序奏 薄氷もみじ
「まさか彼がもみじのところでアルバイトをしていたとはね」
考えてもみなかった、と男性は頭を掻いた。
東京舞原を流れる薄氷川の下流。薄氷調査事務所の応接室。
薄氷もみじとその中年男性は向かい合って座っていた。
(室長、老けたな……)
もみじはぼんやりと目の前の男性を観察していた。
初めて会った頃、彼はまだ二十代だった。一年少々の海外での仕事を終え、帰国したばかり。そういえば、彼が日本を留守にしている間に第一子である長女が生まれたという話を聞いた記憶があった。
もう何年も対面していなかったが、こうして久しぶりに目にした彼の顔からは、年齢以上の衰えが感じられた。ロマンスグレーと言うには少々雑な印象の白髪が目立つ。
それもしかたないか、と思う。あの“事故”から三カ月、彼の心が休まる日は一日とて無かったはずだ。
世界的な魔術師の組織〈リーガ〉に協力して超常的事件の処理に当たる機関——名称がころころ変わるので、もみじの呼び方も“お役所”だの“機関”だのと一定しない——の、現在の現場責任者。あろうことかその彼の娘が、慈しみ育ててきた自慢の娘が、〈リーガ〉と対立する魔術師だった。
そして一般人の男子高校生が、彼女の戦いに巻き込まれて行方不明になった。生存は絶望視されている。
こうした一連の出来事とそれに伴う心労が、彼をひどく疲弊させているのが見てとれた。
行方不明の男子高校生——三鷹誠介——が薄氷調査事務所の助手を務めていたことはもっと早い段階で判明していたはずだが、その後三カ月の間、機関からは何の音沙汰もなかった。
それが今日になって人を寄越したかと思えば、室長本人である。多忙のはずなのだが。
「今まで来られなくてすまない」
その謝罪も何度目だろう。
「はい……いえ……」
もみじも何度目かわからぬ気の抜けた返事を繰り返した。
「少し散らかっているようだが」
今気づいたかのように、彼が言う。
その言葉のとおり、室内はひどい有様だった。
三カ月の間ロクに片づけられなかった私物やゴミの洪水は、私室の堤防をとうに決壊させ、階段を流下して応接室をも侵食しはじめていた。
もみじは彼の言ったことに反応しなかった。代わりに口から出たのは、弱気な後ろ向きのお伺いだった。
「ねえ、高原さん。……あたし、また“施設”に戻っちゃダメですか? もう、ここでひとりで暮らしていく自信がありません」
だが彼は——室長こと高原は首を振った。
「だめだ。……どうしてもと言うのなら一時的な滞在は許可されるが、もみじには基本的にこの街で暮らしてもらう」
もみじは小さく頷いた。もとより予想されていた答えである。
「退所のとき、もみじは言っただろう。自分は強くなるって。早く大人になって、一人前の人間として暮らせるようになりたい、って」
各地で保護された異能者の子供や人型の〈夜の種〉を養育し教育する“施設”。もみじがそこを出たのは何年前のことだったろう。
その際に車を出してもみじを新居まで送ってくれたのは、当時京舞原に勤務していたこの高原だった。
「高原さんの娘さん、あたしと同じくらいでしたっけ? あ、もちろん見た目のこと」
車中、ヘビースモーカーの彼が吹かす煙に咳き込みそうになりながら、もみじは尋ねた。
「そうだなあ、もみじよりもう少し上になったか」
「じゃあ、そろそろ反抗期?」
「それがそうでもないんだ。俺が忙しくて帰ったり帰らなかったりするだろう? 反抗する気にもなれないのかもしれない。アニメや漫画が好きな子供でね。それだけならまだしも、いろいろなことに手を出したがる。この間はバイオリンを買わされて参ったよ。高いものではなかったけど、少し甘やかしすぎかもしれんな」
反抗してくれるならまだ安心なんだけど、などと彼は言う。一人遊びが好きな社交性のない子供にならないか心配らしい。
“施設”にたまにやって来る“機関”の職員たちの内、もみじはこの高原という男をいちばん気に入っていた。年の近い娘がいるためだろうか、彼はもみじを〈夜の種〉としてよりも一人の人間の女の子として扱ってくれている気がした。もちろんそれでも、職員の分限を超えた特別扱いをされているわけではなかったが。
「あたしも高原さんみたいなお父さんに甘やかされてみたかったなあ」
だから、そんな冗談も口にできる。
高原は片手の煙草の火を灰皿でもみ消しながら、渋い顔をした。
「よせよせ。うちの娘があんななのは、俺のせいでもあるんだ。来年からは東京だし、ますます家に帰りづらくなる」
「栄転だね。よかったじゃないですか。子供さんたちを連れて引っ越したら?」
「娘は何も言わないが、息子が反対してるんだよ。息子の方は明るい性格で、転校したって大丈夫だろうけど、娘にはやっとできた数少ない友達がいるからな。引き離すのは忍びない。息子もそう思ってるんだろう」
「お姉さん想いなんですね。まだ小さいのに」
「シスコンに育たないかと少し心配だけどな。——そうそう、もみじ。新居だけど、作りは古いが一人で住むにはちと広いかもしれん。お前、ちゃんと管理できるか?」
苦笑から一転、突然話題を切り替えた彼の胸中を、もみじは手に取るように理解することができた。生まれてこのかた家族というものを持たないもみじに気を遣ったのだ。
「大丈夫です。あたしだって一人暮らしくらいやっていける年なんだから」
気にしたこともないもみじだが、彼の気遣いに乗ってやることにする。
「まあ、年はそうかもしれんがな」
「年のことは言わないでください」
「自分で言ったんじゃないか。家庭科の担当者も心配してたぞ、一人暮らしなんてさせていいんだろうか、って」
「うわぁ、あのヒステリーおばさん」
「そういうこと言うな。もみじから見たら、世の中の女性は大抵おばさんだろうけど」
「そういうこと言わないでください」
高原はたまに無神経を装ってこういうことを言う。もみじにしても、過度の親愛をアピールされたり腫れ物のように扱われるよりも、この距離感が心地よかった。
車は東名高速道路を下りた。もみじの生まれ故郷であり、新しい生活の場でもある京舞原の街まであと少し。
同時に、“機関”の庇護下にある〈夜の種〉として彼と話せるのもあと少し。
「高原さんも今年いっぱいは京舞原でしょ? たまに遊びに来てね」
「……そうだな。引っ越し祝いには行くよ」
彼はそうとだけ答えた。
もみじにもわかっている。引っ越し祝いはともかく、その後彼が訪ねてくることがあるとすれば、それは今までどおりの関係においてではない。
依頼人として、もみじに同族狩りをさせるために、だ。
「悪いな、もみじ。我々が最後まで生活の面倒を見てやれればいいんだが」
もみじは小さく首を振った。
「ううん。籠の鳥みたいな窮屈な暮らしはもうたくさん」
「……その自由も制限付きだけどな。日誌、ちゃんと送れよ」
退所に当たって、もみじはいくつかの義務を課されていた。日々の行動の記録をとって提出することもそのひとつだ。
「わかってますよ。高原さんが読むの?」
「こっちにいる間はそうなるかもな。東京に移ってからも、暇を見てこっちに来るつもりだけど」
“機関”の組織構造は、いわゆるお役所的な縦割りとは無縁らしい。
前方の信号が赤になり、車が停止した。
このままずっと赤信号が続けばいいのに——そんな風に思ってしまった。
「やっと自由の身かぁ」
弱気を振り払うように、もみじは両腕を上げて大きく伸びを打った。
「自由ってのは重たいぞ?」
ハンドルから手を離してまたもや煙草に火をつけながら、高原が水を差すようなことを言う。
「わかってますって。でも、あたしは強くなりますよ。ひとりでもちゃんと生きられるように、一人前の人間として暮らせるように、ね。他の職業に就いたっていいんでしょう?」
「まあな。学校に通えないもみじには、なかなか難しいだろうけど」
なら学校にも通ってやろう、ともみじは心に決めた。
「それからな」高原が言葉を継ぐ。「別にひとりで生きようとしなくてもいいんだぞ。今すぐには無理だろうが、友達を作るのもいいし、もみじが大人になったら男どもが放っとかないさ」
「やだ。高原さん、あたしのことそういう目で見てたんですか?」
「馬鹿を言え。俺にはもみじよりも大きな子供がいるんだぞ」
あまりにも気の無いその態度に、もみじはなぜか逆に愉快になった。
「あーあ、早く大人になりたいな」
「……そうだな」
安物のライターに悪戦苦闘していた彼が、やっと火のついた煙草の煙を深々と吸い込み、ハンドルを握りなおした。
信号が青になった。
「……あたし、大人になんてなりたくない」
つかの間の回想を終えたもみじがそう漏らすと、高原がじっともみじの顔を覗き込んだ。
「そうだな。もみじはまだ子供だ」
責めるような響きはなかった。
それでも彼の言葉がもみじの胸に突き刺さったのは、この三カ月、全ての依頼を拒否してきたことに対する自責の想いのせいだろうか。
だが、反発する気も起こらなかった。
「それでいいよ。あたし、強くなんて全然なれなかった」
もみじは力なくうなだれた。何もかももう無理だ、と思った。何もかも。
「それならな、もみじ。子供のお前にはまだできることがある」
「できることって?」
「信じることだ。根拠なんてなくても信じること。大人にはそれができない。せいぜい嫌な考えから目を背けることしかできない」
「信じるったって……」
何を信じろというのか。
「彼の、三鷹くんの死体は一切見つかっていない。あの程度の爆発で人間の体が蒸発するなんて考えがたい。だいいち、彼の前に立っていたのはうちの娘なんだ。娘は五体満足で生きてる」
もみじはパッと顔を上げた。
「じゃあ、誠介は……!」
「生きているだなんて希望的観測は、俺の口からは言えない。根拠が薄弱すぎて俺自身信じていないからだ。だけど子供のもみじは違う。そうだろう?」
「信じ……られないけど」
そんなこと、とてもじゃないが信じられない。
だけど——
「信じてみる、ううん、信じようとしてみようかな」
どのみち、このままでは生きていけないと思っていた。何らかの、生きていくためのよすがを探していた。
誠介の死を証立てるものは何ひとつない。それならば生きている可能性だってあるはずだ。
なにせ彼は無謀にも魔術師たちの戦いの場に割り込んだのだ、三カ月経っても帰ってこないのは、何か理由があってのことなのかもしれない。
ならその可能性を世界中でたった一人、自分だけが信じよう。
もみじはそう決意した。
「そうだな。——さて、そうと決まれば……」
「仕事?」
「いいや、家の掃除だ。このままでは彼が帰ってきたときに目を剥くぞ? 俺も手伝おう」
彼はそう言って立ち上がり、クマの残る目でウィンクしてみせた。
(高原さんは老けても変わらないな……)
泣き出しそうになるのを堪えて、もみじも腰を浮かせた。
ふたりで家中を片づけながら、もみじはふと、気になっていたことを尋ねた。
「室長は、娘さんのやっていることを信じてるんですか?」
彼は窓拭きの手を止めた。
「……ああ。信じてるよ」
返答に間があった。
ズルい大人だ、ともみじは思った。




