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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第五幕「薄氷川」
86/106

14-3

 目覚めはすっきりしなかった。

 ぼんやりとしながら布団の中でもぞもぞしていると、

「おはよう」

 涼やかな声が届いた。それで一発で目が覚めた。

 高原が通路からこちらに顔を覗かせていた。もうとっくに目を覚まし、部屋着の上にエプロンを着けて朝食を作っていたようだ。時計を見ればまだ七時前だというのに、早起きなところは変わってないらしい。

「……ああ、おはよう」

「コーヒー飲む?」

 手の中のマグカップを掲げて示す高原。俺がそれにうなずくと、顔を引っ込めてコーヒーを淹れに行く。

「どうぞ」

 着替えを終えてテーブルについた俺の前に、湯気の立つカップが置かれた。

「あんがとさん」

「お砂糖とミルクもあるけど、誠介くんはブラック派?」

「ん? ああ」

 実際には気分によって砂糖やミルクを入れたりもするのだが、目覚めの一杯はブラックで飲みたい派だ。

「そうなんだ。気が合うね、わたしたち」

 ニコニコ笑ってキッチンに戻っていく高原の背を見送りながら、俺は熱いコーヒーをすすった。

(そういう台詞は十年前に聞かせてほしかったな……)

 パンチの効いた苦味だった。

 

 コーヒーを飲み終えたタイミングで、ポケットの中でケータイが震えた。

 この電話にかけてこられるのはたったひとり。魅咲(みさき)だ。

 俺は何食わぬ顔で立ち上がった。

「高原、ちょっとだけジョギングしてくるわ。朝の日課なんだ」

「ん、そう? もうすぐできるから早めに戻ってきてね?」

 唐突な話ではあったが、高原は特に気にした様子を見せなかった。

 まだ切るなよ、と念じながら、靴を履いてできるだけ自然な様子を装って外に出る。

 階段を下りつつ通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『もしもし、おはよう。あの子は?』

 電話はやはり魅咲からのものだった。

「部屋にいる。俺は抜けてきた」

『そう。それならこのままもう少し待つから、百メートル以上離れて。あの子が肉体の感覚を向上させたら、盗み聞きされちゃうかも——あ、そういうことかぁ』

 ひとり勝手に何事か納得する魅咲。

 高原に格別の疑いは保たれていないと思ったが、言われるままアパートを出て距離をとる。もういいかな。

「何が『そういうこと』なんだ?」

『……その前に。誠介、何も言わずにポケットとか全部チェックして。変なものが入ってないか』

 魅咲はそれっきり口を閉ざした。

 何が何やらわからぬまま、俺はジャケットのポケットに右手を突っ込んだ。持ち物は多くない。財布だけだ。その中身もいくらかの札と小銭と、なぜか溜まっていくレシートやカード類だけ。

 次いで、電話を持ち替えて左のポケットもチェックする。さっきまで入っていた携帯電話の他には何もない。

 それから中に着たシャツのポケット。このシャツは高原が一昨日の晩に洗濯してくれた。ここにも何もなかった。

 ズボンの尻ポケットも同様。右ポケットにはあのイヤリングが入っていただけだった。

 最後の左ポケット……。

 ——何かある。小さな小さな、一円玉の四分の一くらいの大きさのもの。

 取り出してみると妙な品だった。袖ボタンよりもさらに小さな、白くて平べったい円形の物体。錠剤のようにも見えたが、それにしたって小さくて薄い。

『ある? 何も言わずにそれ捨てて』

 狐につままれたような心地で、ゴミ捨て場にあったゴミ袋の中に突っ込んだ。

 そこからまた歩きながら、魅咲に尋ねる。

「何だったんだ、今の? いつの間に入ってたんだろう」

琉斗(りゅうと)から電話があったの。さっきね、国の役人が訪ねてきたって』

「あん?」

 俺の質問との関連がわからない。

『……伽那(かな)が進めてるコールドスリープの研究を凍結するよう、圧力をかけられた、って』

「何だと?」

 一条の研究を? でも、なんで?

『こうなるとあたしの聞いた話の方が正しかったってことかな。昨夜言ったでしょ? あいつらは詩都香(しずか)を新しいルール作りに協力させたがってる。そのためには詩都香をコールドスリープさせるのはいただけないってわけ。スタッフの拘禁までちらつかされたってさ。……あの“機関”に登録していない、もぐりの魔術師もいるから』

「だけど、どうしてこのタイミングで——」と言いかけて気づいた。さっきの変なブツ……。

『盗聴器。あたしも昔仕掛けられた。すごいんだよ。最新鋭の品。あんな小さいのに、電池は長いこともつの。待機状態から特定の単語にだけ反応して前後の会話を傍受できるんだって。プライバシーに配慮してるつもりなんかな』

 魔法で装置を狂わせてから、一条のところに持ち込んで調べてもらったのだという。

「特定の単語ってのは……」

 訊くまでもなかった。

『「マホウ」、「マジュツシ」、それから……「タカハラ」と「シズカ」』

「くそっ!」

 仕掛けたのは諸橋と八木のふたりだろう。

 さっきのゴミ捨て場に戻って踏み潰してやりたくなった。

 しかしいつ仕掛けられたんだ。あの魅咲に仕掛けられるくらいだから相当な腕を持っているのは確かだが、不自然な接触は……

「あのとき、か」

 呻き声を上げそうになった。

 あの妙に熱のこもった握手——どっちかが俺の手を握ってる間に、もうひとりが。

『ごめん、あたしがもっとあんたにちゃんと注意しておけばよかった。あいつらはこういうことしてくる奴らだって。でも、最後の判断をあんたに任せたかったから……』

「お前は悪くない。俺がうかつだったんだ。それにしても昨日の今日で……あいつら、そんな力のある役所なのか?」

『昔とは違うよ。詩都香のお父さんがいた頃とは。〈リーガ〉が滅ぼされてから、あのなんとかかんとか室って機関はかなりの権限を握るようになったみたい。国民に盗聴器を仕掛けたり、それで都合の悪い研究のことを聞いたら、次の朝早くに他の省庁の役人を送り込んだりできるくらいには。もっとも、あたしは魔術師だし、あんたは法律上は死人だし、職権の濫用だとは考えてないのかも』

「そんで、琉斗は何て?」

『あいつらだって一条家にはそうそう手出しはできない。しばらく突っぱねるってさ。詩都香を元に戻すことができるかもしれないのに、多少の圧力くらいで、って』

 なるほど、と思った。琉斗も知っていたわけだ。となると、一昨日の琉斗の憤懣は、過去にだけ向けられたものではなかったのだろう。コールドスリープを実行すれば姉とはお別れだ。恋女房の一条とも違った時間を生きることになる。

「……一条は?」

『それがね、いないの。琉斗は、伽那が外国行っちゃってるから相談もできないってあたしに電話よこしたの』

「外国?」

『あたしも初耳だから驚いちゃった。一昨日からだって。仕事を終えてあんたと会って、家に帰ったら書き置きがあったみたい』

「なんで? 仕事?」

『仕事だったら琉斗が把握してないわけないでしょ。書き置きには「最後のピースを探しに」とか何とか』

「何だそれ? 何考えてんだ、あいつ」

 こんなときだってのに。

『さあ。あの子には何か違うものが見えてるのかもしれない。会社での研究とはまた別にしばらく魔法の研究もしてたみたいだし。ほんと、何やってんだろ』

 魅咲がほっ、と息を吐いた。

 早朝の学生街には人通りがなかった。魅咲と電話をしながら歩いていると、片側一車線の少し広めの道路に出ていた。

 と、後方から走ってきた白い車が俺のかたわらを追い越していき、路肩に停車した。

 その運転席に座る男性に目が吸い寄せられた。

「……悪い、魅咲。話は後だ」

『え? どうしたの?』

 魅咲に事情を説明することなく通話を切り、携帯電話をしまう。

 それを見て、車から男性が降りてきた。

「おはよう、三鷹くん」

 八木だった。


「あんた、よくも俺の前に……」

 他人に対してここまで腹が立ったのは何年ぶりだろう。

 しかし八木はこちらの様子を気にもせず、堂々とした態度で俺と向かい合った。

「誤解があるようだから解いておきたい」

 いけしゃあしゃあと言いやがる。

「誤解? 違うな、これは不信ってんだ。今さら何を言われても信じられない」

「それも仕方ないだろうな。まったく君は若いのに自制があると言うべきか奥手だと言うべきか。ベタ惚れした相手が無防備に同じ部屋にいるというのに、ちゃっかり幼馴染とよりを戻してるんだから」

「そんなんじゃねえ」

「それとも、やはり我々の調べが不十分だったのか。なにせ十年前に死んだ人間が急に帰ってきたのだ。半日やそこらで調べるのは無理があった。昔の調書では、みな君が高原さんにベタ惚れだったと証言してくれていたのだけどな。しかしどうやら君は——」

「くだらねえこと言ってんじゃねえ!」

 とっくに我慢の限度を越えていた。三歩の距離を瞬時に詰めて、八木に殴りかかった。

 だが八木は俺の激昂を読み、この単純な攻撃を見切っていた。半身をずらして拳をかわし、カウンターに右膝を入れてきた。

「が、はっ……!」

 まったく無防備な腹に一撃をもらい、嘔吐感が喉元までせり上がった。たまらず、その場にうずくまる。

「子供を虐待する趣味はないんだ。やめてくれよ」

 ——こいつ、強え。さすがもみじの助手をやって、今も危険な仕事に就いてるだけあるってわけかよ。

「くそっ、てめ……」

 息が苦しい。声がかすれる。

「盗聴器のことは謝る。ただ、プライバシーには配慮したつもりだ。何もかも聞いていたわけではない。それから、誤解するのはよしてほしい。我々が高原さんを保護したいというのは本当のことだ。相川さんに語った話にも嘘はない。外国から危険視されている高原さんを保護し、その代わりに少々力を貸してもらう……二つの話に何の矛盾は無いだろう? ただ、君たちそれぞれが納得しやすい言い方を選んだだけだ。これは失敗だったようだが。なにせ我々は、人間を相手にするのには不慣れだからな」

 冗談のつもりだったのか、八木はニヤリと笑った。

「そこであらためて君に協力してほしい。悪い話ではないはずだ。高原さんだって本当は、今の不安定な暮らしを送るよりも、豊かで安定した生活を望むだろう。君のお兄さんからも解放される。君は心が痛まないのか? 自分の行動の結果が彼女をここまで、自殺を考えるほど追いつめていることに。彼女の幸せを願わないのか?」

 ——高原の幸せ、だと?

「てめえに何がわかる」

 俺はゆらりと立ち上がった。くだらないお喋りの間に、すっかり息は整っていた。

 蹴られた腹はまだ痛むが、怒りがそれに打ち克った。

 八木の言うことは正論なのだろう。俺だって、高原の生活がこのままでいいだなんて思っていない。だがそんな正論を振りかざしたところで、こいつに説得されるほど俺は人間ができちゃいない。

 むしろ、わかったような口を聞かれてかえってムカついた。

「ほお? 手加減したつもりはなかったのだが。さすがにもみじのところに採用されるだけのことはあるというわけか」

 先ほどの俺の胸中と似たようなことを言われ、怒りが煽られた。

 ——てめえがもみじの名前を呼ぶんじゃねえ!

 右のハイキック。

 左手でガードされた。掴まれる前に足を引く。

 くそっ、激情のせいで攻撃が大振りになりがちだ。

 身を沈めた八木が、体勢の整わない俺の左脚をローで狙う。

 もらったら転倒は免れない。軸足一本で後ろに跳び、かろうじてかわす。

 八木は蹴り足を軸に体を半回転、ミドルキックを繰り出してきた。

 両腕でガードし、相手を押しきろうと前に出る。

 この勢いに逆らわず、今度は八木が後退する。

 俺たちの間に、最初と同じ距離が開いた。

「いやいや、驚いた。高校生のくせに本当に——!」

 小癪にも余裕の様子を見せていた八木の表情が、そこで瞬時に凍りついた。

 俺も感じた。

 辺りを圧するとてつもない存在感。

 振り向いた俺の視線の先には、

「……誠介くんに、何してんの?」

 能面のように無表情な高原が立っていた。

「いや、これは……」

 八木が弁解に回ろうとした瞬間、高原の体から不可視の力が迸り出た。

「うおっ!?」

 ——ヤバい。俺まで身の危険を覚えた。

 周囲の家々の窓が次々に割れて、中から悲鳴が響いた。ブロック塀にもアスファルトの路面にもヒビが走った。電柱がぐわんぐわんと揺れ、電線が悲しげな音を立てて空気を切った。開店前の商店のシャッターがみしみしと凹み始めた。

 八木は動けないようでいるようだ。

 表情を消したままの高原の視線が、その八木を見据える。

「昨日の怪我もあんたたちのしわざ? ……消えて。今すぐ消えて。次に誠介くんに手を出したら——」

 呆然とする八木の背後で、彼が乗ってきた車がひっくり返った。

「早く消えろ!」

 殺気が膨らむ。

 俺は——

「よせ!」

 俺はとっさに高原を抱きしめていた。

「止めないで、せい——」

 そして高原の口を自分の唇でふさいだ。ばちっ、と体が痺れた。

 永遠とも思える数秒間、俺たちはそうして抱き合い、口づけし合っていた。

「ぷあっ。誠介くん……」

 ようやく表情を取り戻した高原が、顔をもぎ離して俺を見上げた。

「わ、悪い、高原」

 痺れの残る体で、俺は頭を下げた。高原を止めるためとはいえ、わけのわからないことをしてしまった。

「ううん……いきなりだったから、びっくりしちゃっただけ」

 なんと、高原はそれで許してくれたようだった。

「それじゃ、帰ろう? 朝ご飯できてるから」

 高原と連れ立って歩き出しながらちらり、と後ろを振り返ると、八木の姿は見えなくなっていた。

 代わりに目に飛び込んできたのは、高原の引き起こした惨状だった。まるで局所的な竜巻でも発生したかのようだった。人が泣き叫ぶ声も聞こえてくる。


 魅咲。

 ——悪い、やっぱダメだ。これ以上高原のこんな姿は見ていられない。

 政府の介入が入った今、コールドスリープは可能なのだろうか。でも、一度施してしまえば、無理に目覚めさせることはできないはずだ。

 俺にはもうそれしか方法が残されていないように思われた。魅咲たちには辛い決断になるかもしれないけど。

 左隣に目を遣る。俺の歩幅に合わせて無理な早足で歩く高原に。

 ああ、高原。お前は本当に……。

 高原は三日前の再会の折よりもさらに精神を退行させてしまっているように感じた。

 なんということだろう。俺が帰ってきたことの影響は、考えていた以上に大きいのかもしれない。

 まさに負のスパイラルそのものだった。

 俺と高原は、溺れる者同士が互いの足を引っ張り合うように、ズブズブと深みに沈んでいくのだ。

 俺が高原の変貌に面食らい、鬱屈し、何かしでかす。

 するとそれがまた、高原の精神に悪影響を与えてしまう。

 まるでいつか琉斗が言った一蓮托生。ただし、俺たちふたりが乗っているのは清浄な蓮の花などではなく、ぐずぐずに溶けかけた泥舟だった。

 高原を横目で見つつそんなことを考えていると、このままふたりで堕ちていこうか、などという誘惑さえ頭をもたげてくる。我を取り戻してニコニコと笑う今の高原は、デレた高原は、やっぱり魅力的でもあるのだ。これであの感情の暴発さえなければ……。

 そんな誘惑に抗いながら、俺は歩いた。

「お前は本当に男心ってもんがわかってないよなぁ」

「なぁに、いきなり?」

「あんな奴、俺がぶっ飛ばしてやるとこだったのによ。水差しやがって」

「怪我なんてしちゃつまらないでしょう?」

 高原とそんな仲睦まじい会話をしながら。

 遠くからサイレンの音が響いてきた。

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