63 ローズの墓標
その時その娘は、椅子に腰掛け、背もたれに寄り掛かりすやすやと寝息を立てていた。
まるく赤い頬に三つ編みの髪が掛かっていて、いかにもほのぼのと幸せそうに眠っている。その眠りを──鬼顔の侍女は容赦なく破った。
「こぉらアニス!」
「ほぇ? わ⁉︎ キャスリンさん!」
寝ていた額を指で弾かれた娘が、跳び起きて。目の前に仁王立ちしている赤毛の侍女を見てつぶらな瞳を目一杯見開いた。
「あんた……やっぱりまた居眠りしてたのね!」
「わ、わわ! 申し訳ありません、えっと、睡魔に勝てませんでしたっ!」
椅子からバネのように立ち上がって頭を下げる侍女に、キャスリンは呆れる。
このアニスは本日の夜番。今日交代の時に髪に寝癖がついていることを指摘すると、朝から出勤ギリギリまでずっと寝ていたと言っていた。
「昼間も寝ていたのによくもまあ……しかも表があの騒ぎでよく寝ていられたわね……」
「へ? おもて……?」
キャスリンの言葉にも、アニスはキョトンとして首を傾げている。その邪気のない顔を見て、キャスリンはドッと疲れる思いであった。
「……まあいいわ、今はあんたを叱ってる場合じゃないわ!」
キャスリンは急いで控えの間を抜けた。
廊下から王女の部屋前の通路に入り、扉を入ると前室。その前室の奥が王女の部屋なのだが、当然夜間は施錠してあって、開けるにはこの前室から繋がる侍女たちの控えの間の中を通るか、中から鍵を開けるしかない。
念の為確認したところ、王女の部屋の前の扉はしっかりと閉じられていた。
キャスリンは急いで王女の寝室へ向かう、──と。
部屋に入った途端、キャスリンはホッと肩を落とす。
寝室の奥にある天蓋付きの寝台の上には、いつもと変わらぬ布団のまるみ。
静かにかけよると、そこにローズの安らかな寝顔があった。思わずキャスリンの口から安堵の息がもれる。
(……よかった……何事もなかったみた……)
と、安心しかけた瞬間、しかしキャスリンは、ガバッとローズに己の顔を迫らせる。カッと見開いた瞳が凝視するのは、ローズの額。あまり眠っている主人の顔を灯りで照らすことができないから、暗くてよく見えないが、どうやらそこに傷がある。
キャスリンは動揺した。
(⁉︎ お怪我なさっている! な、なぜ⁉︎)
ただ、よく見ようと顔を近づけると、かすかに消毒液や薬の匂いがした。
どうやら……手当ては施してあるらしい。しかしキャスリンの顔は悲壮に歪む。
(あああ……私の可愛いお姫様のお顔に傷が……⁉︎ いったいなぜ⁉︎ 誰の仕業よ⁉︎)
キャスリンは憤慨したが──もちろんそれはそこですやすや寝ているローズ本人の所業である。
騎士たちの隊舎の外で、リオンに悶えた時に壁に叩きつけてできたあれである。
しかしそんなこととは知らないキャスリンは怒って歯を噛み締めた。
これは即刻アニスに事情を説明させなければならない。もし寝ていて何も知らないなんて言ったらどうしてくれようと顔を般若にした時。
暗闇から、細い声。
「……リ、ン……キャス……リ……」
「!」
キャスリンはハッとして、ローズの寝台脇にしゃがんで王女の顔を見る。
「……ローズ様……?」
王女の眠りを邪魔してしまっただろうか。キャスリンは少しだけ慌てたが……どうやらそうではなかったらしい。
寝台のうえに横たわるローズの瞳はしっかり閉じられていて、口元だけがモニャモニャと動いている。
「……ぉこらないで……」
「………………」
ローズは眠ったまま、うーんうーんとうなされるように苦悩の表情を浮かべている。布団の上にあった両手はぎゅっと硬く握りしめられ、なんだかとても辛そうである。
そんな主人の寝姿を見て、キャスリンはハッとして己の口を手で押さえた。
(……もしかして……アニスを叱っている声がお耳に入ってしまった……? それとも表の騒ぎが……?)
つい先ほど表の廊下で遭遇した騒動。
酒に酔った王太子が、あろうことかこんな時間にローズの部屋に押しかけてきた。王女優先がゆえに、ひとまずその不届き者はギルベルトたちに任せてきたが……。
もちろんこの恐ろしく忠義な侍女は、不倶戴天の敵たる王太子セオドアに、
『もし姫様がこの騒ぎのせいで目を覚ましておいでだったら、国王陛下にきっちり報告して厳罰に処していただきますからね!』
──と。セオドアを鬼顔で怒鳴りつけてくるのを忘れなかった。
だが、キャスリンは、自分に寝言で謝るローズの苦しそうな顔を見て、ちょっとだけ反省した。
……王宮の侍女が、王太子を怒鳴りつけておいてちょっとしか反省しないのはどうかと思うが……。
しかし王太子は、口ではキャスリンを『あんな侍女!』と罵りながらも、昔彼女に言い寄っていたせいか、あまり彼女には強く出てこないから心配ない。
とにかく優先順位は断然ローズである。
もし自分の怒鳴り声が、ローズに悪夢を見せるほどにストレスを与えているのならば、それは大問題だ。
キャスリンの顔が少し萎れる。
(姫様はお優しいから……仕方ない、これからはできるだけ怒らないように気をつけましょう。……姫様のそば半径100m以内……いえ、50m以内では)
できればずっとローズのそばにいたいキャスリン的に言えば、それが限界であった。
そんな反省(?)する侍女の傍らで。ローズはずっと夢を見ていた。
夢の中で、ローズはキャスリンに叱られている。
──罪状は……リオンへの夜這いである。
暗闇のなか、巨大なキャスリンが、床に跪いたローズを見下ろし情けなさそうな顔で怒っている。そんな彼女に、ローズは必死で懺悔しているのだ。
(あ、あ……ご、ごめんなさい、その、つい……大人しく寝ようと思ったんだけど……いつの間にか足が彼のところに向いていたの……!)
(で、でも不埒なことは何もしてないのよ⁉︎ ……た──多分……え……? ど、どうだったかしら……⁉︎)
思い出せないことに愕然として、ローズは頭を抱える。
なんだか自分がとんでもないことをやらかしたような予感がして、とても怖くなった。
(あああ……ごめんなさいごめんなさい! 王女のくせに欲望まるだしで! 王族らしからぬ行いをして……!)
叫んだローズは青い顔を闇色の床に叩きつけるようにして土下座した。
すると突然床が抜けて、暗闇の中に身体が落下していく。
落ちた先には何故か沼があって、そのなかで、セオドアとクラリス嬢が微笑みながらローズを見ていた。
彼らは言った。
『『ようこそ、恋愛の沼へ』』
『⁉︎ れ──恋愛……沼⁉︎』
薄気味悪い二人の微笑みに、ローズは驚いて後退ろうとするが──沼の泥に足を取られて動けなくなっていた。
『え⁉︎ え⁉︎ い、嫌だ……!』
どんなに踏ん張っても身動きができず、それどころか、もがけばもがくほど身体がだんだんぬかるみのなかへ沈んでいく。
ローズは恐ろしくなって、もうダメだと覚悟して、必死で叫んだ。
「……っ私の墓標にはリオンの似顔絵を刻んでちょうだい‼︎」
「⁉︎ 墓標⁉︎」
薄明かりのなか、寝台のうえで突然叫んだ主人に、キャスリンがギョッと目を剥いた。
彼女は呆然と主人を見るが……しかし当の本人はといえば。寝台に横たわり、目を閉じたまま、うーんうーんと呻きながら不明瞭な声で、「……ぜひ彫刻の名工を……」「……後生だから……」と。青い顔で謎にうなされているのである。
「……、……、……」
その苦悩の寝顔を無言で凝視して……キャスリンは心底思った。
──姫様…………?
──それは──どんな寝言ですか…………⁉︎
まったくもって……疑問であった。
さて、こちらはところ変わって近衛騎士の長の部屋。
ローズが平和に夢にうなされていた同時刻。
憮然とした顔でリオンをそこへ連れて戻ってきて、やっとの思いで己の執務机に辿り着いたギルベルトは。非常に気力を削られたというげっそり顔で卓上に両肘を突き、目の前で恐縮しきりの弟子に尋ねた。
「…………で? いったいこれはどういうことなんだ……?」




