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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第五幕「薄氷川」
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15-4

「……ごめんなさい。でもいきなりは戻れないよ。誠介にとっては一瞬だったのかもしれないけど、この年月の重みってそんな簡単じゃないんだから」

「だろうな。今実感してる」

 あの頃のもみじからビンタをされても痛がゆい程度だっただろうけど、さっきのは結構効いた。

 俺ともみじはリビングの片づけをしてから、ダイニングキッチンに移っていた。

 椅子に腰かけた俺の頬にはもみじにつけられたもみじがくっきり残っていた。

 きょろきょろと辺りを見回す。とてもあのもみじの部屋とは思えないほど片づいていた。実のところ、この部屋に入って人違いを犯したかと不安になったのは、そのせいもあった。

「部屋、片づいてるな」

「恥ずかしいから昔のこと言わないでよ。さっきのビンタの仕返し?」

 もみじはほんのりと頬を赤くした。

 俺はぶんぶんと首を振る。

「いや、感心してんだけど」

 そうストレートに言ってやると、もみじは複雑そうな表情で目を伏せた。

「……うん、前にね、ある人から言われたのよね。あまり散らかしてると、誠介が帰ってきたときに目を剥くだろう、って」

 その声が少し沈んでいたので、急いで話題を切り替える。

「高校はどうだ? 楽しいか?」

「うん。世相が変わっちゃったから昔予想していたのとはちょっと違うけど、それでも楽しいよ。あたしにとっては待ち望んでいた生活だし」

 高校生活が現実のものとして立ち現れ始めた頃から、もみじは男言葉を矯正しようと考えたのだそうだ。しかし、周りに同世代の女友達もなく、手本になりそうなものと言えばテレビか小説か漫画だけ。結果、普通以上に乙女な口調に変わってしまったそうな。

 もみじはキッチンに立っていた。何か作ってくれるらしい。そういえば朝から何も食べていなかった。

「仕事は?」

「休業中。お役所からはせっつかれてるけどね。いつ再開するんだ、って」

「仕事はあるんだ?」

〈リーガ〉と“お役所”の反目に存立基盤を見出すニッチ産業、って言われたような覚えがあるんだが。

「まあね。知性の無い〈夜の種〉は高原の存在にもかかわらず出るし。でも、休業前の主な仕事は魔術師狩り。……あ、狩りって言っても危害を加えてるわけじゃないから。あたしは〈夜の種〉だから、〈モナドの窓〉を開いてない魔術師も探し出せるの。そうやって見つけ出したモグリの魔術師に、お役所への登録を勧告する。昔よりも仕事は多いみたい」

 魔術師は〈モナドの窓〉を開かなくても自分の身に具わった魔力で悪さができる。この街に流れ着いた魔術師は高原を怖れて〈モナドの窓〉を開かないため、もみじはそういった連中を見つけ出していたのだという。

「同族を狩るよりマシかな、と思ってたけど、そうでもないわ。シュタージにでもなった気分」

 もみじの感想はよくわからなかった。

「あたしも感覚を磨いたから、大概の魔術師は見つけられるようになったんだよ。誠介と同じ学校にもいた。教えてあげようか?」

「いや、いい」

 今になってそんなことを言われても困る。

「ひとまずこれでも食べてて」ともみじはサラダを持ってきた。「いただきます」と頭を下げて、俺はフォークを取る。

 手の込んだドレッシングをかけた和風サラダだった。フォークをとってすぐにその美味さにびっくりした。

 もみじはまたキッチンコーナーに戻った。

「貿易体制も再編成中で野菜は高いんだからな。ありがたく食えよ。……あ、ダメだ。やっぱり難しい。なかなか戻れないや」

 エプロンの肩紐がかかったもみじの背がぷるぷると震えた。往時の自分の口調に笑っているようだった。

「そういえばこないだ、もみじが朝飯作ってくれるって言ってたよなぁ」

 あのときは何を作ってくれるつもりだったんだろう、と変な気持ちになった。

「こないだって。もうあたしたちにしてみれば十年も経ってるのよ?」

 おたまを片手にもみじが顔を上げる。細い眉が八の字になっていた。

「……悪い。でも覚えてたんだな」

 もみじの視線は再び調理台に落ちた。

「忘れるわけないでしょ。……まあ、あのときはあたしも本当に子供だったし、何作ろうとしてたのかわかんないけど。でもこうやって、約束したとおり誠介に振る舞えてよかった、かな」

 俺の方はそれほど期待していたわけではなかったのだが、もみじにとっては十年越しの約束だったのだろう。そして今の口ぶりからして、たぶんもみじはその間腕を磨いてきたのだ。ほとんど絶望しながら、それでもいつか俺に食べさせることを想って。

 途端に、気持ちがたまらなく盛り上がってきた。

「もみじ……」

 思わず声が漏れた。

 だがもみじは、フライパンと格闘しながらこっちを向こうとしなかった。

「……いいよ。誠介がこうやって帰ってきてくれただけで、あたしは満足。どうしていいかわかんないくらい。……よっと。はい、一丁上がり」

 もみじはフライパンを持った手首をトントンと叩いて中身を一度ひっくり返し、皿に盛りつける。運んできたそれは、オムレツだった。

 ようやく食卓についたもみじが、俺と向かい合って食べ始める。

「誠介が子供舌なのはわかってたから合わせてみたんだけど、どう?」

「いや、驚いた。もみじは本当に料理上手かったんだな」

「信じてなかったんだ。失礼ね」

 もみじはくすくすと笑った。

 実際、もみじの料理の腕は高原と遜色無いだろう。しかも、不本意ながらこっちの味覚に合わせてくれる分、高原の料理よりも美味しく感じられた。

「こりゃあ、もう俺が偉そうにメシを作るわけにはいかんな」

「ふふふ。……でもね、あのとき作ってくれたご飯、あたしは好きだったよ。あのチャーハン、覚えてる?」

 覚えてるも何もない。俺にとってはひと月足らず前のことだ。

「ひでえもんだったろ?」

「ううん」もみじは首を振った。「美味しかった。……あのときのあたしって、ほら、左手怪我してたし。それで誠介は気を遣ってくれたんでしょう? そっちの方がもっと嬉しかった」

 俺はスープをすくったレンゲを止め、ガクッ、と首を折ってしまった。

「誠介?」

 もみじが心配そうに身を乗り出す。

「……十年。十年だぞ? なんでお前、そんなに優しくしてくれるんだよ……」

 吹き飛ばされた十年という歳月。俺にとってそれは、正当な報いだった。

 魅咲(みさき)琉斗(りゅうと)も、高原でさえ、言外に俺を責めているように感じられた。

 なのに、もみじは——

 ふわ、と頭を包み込まれた。

 テーブルの向こうから身を乗り出してきたもみじの両腕に抱えられたのだ。

「もみじ……?」

 顔を上げると、柔らかいふたつの膨らみに鼻面を挟まれる感触。

「あのとき言わなかったか? あたしはお前の青春の過ちを許すって。まだまだあたしにとってもお前にとっても、青春の期間だろ?」

 もみじはそのときだけ、あの頃の口調に戻った。

 俺は二十六歳。もみじは二十七歳(?)——たしかに定義上、青春に当たるのかもしれない。

「もみじ……」

「可哀そう。可哀そうな誠介。誠介はあたしに約束したとおり、間接的にではあったけど〈リーガ〉を滅ぼしてくれた」

「やったのは高原だ」

「間接的にって言ったでしょ。誠介は高原を動かしたんだよ。自分の、かけがえのない十年という時間を犠牲にして……それに、あたしをちゃんと探し出してくれた……」

「同情なんていらねえぞ。自業自得だしさ。……だいいち、もみじを見つけられたのはたまたまの偶然だ」

 そう言いながら、俺は顔をもぎ離すことができなかった。初めてあの無謀な行為を肯定してもらった気がした。

「知ってるわよ、バカ」

 もみじの熱い涙が、はらはらと頭に降るのを感じた。

「みんな生きてる。いろいろあったけどみんな生きてる。来栖も浜田も。武藤も、吉田も大原も田中も。ユキさんも。それから一条も、もちろん高原も。そして相川も。でも……」

 もみじはそこでいったん言葉を切った。

「——今だけは、せめて今だけは……独り占めさせて。ねえ、誠介」

 俺の顔を包む腕に力がこもった。

 俺はたぶん、このとき完全に「落ちて」いた。

 高原との暮らしももう続けていけない。何もかも放り出してもみじの気持ちにこのまま流されてしまいたいと思った。

 そして実際に、もみじの背に両腕をめぐらせた。

 ——その刹那。

 俺たちはふたり同時に顔を上げた。

 耳鳴りがする。

「あっ!」

 もみじが頭を仰け反らせた。

「もみじ、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫……」

 もみじは俺の頭から手を離して、背もたれに体を預けた。

「これは……」

「高原。今日は何度かあったけど、また〈開放〉を使ったみたい。誠介にだって感じられるでしょう? これが高原のフルパワーなんだ……」

 どこに流されようが、過去の行為の結果は俺を追ってきた。


 その夜はもみじの部屋に泊まることになった。行くあてのない俺は、もみじの申し出をありがたく受けてしまったというわけだ。

「昔もこうやって二人で寝たよね」

「そうだっけな」

 俺は言葉尻を少しボカした。もちろん覚えていないわけがないのだが、今のもみじに言われるのはひどく気恥ずかしかった。

「それで、誠介ったら、あたしの胸元のボタンを……」

「もういいだろ、それは」

 もぞもぞと身じろぎしてしまう。あのときのように逆襲に出ることはできなかった。

 くすくす、ともみじの笑う気配。

 俺は寝室に運んだソファで寝ていた。もみじはベッドを譲ると言ってくれたが、押し問答の末、どうにかこの配置に納得してくれた。高原よりも物分りがよくて助かる。

 それぞれの寝床に身を横たえながら、昔の話をしたり、もみじの十年間の話を聞いたりした。もみじはやはり何度も危険な目に遭っていたようだ。

 何年か前に高原を見かけたことがある、とも言っていた。

 だけど高原に、「今、ここ」に関わる話題はそれっきりだった。俺たちは過去と未来の話だけをした。

 どうせ明日になれば、嫌でも向き合わなければならない。

 だから、せめてこの夜だけは。


 その夜もみじを抱かなかったのは果たして正しい選択だったのだろうか、と俺は後々まで考えてしまう。

 たぶんもみじは俺を拒まなかったと思う。

 そして、もはやいかなる誤魔化しも利かないほど、もみじは魅力的になっていた。

 卑劣な行為に思えたから?

 ——慰めるためなどという口実で高原を抱いた俺が、何を今さら。

 高原への裏切りになるから?

 ——その高原からもみじへと逃走したのは、いったい誰だ。


 そろそろ寝るか、ということになって、もみじは念動力で電灯のスイッチを切ってみせた。あれから何年も訓練をして、やっと使えるようになったのだとか。

「なあ、もみじ」

 暗闇の中で、俺はもみじの方に顔を向けた。

「ん? なに?」

「お前、モテるだろ?」

「どうしたの、いきなり? ……まあ、そこそこかな」

 謙遜なのかそうでないのか、判断しづらい。

「……恋人とかいないのか?」

「いないけど。どうしてそんなこと訊くの?」

 俺の意図を計りかねているのだろう、期待と不安のない交ぜになったような声色だった。

「……いや、もしさ、お前が恋人作らないのが、俺に遠慮……いや、やっぱりいい」

 とんでもなく不遜なことを口走りかけたのを自覚して、慌てて打ち切った。

 もみじがまたくすり、と笑う気配があった。

「言いたいことわかるよ。誠介はあたしのこと、久しぶりに再会した妹みたいに思ってるんでしょう?」

 ——ああ。そうなのかもしれない。

 兄のように、父のように見守りたかった。その身勝手な想いから踏み出ることができないからこそ、今俺はこうしてソファの上から動かずにいるのだろうか。

 もみじのことを、ただただ掌中の玉として愛でたかったのだろうか。

「あたしにとっては理想的なのかもしれないけどね。だって、今のあたしと誠介ってお似合いじゃない?」

「……そうかな。お前は俺にとっては少し高嶺の花かも」

「あちゃ、美人になりすぎちゃったか」などともみじは調子のいいことを言う。

 そこにやや長い沈黙が挟まった。

 眠ってしまったのかと思いきや、もみじは小さく頭を動かした。

「でもね」やはり眠そうな声音だった。「やっぱり、十年の空白は重いよ……少しずつ成長するあたしを、誠介に隣で……見守っててほしかった。……だからいいよ、当分、今のままで。……それに、誠介を、元の……」

 もみじの言葉はそこで途切れた。眠ってしまったようだ。十年経っても寝つきがいい奴だ。

 俺も目を瞑って眠ることにした。

 

 朝になれば、俺は自分のしでかしたことに直面することになるだろう。

 なんとなく予感があった。

 明日はきっと、決着の日になる。

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