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薄氷もみじの事件簿

こんなサブタイトルですがミステリ要素は一切ありません。


幕間だというのに長くなってしまいました。どうもこのキャラは筆が進みます。

 ——こんな屋号を掲げてたら、そりゃ勘違いする人も出てくるわな。

 初めてこの種の依頼を持ち込まれたとき、あたしは苦笑したものだ。それなのに、今では受ける依頼の小さからぬ部分がこの種のものになっている。

 つまり、“薄氷(うすらい)調査事務所”を普通の探偵事務所だと思ってやって来たクチだ。

「こんな依頼も受けつけてもらえるんですね。探偵さんって、テレビドラマの中でしか知りませんでしたから」

 依頼人の主婦は、なぜか恐縮した様子で頭を下げた。

「いえいえ、探偵業なんて言っても、仕事の九割九分は身辺調査かペット探しですから」

 目の前でいい大人から頭を下げられると、あたしみたいな小娘はかえって困惑してしまう。

「でも、こちらに伺うまでは不安で不安で。もみじさんみたいな人に応対してもらえて逆によかったかもしれません。——あ、ごめんなさい。失礼でした」

 ハンフリー・ボガートみたいなおじさんが出てくるとでも思っていたのだろうか。

 あたしの向かいのソファには、五歳ぐらいの女の子も座っていた。母親の隣で精一杯強がる顔の中で、涙の滴が今にも零れ落ちそうな両目だけが正直だった。

 あたしが生まれたときもこのくらいだったなあ、と懐かしいわけではないのだが妙な気分になる。

「お姉ちゃん、絶対ボタンを見つけてね」

 去り際、その女の子があたしの顔を見上げて言った。

 子供はときに鋭い。ただの勘違いなのか、それとも大人が「そんなことあるわけがない」と切り捨てている本質を直観しているのか、判断が難しい。

「うん。お姉ちゃんと所長のおじさんで、絶対ボタンちゃんを見つけてあげるからね」

 あたしはそんな風に誤魔化した。

「それでは、よろしくお願いします。この子が毎晩泣くもんですからねえ。所長さんにもよろしくお伝えください」

 もう一度頭を下げる依頼人。そう言う彼女の方もすっかり憔悴した様子で、ペットロス寸前に見えた。

 母娘が事務所を去るのを見送ってから、応接室に戻り、テーブルの上の資料と写真に目を遣る。依頼人が持参したもので、写真の被写体は飼い猫の“ボタン”だ。

 ボタンは五日前から帰らないのだという。

 名前の印象を裏切って、性別はオス。焦げ茶色の毛並みを具えた見た目の方も、名前からは連想しづらい。

 見たところ普通の雑種だ。あたしも猫の品種に詳しいわけじゃないけど、これくらいはなんとなくわかる。依頼人も品種については一言も言わなかったし。

 繁殖目的の誘拐のセンは無さそうだ。この街はまだ治安のいい方なのであまり聞かないが、大都会ではそういう犯罪も増えていると聞く。

 ——もっとも、この街にしたところであと何年この平穏が保たれるかわからないけれど。


 一時間後、そろそろ頃合いと判断したあたしは身支度を整え、行動を開始することにした。

「所長によろしく、か」

 事務所兼住居の玄関に施錠しながら、そう呟いてしまった。

 所長なんていない。……いや、それも不正確か。あたしが所長なのだ。

 当事務所の助手のもみじです、あいにく所長の薄氷は別件で外しておりまして、ご依頼があれば私が伺うよう申しつけられております——なんて言いながらあたしが応対に出ると、二割の客はそのまま回れ右。三割は——おおかた浮気調査の類を持ち込みに来たのだろう——あたし相手に話を切り出しかね、しばらく待っても“所長”が戻ってこないとわかると、結局帰ってしまう。

 今回の依頼人は残りの半分に入っていたわけだ。

「ペット探しね。見つかるといいけど」

 そんな願望を口にする。

 最近はこの種の依頼の件数が伸びている。この街の一部で評判になっているようなのだ。

 しかしもちろん、常に依頼人の望む形で調査結果が出せるわけではない。行方不明になったペットは、決して低くない確率ですでに死んでいる。

 あたしの責任ではない——それは断固として主張させてもらう——のに、不条理にも依頼人から責められることもある。あたしたちが探し出すのが遅かったからだとか、料金を受け取るために適当な報告書を作ったんだろうとか。いちばん参るのは、あんたじゃ話にならん、所長を呼べ、というパターンだ。

 よってあたしは面倒事を避けるため、依頼を受けた後はなるべく客と接触しないことにしている。「うちの所長は変わり者でして……」などと申し訳なさげに言うと、世間一般に流布している探偵のイメージのゆえか、こちらが意外に思うほどすんなりと了承してもらえるものである。

 料金の方は他の探偵と同等にもらうことにしている。〈夜の種〉絡みの事件に比べれば金額は大したことはないが、小遣い稼ぎというわけだ。不当に安くしたらかえって信頼してもらえないだろうし、同業者たちの憎しみを買うかもしれない。専門家たる彼らが本腰を入れてあたしの身辺調査でもしたら、“所長”なんてのは架空の存在で、あたしが探偵の真似事をしているだけだということが露見してしまう恐れがある。

 こうしたこまごまとした気遣いのために、今では薄氷調査事務所は営業許可も取り、タウンページにも電話番号を載せている。無論、“お役所”に頼んでやってもらったことだ。向こうからは「道楽もほどほどにしておけよ」などと渋い顔をされているけど。

 前の室長が亡くなってから、どうもやりづらい。〈夜の種〉狩りで十分な報酬を与えているつもりの彼らは、他の業務にあたしが手を出すのを喜んではいないのだ。

 彼らはひどい勘違いをしている。人はパンのみにて生くるにあらず、と言うではないか。……もっとも、あたしは人じゃないけど。

 いろいろ面倒事もあるのにこの「道楽」を続けているのには、もちろん理由がある。何年もずっと“お役所”相手の味気ない仕事を続けていると、心が磨り減ってくるのだ。

「ご苦労。追って報告書を提出するように」なんていうお定まりの無愛想な言葉だけに晒されてきたあたしの耳に、初めてのペット探しを上首尾に終えられた際にかけられた、依頼人の心からの「ありがとう」は、驚嘆ものの甘美さを伴って響いた。

 それ以来たまに舞い込むこの種の仕事を引き受けているのは、依頼人の笑顔のためと言っても過言ではない。言うとさすがに気恥ずかしさを覚えてしまうけど。

 稼ぎは少なくても、こっちの方が性に合ってるな、と最近では思ってきている。メンタリティが人間そのものとはいえ、あるいはむしろそうだからこそ、同族を狩って生きていくのはやっぱり辛い。

 ——そう、あたしもまた人間ではないのだ。〈夜の種〉を狩ることで生きてきたあたし自身も〈夜の種〉。見た目も生理機能も精神すらもほぼ完璧に人間と同じ、人型の〈夜の種〉。実は結構な希少種なんだ、あたしは。

 人間と違うのは、多少の異能を持っていることを除けば、たった一点。

「むう……」

 街に出たあたしは、ショーウィンドウに映った自分の姿に低く唸った。さっき姿見でチェックした時とまったく変わっていない。

 当たり前か。でも、当たり前すぎてイヤになる。

 当初は五歳児くらいの見た目だったあたしも、中学生と胸を張って言い切れるくらいになっていた。本格的な二次性徴も迎え、子供から思春期の少女へと変化していた。

 五歳児の外見でこの世界に生まれ落ちてから二十年以上かけて、である。

 成長が人間よりずっと遅い——それがあたしが唯一人間と異なる点であり、悩みの種だ。

 ウィンドウを見つめるあたしの後ろを、制服姿の女子高生たちが通り過ぎていく。

 羨ましくて思わず振り返ってしまった。

 その何人かと目が合った。あたしも彼女たちも、すぐに視線を逸らした。

 見た目の年齢差はふたつないしみっつ。昔に比べてだいぶ縮まってきてはいた。

 あたしが振り返ったのも目を逸らしたのも、当たり前に成長できる彼女たちが羨ましかったからだが、彼女たちが目を逸らした理由も推測できた。

 彼女たちだってあたしが羨ましいのだ。あたしの、この容姿が。

 呆れられるかもしれないけど、あたしは自分の容姿にそこそこの自信を抱いている。ま、美少女と言ってもいいだろう。それも相当の。

 いろいろとハンデを背負っているのだから、これくらいのプラス評価ポイントがあってもバチは当たるまい。

「今のこの見た目なら、アイツも少しはドキドキしたかな」

 春物の商品を眺めるフリをして自分の虚像を見つめながら、バカなことを考えてしまった。アイツはまだ帰らないというのに。

 ……仕事だ。仕事をしよう。

(あの辺りの住所で猫となると“彼”か)

 知り合いの顔を思い浮かべた。

 何のことはない。どうしてあたしのところにちょくちょく依頼が舞い込むようになったのかといえば、それはもちろんペット捜索における薄氷調査事務所の優秀さが評判をとっているからなわけだが、大したノウハウも持ち合わせていないあたしがどうして手際よく依頼をこなせるのかといえば、“専門”の知り合いがいるからなのだ。

(“彼”はまだあそこに住んでるかな)

 前の家と変わっていなければ面倒がなくて助かる。ただ、少し前にやはり仕事で会ったとき、“彼”はそろそろ住処を変えるかもしれないと言っていた。

 依頼された猫よりも先に“彼”を探すはめにならないといいんだけど。



『よかった。あんたまだここにいたんだ。でもこないだ、何やらキナ臭くなってきた、みたいに言ってなかったっけ?』

 依頼人の家から一キロ弱離れたとある民家の門の前で、あたしは精神感応(テレパシー)を使っていた。

 昔は使えなかったこの力も、今ではそう集中しなくとも使用可能だ。年月とともに、あたしの異能はほんのわずかずつ強まっていた。といっても自然にそうなったのではなく、あたし自身が相当に努力して訓練を重ねているのだけど。

『イェーガーの嬢ちゃんか。また仕事か?』

“彼”はあたしのことを“狩人(イェーガー)”と呼ぶ。あたしが同族を狩っているのが由来だが、中途半端な知識だ。あたしは女だから、本来は「イェーガリン」が正しい。

『そう。出てきてよ』

『悪いが無理だ。そっちが入ってきてくれ。家人は留守にしてるから』

 あたしは不審に思いつつ門を開けて敷地の中に入った。

“彼”は窓ガラスの向こうであたしを迎えた。

『どうしたの? 専用のドアがあるからいつでも出入り自由だ、って自慢してなかった?』

『キナ臭くなってきたっていうのはそれだ。ヤブ医者めが余計なことを吹き込んだんだ。そろそろメスに影響されて発情期を迎える頃だ、ってな』

 すぐ横の玄関に目を遣れば、たしかに“彼“専用のドアは塞がれていた。鍵もかかっているようだし、何よりそのドアの前にコンクリートブロックがふたつも重ねてあるのが目を引いた。

“彼”は肩(?)を落とした。

『オレとしたことがドジっちまったぜ。待遇がいいもんだからついダラダラと居座り続けて逃げ遅れた』

 などと気落ちした様子を見せる“彼”は、人間ではない。

 猫である。少なくとも見た目は。

 人間とほぼ同等の知能とわずかな異能を持っていること以外は、中身もおおむね猫と変わりがない。

 そしてもちろん、正体は猫ですらない。〈夜の種〉だ。

“彼”のように普通の動物の姿をした〈夜の種〉もときおり生まれる。珍しくはあるが、あたしみたいな人型ほど稀少性は高くはない。

『いいじゃない、それくらい。去勢されるの初めてじゃないんでしょ?』

『イヤだ。ひとごとだと思って』

『上には黙っててあげるから、異能で再生しなよ』

 動物型の〈夜の種〉に対しては、当局の対応はなぜか甘い。異能の行使がいい顔をされることはないが、事件でも起こさない限りはほぼ黙認される。

『あれはオレの乏しい魔力じゃ時間がかかるんだ。一か月くらいはな。その間オレは、オスのプライドを奪われた状態で過ごさなきゃならないんだぞ』

 ずいぶんと人間臭いことを言う。長いこと人間に飼われている内にすっかり毒されてしまったのではないだろうか。

“彼”の持つ最大の能力は〈形成(ゲシュタルトゥング)〉と呼ばれるものだ。人間の魔術師にはあまり知られていない、動物型特有の能力である。自分の姿を、元の姿から大きく外れない範囲で変化させる。

 動物型の〈夜の種〉は大抵みなこれを習得している。先天的に使える者もいれば、仲間内で伝授し合ったりもしているらしい。

 多くの動物は人間よりも寿命が短い。逆にほとんどの〈夜の種〉は人間よりも寿命が長い。“彼”もかれこれ四十年ばかり生きている。

 飼い主はペットの長寿を願うものだが、二十年も三十年も猫が生きていたら、さすがに怪しむことだろう。だから知性を持った動物型の〈夜の種〉は、その動物の寿命に合わせて姿を消し、子供の状態まで〈形成〉で姿を変えてから、新しい住処を探す。

 一度“彼”に〈形成〉を教えてくれるよう頼んだことがある。そうすればあたしだって周囲の成長に合わせて自分の姿を変えて、学校にも通えるからだ。

 でも、無理だった。何度説明されても理解不能だった。精神が説明を受け入れられないのだ。

 ——やっぱりな。人型にゃ無理なんだよ。人の肉体と精神じゃ、この異能は扱えないんだ。せいぜい一時的な〈変身(メタモルフォーゼ)〉が関の山だ。

 快く教えてくれた“彼”も、最後にはそう匙を投げた。今までの歴史の中で〈形成〉を習得できた魔術師も人型の〈夜の種〉もいないのだとか。あたしも諦めざるをえなかった。

『だいいち何よ、オスのプライドって?』

 あたしが尋ねると、“彼”は澄まして答えた。

『いつでもメスを孕ませられるという自信だ』

『サイッテー』

 こういうとき、高い知能を持ってはいても相手は人間ではないのだと思い知らされる。可愛い見た目をして、中身は文字どおりのケダモノだ。

『イェーガーだってもう一人前のメスだろう? そろそろ子供でも産んだらどうだ?』

『いいからっ! 仕事の話っ!』

 どうして猫からセクハラを受けなきゃいけないんだ。“彼”にとっては、性成熟さえしていれば一人前なんだから始末が悪い。

『でもなあ。このありさまじゃ、報酬を受け取れないし……』

“彼”への報酬はステーキ肉と相場が決まっている。

 ペットフードも嫌いではないが、毎日同じ食事が続くとさすがに飽きるのだとか。人語を解すが話すことはできない“彼”にとって、飼い主に自分の好みを伝えられないのももどかしいそうだ。

『何とかするわよ。あたしだって多少の念動力くらい使えるんだから』

 窓をそっと開けて投げ込んでやるつもりだ。

『だったらその力で今開けてくれ。おさらばしたい』

『そんであたしんとこに捜索依頼が来たらどうすんのよ』

『車に轢かれて死んでた、とでも言っときゃいいだろう』

『……それ、あたしがいちばん嫌なことだって知ってるでしょ? だいたい、あんたがいなくなったらこの家の人が悲しむでしょうが。可愛がられてるんでしょう?』

 これが“彼”に対する一番の殺し文句だ。彼だってやむをえずそうしているだけで、飼い主を悲しませるのは本意ではないのだ。十五年ほど前にそうやって姿を消した後、何日かして様子を見に行ったところ、その家の女の子がまだ泣いていたのがこたえたらしい。

『……しかたない、わかったよ。それで、写真は?』

 今回も彼は承諾してくれた。あたしは鞄から取り出した写真を窓ガラス越しに彼に示した。

『もっと近づけてくれ。猫の視力じゃ見づらい』

『こう? ——ええと、名前はボタン。オス。一歳ちょっと。そこの家の女の子の誕生日にもらわれてきたんだって。いなくなったのは五日前』

『〈夜の種〉ではないんだよな?』

『うん、たぶん。この辺の猫型の〈夜の種〉はみんな把握してるし。どう? 見たことある?』

『……ああ、あるな。ご近所さんだ。あいつ、ボタンなんて呼ばれてたのか。やんちゃ坊主のくせに』

『ひとの名前をとやかく言うんじゃないの、プーちゃん』

『その名前でオレを呼ぶな、イェーガー!』

“彼”ことプーちゃんは窓ガラスを肉球で叩いた。他の面では何の不満もないが、今与えられているこの名前だけは気に入らないらしい。可愛いと思うんだけどな。

 オレンジがかった体毛が某有名キャラクターを連想させるから、と名づけられたそうだ。あまり似てるとも思えないけれど。

『それで、今どこにいるか知ってる?』

『無茶言うな。オレはこのとおりの軟禁状態なんだ。最近のことはわからねえ。そうだな、明日同じくらいの時間に、その辺の野良猫を連れてきな。尋ねてやるよ』

 あたしはそれを了承した。野良猫を捕まえること自体は難しくない。

 いい加減他人の家の庭先に長居しすぎた。プーちゃんにお礼を言って、そこを辞した。

 それから日が暮れるまでの三時間ほど、保健所をはじめとする各所に問い合わせたり、近所をうろついて探したりした。

 あたしが〈夜の種〉としての反則技を使うことなく依頼されたペットを見つけられる確率は、そう高くない。今までだってたった二例しかなく、しかもどっちの場合も、捜索対象はすでに死んでいた。

 この日も結局ボタンの姿を見出すことはできなかった。ただ、野良猫の多い公園を見つけられたのは収穫だった。


 

 あくる日の午後、猫缶を忍ばせた鞄を片手にその公園に向かった。

 ちなみに、あたしの活動開始は早くとも午後二時を回ってから、と決めている。この見た目でそれより早く出歩いていると、いろいろと面倒なのだ。近頃は誰もが治安の悪化を肌で感じているからこそ、締めつけも厳しい。

「あともう少しなんだけどなあ」

 クラリネットを眺める少年のように昨日と同じ店のウィンドーを覗き込んでいると、自然と溜息が漏れた。

 まだこの見た目では、働いているとか大学に通っているとかの言い訳は通用しなさそうだ。依頼人と会うときには大学生を詐称し、アルバイトということにしているけど、果たして納得してもらえているかは若干疑わしい。

 高校生だと言えば、多くの人は信じてくれるかもしれない。でも、もう少し我慢だ。大手を振って通えるまで。

 こうやってあたしは頻繁に鏡の前に立ち、成長の兆しを発見しようと頑張っている。

 ……見つめる鍋は煮えないなんて言うけど、そもそも火力が足りていないんだからしかたない。

(まあそれに、あれからまだ十年経ってないしね)

 アイツのことを思い出すと、胸がチクリと痛む。もう顔の細かいパーツは思い出せなくなってしまったアイツ。出会ってからほんのひと月ほどで消えてしまったアイツ——

 いけない、いけない。あたしは自分の頬を両手で軽く叩き、ガラスから視線をもぎ離した。

 今は仕事だ。


 昨日見つけたその公園は、敷地の半分ほどに木が植えられていて、ちょっとした林のようになっていた。夏には近所の子供たちが虫捕りでもしてそうだ。

 あたしは猫缶を開封しながら林の中に踏み込んだ。臭いを感じてか、すぐに野良猫たちが姿を現した。

 思ったよりも人に馴れている。首輪をしている猫もいた。ボタンかと期待したが、すぐに思い直す。ボタンは今首輪をしていない。ちょうど洗濯中だったのだそうだ。

 実際、首輪をしている二、三匹の猫も、ボタンとは似ても似つかなかった。家出中なのか、それとも散歩ついでに同族とのコミュニケーションをとっていたのか、それとも……。

 猫缶を盛った紙皿を足元に置き、少し離れた。初めはそれでも一応警戒の色を見せていた猫たちだが、あたしが紙皿をもう一枚準備し出すと、もう誘惑に抗えなくなったようだ。いっせいに集まってきた。

 ボスらしき大きな猫が、一枚の皿ごと餌を独り占めしようとする。

 あたしはそいつ目がけて念動力を行使した。ボス猫の動きが止まった。

(ごめんね。後でひと缶まるごとあげるから。だから動物虐待で訴えるのだけはやめてよ?)

 哀れな猫に対して心の中で無意味に謝罪しながら、猫たちの食事を見守る。

 強権発動にビビっていた彼らも、ボスが何もしてこないのがわかると、すぐに皿に口をつけ始めた。

 こんなときにあぶれるのは首輪をした猫たちだ。この安物の餌にそれほど興味がないのかもしれないけど、おそらく食欲の修羅と化した仲間たちの輪の中に入っていく勇気もバイタリティも持ち合わせていないのではないだろうか。

 ——人間だって、あるいは〈夜の種〉だって変わらない。中途半端な奴は最初に切り捨てられる。

 あたしがそんな風に自嘲にも似た気分に浸っている間に、早くも猫たちは食べ終えたようだ。唾液でグチャグチャになった紙皿を未練がましく舐めている。

 あたしは猫たちを追い払いながら紙皿を拾い上げ、ポリ袋に回収した。後でこの公園に「野良猫に餌を与えないでください」などという看板が立つのを防ぐためだ。

 いや、この猫たちの警戒心の薄さを見ると、来るときには目に入らなかっただけで、もうとっくに立っているのかもしれない。

「さて、と。生殺しみたいなマネして悪かったわね」

 猫に包囲されながら、念動力で動きを固めたボス猫を抱き上げた。完全に固めているわけではないので、首としっぽをわずかにバタつかせ、弱々しい声で抗議してくる。

「ちょっとこの子借りるから」

 他の猫たちにそう断ってから、飼い猫をあやす少女を装いつつ、昨日と同じ家に向かった。



『家の人たちは?』

 目的地に近づいたあたしが思念を送ると、

『おお、イェーガー。例によって留守だ。この時間はだいたいそうだ。入っても大丈夫だぞ』

 と、プーちゃんの返事があった。

「おじゃましまーす」と形だけ頭を下げ、あたしは敷地内に侵入した。

『連れてきたか』

『うん。ほら、この子。あっちの公園のボスっぽかったから』

 窓の向こうのプーちゃんに向けて、腕の中の猫を掲げて示してやる。

『ああ、顔なじみだ。公園か……懐かしいな』

 プーちゃんは猫には似合わぬ遠い目をする。まだそんなに日にちが開いてもいないだろうに、猫の精神も持ち合わせた彼は、あたしたちとは違う時間を生きているのかもしれない。

『ここを開けてくれ。このままじゃ話もできない』

『うまいこと言って逃げ出すつもりじゃないでしょうね?』

『見損なうな。そんなことしない』

 ふぅ、とわざわざ精神感応で溜息まで送ってよこした。なんだか昨日の見苦しさが嘘のように悟り切った様子だ。

 かえって心配になったあたしは、要求どおりに窓を開けてやった。

『オレもひと晩考えたんだよ、イェーガー。去勢手術を受けさせられるのも悪くないかもな、って』

『は? あんた、どうしたの?』

 驚きのあまり集中を乱してしまった。途端に、腕の中の猫が暴れ出した。慌てて念動力をもう一度使う。

『……笑うなよ? 実はオレ、メスを孕ませたことなんて一度もないんだ。人間で言えばドーテーってヤツだな』

 さっきよりも驚愕してしまい、また念動力を行使し直すことになった。

『四十年以上も生きてて? えーと、それはその、なんていうか、その、機能的な問題?』

 なんで猫相手に恥じらわなきゃいけないんだ。

 しかも彼はこの言い回しを理解してはくれず、結局もう一度、今度はもっとストレートな言葉で問うはめになった。乙女の恥じらいは高いんだぞ?

 プーちゃんは答えた。

『そういうわけじゃない。性欲ってヤツもちゃんと持ち合わせている』

 そいつをどう処理しているのか気になったが、それを尋ねようとすると今度こそ猫相手に赤面することになる。

『じゃあ、どうして?』

『……なあ、イェーガー。オレはただの猫じゃない。〈夜の種〉だ。イェーガーも知っているとおり、そこそこの知能もある。この知能のせいだろうな、猫としての欲に身を任せ切ることができないんだよ』

「あ……」

 我知らず声が出た。さっきの公園での出来事を思い出していた。仲間たちの輪の中に入っていけなかった、あの首輪をした猫たち……。

 ——プーちゃんには発情期が無いんだ。

『サカリがつくと、オスもメスもみんな交尾のことばっかになっちまう。あの中に分け入ってメスをめぐって他のオスと争うなんて、とうていオレにはできやしない。なかなか辛いもんだぜ?  散歩中に会って、こいついいな、なんて思っていたメスのそのときの声を聞かされて、しかも今頃あいつは他のオスの子供をポコポコ産んでんのかな、なんて考えるってのは。だからオレも去勢を受け入れる気になったわけよ。性欲の元が断たれればこんな想いもしなくて済む。ま、ここに住んでいるあと何年かの間は、オスのプライドともお別れだ』

『……そう』

 あたしにはそれしか言えなかった。逃がしてあげようか、とも言い出せない。

『因果なもんだな、オレたちみたいな存在ってのは。お前だってそういう経験あるんじゃないのか、イェーガー?』

 またアイツのことを思い出してしまい、苦々しさが喉元までせり上がってきた。

『やめて。それよりも仕事』

 突然話題を打ち切ったあたしの態度に察するものがあったのか、プーちゃんはそれ以上追及してはこなかった。

『……わかった。そいつを下ろしてやってくれ。逃げたりしない、とさ』

 言われたとおり、念動力を解いてボス猫を下ろしてやる。そして、ボス猫が地面に後足をつけたその途端、

「あっ!」

 左手の甲に鋭い痛みが走った。巨体に似合わぬ俊敏さで振り返った猫に、今までの無礼のお返しだ、とばかりに引っかかれたのだ。

『大丈夫か、イェーガー?』

『大丈夫……じゃないかも。血がドバドバ』

 痛くて涙が出そうになった。みみみる溢れ出した血が地面に滴り落ちそうになり、あたしは急いで鞄からハンカチを取り出した。他人の家の軒先に血痕を残していくというのも、あまり好ましくない。

 逃げないというのは嘘ではなかったようで、あたしが止血作業に追われている間に、二匹の猫はにゃーにゃーみーみーと何事か鳴き交わし始めていた。

(わかったわよ、おあいこってことにしといてあげる)

 これで手打ちにしてやろう。

 そこで、プーちゃんの目がこっちを向いた。

『おい、何か餌を持ってたらやってくれないか? 食いながら話すってよ』

 あたしはしぶしぶ猫缶を開けてやった。外見上は人間であるあたしに交換条件を提示するのだから、ボスをやっているだけあって太い奴だ。


『だいたいわかった。ここしばらく見てないそうだ』

 ボス猫がさらにもうひとつ猫缶を食べてから去っていった後、プーちゃんは自発的にピョンと窓の中に飛び込んだ。それが少し哀れでもあり、あたしは複雑な気持ちで窓を閉めて施錠してやった。

『猫缶ふたつも要求しておいて、対価の情報がそれ?』

 最悪だ。振り出しに戻ってしまった。

 それに、迷子になっているわけでもないのに家に帰らないとなると……。

 あたしが頭を抱えそうになっていると、実はもったいぶって間を入れていたのか、プーちゃんが思念を継いだ。

『慌てるな。もうひとつ情報だ。ボタンは数日前——たぶんいなくなったというその日に、とある人間に抱き上げられていたらしい』

『とある人間?』

『この辺りでたまに見かけるけどあの公園にやって来たことはない人間、だそうだ。ボタンはそいつに連れていかれたんだろう、とさ』

『誘拐なの?』

『というより、飼い猫なのを知らずに拾ってしまったんだろうな。大体の特徴も聞いた。毛の長い、まだ若いメスだそうだ』

『そんなの全然手がかりにならないじゃない』

 事故に遭ったわけではないというのは安心材料だけれど。

『だから慌てるなっての。もうひとつ、俺からの情報もあるんだ。昨夜聞いたばかりだし、関係するとも思ってなかったんだが』

『いやにもったいぶるじゃない』

 あたしがそうジト目を向けると、彼は尻尾の毛を逆立てた。

『もったいぶっているんじゃないんだ。話すのが怖いんだよ。さっきの奴にもよくよく言い含めておいた。今後ボタンを見かけても絶対喧嘩するんじゃないぞ、ってな』

 本当にもったいぶるなぁ、とあたしは呆れていた。

『いいから早く教えてよ』

『……ああ。昨日の夕飯のときに、今の飼い主のメスの方が、オスの方にこんな話をしてたんだ。——そういえば先日ペットショップであの子を見かけた、相変わらず学校にも行かないで、何やってるんだろう、ってな』

『え? あたしのことじゃないよね?』

 学齢期なのに学校に通ってない人間と聞いて、まず自分のことを連想してしまった。たしかにあたしは昨日、猫缶を買いにペットショップに行ったのだ。

『阿呆。それじゃオレがビビる理由が無いだろう』

 うわ、猫にバカにされた。

 その言葉どおり、プーちゃんたち動物型の〈夜の種〉は、同族を狩るあたしを怖れてはいない。彼らは、一般的な〈夜の種〉——いわゆる化物ども——に仲間意識を抱いてはいないのだ。

『去年だか一昨年だかに、大通りの向こうのうるさい町に引っ越してきた人間のメスがいるんだよ。オレは震え上がっちまったけどな。それ以来、たまにこの辺りでも見かけるんだ。散歩でもしてるんだろう。まあ、学校に行かない人間の子供なんてそう珍しくもないけど、そいつは目立つ。オレには理解不能だが、外見がいいからつい目が行くっていう話だ。でも本当の理由はそんなことじゃない。そいつの放っている存在感に、魂にみなぎる力に、普通の人間でさえ当てられてるんだ。——わからないか?』

 あたしはかぶりを振ったが、このジェスチャーの意味が彼には正しく伝わらないのを思い出し、あらためて思念を放った。

『ううん、わかんない。魔術師?』

『昨日も今日もそいつはどっかに出かけてるみたいだから、イェーガーは運がいいんだろうよ。近くにいれば、お得意の探査能力を使わなくとも嫌でも気づいただろうさ。——飼い主のメスが言うには、猫用の品をどっさり買っていったそうだ。店員と話しているのを聞けば、最近猫を拾って飼い始めたらしい。オレはそのメスがボタンを飼ってるんだと断言する』

『うん、それは話を聞いててわかった。で、それは誰なわけ?』

 ジリジリしてきた。プーちゃんがその名を出すのをできるだけ避けようとしているのがわかったからだ。

 ——もっとも、あたしの方も予測しつつはあったのだが。

『察しの悪いメスだな。あいつだよ。この街の〈夜の種〉全員の恐怖の的、悪夢のごとき史上最強の魔術師……』

 ああ、やっぱりか。

 品行方正、人畜無害。何も後ろめたいことがなく、同族狩りを生業にしているあたしにも親しく接してくれる。そんな彼をここまで怯えさせる存在は、他にいないのだ。

 プーちゃんはとうとうその名を出した。

『タカハラ・シズカだ』



「あいつ、今はこんなところに住んでるんだ」

 探査に集中すると、昨日までは気づかなかった高原の居場所が感知できた。プーちゃんの言うとおり、注意を払っていれば見逃さないはずだった。もしかすると、あたし自身が無意識に彼女を避けていたのかもしれない。

 プーちゃんの話を聞いた次の日。

 あたしは高原の部屋を突き止めた後、その部屋の窓を見ることができるビジネスホテルに投宿して、機材を使って監視していた。フロントで怪訝な顔をされたが、こっちの高校の受験に来たんです、と告げると納得してもらえた。

 高原は朝早く出かけた。もう夕方なのに、帰ってくる気配はない。


 ——監視なんてやめておけ、イェーガー。

 昨日、彼はそう忠告してくれた。

『でもボタンが高原に飼われてるかどうか確かめなきゃいけないでしょう? それに大丈夫。あたしはあいつと顔見知りなんだから』

『初耳だぞ?』

 プーちゃんは大げさに驚いた。

(ま、何年も前のことだけどね)

 精神感応に混線しないよう気をつけながら、胸の内でそうつけ加える。

 今の彼女は、あたしのことなんて覚えていないだろう。覚えていたとしても、あれから長いこと経つのにまだ中学生にしか見えないこのあたしを、あのとき会った薄氷もみじだと認識できはすまい。

『まったくイェーガーはこの仕事には真面目なんだからな。その熱意があればいいオスが捕まえられるだろうに』

『言うなって言ってるでしょ? 今すぐ去勢してあげようか?』

『おお、くわばらくわばら。——オレが心配しているのは、なにもイェーガーの身の安全だけじゃないんだ。あいつに接触して下手を打ったら、この街の〈夜の種〉は絶滅させられるかもしれない』

 そこまで怖れることはないのに、と思った。

 高原が何をしてきたのか、そして現在その身に何が起きているのか、あたしは断片的ながらも把握していた。これも“お役所”経由でだ。

 それでもなお、今の高原がそこまでの無茶をするとも思えない。

『いくつか注意をしておく。〈モナドの窓〉は絶対に開くな。それから、あのメスやその知人に対して悪意を抱くな。あいつはこの街全体を——』

『わかってるよ。ありがとう』あたしは彼の言葉を遮った。『あたしはまだ〈モナドの窓〉を開けない。だから高原がいくらバカ強い魔術師でも、直接見られでもしない限り監視がバレたりしないって』

 あたしがそう請け合っても、プーちゃんの不安を拭えなかった。心配性だなぁ、と苦笑いしながら、去り際に爆弾発言を残してやった。

『あたしと高原は、ひとりの(オス)をめぐって争った仲なんだ』

 彼はにゃあ、と鳴いた。精神感応を使う心の余裕が消し飛んだらしい。

『あ、うそうそ。んじゃ、今回はありがとね。お礼と手術の成功のお祝いを兼ねて、いい肉買ってくるから』

 窓際から部屋の奥へと駆けていってしまったプーちゃんのあまりの周章ぶりに、少し可哀想になってそう伝えてから、あたしは門をくぐった。

 ま、嘘には違いない。あたしは高原にもアイツにも相手にされてなかったわけだし。

 ——だけど、今ならどうかな。あるいはあと三、四年もしたら。

 ひょっとしたらいい勝負ができるかもしれないぞ、などと、必要な機材を指折り数えながらつい考えてしまった。


 午後十一時近くになってから、ホテルの窓際に設置した高性能のズームカメラが、ついに高原の姿を捉えた。もちろんあたしはそのずっと前から彼女の接近を感知していた。念のため、こちらの灯は消してある。

 ずいぶん遅くまでアルバイトをしているものだ。今日はもう帰らないのかと諦めかけていた。

 持参したパソコンのディスプレイには、彼女の姿が大きく映じられている。

「高原、本当にあんたは……」

 高原の顔立ちは、最後に会ったときとまったく変わっていなかった。話には聞いていたけど、実際に目の当たりにするとやはり衝撃的だった。

 あの〈リーガ〉を滅ぼしてしまった、正真正銘の怪物。だけどこのまま何年かしたら、成長の遅い〈夜の種〉であるあたしの方が、彼女の見た目を追い越してしまう。

 あの日のことが思い出された。アイツに連れていってもらった西京舞原(にしきょうぶはら)の家で、高原とふたりでゲームに興じたあの日。

 あのときのあたしの感触に間違いはなかったと今でも思っている。

 アイツの高原への片想いに脈があるかどうか、あたしにはわからなかった。五分五分といったところだっただろうか。

 なのに高原はアイツがいなくなった後、何年間もひとりで戦い続けた。そして今は生まれ故郷のこの街で、ひっそりと残された時間を生きている。

 鉄の意志と、ガラスの心。

 あたしは彼女の性格を見誤っていたのだろうか。

「……敵わないのかなあ」

 悪意だの敵意だの、抱きようもなかった。

 ディスプレイの中の高原がカーテンをいったん閉めた。その間に着替えたらしい。再びカーテンが開かれると、彼女は地味な部屋着姿になっていた。

 そして——

「ボタン……」

 彼女の腕の中には、一匹の焦げ茶色の猫。その猫を彼女は嬉しそうに抱き上げ、頭を撫で、頬ずりしている。相当に可愛がっている様子だった。


 ——ごめんね、もみじちゃん。

 ふたりでゲームをしたあの日、こちらの動きを先読みしてしまうという不本意な形で勝つ度に、高原はそう謝った。

「どうして? 謝らなくてもいいですよ。だから、もう一回です」

 悔しくなったあたしは、そうやってリトライを繰り返したものだ。


「ごめんね、高原」

 今度はあたしが謝るよ。

 あたしは、今の高原の心の支えかもしれない存在を取り上げるためにここにいるのだから。

 謝らなくてもいいよ、とは言ってもらえそうになかった。

 ——でも、これがあたしの仕事なんだ。



 次の日の朝、依頼人と電話で連絡をとってからホテルをチェックアウトした。

 依頼人には高原の名前と住所を教え、「引き取りの交渉はそちらでお願いします」と伝えた。あたしじゃ高原の前には出られない。

 それから数日後に、あの母娘が事務所を訪ねてきた。料金は振込みでもらっているので、ただ純粋にお礼を言いに来たらしい。

「お忙しいかとは思ったのですが、やっぱり直接お礼を申し上げたくて。それにこの子もどうしても、って」

 母親の隣に座る娘の腕には、焦げ茶の毛並みの猫が抱かれていた。ボタンは無事に家に帰ることができたようだ。

「ああ、えーと、ごめんなさい。所長の薄氷は今日も不在で……」

 菓子折りを受け取ったあたしは頭を掻いた。もちろん嬉しいのだけど、人の真摯な気持ちを無下にしているようで、申し訳ないようにも思ってしまう。

 そのとき、娘の視線があたしの左手に注がれているのに気づいた。

 あのボス猫にやられた傷の上には、まだ絆創膏が貼られている。

 あたしが困惑していると、娘はにっこりと笑った。

 そして、深々とお辞儀をしてみせた。

「お姉ちゃん、どうもありがとうございました」



 その翌日、あたしはまた街に出た。

 プーちゃんへの報酬である外国産ステーキ肉を携えて、である。あまり高いものではない。

 安物で出費を抑えようという魂胆ではなく、プーちゃんのご所望なのだ。

 曰く、『霜降り肉なんて俺たちの口には合わん』——まったく、グルメなんだかそうじゃないんだか。

 プーちゃんの住む家の前の通りに出ると、車がガレージから路肩に出て待機していた。

 彼の飼い主夫婦の妻の方が、ちょうど門から出てきたところだった。その手に抱えられたペット用の大きなケージを、運転席から降りた夫が受け取りに向かう。

 あたしは何食わぬ顔でゆっくりと歩き続けながら、精神感応を行使した。

『どうしたの、あんた? 今日がとうとう手術の日?』

 帰ってきた彼の思念は、妙に弾んだものだった。

『おお、イェーガーか。いやあ、未来っていうのは何年生きてても予想がつかないもんだな』

『なに? やっぱり悟りを開いちゃったわけ?』

『馬鹿なことを。悟りなど開いて生が楽しめるもんか。——実はな、オレ、これからお見合いに行くんだ』

「お見合い!?」

 思念といっしょに、口からも声が出た。

『そう。同種のメスとのな。メスの方を見てみろ』

 後半の方の「メス」が、出発の準備をしている夫婦の片割れを指しているということを、一瞬飲み込みそこねた。

 ちらっと妻の方に目を遣る。でも、プーちゃんが何を言いたいのかは理解できなかった。

 ——いや。

 ケージを夫に手渡して両手の空いた彼女は、その手でそっと自分のお腹をさすっていた。外見上の大きな変化はまだ見られないが……。

『もしかして、妊婦さん?』

『そうともイェーガー。生まれるのはまだまだ先だけどな。それに合わせて、子猫を育てることを思いついたんだとよ。オレを閉じ込めていたのは、去勢手術をするためじゃなかったんだ。似合いの相手が見つかるまで、勝手に他のメスと交尾をするのを防ぐためだったんだな。まったく、こっちには発情期なんて無いってのによ』

 文句を垂れても、嬉しさは抑えられないようだった。

『そんなに厳重に管理されるなんて、あんたって高い猫だったの?』

『ペット探しをやっているくせにそんなことも知らないのか。猫としてのオレはアビシニアンって種類だそうだ。ま、人間が勝手にそう呼んでるだけだけどな。血統書とやらもあるんだぞ』

 はぁ?

『何言ってんの。あんた、血統なんて無いでしょ』

『……そういえばそうだな。オレを拾ったペット業者の奴が、インチキな偽物でもこしらえたってことか。……ああ、そういや拾われたすぐ後に、元からそこにいた子供が一匹死んだっけ。血統書はそいつのか』

 なぜ今になって気づく。

 まあ、そんなものに価値を置いているのは人間だけで、当の猫たちにとってはどこ吹く風ということなのだろう。

『あっ、お肉!』

 あたしは片手の荷物のことを思い出した。

『いいよ、今回はめでたいからタダだ。いつ帰ってこられるかわからないし、イェーガーが食ってくれ』

 何だそれは。それなら高い肉を買えばよかった。というか、はしゃぎすぎにもほどがある。

 プーちゃんの入ったケージが後部座席に据えられ、その隣に妻が乗り込むと、車のエンジンがかかった。

 ゆっくりと歩いていたあたしは、ちょうど車の横を通り過ぎようとしていたところだった。

『そうそう、何匹生まれるかわからないけど、オレたちの子供が生まれたらこの家と向こうとで一匹ずつ育てて、残りは業者に引き取ってもらうんだとさ。イェーガーも一匹どうだ? どこのペットショップで売られてるか教えてやるよ』

『誰が飼うかっ、そんな怪しい猫!』

 猫型の〈夜の種〉と普通の猫の子供? 人間と〈夜の種〉なら極々稀に〈半魔族〉が生まれるけど、この場合はどんな猫になるんだ? 見た目はアビシニアンとやらだとして、果たしてそれは普通の猫なのだろうか。

『はっはっは。よーし、四十年分の想いをぶつけてやるぞ! イェーガーもさっさといいオス見つけて子供を産めよ!』

 下品な上にも下品なプーちゃんの思念を残して、車がスタートする。

 追い抜かれる瞬間、あたしは彼に向かって小さく舌を出してやった。

 ——余計なお世話だっての。

 肉を抱えて立ち尽くすあたしの視線の先で、ウィンカーを点滅させた車が曲がり角の向こうへ消えていった。

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