18-2
長いので、前半は読み飛ばしてくださって結構です。
しばらく呼吸をすることさえ忘れていたことに気づき、大きく息を吐いた。
樹々の奥から、気を失った一条の両手を持ってずりずりとぞんざいに引きずりながら、足取りの覚束ない魅咲がやって来るのが見えた。
二人の到着を待つ間、一条の手紙を読んでおくことにする。
やや乱暴に封を開けた俺は、思わず苦笑してしまった。
「あのときの便箋かよ」
二人で寄り道した文房具屋で買った便箋。うちにも同じものがある。
十年も経ったというのに、物持ちのいいお嬢様だ。
一条の手紙は長文だった。少し筆跡に乱れがあり、手紙という形式のためかやや硬めの文体と、相手が俺であるためなのかフランクな文体とが入り交じっていた。
『三鷹くん
日本行きの機内でこれを書いています。わたしもまだ考えがまとまらずに、とりとめのない内容になるかもしれませんが、ご寛恕ください。
ま、この手紙が三鷹くんに読まれる可能性は、十に一つってところかな? 消えてるかもしれないし、残ってるかもしれない。ていうかそれ以前に、わたしがしくじってるかもしれない。それから、三鷹くんがこれに気づかないってことも十分考えられるしね。
でも、読んでもらっているという前提で書きます。読んでもらっているということは、未来からの援護射撃は成功したということですよね。たぶん三鷹くんはこのためにこちらの世界に飛ばされてきたんです。だって、いくらなんでも攻性魔法の爆発なんかで時間を越えられるはずがない。時間跳躍の魔法を研究し続けて、よくわかりました。
そうです、わたしは五年あまり、過去を変えるための魔法も研究してきました。
最初に出た結論は――不可能。この手紙のように物を跳躍させたりすることは可能のようでしたが、条件が整わないと自分の望むように歴史を変えることはできません。ところが、その結論に打ちひしがれていたわたしのもとに、希望が飛び込んできました。それは三鷹くん、あなたです。時間を越えてきた人間が実際にいるのなら、わたしの魔法でだってどうにかできるはず。しかも、三鷹くんが来たことで時間の流れが大きく歪みました。そこでわかったんです、三鷹くんの帰還こそが、わたしが過去を変えるための最大の条件だったって。
詩都香から借りっぱなしの〈魔映鏡〉を使って、この数日、あのとき起こったことを何度も何度も検証しました。結果、三鷹くんが消えたのは、さっきも言った通り爆発のせいなんかじゃないことがわかりました。
じゃあ、どうしてこんなことが起こったのかって? 詩都香です。詩都香が三鷹くんを飛ばしたんです。ひとつには守るべきものを守るため、そしてひとつには敵に勝つために。未来の自分からたった一撃の援軍を引き出すために。
あのときの詩都香はきっと、そんなことは考えてなかったに違いありません。現状を打破するためにはもっともっと強い魔力が必要――たぶん、それだけを考えていたんでしょう。あの時の位置関係、覚えていますか? 三鷹くんは高樹町方面の麓から来ました。そこにあの攻性魔法が飛んできた。二人の背後には、街があったんです。三鷹くんにはちょっと辛い言い方かもしれないけど、詩都香が守ろうとしたのは三鷹くんだけじゃなかったの。三鷹くんが帰ってきたって聞いた琉斗は、問い詰めてやるなんて息巻いていましたが、三鷹くんが居ようが居まいが、詩都香はあの場で魔法を食い止めるほかなかったんです。
詩都香は相当迷ったのでしょう。相手の魔法の威力が尽きるまで防御障壁で支え続けるか、それとも〈超変身〉して押し返してしまうか。
残念ながら、あのままでは詩都香の張った障壁が先に破られてしまうのは目に見えていました。〈超変身〉だって、詩都香のはうまくいくかどうかわからないし、知ってるかな? 同じ魔法を重ねて使うことはできないって。もっと強い魔力を込めた障壁を展開するには、一度それまでのものを解除しなければいけないの。それでは本末転倒ですよね。
均衡が崩れようとしたあの時、わずかの間だけ詩都香の髪が青く光りました。詩都香の〈超変身〉。その魔力を全部使って、詩都香は未来を創ったんです。三鷹くんをその場から避難させて、なおかつ街を守るために必要な未来を。
針の穴を通すような、ごくわずかの可能性だったんだと思います。たぶん、二度とは成功しない、本当に奇跡のような魔法。——ううん、二度と使わせちゃいけない魔法。
あの時の詩都香の力は、〈超変身〉したところでたかが知れていました。〈器〉の容量が少なくて、人を時間跳躍させるような魔力を一度に使うことはできません。――ただひとつの方法を除いては。
『困難は分割せよ』――昔の偉い人は言いました。
〈超変身〉した詩都香は〈モナドの窓〉を全開にして、瞬時に貯まる魔力で、無数の魔法をほとんど同時に使ったんです。あの時点で可能だった、限定された数の、それでも計り知れない数の未来を、ひとつひとつ叩き壊して、たったひとつの、一番ありそうもない出来事から分岐するものだけを残そうとしたんです。それが、三鷹くんが時間跳躍することで始まったこの世界でした。そうやって条件を整えた上で、時間跳躍の魔法を使ったんです。
『未来の強度』って聞いたことあるかな。SFで平行世界ものが流行った頃に書かれた論説文なんだけどね。偶然の事象や個々人の選択の結果無数の平行世界が生まれるのだとしても、そのひとつひとつが同格の権利で存在するわけではないだろう、というもの。考え難い偶然やまず採るわけがないような選択から分岐した世界は、数え切れない平行世界の中でユニークな存在となるとはいえ、その存立基盤は他と比べて薄弱なのではないか、って。奇蹟から分岐した世界はその奇蹟に必然的な意味づけが与えられない限りまさに蜃気楼のようなものなのかもしれません。
詩都香は本来生起するはずだった未来からその“強度”を削いでいき、他の回路に接続しやすくしたのです。時間跳躍をいっぺんに為すのではなく、そうやっていくつもの未来の“強度”をほとんど時間差なく下げて、極めて“強度”の低い、極めてありえなさそうな未来へと、時間の流れを分岐させてしまったのです。それが——三鷹くんが消失するという事態から分岐したこの世界です。
詩都香本人は、もしかしたら時間跳躍の魔法を成し遂げようなどというつもりはなかったのかもしれません。ただ単に三鷹くんを安全な場所に退避させようというつもりだったのかも。この辺りの意図は、わたしにもわかりません。
しかしそれがこの結果を生みました。しかもなおタチの悪いことに、詩都香自身もそのことを忘れてしまった。〈超変身〉した上にギリギリまで魔法を使った詩都香は、気力・体力ともにほぼゼロになるまで衰弱しました。普段でさえあれをやると虚脱状態になるし、前後の記憶を失ってしまうことが多いのに、あんな無茶をしたら当然です。
わたしは詩都香のやったのと同じ方法を使って巻き戻したつもりです。正確にはこれから巻き戻すつもりです。ただ、いくつかは魔法じゃなくて別の条件で置き換えざるをえませんでした。まだ全部が揃ってるかはわからないけど、この手紙を読んでる三鷹くんには結果はわかってるはずです。
わたしたちのこの世界はどうなるんだろうね? SF小説でよくあるみたいに、平行世界として残るのかな? それとも――消えちゃうのかな。わたしはそれでもいいと思います。そう願ったんだから。
わたしは欲深い女なんです。詩都香が〈リーガ〉を滅ぼしてくれて、わたしは普通に生活することができるようになりました。琉斗は申し分のない夫です。魅咲だって仲良くしてくれてます。映画だったら、十分なハッピーエンドを迎えたと言えるのかも。
そんな幸せも、過去をやり直したらどうなるのかわかりません。琉斗とは、詩都香を介した先輩と後輩で終わることもあるでしょう。ひょっとしたら、〈リーガ〉の魔術師にわたしがさらわれるかもしれません。もしくは戦いの中で誰か、ううん、もしかしたらわたしたち三人とも死んじゃうかもしれません。
でもね、やっぱり詩都香がいないのはイヤなんだ。あんなに苦しそうな詩都香を見ていたくないの。わたしが好きなのは、クールぶったり、照れてるのをごまかすために仏頂面を浮かべたり、からかわれて真っ赤な顔になったり、自分のスタイルに固執したり、「しょうがないなぁ、伽那は」なんてわざとらしく溜息を吐いたりする詩都香なの。
たぶん、この世界は消えるんじゃないかと思います。時を越えて敵を撃破するほどの魔力を得るために、詩都香は過酷な戦いの場に身を置いて、強力な魔術師になったんだと思う。だって、この世界は今の詩都香にとって都合が悪すぎるし、十年前の詩都香にとっては都合がよすぎるもん。こんな世界じゃなければ、果たして詩都香はここまで強くなった? こんな世界じゃなければ、果たしてわたしは時間跳躍の魔法を研究したかな? あの瞬間、詩都香は未来を選び、創ったのでしょう。そのとき直面していた現実を壊しちゃうために。まったく、とんでもない子だよね。わたしも魅咲も琉斗も、〈リーガ〉の連中も、それどころか世界中の人たちが、この十年の間、十年前の詩都香の掌で踊らされていたみたいなもん。
——ひとつ、お願いがあります。詩都香に二度とあの魔法を使わせないでください。使おうとさせないでください。もっとも、使おうと思っても成功はしないはずですけど。
時間跳躍の魔法を研究してよくわかりました。時間の流れの力はとてつもなく強く、しかも抵抗力があります。綻びや歪みはしばらく経つと修復され、一度修復されると以前よりも強固になります。今回成功していたのだとしたら、史上最も強力な魔術師になった詩都香の力に、わたしの力も加えてやっと成し遂げたことです。次に同規模の改変を行うには、さらにまた何倍もの力が必要になることでしょう。
だからね、三鷹くん、わたしたちの世界とは違って、あなたたちの世界は強固です。問題を未来に先送りすることで当座をしのごうなどというズルい考えを、詩都香に起こさせないで。真相——かどうかはわかりませんが——を導き出したわたしは、正直言って詩都香にガッカリしました。その上、このやり方は危険でもあるの。あの魔法はこれまで誰も試みなかったやり方で時間の流れの裏をかいたものです。なにしろあんなことは〈超変身〉した詩都香にしかできないし。魔法はこの世の法則を踏み越えるものですが、それでも未知のルールがあります。あの魔法は、魔力の本源である異界の禁忌に抵触する可能性が十分にあります。詩都香もわたしも、一回はお目こぼしをもらえたようですが、二回目はわかりません。存在ごと抹消されてしまう可能性があります。
詩都香は普段ならこんなことを考える子じゃありません。詩都香自身(それからたぶんわたしと魅咲も)に降りかかる危機ならば。でもときどき詩都香は他人のために突拍子もないことをしでかすことがあります。そういうところを少しずつ変えていってあげないと、と昔からわたしも思っていました。三鷹くんもそれとなく協力してくれないかな。
ところで、お知らせしておきたいことがあります。
わたしもまだ全部理解してるわけじゃないんだけど、時間軸とか因果律とか、まあどう呼んだっていいんだけど、それってどうやら時間跳躍の魔法の影響を受けるみたい。だって、この世の理を変えちゃうのが魔法だもん。
何が言いたいかって? ひとつ目は、詩都香が魔法で三鷹くんを時間跳躍させることで成立させたこの世界は、過去が変わったらやっぱり消えちゃうんだろうってこと。
タイムパラドックスって言葉、知ってるよね。時間跳躍した人が、過去に干渉して未来を変えたとしたら、その人が来た未来だって無くなっちゃうんだから、そもそも干渉自体不可能になってしまう——大筋そんな話。それは、今回はおそらく大丈夫。だって、わたしたちには実感ないけど、しょせんこの世界は、不確定な無数の未来の内、詩都香ひとりの意志と決断で、ひとつの目的のためだけに選びとられた、“強度”の無い蜃気楼のようなものなんだから。もしこの手紙や三鷹くんが持ち帰った品々が残ってるとしても、それはわたしたちの世界の存続の証拠にはなりません。悪しからず。
とはいえ、詩都香とわたしでこの十年の時間の流れを二回も撹拌しちゃいました。そこでふたつ目。ひょっとしたら、所期の目的以外のところで、極々わずかな影響が残っていないとも言い切れません。特に詩都香とその周りで。
たとえば、そうだなぁ。この十年、詩都香はずっと三鷹くんのことを考えて生きてきたと思うけど、十年分の想いのほんのひと欠片でも影響を残していたとしたら、そちらの世界でも、ちょっとだけ三鷹くんのことを気にするようになってるかも。やったね。
魅咲だって自分の想いに向き合ってきたはずです。だから、いつもより当たりの柔らかい魅咲になってるかもしれません。よかったね、いいことずくめじゃない。まあ、三鷹くんも頑張ったんだから、これくらいあってもいいよね。
わたし? ……わたしはどうなってるだろう。十年後の自分がわからないように、十年前の自分がどんな人間だったかよくわからないし、それがどうなるのか、皆目見当もつかない。変かな。
こんな支離滅裂な手紙を最後まで読ませてごめんなさい。なんだか書けば書くほど混乱してきちゃって。わたしにもやっぱりわからないことだらけです。それでもせめて、三鷹くんがこの出来事を解釈する際の助けになれば、と思います。
最後にひとつだけ。あの時三鷹くんが来てくれたのは、本当はあまり褒められることじゃないのかもしれないけど、わたしたちの試みが成功したのだとしたら無駄じゃなかった。というよりもきっと、三鷹くんは詩都香から未来を託されたのです。詩都香だって、三鷹くんなら助けてくれると信頼していたのでしょう。
だから——来てくれてよかった。実はこれを伝えたくて筆を執りました。来てくれて……わたしたちを助けてくれて、どうもありがとう。
これからもまた、詩都香と魅咲を支えてあげて。時々はわたしのこともね。
一条伽那』
一読して理解できたわけではない。それに、高原がどんな魔法を使ったのかなんて、もうどうでもよかった。時間跳躍の魔法を研究してきた一条にさえよくわからないのなら、俺が考えたって仕方あるまい。
それでも一条が伝えたいことは大体わかった。
その上で、あの世界の行く末に思いを馳せた。
高原が再度暴走して、今度こそ文明を滅ぼすかもしれない。
あるいは、それを食い止めようとした魅咲たちが、高原を殺してしまうかもしれない。
もっと悪いことに、〈モナドの窓〉がぶっ壊れた高原を魅咲たちが月よりも遠い場所まで運ぶのかもしれないし、宇宙ごと消滅するかもしれない。
そもそも、それこそふっと煙のように消えているかもしれない。
だけど、保奈美を加えて再結成された〈放課後の魔少女〉が、なんとかうまいこと世界を回しているかもしれない。
一条は「消えちゃうだろう」なんて書いていたが、最後のものが一番ありえそうに思えた。