9.「小児」〜再会
「おーい! 誠介くーん!」
不意に、聞き慣れない調子の聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。きょろきょろと辺りを見回すと、
「こっちこっち!」
反対側の歩道で手を振る一人の少女の姿が目に入った。信号待ちをしている間にこちらを見つけたようだ。
同じく信号待ちの周囲の人々が、そのあけすけな行動に彼女の方を見遣る。次いでその視線が、声に応えて曖昧に手を挙げた俺の方に向けられた。
特に若い男たちの顔に、値踏みとやっかみの色が浮かんだように見えたのは、あながち俺の被害妄想の仕業とも言えないだろう。
気持ちはわかる。黒の長そでカットソーにベージュ地チェック柄のスカートという地味な格好ながら、彼女は人目を惹いてやまない美少女だ。磨かずとも光る原石とでも言おうか。
だから悪い気はしないが、少々オーバーなこの呼びかけは、さすがに気恥ずかしかった。
周りに向かって、心の中で詫びる。
――未成年のバカップルの、いかにも“らしい”行動っぽいだろ? ……だから、大目に見てくれよ。なんせこう見えてこちらは十年ぶりの再会なんだぜ?
魅咲の言葉を思い出す。
「魔力にはほんのわずかだけど寿命を延ばしたり、老化を遅らせたりする作用があるの。熟達した魔術師はその作用を制御することもできる。自分のペースで年をとれるってわけ。もちろん、使った魔力の量に応じた限界はあるし、魔力の精錬が下手な魔術師は、〈不純物〉のせいでかえって寿命を縮めることもあるけど。……だからあたしも若干年の取り方が遅いのよね。制御の仕方を学んだのも、しばらく経ってからだし。おかげで、社内をうろついてると女子大生の就職活動に見られることがあったり。
……でも、詩都香はその方法を知らないまま力を使いすぎてしまった。しかも、あの子は〈不純物〉をもまるごと燃料にするほど〈炉〉の効率を上げる異才を持ってる。普通の魔術師の何千年分もの魔力を、四年足らずで使ってしまった。今さら制御を開始しても、もう手遅れなくらいにあの子の老化……というか成長のペースは鈍くなった。このまま二度と魔法を使わなくても、詩都香はもう何百年も年を取らない」
すっかり日は落ちているが、街の灯は彼女の姿をくっきりと浮かび上がらせていた。
通りの向こうで手を振る高原詩都香は、俺の体感で数時間前――この世界にとっては十年前――の、つまりは十五歳の高校生そのままの姿だった。
俺と高原は、魅咲の仲介によって市役所前で待ち合わせしていた。
ひっきりなしに行き交っていた車が、列を成して止まる。
歩行者信号が青に変わった。
高原はまっさきに駆け出した。ああ見えてあいつは存外足が速い。宙を駆けるように弾むその体は、迷った末結局その場で待ち受けることにした俺の胸に――驚くなかれ――飛び込んできた。
軽く息が詰まりながらも、どうにか衝撃を巧く受け止めることができた。
ぎゅっと俺を抱きしめた体勢のまま、高原がぽつりとつぶやく。
「おかえり」
返答に躊躇した。
「……ああ。ただいま……でいいのかな」
「わたしにとってはそれでいいよ」
俺の胸から顔をもぎ離した高原が、上目遣いにこちらの顔を覗き込みながら言った。その頭は俺の顎よりちょっと下にある。
顔の造作が変わっていないだけじゃなく、結局背丈の方も大台に乗ることはなかったようだ。
……たぶん、この先もずっと。
万感の想いというには程遠い俺の感慨(だって、半日前に会ってるんだし)とは別に、俺を見上げる高原の顔が、みるみる歪んでいく。その眦に、あの公園での出来事以来俺には見せたことのない涙が溜まっていく。
「え? あ、おい……?」
しゃくり上げるような声と共に、再び顔を俺の胸に埋めて、高原は人目もはばからずに泣き出した。さすがにこんな姿は見たことがない。
十年分の涙なのかもしれない。高原の嗚咽はまだまだ止まりそうになかった。
周囲からのプレッシャーがびんびん伝わってきた。一刻も早くその場を離れたかったが、とはいえこの場合、高原の気が済むまで泣かせてやる外、どんな選択肢が取れただろう。
……まあ、悪い気はしないけど。
ああそうさ、俺はこんな美少女を泣かせる罪作りな男なんだぜ――そんな斜に構えた心持で、高原の背に手を当ててやりながら、俺はプレッシャーをはねのけ続けた。
「誠介くん、一緒にご飯でもどう?」
五分程で泣き止んだ高原が、ハンカチで目元や鼻の辺りを拭いながらそう訊いてきた。
もちろん、俺が断るはずもない。
「いいよ。どこに行く?」
そう訊き返しつつ、頭の中で財布の中身を勘定する。ついでに、タウン誌に載ってた「デートで行きたいお店MAP」を脳内検索。もちろん、いつ高原を誘う機会があってもいいようにチェックしていたものだ。
しかし、さっきタクシーを使ったせいで懐は心もとない。あまりお高い所へは連れて行けない。
高校生にしてはそれなりに高給取りだった俺だが、学校に持っていくのは最低限の金額だ。タンス預金していた残りのお金は、きっと部屋の解約とともに実家にでも引き取られたのだろう。
それにそもそも、十年前の雑誌のデータがどこまで通用するのか。
こちらのそんな思案を見透したのか、高原がにこっと笑った。
「ま、ま、お姉さんに任せなさい」
……ああ、年上の自覚はあるのか。
高原は俺を先導するように、心持ち前に立って歩き出した。さっき高原が来た側に道路を渡り、信号が変わるのを待ってから、同じ交差点を今度は直角に渡る。それから、俺が待っていた角とは対角線上のブロックを薄氷川の方に向かった。
高原の歩調は傍目にも無理が見て取れるほど急だ。俺の足に合わせようとしているのだ。男性と歩くのに慣れてないのがよくわかる。
――そんなに急がなくても、男なら誰だってお前のペースに合わせるのに。
そう思ってもなかなか言い出せないでいるうちに、市役所前の交差点から東にひとつ入った路地を右に折れる。駅前の大通りがカフェやおしゃれなレストランが並ぶデート向けのストリートだとしたら、こちらはコンパを開催する大学生や若いサラリーマン相手にアルコールを提供する店が固まっているゾーンだ。俺だって数えるほどしか足を踏み入れたことがない。
意外に思いながら斜め前の高原の背を追う。間もなく、一軒の店の前でその足がピタッと止まった。薄いガラスの自動ドア越しに、白々しい照明と陽気な喧騒が漏れてくる。
「ここって……居酒屋?」
「いつまでもファミレスってわけにもいかないでしょ。安場で悪いけど、フリーターの稼ぎでおごるんだから我慢してね。……あ、お酒飲んだことがないとは言わないわよね?」
ねーよ。別におごらせるつもりはなかったのだが、確かにこの手の店だと、今の俺の所持金では割り勘も難しいかもしれない。だけど——
(大丈夫なのか?)
なにしろ高原はあのナリだ。今の俺とでは、まさしく高校生カップルにしか見えないだろう。
案の定、先に立って入店した高原は、困惑顔の店員から応対を受けていた。
――詩都香ってば、運転なんかしないくせに、原付の免許取ったんだよ。年齢確認されるときに便利だからって。
カフェでの重苦しい会話の折、魅咲はそこだけ楽しそうに言っていた。俺が期末考査の期間中に免許を取りにいったのを思い出していたのだろうか。
魅咲のその言葉通り、高原は店の入り口で年齢確認を受け、免許証を提示した。
店員が目を丸くした。大学生と言われればまだしも納得できるかもしれないが、どうしたって二十五歳には見えないのだろう。
「お連れ様の方は……」
疑わしげな店員の目が、今度は後ろに控えた俺の方に向いた。
まあ、高原と違って、俺は正真正銘の高校生だから仕方がない。
……いや、もう高校生とも言えないか。法律上は死者、生年月日に照らせば満二十六歳、肉体的には高校生。——今の俺はそんないびつな存在だ。
しかし参ったな、二十歳以上と言い張れるような物は持ってないぞ。
あたふたしている俺のそばに、高原が歩み寄ってきた。
『何でもいいからカード出して』
高原が口も動かさずに“声”を伝えてきた。例の精神感応というヤツだ。至近距離だからか、あのイヤリングを着けてなくてもレーザービームのようにびんびん伝わってきた。
高原には何か考えがあるのだろう。俺は落ち着き払った態度を装って、一枚のカードを財布から抜き出した。何でもいいと言われたので、高校の学生証だ。
『うわ、懐かしい。……他のにして』
高原は手にしたそれを見つめたてから、突っ返してきた。
……失敗だったかな、中退してしまった奴に学生証を手渡すだなんて。
素直にその“声”に従い、今度はカラオケ店の会員カードを出す。試験後の打ち上げの際に作ったものだが、既にその店がなくなっていたのは先ほど確認済みである。
『ああ、これも懐かしいな。昔みんなで行ったよね』
そんな“声”を残し、カードを受け取った高原はカウンターに向かった。その手の中で淡い光が迸ったのを、俺は見逃さなかった。




