17-3
自分の姿をとった保奈美を前にして、高原からそれまでの余裕が失せていた。何しろ高原は、長いこと自分と同等の相手と戦ってこなかったはずだ。
保奈美はあの〈超変身〉こそ使えなかったが、短い時間ならば使える魔力の量は高原と変わらない。
「ぐっ!」
がくっ、と高原の動きが鈍る。保奈美がその潤沢な魔力を念動力に変えて動きを封じようとしたのだ。
一瞬の後にはこれをも打ち破った高原だが、魅咲がその隙を見逃すはずがない。胸の辺りを蹴られた高原が後退する。
ダメージは深くない。魅咲ももう〈荒覇吐〉は使えない。
それでも久しぶりに高原に当てた一発だった。
いけるかもしれない、という期待が膨らむ。
——いけるかもしれない、だと?
そこで俺の思考ははたと立ち止まる。
だけど、高原をこの場で止めることに成功したとして、その後はどうなるんだ?
いつの間にかラスボスみたいになっていた高原だが、彼女を止めて終わりではない。
高原の〈モナドの窓〉を制御しないことには、小さく見積もっても地球が吹っ飛ぶ。
それを防ぐために高原が提示した唯一の方法——それは、彼女自身の死だった。
この場にいる誰も望んでいない結末だ。
そして、おそらく高原は俺以外の誰にもこのことを知らせていない。魅咲だって一条だって、心配していたのは高原の暴走だった。
まさか、と思う。
まさか高原は……。
魅咲と保奈美は、かろうじて高原と渡り合っていた。高原の使う攻性魔法も、これまでより遠慮のないものになっている。俺のいる方は注意深く避けているようだが、周囲の被害は増大していた。もう死者が出ていてもおかしくない。あるいは高原が最初に富士山を撃ったときに既に出ていただろうか。
そんな高原を止めるために、魅咲も保奈美も必死だ。
特に保奈美は、慣れぬ体と不相応な魔力を与えられたせいか、ややもすると、こちらがヒヤッとしてしまうような魔法を撃つ。
ふたりとも高原を殺したいわけではないと思う。魅咲はあんなこと言っていたけど、死なせることなく高原を止められるならそれに越したことはないはずだ。
だが、このままではいつか間違いが起こってもおかしくない。
今さらながら迷いが生じてきた。
——高原、ひょっとしてそれがお前の望みなのか?
俺が死なせてやれないんだったら、親友の魅咲や一条に……?
もしそうなら、結局のところさっき俺が斬ってやるべきだったのではないのか?
もう遅い。もう事態は俺の手を離れている。今から割って入って高原を手にかけてやることはできない。
でも、魅咲たちにそんな負担を負わせるくらいならいっそ……
俺は半ば無意識で一歩足を踏み出した。
そして制止された。
「ううん、違う」
一条だった。いつの間にか隣にいた。
「魅咲も今井さんも、詩都香を殺そうとしてるわけじゃない。今井さんはちょっと力に振り回されてるけどね。詩都香の動きを制限してくれてるの」
「……制限?」
「そう、特定の位置に誘導してくれてる。だって位置の調整は到底無理だから」
俺はおそらく一条が知らないことを知っている。そして一条は俺とは違うものが見えているようだ。所有する情報に差がある俺たちの会話は、固より噛み合うはずもなかった。
「いや、だけど高原は、もしかすると……」
一条は俺の言葉に耳を貸さず、すっ、と目を瞑った。
そのまま、十数秒動きが止まった。
「一条?」
「しっ、ちょっと待ってね。……あれ? いける。……いけるっ! でもなんで? ほんの数十分前とどんな条件が変わったっていうの?」
目を開けた一条がキョロキョロと辺りを見回す。その言動はまったく意味不明だった。
「まあいいや。でもこれで、あとはわたしたちが……。三鷹くん、ここにいて。あとはわたしがなんとかするから」
一条はそう言い残すと、ぴょんと跳躍。ひと飛びで五メートルほど離れた場所に降り立った。
「おいっ、一条!」
「いいからっ! そこで見てて! これがわたしの切り札!」
一条は、やや離れた所で戦う他の三人を見据えた。
「うまくやるのよ、伽那。位置取りは大丈夫? ……大丈夫。何度も点検した。あとは詩都香。……ダメだよふたりとも。そこじゃ詩都香に当たっちゃう。もう少し、もう少し南」
そんな独り言の後、俺の方を向く。
「ごめん、三鷹くん。やっぱりもっと離れてて。そしてそのマントを被って伏せてて。何があっても絶対に、絶対に動かないでね」
その勢いに気圧され、俺はじりじりと下がった。「もう少し」を繰り返す一条に言われるまま、ほとんど広場の隅にまで移動させられた。
ちらり、と左前方を見る。高原は鬼神のように戦っていた。しかしさすがに疲弊しているのが見てとれる。高原の姿になった保奈美と、接近戦タイプの魅咲。この二人を一度に相手にするのは、高原にも楽ではなさそうだった。相変わらず魔力は十分だが、体力の枯渇が近いのかもしれない。
だが、その高原と戦う二人の方はもう限界だった。最初から高原と戦ってきてダメージが蓄積している魅咲は当然として、保奈美も苦しそうだった。高原に変身しているとはいえ、保奈美は高原とは違う。強力な魔法を連発して、相当に〈不純物〉を溜めてしまっているはずだ。さっきまでよりも動きが緩慢になっている。
高原が衝撃波を放った。とっさの回避も間に合わず、保奈美が樹々の向こうまで吹き飛んだ。
これで魅咲と高原の一対一。
サシの勝負ではもはや魅咲に勝ち目はない。目にも止まらぬ攻撃をさばき切れなかった。二発、三発と、その身に高原の打撃が刻まれる。
——まだかよ、一条……?
言われたとおりにその場から動かなかったものの、俺はハラハラしながら魅咲を見守った。
一条の方は、援護射撃をしようとしているのか、右手を前に突き出してじっとタイミングを計っている。
高原の膝が魅咲の顎を捉えた。ガツン、と痛そうな音がここまで届いてきた。
明らかに致命的なダメージだ。魅咲はふらふらと数歩後ろに下がり、ぺたんと尻餅を突いた。
止めを刺そうというのか、高原がその魅咲に向かって一歩踏み出した。
その時、一条がやっと動いた。
「詩都香あああぁぁぁッ!」
その声に、高原が振り返る。既にその左手がピストルの形を作っていた。
「〈イレイザー・カノン〉!」
一条の右手から、真紅の光が放たれた。
それにひと呼吸遅れて、高原が指先から強烈な破壊光線を発射する。
一条の赤い光は、迎撃する高原の白い光とぶつかり合い、わずかの間拮抗するかに見えたが、結局のところまったく抗することができずに押し戻された。
その矢面に立つ一条は、だが少しも動じていなかった。右手で魔法を放ちながら、左手でいつの間にか掌サイズの鏡を掲げていた。
あれは……見たことがある。〈魔映鏡〉だ。
邪魔な赤い光を吹き散らすようにして突き進んできた高原の必殺の魔法は、驚くべきことに、一条の掲げる鏡の中に吸い込まれるように消えていった。
高原の顔に、この日一番の驚きが広がった。まさかあの一撃が防がれるとは思わなかったのだろう。
「どうしたの、詩都香? その程度? そんなんじゃ、わたしの障壁は破れないよ!」
一条が挑発する。無謀なその行為を止めようとした俺を、彼女は片手で制した。それどころか、俺に向けられたその右手に魔法の光が宿った。
「世界を滅ぼす? ……ばっかみたい。いーい、詩都香? もういい加減わたしも頭来てるんだからね? さっさとやめないと……わたしが三鷹くんを殺しちゃうよ?」
いきなりの人質扱いに少しだけ驚いたが、俺は結局動かなかった。
一方、
「ざっけんなあッ!」
十年前なら考えられないことだが、高原はこの挑発に乗った。再びその指先から放たれたのは、輝度も太さも、先ほどとは比べ物にならないほどの白い光だった。
二人からずいぶん距離を取っていたはずの俺でさえ、もうマントで体をかばいながら伏せることしかできない。山頂を囲む木々は高原の魔法の余波で一本残らず根こそぎになって吹き飛ばされ、次々に発火して燃え尽きていった。
さっきのが八十ギガトン級だとしたら、今度のはどれくらいだ? ひょっとしたら、この国のエネルギー消費量の四十年分という魔力の全てを込めた魔法なのかもしれない。
その破壊の奔流に相対する一条は、今度は両手で〈魔映鏡〉を保持していた。
「わあああぁぁぁぁっ!」
決死の覚悟で、その口から漏れる気迫。攻性魔法を放つでもなく、防御障壁を張るでもなく、手の中の鏡に魔力を注ぎ込む。
そして高原の全力の魔法は、今度もやはり〈魔映鏡〉の中に吸い込まれるようにして消えた。
それを目にした高原の顔から表情が消え、ふらふらと頭を巡らせた後、ドサッとその体が横ざまに倒れた。体力を使い果たしたらしい。髪は青色のままだったが、光は失われていた。
「で、できた……」
一条はへなへなとその場にへたりこんだ。翼も牙も消えていた。
その手の中で、〈魔映鏡〉が粉々に砕け散った。