18-3
ちょうどそこへ、一条を雑に引きずりながら魅咲がやって来た。
「なんで……」
——なんでここに来たの? と問いたげだったが、結局その疑問が口にされることはなかった。魅咲はさっと俺の顔から目を逸らした。それから、気を失ったままの一条を負ぶった。俺も手を貸してやろうとしたのだが、
「うわー、伽那の胸やっぱ大きいわ」
余裕の様子を見て、その気が失せた。バカか。
魅咲はそのまま歩き出した。相変わらず力強いことこの上ないが、態度が少しおかしい。さっきから俺の方を見ようとしていない。
――何か言わなきゃならないんじゃないだろうか。
「魅咲」
言葉も見つからないまま、とりあえず声をかけた俺に、魅咲は足を止めることなく告げた。
「……誠介、詩都香を見てて。あのバカ、さっき例のアレやろうとしてたから、たぶん数分動けない」
振り返れば、たしかに高原は今なお座り込んでぼんやりとしている。
「あたしは伽那を連れて帰るから。あ、反応がないからって詩都香に変なことしようとしないこと。記憶の混乱はあるけど、まったく意識がないわけじゃないからね」
するか! お前がバカだっつーの。
「じゃあ、また明日、学校でな」
すっかり調子を狂わされた俺が言えたのは、結局それだけだった。魅咲は片手を挙げて応えた。その弾みで、背負われた一条がぶらんと大きく揺れた。
――さてと、だ。
下山していった魅咲の背を見送った後、虚脱状態の高原に視線を戻す。
ここ数日の間に、だいぶ見慣れたその横顔。しかし、こんな惚けた表情の高原を見るのは初めてだった。以前魅咲が言っていた通り、たしかにこれはおっかない。このまま、戻らないんじゃないかと思ってしまう。
「……詩都香」
あの時あの部屋でしたように、下の名前で彼女を呼んでみた。
おっかなびっくり。聞こえていたらどうしよう。
「詩都香」
今度はもう少しはっきりと。彼女は眉ひとつ動かさない。
「しず――」
三度声をかけようとした時、不意に彼女の瞳がこっちに向いた。
「馴れ馴れしいな。いつわたしがそんな呼び方許可したっていうの?」
思わずすくみ上ってしまう。あの眼光で射抜かれたのはすげー久しぶりな気がした。
「ったく、油断も隙もない。変なことしてないでしょうね」
ぱんぱん、とお尻を払って立ち上がる高原。
「してねーよ!」
あんまりだ。スカートの中くらい覗いとけばよかったぜ。
両手を掲げてぶんぶんとかぶりを振る俺目がけて、高原がつかつかと歩み寄ってくる。
その剣幕につい気圧されそうになる。さっきの共闘は何だったのか、と思ったけど、ああそうか。こいつ、覚えてないのか。
「ふん、どうだか。大体あんた、どうしてここにいんのよ。それにそのマント――」
ずいっと斜め下から俺を貫くあの視線。だけど、そこでふと、その瞳の宿す光が和らいだ。
「高原……?」
俺の方が意表を突かれた。
「ねえ、誠介くん」
高原がぽつりと俺を呼んだ。
「どうした?」
「なんかね、よくわかんないんだけどさ、誠介くんにお礼言わなきゃいけないような気がして。……えと、ありがとう」
高原は一歩下がってちょこんと頭を垂れた。
お礼を言い慣れていない子供のような、ぎこちないお辞儀だった。それも無理からぬことだろう。何せ当の本人が、なぜお礼を言わなければいけないのか、よくわかっていないのだから。
「え? ああ、うん……」
恩に着せるなんてことは、これっぽっちも思いつかなかった。面食らいつつ、素直にその感謝の念を受け取る。
高原はそのままの姿勢で言葉を継いだ。
「それからね、急に変なことだけど、わたし、なんだか猫が欲しくなった。……あれ? ほんと何言ってんだ、わたし?」
……は? と言いかけたが、なるほど、思い当たる節はある。
こう来たか。一条め、適当なこと書きやがって。
しかし、しまったな。あっちの琉斗から、どこのペットショップでエルを買ってきたのか聞いておくんだった。……まあ、なんとかなるか。
「五、六年待ってろ。俺がいいの見つけてやるから」
「なんで五、六年?」
今欲しいんだけど、などと高原は顔を上げて不満そうに唇を尖らせる。
俺は適当に言い訳した。
「知り合いが飼ってる猫がその頃には子供産むだろうからさ。そしたら、一匹もらってきてやるよ。血統書付きだぜ。……だから、よそ様の飼い猫をさらってきたりするんじゃないぞ?」
「んなことしないわよ!」
ひとをなんだと思ってんのよ、とか何とかぶつぶつ言いながら、高原は先に立って歩き出した。猫が子供を産むようになるまで五、六年もかかるわけがないのだが、なんとか誤魔化せたらしい。
どうやら高原も普段の調子を取り戻してきたみたいだ。
その背に向かって、俺はもうひと声かけてみることにした。
「――高原ってさ、右のおっぱいの下にちっちゃなほくろあるんだな」
びしっ、と高原の動きが凍りついた。
ややあって再起動した後、ぱぱぱっと着衣を確かめる。戦闘で破損してるんじゃないかと思ったのだろう。安堵の息を大げさに吐くと、踵を返し、速足で再びこちらに歩み寄ってくる。
「な、な、なんで知って……じゃなくて、そんなのないわよ!」
その頬は真っ赤だ。羞恥と怒りと混乱で、さらに顔全体に紅潮が広がっていく。
「いや、もう一度見たいな、と思って」
高原の返答は右フックだった。
「痛ぇッ!」
「いだっ!」
予期していた以上の衝撃。
忘れてた。琉斗との乱闘で、こちらの奥歯が抜けてるんだった。
「見せるかバカ! 変態っ!」
頬を押さえてくねくねと身悶えする俺に目もくれず、高原は右手をぷらぷらさせながら再び背を向けて歩き出した。
取り残された俺は足の応急処置をすることにした。あのマントからブローチを外す。これでこいつは高原の髪が編み込まれたただの布だ。もったいないとは思ったが、尖った木の枝で端を裂き、そこを起点に手で半分に引き裂いた。いったん靴を脱いでからその布で足をくるみ、きつく縛る。道は舗装されているし、下山するまでは持つだろう。
俺は高原の後をのんびりと追った。すぐにその背中を視界に収めることができた。
未来の彼女とは違い、こっちの高原は俺の歩調になんて頓着しない。追いついてしまわないよう注意して距離を保ちながら、先を行く高原を観察することにした。
お前の言う通りだよ、一条。
クールぶったり、照れてるのをごまかすために仏頂面を浮かべたり、からかわれて真っ赤な顔になったり、自分のスタイルに固執したり、俺に対しては容赦なく罵倒したり――やっぱ高原はこうでなきゃな。
……さて、とりあえずは歯医者だな。
下山し終えてから、原付を山上に放置したままだったことに気づいた。
そして、高原が俺のことを下の名前で呼んでいたことに気がついたのは、就寝前に今日の出来事を思い返していたときだった。




