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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第六幕「瓜生山 その二」
93/106

序奏 〈放課後の魔少女〉

 相川(あいかわ)魅咲(みさき)は、予定よりも一時間以上も早く仕事を終えてしまっていた。少し張り切り過ぎていたようだ。

 あのことを誠介に言うべきかどうか……、仕事が終わって暇になると、魅咲は悩み始めた。

 詩都香と顔を合わせづらい理由――詩都香の父の死についてだった。

 当時魅咲は都内の大学生だった。そのときはたまたまこの街に帰省していた。

 そして、この街に〈リーガ〉の魔術師が数名来ていることを感じ取った。魅咲は応戦すべきかどうか迷ったが、その頃にはもう伽那(かな)が狙われることはなくなっていた。リーガは高原詩都香という重大な脅威に直面し、全戦力を傾注していた。

 開いた〈モナドの窓〉の大きさから見て、その魔術師たちの実力は大したことがないのが知れた。何をしに来たのかわからない連中だった。それゆえかえって不気味だった。

 戦えば魅咲ひとりでも全滅させられたはずだ。

 だが魅咲はその魔術師たちを放置した。家の手伝いもあったし、大学で課されたレポートも忙しかった。伽那はやはり都内に住んでいて、そのときは帰省していなかったが、もし性懲りもなく伽那を狙っているのだとしても、伽那ひとりで十分に対処可能だろう。魅咲はそう判断したのだ。今さら無害な魔術師が派遣されてくるわけがないことはわかっていたのに。

 でも、まさかそいつらが詩都香の自宅に押し入り、その父を拉致して人質として利用しようとは、そしてそれをよしとしない彼が自害しようとは、夢想だにしなかった。

 魅咲は結果的に詩都香の父を見殺しにしたことになった。

 自分の責任ではない、と考えるのは簡単だった。それなのに、あのときこの街にいたことを詩都香に告白することが未だできていない。

 詩都香からはそのことを見透かされている気もする。それ以来詩都香の顔をまともに見ることができず、二人の間にはわだかまりが生まれていた。メールの遣り取りだけが、かろうじて二人を繋いでいた。

 誠介に言おう――魅咲は決心を固めた。

 誠介はきっと詩都香に告白するように勧めるだろう。でも誠介と一緒なら、数年ぶりにきちんと詩都香と向き合える気がした。彼はいつだって魅咲に勇気をくれた。彼と一緒なら何もかもうまく行く気がした。

 詩都香への懺悔も、今ならまだ間に合うかもしれない。その結果殺されたとしても、後悔はない。その前に誠介との最後のデートを思い切り楽しもう。

「――あと五十分かぁ」

 そうと決まると、待ち合わせ時間が待ち遠しく感じられた。椅子の背もたれに体を預け、大きく伸びをする。ここから駅までなら、のんびり歩いても十分とかからない。

「なに、なに? 先輩ったら、ランチのお誘い断ったと思ったら、今日もあの彼と待ち合わせ?」

 聞かれていたようだ。同じく書類仕事に追われていたはずの向かいの席の同僚が腰を浮かせ、パソコンのディスプレイ越しに顔をのぞかせた。

 二つ年下の小柄な女子社員。地元出身だと言うので尋ねてみれば、中学時代の琉斗の同級生だった。高校は違えど、魅咲にとっても中学の後輩に当たる。昨日、場違いな電話をかけてきたのも彼女だった。

「ん。そなとこ」

 頬杖を突きながら、魅咲は小さく息を吐く。後輩は辺りをはばかりながらも、きゃーっ、と黄色い声を上げた。

「先輩、ほんとに年下好みだったんだぁ!」

 興奮を隠せないその声はやはり大きすぎた。オフィス中の視線が集まるのが感じられた。

 魅咲はもうどうでもいい気がした。周りにも宣言するかのように、少しだけボリュームを上げた。

「年下じゃないよ。ああ見えて高校の同級生。……幼馴染」

 ざわざわ、と男声女声を問わないどよめきが起こった。

「うっそお!」

 一番驚いていたのは、当然ながら当の後輩だった。

「ほんと。嘘みたいに若く見えるでしょ?」

 半分嘘と言っても差支えないんだけど、と魅咲は心の中で付け加えた。

「何年くらいの付き合いなんですかぁ?」

 後輩はもはや周囲への気配りを忘れていた。

「二十年くらいかな。その内の十五年は離れ離れだったけどね」

 魅咲ももう遠慮しなかった。

「何それ? 相川、それって元鞘ってこと?」

 尋ねてきたのは、別の同期の女性だった。魅咲は手を振って否定した。

「そんなんじゃないって。つき合ってたことないから。あいつ、ずっと別の子好きだったし」

「んじゃ、フラれて相川さんのとこに戻ってきたってこと?」

 今度は一つ上の男性社員。

「そういうのとも、ちょっと違うかなぁ。何考えてるんだか、よくわかんないんだけどさ」

 その言葉に偽りはなかった。

「ダメよ、相川! 絶対騙されてる!」とは、先月とうとう大台に乗ったお局様の言。「あんたはあたしと一緒に光栄ある孤立、栄光の独し……! ちょっと、あんたたち、どきなさいよ!」

 それも、すぐにかき消された。

「入社以来の付き合いの俺じゃだめ?」同期の男性社員だった。「新人研修の夜に、花火をしながら俺に見せたあの淋しげな横顔は嘘だったの?」

 魅咲には覚えがなかったが、そう見えたのならきっとそうなのだろう。

(嘘じゃないよ、だって淋しかったもん)

 蜂の巣を突いたような騒ぎのオフィスを見渡しつつ、魅咲は心ここにあらずだった。あと四十分。

「もしもし、クワガキさんをお願いします。ええ、ケープさんに関する緊急事態です。そう言ってもらえればわかります」

 隣の席の同期まで、どこかに内線を回している。

(クワガキさんって誰だっけ? 二、三度食事で同席した幹部候補だったかも。ていうか、ケープさんってのも誰よ?)

 あっという間に事態が自分の手を離れていく。これ以上の長居は無用と判断し、魅咲は席を立った。

「課長!」

「えっ! 相川さん、何か?」

 席から立ち上がり、収集のつかなくなった仕事場を見回しておろおろしていた課長が、びくっとして尋ね返してきた。

「すみません、昨日と今日の分終わりましたので、今日はこれで失礼します」

 深々とお辞儀。

 その刹那、オフィス内が静まり返った。その隙に魅咲はそそくさと部屋を出た。

「相川さーんっ! ちょっと、待ってよっ!」

 エレベーターで下まで降りると、三十台後半と思しき男性から追いかけられた。よほど慌てて出てきたのだろう、仕立てのいいスーツをくしゃくしゃにして小脇に抱えている。

 どこかで見た顔だったが、悪いと思いつつも魅咲は振り切ることにした。また仕事を寄越されてはたまらない。

 出口の自動ドアが開くのを待つわずかの間に息を整え、次の瞬間には本気モードでスタートを切る。

 わずか数秒で会社の敷地から出た。背後で、バン! と何かがぶつかる音がしたが、魅咲は振り返らなかった。

 社員出入り口から駅前通りまでの約六十メートルを文字通り風のように駆け抜けて、ようやく止まる。

「あちゃ、道理で走りやすいと思った。ったく、買ったばかりだったのに」

 踵を上げて確かめれば、ヒールがとっくに失われていた。背後には急制動のせいで黒い跡が路面に数メートル残っていた。足の裏を軽く地面にこすりつけると、半ば予想済みだったが、靴底に穴が開いている感触があった。

 何事にも我関せずの態度をとる街の群集も、降って湧いたように現れたOLにはさすがに驚き立ちすくんでいた。魅咲はその視線を無視して顔を上げた。十月にしてはいい天気だった。

「ま、いいか。まだ時間はあるし」

 その辺の店でカジュアルな靴と服を買うことにした。どうにか誠介と同年代に見えるくらいのを。

 適当に入ったチェーンの店で動きやすいスニーカーを買い、そこで思いつく。

(どうせ離れた街に行くんだし、もうネタばらししてもいいかも)

 ――あいつは一昨日の晩、よりにもよって何と言ってくれたか。

 ふつふつと湧いた悪戯心に任せ、別の店で服を選んだ後、パウダールームに駆け込んだ。

 精神を揺さぶる強烈な感覚があったのはその時だった。その意味する所を、魅咲は瞬時に把握した。

 昨日から断続的にあったものとはまた違う。魅咲が恐れていた、世界の終末を告げるこの感覚……。

 無視しようか、などという誘惑が頭をもたげる。正直なところ、世界がどうなろうと知ったことではない。何しろ、今日はせっかく――

 ……だけど、だめだった。

 しつこいほど拭った自分の顔をじっと見つめてからうなずく。

「ん、いーじゃない」

 仕上げに髪をくくり直す。その出来ばえを確認して、魅咲はもう一度うなずいた。

 魅咲の最高の日が一転、人類最悪の日になりつつあった。彼女は携帯電話を取り出した。



※※※

 同伴者と空港で別れた一条(いちじょう)伽那(かな)は、ひとりで自宅まで飛んで帰った。置いていくなんてひどい、と文句を言われたが、二人で飛ぶとなるとスピードが落ちるし、伽那には自宅でやるべきことがあった。魔力も温存しておくに越したことはない。

 錠を開けっ放しにしておいた窓から自室に飛び込み、長旅の疲れを癒す間も無く魔法を行使した。

 何年間も研究し、不可能を悟って放置していた魔法だ。

「……で、できた」

 ガランとした部屋の中で、伽那は荒い息を継いだ。

 ひとまず成功だ。

 これが予行演習にすらならないということは彼女自身もよく理解しているが、以前はこれすら成し遂げられなかったのだ。

 伽那は息を整える時間も惜しんで、掌ほどの大きさの鏡を引き寄せる。その曇った鏡面にはぼんやりと彼女の輪郭が浮かび上がっていた。疲弊した精神に鞭打って鏡に魔力を集中させる。

 口実を設けて詩都香(しずか)から借り続けていた〈魔映鏡〉。その内文句を言われるかもしれないと危ぶみつつ、目的を果たすまでは返却するまいと心に決めていた。詩都香は結局何も言ってこなかったが。

 空間と時間を越えた風景がそこに映し出された。

 つい先刻までこの部屋にあった数々の品が、鏡の中に見える。念のため倍率を操作して、その内のひとつを大写しにする。

 ——今日の日付が入った、本来はありえない朝刊。

 軽い新聞紙は、直後に山頂方面から到達した突風に吹かれて舞い上がり、視界から消えて行った。今のは確か、魅咲の仕業だ。

「やった……」

 額に滲んだ汗を手の甲で拭って、伽那は息を継いだ。場所はほんの少しずれていたが、時間はぴたりと正確だった。

 次に「飛ばす」ものの影響力は、室内調度の類とは比較にならない。伽那の魔力で、さらに言えば伽那の精神でそれが可能かどうかは、あまりにも不確定だ。

 ここ数年で開発したもうひとつの魔法に賭けるほかなかった。特定の人間の、特定の魔法にだけ特化した、伽那の切り札。今でも彼女はあの魔法を得意としているはずだ。

 伽那はそこで、五年あまりに渡って貼り続けていた意識の網への集中を強めた。

 特異な才能を持った詩都香と違い、伽那にとっては大きな負担になっていたが、三年もすると慣れて、それを張り続けるのが自然な状態になっていた。四日前に異変を感知するまで、張っていたことさえ忘れかけていたほどだ。

 詩都香のそれがこの地方一帯を監視下に置くための空間的なものだとすれば、伽那のそれはより高度な、時間の流れを監視するためのものだった。

 だが——

「……うそ。これでもまだダメなの?」

 結果は残酷だった。

 一度大きく揺らいだ時間の流れは、それでもなお強固に修復されようとしていた。伽那の力で揺さぶりをかけるには、まだ荷が勝ちすぎている。

 最後のピースを見つけて運んできたつもりだった。

 それなのに、まだ足りないというのか——伽那はガクリとうなだれた。

 四日前に生まれた時間の歪みも、間もなく修復されてしまうだろう。そうなればもう、伽那の力ではどうしようもない。

 それでも——

 伽那は決意を込めた目で顔を上げた。

 やるしかない。いかに不確定であろうと。

「詩都香、わたしはやるよ」

 伽那はそうつぶやき、部屋を出た。

 もうひとつのやるべきことを果たすために。

 ちょうどそこで、精神に大きな圧力がかかり、魅咲(みさき)からの電話が入った。

 伽那は廊下を歩きながら自分の計画を説明した。


 求める姿は、二階の個室ではなく階下の談話室で見つかった。

琉斗(りゅうと)

 ソファに座って雑誌を読んでいた夫の背に、伽那は声をかけた。

「伽那? おいおい、いつ帰ってきたんだよ」

 雑誌をさっと閉じて駆け寄ってこようとした琉斗だが、真剣な伽那の表情から何かを察したのか、浮かせかけていた腰をもう一度下ろした。

 伽那はその向かい側のソファに腰かける。

「ついさっき。魔法で飛んできちゃった」

「っていうか、何しに行ってたんだ? こっちは大変だったんだぞ? 昨日変な役人が来るしさ」

「役人?」

「コールドスリープの研究、中止しろってさ」

 ああ、と伽那は頷く。

「それで、琉斗はどう答えたの?」

「俺の一存では返事しかねます、妻の帰国を待ってください、って」

 伽那は笑ってしまった。

「うん、それでよかったんだけどね。でもなんか情けないなぁ。『姉に手出しはさせない、おととい来やがれ』くらい言えなかったの?」

「言うかよ、そんなこと」

 琉斗は顔をしかめてみせた。

「……でね、そろそろ決断しなきゃいけないみたい。琉斗の頑張りはひょっとしたら無駄になるかもしれないけどね」

「え?」

 琉斗は不貞腐れたフリをして雑誌に落としかけた視線を再び上げた。

「琉斗ってば鈍いよねぇ。感じなかったの? 今さっき詩都香が“アレ”を使った。——いつもの発作じゃなくて、意識的に」

 それを聞いた琉斗の顔がみるみる歪む。苦渋の顔で彼は肩を落とした。

「……早かったなぁ」

「わたしも魅咲も、あと十数年はもつだろうと思ってたんだけどね。三鷹くんが帰ってきたのが効いたみたい」

「またあいつのせいか」

 琉斗が下唇を突きだした。伽那は頬を緩めた。

「琉斗ったら。三鷹くんの前じゃそんなこと恐くて言えないくせに」

「いいだろ、そんなこと。……でも、どうするの、伽那?」

 琉斗の顔が強張った。伽那が以前こう宣言していたことを思い出したのだろう。

 ――詩都香が暴走し始めたら、自分と魅咲が戦って止める、と。

「詩都香を殺すのかって? うん、最悪そうなるかも」

「……そうか。やっぱりそうだよな」琉斗が深々とソファに身を沈め、片手で額を押さえた。「姉貴のバカ野郎」

「でもね、わたしがやろうとしていることは、それよりももっと悪いことなのかもしれないの。詩都香を殺すことよりも、詩都香がやろうとしていることよりも」

「……?」

 琉斗は伽那の言葉を飲み込めなかったようだ。

「琉斗の頑張りが無駄になるかもしれないっていうのはそれのこと。何年か前に言ってたでしょ? あれをやろうと思うの」

「へ?」

「ほら、無理だからって諦めていたあれ。まだうまくいくかわからないけど」

「……あ!」琉斗は身を乗り出してきた。「でも、あれは……!」

「今の詩都香相手じゃとっても難しいけど、生き証人がいるじゃない」

 琉斗は「またあいつか」とぼやいた。

 さて、ここからが本題だ。伽那は胸の中が落ち着くのを待って口を開いた。

「でね、琉斗。わたしのこと、いつから好きだった?」

「昔っから」

「あのときにはもう?」

「何度も言ったろ? 照れくさいな」

 知っている。詩都香の家で初めて出会った頃から好きだった、と琉斗は言ってくれていた。

「じゃあ、大丈夫かな」

「俺にとっては大丈夫じゃないけどな。次はうまく行くかわかんないし」

 二人は少しの間笑い合った。

「でもさ、伽那。俺たちのことはそれでいいかもしれないけど」

 先に表情を引き締めたのは琉斗だった。

「わかってる」

 琉斗から視線を逸らさずに、伽那はうなずいた。

「この十年、ここを限りと心に決めて努力してきた人間も大勢いるんだよ? 報われたか報われなかったかは別にしてもさ」

「わかってる」

「伽那のやろうとしていることはさ、そういう人たちの、たった一度の行為の貴重さを……」

「わかってる」

 琉斗は一度溜息を挟んだ。

「……それに、あのときの姉貴の決断を――」

 伽那はそこで初めて首を振った。

「ううん、それは違うの。やっとわかったの、これからわたしがやることが、あのときの詩都香の選択を完結させることだって」

 そこで、はるか彼方から地響きが伝わってきた。二人は同時に天井を見上げた。百年余りそこに吊るされているのであろうシャンデリアがぷらぷらと揺れていた。

「参っちまうな。他の選択肢もないのか」

 伽那は顔を下げ、琉斗に視線を戻した。

「うん、そうみたい。富士山辺りかなぁ。——ねえ、琉斗。最後かもしれないから言うけど……わたしはあなたを愛してるよ」

知ってる(アイ・ノウ)

 大仰に肩をすくめながらのその言葉に、伽那は苦笑してしまった。

「ハリソン・フォードの真似? やだな、本気なのに」

「いや、お姉ちゃんの真似。今の場面だったらきっとこうするだろ?」

 お姉ちゃん呼ばわりが出た。その言葉に懐かしくなった。もう少しで泣くところだった。

 ……でも、まだダメだ。泣くのは全部終わってからと決めていた。

「あーあ。結局、最後まで詩都香から奪えなかったんだなぁ。わたし、次はもっと頑張るよ」

 伽那は気づいていた。本人の言を信じれば長年の片想いが実ったはずの琉斗なのに、時折淋しそうな表情を浮かべているのを。

 だが、今度は琉斗がかぶりを振った。

「それは勘違いだよ。俺はただ……そうだな、伽那が俺と付き合ってくれたのは、お姉ちゃんがああなっちゃったから、その罪滅ぼしみたいなつもりなのかな、ってどうしても考えてしまっていただけ」

 今はそんなこと思ってないから、と琉斗は少し慌てて続けた。

「それ、最初に言われた時は引っぱたいちゃったねぇ」

 たった一年前なのに、ずいぶんと昔のように思えた。

「でも伽那だって言ってたじゃないか。『わたしを口説いたのは、詩都香とわたしたちとの仲介役をしようとしたからなんじゃないの?』って。それに、気づいてないと思った? 伽那がときどき淋しそうな表情を浮かべてるのに」

 そんなことはない……はずだった。

「……お互い様かぁ」

「そうかも。俺もお姉ちゃんから伽那を奪えなかった」

 そこで二人はどちらからともなく唇を合わせた。

 夫婦の愛を確かめる口づけ。

 それなのに、どこか高校生のカップルのような、初々しくさえある口づけ。

 それから伽那は身支度を始めた。

「三鷹さんにさ、伝えてもらおうか。早く伽那を口説けって」

「そうだねぇ。……でも、わたしたちの結婚生活を託すには、ちょっと頼りないメッセンジャーだね」

「それもそうか。うん」

 腕組みをした琉斗が、しきりに頷く。そうしてから、まあ、それに、あの頃の俺は……などとごにょごにょと口ごもりながら、再び開いた雑誌に目を落とした。

 つかの間逡巡してから、伽那は部屋に戻って服を着替えた。着替え終えて下りてきた伽那を見た琉斗は首を傾げた。

「コスプレ? ていうか、イメクラ?」

「ばか」

 くすくすと笑みをこぼしながら、玄関脇に向かい、靴箱の奥に眠っていた靴を取り出すと、今度はそれを手にして階段を上がる。琉斗も雑誌を片手についてきた。

「ほら、見て。ここ、ぱっと見じゃ気づかないけど、特別製になってるの。詩都香が作ってくれたんだよ」

「伽那はお裁縫とかダメだからなぁ。今だってユキさんに頼りっぱなしだし」

 背後に向かって親指で背中を指してやると、夫の方は憎まれ口を叩いてきた。

「もぉ。詩都香と比べないでよ、シスコン琉斗」

 二人は屋根裏の部屋に到着した。

「ここ、開けてくれる?」伽那はもう一度背中を指す。「中のブラウスにも同じのがあるから」

 琉斗は言われた通りにファスナーを開けてくれた。

「で、これって何のためのポケット?」

「……〈変身〉」

 言葉と共に軽く息を吐く。体の中に具わる魔力を魂に通す。普段は閉ざされている、異界に繋がる通路が口を開けた。

「うおっと」

 背中に触れていた琉斗が小さくたじろぐのがわかった。

 〈モナドの窓〉を開いた伽那は少しだけ緊張した。

「この姿を見せるのは初めてだよね。……ちょっと怖いな」

 不覚にも声がかすれた。

 それでも、だいじょうぶだよ、と言うように、琉斗は伽那の背にもう一度手を当ててくれた。二枚の布越しに、その温もりが伝わる。

「どんな姿だって、俺は伽那を愛せるよ」

「……ん、ありがとう。ちょっと下がってね」

 琉斗が手を離し、二、三歩後ろに下がる気配があった。それを確認して、伽那は大きく息を吸い込んだ。

 そのまま、気迫を籠めて叫ぶ。

「〈超変身〉!」

 詩都香はあの頃のノリを忘れてしまった。

(でもね、詩都香。わたしは忘れたりしないよ。あの頃のこと……詩都香がわたしのために戦ってくれていた頃のこと)

 自分の本性を知り、絶望し、自ら命を断つことさえ考えた時のことを、そんな時に「伽那は許されざるいのちなんかじゃない!」と、抱きしめてくれた詩都香のことを思い出す。

 感慨にふける間に、体は変貌を遂げていた。伽那は我に返った。

「……どうかな?」

 恐る恐る背後を振り返る。

 夫は呆然とした表情を浮かべていた。伽那の心臓を、見えない手がわしづかみにした。

 が……、

「なんだよ、ははっ、いいじゃん。可愛いよ、伽那。もっとすげー姿になるのかと思ってた!」

 大ウケだった。伽那は安堵するとともに、少しだけ拍子抜けした気分になった。

「うわっ、瞳が赤い! カッコいい! つか、カッコカワイイってヤツか? ちょっと待って、カメラ取ってくる」

 伽那の姿を矯めつ眇めつ眺める琉斗の瞳の輝きは、姉そっくりだった。

「こら! ダメに決まってんでしょ。……はぁ。心配して損したなぁ」

 肩を落とす伽那を、やいのやいのはやし立てる琉斗。ようやくその興奮も静まってから、それでも笑顔のまま、彼は言った。

「うまくやれよ、伽那」

 にぃ、と少しだけ凶暴さの色を加えた口の端を吊り上げて、伽那はうなずいた。

 そして、窓枠を乗り越えて靴を履き、一気に宙に舞う。

 数十メートルだけ上昇してから、伽那は普段よりもはるかに大きな声を張り上げた。

「琉斗ぉ! もう一度っ! もう一度、またわたしを口説いてね!」

 常人とは比較にならないくらいに強い伽那の視力は捉えていた。

 琉斗の顔が呆気にとられる。

 次いで、今日一番の笑顔を浮かべる。

 琉斗が右手の親指を立てる。

 その唇が紡ぐ。

 ――あ・た・り・ま・え・だ・ろ!

 それを確かめると、音声が到達するよりも早く、伽那は翼をはためかせ、防御障壁を張り、音速を超えて飛翔した。



※※※

 体の異変を感知して、高原(たかはら)詩都香(しずか)は枕から頭を上げた。乾いた涙のせいで顔がぐしゃぐしゃだった。

(バイト、サボっちゃったな)

 二日連続の無断欠勤。大目には見てもらえないだろう。クビになろうとももうどうでもいいが、シフトに穴を開けて迷惑をかけたのを申し訳なく思う。

 もっとも、これからかける迷惑はそれどころではないのだが。

 のろのろと立ち上がり、バスルームへと向かう。リビングと通路を区切るドアが、音を立てて倒れた。その上を踏み越えて通路兼キッチンに出た。

(嫌な女だ……)

 詩都香は自分をそう分析せざるをえなかった。

(あの頃はずっとそでにし続けてたくせに、もう誠介くんしかいないんだとわかると、このざまだ……)

 強い自責と後悔の念が起こる。流し台の脇の小さな棚のガラスが割れ、中の食器も次々に砕けていった。

 バスルームの照明のスイッチを押した。中で蛍光灯が弾けた。

(わがままな子供そのものじゃない……)

 結局、灯は必要なかった。ベージュ色の樹脂で固められた室内は、彼女が足を踏み入れるなり青ざめた光に満たされた。シャンプーやボディソープのボトルがばしゃばしゃと破裂した。

(誠介くんは何も悪くないのに、理不尽なこと言っちゃった……)

 蛍光灯の破片を踏み砕き、詩都香は鏡に向かう。そこに映る嫌な女の顔を睨みつける。

 青い髪の少女の顔に、細かいひびが幾筋も走った。鏡はそのまま数百の破片に変わり、洗面台になだれ落ちた。

(やだなぁ。もうこんなことくらいで“こう”なっちゃうんだ……)

 ほぼ一日を泣き暮らした詩都香だが、いくらなんでもこの頻度は尋常ではなかった。わずかな感情のブレが〈炉〉に作用し、〈モナドの窓〉を押し開けようとする。

 詩都香は床に向けて手を伸ばした。そこに散らばっていた大小様々の破片が浮き上がり、ひとつにまとまり、シンクの底へと放り込まれた。洗面台ごと破壊しないよう細心の注意を払って念動力を強め、鏡と蛍光灯の破片をシルト状にまで砕いた。

(ダメ。やっぱり、もうもたない……)

 伸ばした手が触れるより早く栓が弾け飛び、蛇口から勢いよく水が流下した。もはや原型を留めぬシルトがさらさらと排水口に吸い込まれていった。

 詩都香はその水で顔を洗い、リビングから引き寄せたタオルで水滴を拭った。

 それからバスタブの中に水を張った。縁まで溜まったところで強引に水の流れを止め、バスタブの中身に魔法をかけた。

 バスルームを出た彼女を、一匹の猫が待ち構えていた。

 不思議な猫だ、と詩都香は思う。今の詩都香はいかなる生命にとっても脅威でしかないのに、エルヴィンは怖れる様子もなく近づいてくる。

「ダメだよ。今のわたしに近づいたら、危ないって知ってるでしょ? エルちゃんの前でも何度もこうなっちゃったことあるもんね」

 しかし、そんな詩都香の制止にもかかわらず、エルヴィンは脚にすり寄ろうとする。途端にその全身の毛が、静電気でも浴びたかのように一斉に逆立った。

「あ、ほら! 痛くなかった?」

 今の詩都香は、目を白黒させる猫に手を伸ばすことすらできない。しかしそれでもエルヴィンは逃げ去ろうとはしなかった。詩都香は深呼吸して気持ちを落ち着ける。こちらに向けられた愛猫の目をじーっと見つめていると、昂ぶった感情が静まってきた。

「……もう大丈夫。おいで、エルちゃん」

 エルヴィンはその声に応えて飛びついてきた。詩都香はその体を抱き上げた。

「ごめんね、エルちゃん。ここでお別れ」

 ゴロゴロと猫が喉を鳴らした。

「本当は最後まで面倒見てあげたかったんだけど、もう時間がないみたい」

 今度は頭を撫でてやる。毛並のさらさらとした感触と、その下の温もりが手に伝わる。

「この街にはあまり被害を及ぼさないようにやるから。この辺りには防御障壁も張っておくし。ちゃんと餌の取り方わかる? 水はお風呂にたっぷり溜めておいたからね。魔法で悪くならないようにしておいたし。それでわたしが迎えに来るまで待ってて」

 エルヴィンの方はむずがる風でもなく、されるがままになっている。詩都香はその鼻面に頬を寄せた。

 何度この猫に救われてきたことだろう。

 エルヴィンがそばにいてくれなかったら、詩都香の精神は誠介の帰りを待つことなく壊死していたはずだ。

「……わかってる。エルちゃんみたいな箱入りにゃんこに生き残るのは難しいかもしれないって。ごめんね。勝手な飼い主を許して……」

 いつの間にかまた頬を伝っていた涙を、エルヴィンがざらざらした舌で舐めとった。

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