12-2
にじむ涙を隠すように顔を伏せながら外を歩いた。高原の部屋にはとてもいられなかった。
昨晩の琉斗の別れ際の言葉が耳に蘇った。
一番傷ついた奴だって? 高原以外に誰がいる?
……俺は高原に裁かれたいのだろうか。
気持ちは千々に乱れ、どうしていいかわからなくなり、昨晩の琉斗との殴り合いの際以上に俺は荒れていた。
駅前を歩いている間に、よそ見していた奴から三回ぶつかられた。
一度目は軽く頭を下げた。相手はそれをかさに着て、怒鳴りつけてきた。
二度目は舌打ちしてやった。危うく口論になりそうになった。
三度目は無言でぶっ飛ばしてやった。すぐ近くでは悲鳴が上がったが、他はまるで無関心。殴られてうずくまる奴以外は、われ関せずとばかりに、やはり手元に目を落としながら歩いていく。
どうなってんだ、この世界は。高原がリーガだかなんだかを滅ぼして、全人類をその統制から解放してやったはずのこの世界は。
夕方まで熱に浮かされたように歩き回り、気づけば俺は裏路地に迷い込んでいた。そこでまた誰かにぶつかられた。
――この野郎! これで四度目だぞ!
顔を伏せていた俺にも非があるのにもかかわらず、「習慣は第二の天性」という昔の偉い人の言葉通り、ほとんど習い性のように手が出た。
だが、その拳は軽々と受け止められていた。
「……ったく。何やってんだ、あんたは」
その相手、ポニーテールを揺らす幼馴染は、俺の手を握りつぶさんばかりの力を弛めることなく、器用に肩を落として溜息を吐いた。
「魅咲……」
その名を呼んだ俺の目から、とっくに渇き切ったと思っていた涙がこぼれた。
次の瞬間には、魅咲に抱きついて嗚咽を漏らしていた。
魅咲は何も言わず、俺の背中をさすってくれた。
「あはは、まさか誠介とこんなお店に来ることになるなんてね。高校の頃は想像もしてなかったな」
「そいつはお互い様だ」
二人の掲げるグラスが、チン、と音を立てた。中身は食事に先駆けて運ばれてきたロゼだ。
俺は口をつけただけでグラスを下ろした。ジュースみたいな鮮やかな色なのに、渋味があってあまり美味しいとは思えなかった。
一方の魅咲は、くいっと小さく中身を呷った。昔から明るい性格だったし、酒豪になっていたらどうしようかと俺は心配になってしまう。
魅咲と俺は駅前通りに戻り、少し早目の夕食を摂っていた。
高級店というほどではないが、資力の点では高校生である俺にはややキツいくらいのイタリア料理店。魅咲は「お姉さんに任せなさい」などと一昨日の高原みたいなことを言って、支払いを請け負ってくれていた。
俺があんな風に荒んでいた理由について、魅咲は何も訊かなかった。あるいは何か察するものがあったのかもしれない。
「……あたしのこと、薄情な奴だと思った? あんたの仇討ち、結局全部詩都香に任せちゃった。詩都香よりもあたしの方が、あんたとの関わりずっと深いのに」
「いや、別に」
グラスをテーブルに置いた魅咲の問いに、小さくかぶりを振る。これ以上ロゼに手を出す気力もなかった。というか酒はもうこりごりだ。
「なんかあたしが薄情なのが織り込み済みみたいになってない?」
「んなことないって。いつか言わなかったっけ? お前まで高原みたいだったら、気疲れするって」
魅咲まで退学して、いろいろなこと犠牲にして、俺の仇討ち? 冗談じゃない。
「……そっか。ま、そうだよね。あたしは詩都香みたいになれないし」
それもいつか聞いた。
「俺はさ、魅咲には変わらないでいて欲しいんだよ。あのときみたいな想いをするのはもうごめんだ」
記憶にこびりついたあの日。
魅咲が誘拐されたと聞いたあの日。
「……ん。いや、ごめんね。冗談」
誤魔化しの色を交えない俺の言葉に意表を突かれてか、魅咲は気まずげに片手を振った。
「でも、詩都香みたいになれないってのはほんと」
グラスに手を添えた魅咲だが、結局それを口元に運ぶことはせずに言葉を継いだ。
「お前家事できないもんな」
そう言ってやると、魅咲は顔をしかめた。
「それもあるけど、そういうんじゃなくてね。大学の心理学の講義で習ったんだけどさ、あたしたち人間の心って自分で思ってるよりタフにできてるらしいのよね。あんた、失恋したらどれくらい引きずる? ……って、これは尋ねる相手間違ってるか。あんた失恋しっぱなしだもんね」
「失礼な。高原にフラれるたびに丸二日くらいへこむっつーの」
「やっぱ間違ってた。いや、ある意味正しかったのかも。ま、失恋もそうだけど、挫折して夢破れたり、親しい人に先立たれたり、そういう出来事があったら落ち込むだろうなあって思うでしょ? どれくらいの期間落ち込むと思う? 五年? 十年? それとも一生? ――でもマイナスの感情って、自分で予想していたほど長くは続かないんだって。まあ、この論のキモは、マイナスな気持ちの持続期間をあたしたちはどうして事前に過大評価しちゃうのか、って話なんだけどね。それは置いといて。
あたし心理学専攻じゃないし、正直心理学なんてバカにしてたけど、これって当たってるなぁ、って思った。あたしも伽那も、あんたが死んだとき――あ、面倒だから死んだってことにしちゃうけど――すごく落ち込んだ。詩都香があたしたちの前からいなくなったときも、ほんと辛かった。一生引きずっちゃうと思ってた。でも、一年が経ち、二年が経ってみると、辛くて淋しいのは変わらなかったし、トラウマ級の記憶ではあったけど、それでもいつの間にか日常を送ってた。忘れるってのともちょっと違うんだけどさぁ」
「いいって。それが当たり前だ。薄情だなんて思ってない」
その心理学説の当否はわからないけど、俺にも覚えがある。
傷ついた心はいつの間にか繕われ、痛みを薄れさせ、ときたま疼くだけになってしまう。何かのきっかけでその古傷が血を噴くことはあれど。
「うん。でも、なんかごめん。謝りついでにもうひとつなんだけど、そんな講義を聴いて、少しだけ安心しちゃった。あたしがおかしいんじゃなくてそれが普通なんだ、って。伽那だってそう。あたしも伽那も、引きずってないって言ったら嘘になるけど、やっぱり今の日常も大事に送れてる。——だけど、そこで思ったんだ。じゃああの子は何なんだろう、って。どうしてマイナスの気持ちをそれだけ持続させちゃうんだろう、って」
「……高原か」
「あ、勘違いしないでね、あんたの死を軽んじてるとかそんなんじゃ全然ないんだから。あたし、あんたが死んだことで一番ショックを受けた自信があるし」
変てこな自信だな。
でも、言いたいことはわかる。こんなことを自問自答するのも悔しいが、俺は果たして高原にとって特別な存在になっていただろうか? つき合いの長い魅咲の方がまだしも引きずりそうなもんだ。それなのに、高原は俺が死んだと思い込んだ後、三年半にもわたって一人で戦い続けた。
「詩都香って、やっぱり特別なんだと思う」
やっぱりとは? と聞き返しかけたが、すぐに思い至った。
「あの、感情のエネルギーだかなんだかを使う、〈超変身〉か」
魅咲は少し眉根を寄せながらも首肯した。
「言っとくけど、そんな呼び方してるの詩都香だけだからね? あんなんだから“あれ”ができるのか、“あれ”を使ってるからあんなんなのかわからないけど。——当然だけどさ、“あれ”をやるためには、強烈な負の感情が一番手っ取り早いわけ。怒りや憎しみみたいな」
「暗黒面、ってわけね」
我ながら絶妙なこの表現に、しかしながら魅咲はきょとんとした。
「何それ? あんた、詩都香の気を引くために色々見過ぎて、やっぱ知識が偏っちゃったんじゃないの?」
「そいつは否定しないが、これくらい知っておくべきだと思うぞ? 教養としてさ」
ああ、誠介がどんどん変になっていく――などと失礼にも頭を抱える魅咲。
「まあ、なんでもいいや」立ち直りも速かった。「詩都香も今でこそ史上最強の誉れも高い魔術師だけど、あの頃はまだまだ半人前だったわけで、〈リーガ〉と戦うために“あれ”を何十回も何百回も繰り返したんだと思う。制御の利かない負の感情をわざわざ奮い起こして。だからきっと、あの子の精神はぼろぼろ……ううん、もうとっくに壊れてる」
魅咲はそこでやっと、喉を潤すようにもうひと口ワインを飲んだ。
「詩都香って、どうしてああなんだろう。何でもひとりで背負おうとして……。あたし、昔から心配だったんだ。もっと時間があれば、少しずつ変えていってあげられたかもしれないのに」
グラスを下ろした魅咲が、ぼんやりと頬杖を突く。
「あの性格、俺は嫌いじゃなかった。でも、たしかに今のありさまを見てると……」
今日盗み見た日記。そこから浮かび上がった、いろいろなものを振り捨てた痛ましい高原の姿。
「あたしも。嫌いじゃなかったよ、ああいうところ。ああはなれないな、って尊敬さえしてた。でも……たぶん、それじゃダメだったんだ」
魅咲の目は、たったふた口のワインでトロンとしていた。強くはないらしい。
気高くて脆い心——高原の美点であり、大きな欠点。
俺はそんなところにも惚れていたはずだった。だけど……。
前菜のサラダが運ばれてきた。普段ファミレスやファストフードばかりの俺には、ずいぶん時間がかかったように思えてしまう。
「でもさ、いい奴なのは間違いないんだよね。覚えてるでしょ、しのぶが停学食らったときのこと。熱い奴だなあ、と思っちゃった。しのぶとなんて全然話したことなかったくせにね」
高原のそんな所は、俺もよく知っていた。
何に影響されたのか、普段クールぶってるけど、いや、そういうキャラ作りしてるけど、実際のところ、高原はめちゃくちゃ熱い奴なんだ。
高原がひどく直情的な面を持っているのは、たぶん当時の同級生の誰もが知っている。むしろ親友の魅咲や一条の方が、普段クールぶってる高原が誤解されることを怖れるあまり、みんなの暖かい理解に半信半疑だったフシがある。
「あたしと伽那って、逆にみんなのこと誤解してたみたいね。後になってわかったけど、あの子のいいとこ、みんなちゃんと知ってた。今から思うと不思議なんだけどさあ、長くつき合えばつき合うほど、詩都香のことを自分が一番よく理解してるって気になんのよ」
皿の上のミニトマトにフォークを突き刺そうと悪戦苦闘しながら、魅咲が言う。
「いや、今だから言えるけど、なんとなくわかる」
俺だってまだ高原の全てを知っているわけじゃない。でも、他の誰かが高原のことを短絡的に評価しようとしたら、同じような感情を抱くことだろう。
やっと確保できたミニトマトをもぐもぐと咀嚼してから、魅咲はみたびグラスに手を伸ばした。
「……だけど、やっぱりそれじゃダメだったんだ」
そう言い、さっきより心持ち多めにロゼを飲む魅咲は、まるで苦いものをアルコールで流し込もうとするかのようだった。
そこで主菜のパスタがやって来た。俺はシーフードとトマトのクリームパスタ。魅咲は旬野菜のペペロンチーノだった。
「わ、美味しそう!」
ぱん、と手を打ち鳴らした魅咲が歓声を上げる。
「いや、美味いぞ」
俺はさっさとパスタを絡め取ったフォークを口に運んだ。
「ちょっと、早すぎ!」
魅咲が理不尽な抗議をしてくる。しかし、当人はなかなかフォークに手を伸ばさない。
「相変わらず猫舌なんだな、お前は」
口の中のものを咀嚼し終えてから、からかってみる。
「仕方ないでしょ。……ん、でも覚えててくれたんだ」
「ギャップが激しいからな。無敵の魅咲さんとは、だいぶイメージが違う」
「ギャップ萌え?」
「……お前も、なんだかんだでやっぱり高原に毒されてんだな」
魅咲は急に黙った。
「……魅咲?」
「詩都香もさ……」
ややあってから魅咲が口を開いたとき、俺はちょうどパスタを口に入れたところだった。急いで飲み下しながら、こくこくとうなずく。
「……んぐっ。高原が、どうした?」
「詩都香もやっぱり女の子だからね。迷惑そうなふりしてたけど、あんたから『好き』って言われるの、嬉しかったみたいよ。ほら、これも」
そう言って取り出したのは、またあの携帯。
「やめろよ」
俺は慌てて手を伸ばした。しかし魅咲の手はひょいと後ろに逃れる。
「大丈夫だって、再生しないから。あんた何度も詩都香のこと呼び出して告白してたじゃない? そりゃ詩都香だって学習するわよ。あの時も、きっとあんたから『好きだ』って言われるの、期待してたんじゃないかな。だから録音なんてしちゃったんだと思う。本人は出来心だって言ってたけどね」
ふむ、もうひと押しだったってことかな。しかし、そうだとすると……
「魅咲、お前、とんでもないタイミングでとんでもない告白させやがったな」
魅咲は珍しく目を泳がせ、それからがばっと頭を下げた。頭でテーブルを真っ二つにするつもりかと思い、俺は仰け反ってしまった。
「……ごめん。反省してる。あんたの告白が成功してたら、ひょっとしたらこんなことにならなかったかもしれないのに。他意はなかったんだよ、ほんとに。難攻不落の詩都香を落とすには、色々変化球投げて反応を測ってみたかった。ほんとに、ほんとにそれだけ。……ごめん」
文句は垂れてみても別に恨みに思っているわけではなかったので、俺の方が慌てた。そんなに真剣に謝られると困惑してしまう。
「い、いや、いいんだよ。こっちだって手詰まりだったし」
魅咲は頭を上げた。
「……怒ってないの?」
「怒ってない、大丈夫だ」
「じゃあ、この件はこれで手打ちでいい?」
俺としては手打ちも何もないもんだが、この機会に一つだけ聞いておきたいことがあった。
「いいとも。……ただ、ひとつ教えてくれないかな」
俺は十年前には魅咲にいくら聞いても教えてもらえなかった問いを口にした。
魅咲はしばし口を噤んでいたが、やがて頷いた。
「……わかった。まあ、今さらだしね。〈リーガ〉ももう存在しないし。——ただ、あたしの方もこの後あんたにもちょっとつき合って欲しい所があるんだけど、いいかな」
今度は俺が頷く番だった。
……不思議だ。
昔からそうだった。
どちらかと言うと癇の強い子供だった俺も、魅咲に会うと心をなだめられていた。
こいつの前に立って、話を聞いてもらったり、ときには悪さが過ぎて拳骨を頂戴したりすると、ささくれ立った心が嘘のように修繕されてしまうのだ。
それは今でも変わらない。
きっと、幼馴染ってそういうもんなんだろう。
——だけど。
俺だって、そんな風に安心をもらいっぱなしじゃいられない。




