12-3
「やっぱり難しいもんだな。一回も成功しなかった」
「当たり前でしょ。そんな簡単にできてたまるかっての」
俺たちは外に出て、話しながら歩いた。思いのほか長居してしまったので、陽はとっくに暮れている。目的地はよくわからない。ミズジョの方に向かっているようにも思われたが。
「ここで仮説その二」
「何の仮説だよ」
「詩都香はどうしてネガティブなマイナス感情をあんなに持続させたのか」
まだ続いてたのか、その話。なんだかんだ言って、魅咲は魅咲で負い目を感じているのかもしれない。
「これは外在的な原因だけどさ。この世界、詩都香にとってはさっぱり優しくないんだよね。あんたの仇討ちしてる間もいろいろあったし、全部知ってるってわけじゃないけど、その後もあの子は傷つけられてばっかりみたい。そりゃ、鬱屈もするよね。
あたしもそうだったけどさ、魔法使えるようになった頃って、この力で何でもできるようになると思ってた。あたしはそこまで到達しなかったけど。でも、今の詩都香なんて史上最強のレベルなんだから、それこそ何でもありなはず。防御障壁で空気を閉じ込めて、日本海溝の底だって、それどころか月だって地球の中心にだって行ける。地震を起こすことも、台風を吹き飛ばすことだって可能。まあ、あたしも詩都香も伽那も、みんな戦闘に特化し過ぎてるけど、もっと魔法らしい魔法を覚えたり開発したりすれば、死者を蘇らせることだって、ひょっとしたら条件によっては過去を変えることだってできるかもしれない。異界の混沌にとっては因果律すら意味を持たない。それを詩都香はいくらでも操れる。それなのに、詩都香は何もしない。これが自分への罰だとでも考えてんのかな」
過去を変える、か。それができたら、俺はどんなに救われるだろう。
「十年前と比べてどう?」
ふと魅咲がそんなことを尋ねてきた。俺は感じたままを答えた。
「うーん、活気がある気がする。ただ、ちょっと空気が変わったかな。なんだか、近未来SFもののディストピアみたいに、みんな余裕を失ってるような」
「……やっぱわかるんだ。あたしたちはなんだかんだでもう慣れちゃってるからなあ。詩都香が〈リーガ〉を滅ぼした後になってね、段々世界の方向はおかしくなってきたんだよね。〈リーガ〉が“秩序維持者”を自認していたのは、嘘じゃなかったっぽいの。幹部はみんな詩都香に殺されたけど、無所属になった魔術師がそれこそ掃いて捨てるほど出た。今まで世界中を緩やかな統制下に置いていた〈リーガ〉が崩壊してみると、いきなり力の真空地帯が生まれた。各国は人道主義の仮面をかなぐり捨てて、剥き出しの権力政治でしのぎを削ってる。脱退国が続出して、国連がもう機能してないのは知ってる?」
俺は首を振った。リーガとやらがそんな機能を果たしていただなんて、俺はもちろん昔の魅咲だって思いもよらなかったことだろう。
「それだけじゃない」魅咲は続けた。「資本主義の行き過ぎにももう歯止めがかからない。進歩した技術はそのままに、利潤だけを求める心が十九世紀に戻ったみたい。規制もどんどん緩やかになってきてるし、それすら誰も守ろうとしない。“プロテスタンティズムの倫理”もどこへやら。あらゆる場面で生き馬の目を抜く時代……、それが今。詩都香がもたらした世界」
さすが大卒。魅咲は学のあるところを見せる。
辺りは次第に暗く、その一方で騒々しくなってきていた。
「犯罪件数もうなぎ上り。時にはそれに魔術師が加担してる。それから、リーガのもう一つの機能はね、ナイトシード——〈夜の種〉と呼ばれる、異界の〈不純物〉が具象化した存在を人知れず討つことだった。手っ取り早く『魔族』って呼んでもいいかな。常人では対処の難しいこの手の奴らを、各国当局の依頼を受けて排除してきてたってわけ」
それについては俺もよく知っていた。もしかすると魅咲たち以上に。
「それが機能不全に陥ったら、人間と〈夜の種〉の起こす事件の垣根が曖昧になっちゃった。凶悪事件が起こったら、人間の起こした事件なのか、それとも〈夜の種〉が起こしたことなのか、まずそこから判定しなきゃいけない。あるいはもしかしたら魔術師の仕業かもしれない。警察も上の方は魔法や〈夜の種〉の存在を知ってるけど、この判定はとても難しいって予想できるでしょう? というか、奇蹟の存在を認めたら、科学捜査が崩壊しちゃう。ほら詩都香が前に言ってたでしょ、近代科学は奇蹟が存在しないことを前提として発展してきた、って。社会的にも学術的にも新しいルールが構築されなきゃいけないけど、まだ当分無理だろうね」
かつて自分たちが生きていた日常は、〈リーガ〉が維持してきた合理性によって守られていたのかもしれない、と魅咲は言った。魔法のもたらす非合理性は、あまりにも急速に襲いかかってきた。
「一般にはまだほとんど広まっていないけど、それももってあと十数年だろうね。もちろん、裏社会ではとっくに知られてるし、一部の大企業も察知してる。警察も司法も、今はまだ“奇蹟“を裁けない。それどころか、一見普通の事件だって実は魔法や異能が行使されているのかもしれない、って及び腰になってる。しのぶの事件、覚えてるでしょ?」
魅咲の言うとおりだ。来栖の——保奈美の事件は、ひとつの結果から合理的過程を遡ればひとつの原因に行き着くという、法治国家の基盤を崩すものだった。あのときはそこまで考えが回らなかった俺も、高原から言われたことで理解できた。
過程に魔法という非合理的なものが混入しうることをひとたび認めれば、原因はいくらでも想定可能なのだ。
ある場所から現金が盗まれた。防犯カメラにはある人物がそれを行う映像が残され、その人物の指紋も現場に残されている。今までの思考様式では、その人物が犯人であることに疑いは生じえない。
だがここに、例えば〈変身〉という魔法が介入している可能性を裁判官が知ってしまっていたら、彼は確信を持ってその人物を裁くことができるだろうか。
現行犯にしたところで同じだ。
俺はまだ見聞きしたことはないが、他人の精神を操る魔法だってあるかもしれない。そうでなくとも、他ならぬ高原があの居酒屋でやってみせたように、強力な念動力で行動だけを操作することも可能だろう。
電車の中で、俺の手だけが勝手に動かされて隣の女の子にタッチする。それだけで俺はしょっぴかれることになる。
そしてまた、魔法や異能の存在が認知されていたら、俺の方だって言い訳は可能なのだ。
——手が勝手に動いた。誰かが魔法を使ったに違いない。
誰が裁ける? 誰が真相にたどり着ける? 本当は俺がやりたくてやったのかもしれないのに。
奇蹟が——魔法が認められた社会というのは、あらためて考えてみると恐ろしいものだった。〈リーガ〉があれほど魔法の存在を秘匿しようとしていた理由もわかる気がする。
……そして、その〈リーガ〉ももはや存在しない。魔法の知識は、今は各国政府の上層部によってほぼ独占されている。
「でもね、世俗的な利害関心を持った一部の人間に魔法が独占されているというのも危ない。例えば、そうだな、少し大げさな話をすれば、どこかの独裁国家のことを想像してみて。民主化の要求が高まって、統治基盤が危険に晒されている。でもそこで、民主化運動の指導者が婦女暴行や幼児虐待のような卑劣な犯罪のカドで逮捕される。今までなら不当逮捕だとしてかえって体制への批判が高まるところだけど、体制側は自信満々で誰の目にも明らかな“証拠”を開示できる。……どうなるかわかるでしょ? そしてそれは、独裁国家なんかじゃなくても、どこの国でも起こりうるし、さらには他国にも仕掛けうる。よくある陰謀論が笑って済ませるものじゃなくなってるわけよ。〈リーガ〉はよほどのことがない限り政治にノータッチだったから、今まではそういうことはあまりなかったんだけどね」
新しいルールが定められない限り、魔法の存在が広まっても一部に留まっても、いずれにせよ出来するのはこうしたディストピアだけなのだ。だけどそのルールを定めることさえ、ひどく難しい。
高原はそれをわかっていたのだろうか。わかってて、それでもやらざるをえなかったのだろうか。
魅咲はそこで足を止めた。
「ま、話が広がりすぎたけど、とりあえず今のところ問題なのは、魔術師や異能者や場合によっては〈夜の種〉が犯罪に関わっていて、しかもそれが裁かれないってこと。世界中どこでも、そういう奴らを抱えた組織が勢力を伸ばしてる。強盗、殺人、ドラッグ、なんでもあり。……ここもそんな魔窟ってわけ」
――こことは?
と見れば、魅咲に先導されるまま、見たこともない街路に足を踏み入れていた。落書きだらけのシャッターが目につくかと思えば、窓に鉄格子をはめて営業している怪しげな店も多い。足元の舗装は頼りなく、雨水と吐瀉物が混じったような水たまりが黒々と口を開けている。俺にさえ一目でそれとわかる商売女やら薬物の売人やらが道の両側に並び、生きているのか死んでいるのかさえ不明な人間がそこかしこに座り込み、あるいは倒れ込んでいた。笑い声に怒鳴り声、バイクの爆音、それから、聞き間違いと思いたいところだが拳銃の発砲音っぽいものさえ、遠く風に乗って届いてくる。
良好な環境と景観を売り物にしていたこの街にもこんな険呑な区画ができたのか――などと思わずちょっと感心してしまうくらいに、世紀末な雰囲気が漂っていた。
「びっくりした?」
いたずらっぽく横目で俺の顔を見上げる魅咲に頷く。
「ああ、びっくりした。ここ、どの辺?」
「ありゃ、気づいてなかったの? 昔風見高校があった辺り。もうとっくに廃校になっちゃったけど」
俺は思わず天を仰いだ。となれば、あのとき高原を手当てしてやった公園も、この無法地帯の中に埋もれているのかもしれない。
「詩都香から聞いてるよ。あんた、大活躍だったんだってね」
「大したことはしてねーよ。女を二人泣かせただけだ」
「何それ? ハードボイルド気取り?」
からからと笑う魅咲は迷いなく歩を進めた。辺りの光量はますます乏しく、危険の臭いはますます濃厚になっていく。普段からこんなヤバ気な道通ってるのかと尋ねると、魅咲は軽く首を振った。
「じゃあ、なんで――」
「ねえ、誠介? あんた、体鈍ってない?」
俺の質問を遮って、魅咲がこちらに向き直った。
「いや、別に鈍ってるも何も、お前らにとっての十年前と変わんないぞ? お前以外にはそうそう負ける気はしねえ」
子供の頃は魅咲の家の道場でだいぶしごかれたし、その後もそれなりに鍛えてきたつもりだ。
「……そう。そんじゃ、頼りにしてるから」
「は?」
などと魅咲の意図を質す前に、俺も気づいた。
——囲まれている。




