 互いに気を遣いあう関係のためか、呼び方は「舞さん」「称央子さん」とやや他人行儀なまま。

 けれど夜に飲みに行ったり、遊びに出かけたりするくらいの仲にはなっていた。

 一年分のループの中とは異なる記憶が一気に脳を満たしていく。

 だが、気持ち悪い現象はそれで終わらなかった。

 今もなお、二つの時間が同時進行で流れ続けている。


「地震……かな?」


 記憶の中の私は、買ったばかりの本を手に、そんな呑気なことを言っていた。

 だが、今の私たちは違う。

 恐る恐る、四階へ戻る。

 記憶の中では、店の前で座り込む幹元さんに声をかけると、彼女は跳ねるように立ち上がり、


「こっち来ちゃダメ!」と叫んで突進してきた。


 強引にビルの奥へと引き離され、何が起きたのか分からなかった。

 避難させられたあと、震える幹元さんに抱きしめられて、ようやく事の重大さを悟った。

 だが、今回は違う。私は“見る”覚悟がある。

 二回目のループの時と同じように、鉄骨がユラユラと揺れていた。

 ただ、違うのは。


「マイちゃん、見ない方がいい!」


 私は振り返り、彼女を抱きしめ、自分の胸で視界を塞いだ。

 床が抉れ、席ごと消えている。それは同じ。

 しかし今回が鉄骨の一部には、赤く染まったモノ張り付いていた。

 髪のようなもの。赤く染まった布。肉片。

 “天環”の欠片がそこにあった。


「ナオコさん、大丈夫ですから、離して!」


「ダメ、見ちゃダメ!」


 腕の中でマイちゃんがもがく。

 だが、私は彼女を離さない。

 これは“天環の死”ではない。

 終わらぬ“生”の始まりだ。だからマイちゃんがアレを見る必要はない。

 彼女が無限の時を紡ぎ続けるための序章。

 そして私が代わりに物語を紡ぐ者になる。この事故を見守るのはがすべき代償行為。

 ウェイターが駆けつけ、自分の上着で私たちの視界を覆いながら、奥へと誘導する。


「危険ですから」と繰り返しながら。


 二回目と同じ応接室へと案内された。

 記憶の中では幹元さんが気丈に対応していたが、今回は違う。

 私たちが答えなければならない。


『……あの席にいたのは、天環のペンネームで活動されている作家です。本名は天野珠紀さんです」


 記憶の中の幹元さんの声が頭で反響する。


「はい……あそこにいたのは私たちの連れです。作家の天環さんです。本名は……すみません、ペンネームで呼び合っていたので」


 現実の声と記憶の声が重なり、返答はしどろもどろになる。

 動揺していると取ってもらえたのか、最低限の質問で解放された。

 タクシーを呼ぶと言われたが、知り合いに迎えを頼むと告げ、私たちはいつものカラオケボックスへ逃げ込む。

 脳の奥で、もう一つの時間軸の記憶が次々と沸き上がる。

 気持ち悪い。

 震える手で、私は土岐野と佐藤にメッセージを送った。


【とんでもないアクシデントが起こってしまいました。今から会っていただけないでしょうか? いつものカラオケボックスにいます】


 すぐに二人が来てくれた。


「称央子さん? 舞さんも、大丈夫ですか?」


 最初に来たのは、予め話していたので待機していたのであろう土岐野だった。


「天環を……」


 そう言うのが精一杯だった。


「舞さんは?」


 彼にはマイちゃんが見えない。


「無事。でも、気持ち悪い……二つの記憶が混ざって、もう意味がわからない!」


「何があったんだ?!」


 佐藤が遅れて入ってきた。


 私は混乱のままパソコンを開き、WEB会議を繋ぐ。


「天環が……今日、あの時間、あの場所で亡くなってしまったらしい」


 代わりに土岐野が説明してくれる。


「どうしてそんなことに?」


「私が……うっかり店の名前を出してしまって。あの人、異様に食いついてきて……」


 マイちゃんが苦しげに言葉を絞り出す。


「時間を稼いで遅らせようとしたんだけど……」


 気持ち悪さの中で必死に演技をする私とマイちゃん。

 佐藤は心配そうに私たちを見つめる。


「私たち、どうなっちゃうのかな……」


 マイちゃんが顔を顰めながら呟く。


「大丈夫。多分その記憶は、君たちが未来に進める予兆だよ」


 答える土岐野の声は力強かった。


「じゃあ、天さんは……?」


 私が問うと、佐藤と土岐野は顔を見合わせた。


「もしルーパーになってしまっていたなら、俺たちがフォローするから」


 その言葉を聞き、私は目を閉じた。

 土岐野に予め話しておいてよかった。

 ここでのフォローがありがたかった。

 佐藤が飛行機のメンバーを呼び出す。

 驚いたことに、誰も責めなかった。


「そんなに気に病むことはないよ。むしろ面白い実験をしてくれたことに感謝する」


 日廻が笑ってそう言う。

 やはり、この集まりは常軌を逸している。


「ループを脱出できたのなら」


 フランツの言葉に、私は静かに頷いた。


「分かってます。まず、皆との連絡を試みます」


 深呼吸し、画面を見据える。


「そして、外からループを解除する方法を模索する。みんなを救うために」


 それが、今の私にできる精一杯の答えだった。

 宣言を終え、皆との別れの言葉を交わし、この長い一日を締めくくった。

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