第7夜:夢に連なる者
「なんでも願いごとを叶えてくれるといわれたら貴方はどうします?」
飲み屋で偶々一緒になった男は私にそう聞いてきた。
そうとう酒が入っていたのだろう普段なら笑い飛ばすような話だが私は
「やっぱり金持ちになりたいと言うだろうさ」と酒を煽った。
机の上にはすでにいくつもの空いたグラスが乗っている。
「では酒の肴に話をしましょうか。」
「おお。そうか。」
「願い事を叶えてくれる魔物を呼び出した人の話を。」
不気味なほど大きな満月が中天に差し掛かる頃、青年は銀杯に水を満たし月の影をそれに映し、さらにそれを鏡にうつした。
いつか聞いた魔物を呼び出すための儀式だそうだ。
信じていたわけではないが、そんな不確かなものにすら縋りたい心境だったのだ。
10分。
様子を見たが何も変化は起きない。
当たり前だ。
諦めて鏡に背を向ける。
コポッ
「!」
コポリ
背後で何かが形を成していく。
ぞわりと産毛が逆立ち、冷や汗が流れる。
ゴポッ
横目で後ろを窺うと銀杯の水面が沸き立っていた。
確かに何かがいる
「こんばんは」
ソレは声を上げた
暗く身の内に落ちてくる声だ
青年は後ろを振り向く
大きく開いた眼に映りこむのは・・・想像とは少し違った姿だった。
そこにいたのは全身に黒を纏った男だった。
それは帽子を胸に抱え、礼儀正しくお辞儀をした。
その面と少しばかり覗いた手だけが冴え冴えと光る月の光を反射して青白く見える。
ソレは面を上げ、ぬらりと光沢を持った深い闇の瞳で青年を見据えた。
魔物だと聞かされていた。
もっと恐ろしくグロテスクなものが飛び出すのかと・・・
「貴方が私を呼び出したのですね。」
机の上に並ぶ鏡や銀杯をソレは見回した。
ああ
やはり魔物なのだ
もう視線を逸らす事さえも叶わない
「さぁお聞きしましょう。」
魔物は妖艶に微笑む
「貴方の願いは何ですか?」
ああ、もう逃げることは叶わない
「ある人物の居場所を教えてほしい」
もう覚悟を決めた。
青年は魔物の目を見つめる。
魔物は口の端を少し上げ言葉を紡ぐ。
「それはどなたです?」
「師の仇だ。ルーサという男だ。」
「知ってどうするのです?」
次第に魔物は笑みを深めていく。
魂が恐怖するほど美しく。
アレは答えを知っている
私の咎を嘲笑うのだ
「殺すに決まっている」
「それほど憎いと?」
「当たり前だ」
青年の瞼の奥にある日の記憶が呼び覚まされる。
師の血が滴る剣を持ちこちらを見やった男の姿が。
青年は己の爪で傷が付くほどきつく拳を握りこんだ。
「ならば何故願わないのです?」
「何を・・・」
「願えは到底人間が与えられるはずなどない苦痛を私はその人物に与える事ができるのですよ?」
ぞわり
何かが背中を撫でる。
その可能性に気づかなかったわけではない。
けれど・・・
「そのためだけにこの十年生きてきた。自分で手を下さなければ意味が無い。」
先ほどよりも低い声で青年は答えた。
「そうですか」
笑うことを止めた魔物は月光の差し込む窓に手を翳した。
窓のフォルムが歪んでいく。
人一人が通れるほどの楕円状の形の歪みが生じた。
「ここを潜れば想い人のところまで行けますよ」
ゴクリと喉が鳴る。
腰に差した剣の重さが増していくような気がする。
足を踏み出してそこに近づくと耳の奥の重低音が大きくなっていく。
手を差し込めば、水の中に入るようにたいした抵抗も無く、腕まで沈んだ。
―全てを無にする覚悟があるのならどうぞ
どこかで聞こえた言葉に足を止めることはなかった。
全身を沈めると海底にいるような闇が向かえた。
冷水を浴びたように体が冷えた後、光りの世界に投げ飛ばされた。
青年はあまりの眩しさに目を閉じた。
それでも暗黒の世界を知った後では眼球を焼くような光りが襲った。
その光りが月の光と知ったのはしばらく経ってからだった。
かさり
枯葉を踏みしめる音がする
。恐る恐る瞼を上げるとそこには見知った顔があった。
月は青年の背後にあるのだろう。
向かい合った相手の顔は十年の月日が刻んだ皴の一本までも正確に表した。
「ルーサ」
怨嗟の言葉を吐きながら、青年は飛び起き剣に手をかけた。
対峙した相手は微動だにしない。
「よく来たね。カイ」
凪いだ湖面のような穏やかな声が振ってきた。
深い翠色の瞳も優しく細められる。
ひどく奇妙な再会だった。
あまりに強い月の光に闇のほうが慄くような。
「大きくなったね」
ルーサの言葉はまるで旧友にあったような嬉しさが含まれている。
それは青年の怒りを更に大きくさせた。
「黙れ!」
青年の剣はルーサの心臓を捉える。
それでもルーサの表情は変わらない。
「君は手に入れたかな?」
「煩い!」
カイは左手でルーサの胸倉を掴む。
その手を視界に納めてルーサは笑みを深めた。
「ああ、見つけたのだね」
切っ先が肌を傷つけて、血が衣服に滲んだ。
「何故お師匠を殺したんだ!」
「必要があったからだよ」
ルーサの顔は初めて苦痛に歪んだ。
それは決して体に走る痛みのせいではない
「何をっ!」
「ボクを殺しにきたんだね。」
「そうだ!」
「うん」
ルーサは両腕を広げた。
大きく、全てを受け入れるように。
「さぁどうぞ」
剣が揺れた。
その仕草は泣くのを我慢している時に兄弟子が良くやってくれたものだ。
「もう心残りは無いからね」
死を目前にしても穏やかな相手に腹が立った。
自分はこんなにも苦しいのに。
「ならば、お前の大事なものを奪ってやろうか!お前がオレにしたように」
「カイにはできないよ」
ルーサは哀しそうに笑う。
「できるさ!」
(自分の世界は死んでしまった師と目の前の青年だけだったのだから)
『ルーサ、私はもう長く生きれないでしょう』
『ルーサ!どうして!』
愛しき者の声が木霊する
「もう何も無いからね。十年前に無くしてしまったのだよ。」
「奪ったのはお前だろう!」
怒りに任せて突き出した剣先から厭な感触が全身に伝わる。
そこから溢れて溢れて己の身を濡らすのは・・・
それはどろどろとまとわり付いて
『ルーサ、私はもう長く生きれないでしょう』
声が聞こえる。
これは大好きだった師の声だ。
『そんな!』
これは優しかったはずの兄弟子の声だ。
これは何なのだろう。ぼやけた光りを辿っていくとその光景は鮮明さを増していく。
これは記憶か・・・
ルーサから流れ出すものが見せる十年前なのだろうか?
『大丈夫だよ。お師匠さま。サキは腕のいいお医者さんだもの』
『確かにサキはいいお医者様ですよ。だけど無理なのです』
『・・・』
『ルーサお願いがあるのです』
『・・・何ですか?』
『私が死んだら旅に出たとでも言って骸をどこか遠くに埋めてほしいのです』
『死んだ時の話など聞きたくありません』
『聞いて。ルーサ。カイはまだ受け入れることは出来ないでしょう』
それはきっと正しい。
自分でさえきっと取り乱して泣きじゃくって逝かないでと懇願するだろう。
己の死さえ願うだろう。
カイならばなお更。
一緒に逝ってしまうかもしれない
『こんなことを頼んですみません』
旅に出たといえばカイは帰ってくるまで待つ事だろう。
己から生を手放す事はしないはずだ。
『その間に生きる糧を手に入れてくれるといいのですが』
それから6日後。
死は大量の血を吐いて亡くなった。
けっしてカイに見せられる場面ではなかった。
約束どおり遠くへ運ぼうとして気づいてしまった。
カイはひたすら師の帰りを待つだろう。
二度と帰る事の無い人を何年も何十年も命尽きるまで、この何も無い森の中で。
外に出る事はないだろう。
ここがカイの世界なのだから。
生きる意味などソレしかない。
ただ待つ事。
他に生きるための糧などあろうはずが無い
『ダメです。お師匠様・・・これでは・・・カイは生きる骸です』
しばらく呆然としていると遠くでカイの声がする。
早くしなければ見つかってしまう。
それでは何もかも最悪の方向に進むだけだ。
視線を巡らすと剣が見えた。
ソレを手に取り、師の吐き出した血を塗る。
ソレを見れば自分が師を刺したように幼いカイには見えるだろう。
『お師匠〜?』
元気な足音が聞こえる。扉まですぐそこだ
『お師匠』
扉が開く。
振り向いてカイを見る。
頬を上気させ大事そうに何かを腕に抱えていた。
『ルーサ。お師匠は・・・』
バラバラとひどく大きな音を立てドングリが床に落ちた。
カイの抱えていたものは森で拾った木の実だった。
『お師匠!』
カイがお師匠様に縋りつく。
ひどく冷たい事だろう。
もう動かない最愛の人は。
『どうして・・・』
剣から滴る血の音がやけに耳に響く。カイにも聞こえたのだろう。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で私の握る剣を見つめた
『ルーサ・・・』
掠れた声が、耳に張り付く。もう二度とあの笑顔を見る事は無いのだろうと思いながら剣を床に放る。
ゴトリ
自分の身も地獄の深遠に落ちたようだった。
『ルーサ!なんで!』
カイが追いすがろうと手を伸ばす。
私は捕まらないように足早に部屋を出る。掴まってしまえば真実を話してしまう。
信じてくれるかは分からないけれど。
『ルーサ!』
きっとカイは私を追ってくる。私を追って外の世界に出てくるだろう。
私は逃げて逃げて逃げて・・・
あの子が糧を見つけれたら目の前に現れて終止符を打とう。
「嘘だ・・・」
こんなのはきっと嘘だ。このドロドロが見せる悪夢だ。
十年ぶりにあの子と出会った。大きくなった。
私の身長もこしてしまうほど。左手に光る指輪を見て思った。
ああ、この子は大丈夫だ。
糧を手に入れた。
ああ
お師匠様
もうそちらに逝ってもいいですか?
「そんな嘘だ」
十年も捜し求めた男は仇ではなかった。
それどころかその男は、青年のために自ら罪を被り、青年に殺されるためだけに十年生きてきたのだ。
―全てを無にする覚悟があるのならどうぞ
あの言葉の意味がやっと分かった。
青年は己の十年も相手の十年も無にしたのだ。
青年は事切れた、しかしまだ暖かい兄弟子を抱きしめて叫んだ
「お願いだ。魔物よ。どうかこの人を助けてくれ!どんな代償でも支払うから!」
どうか・・・どうか・・・奪ってしまわないで
あの深遠に落ちても構わないから
天空に鎮座する月が揺れた。水面に映るそれのように。
「おかえりなさい」
闇の声が青年を迎えた。
青年は自分の部屋にいた。ルーサも血も剣も無い
「・・・今のは」
「夢ですよ。あまりに強い光りを放つ月の夜は夢魔がやってくるかもしれません」
夢・・・あれが夢だというのだろうか?
あの感触も・・・
暖かさも
「現実と夢の狭間の世界を垣間見たのでしょう」
では、ルーサは生きているのか?
魔物が微笑む。
その優しい微笑みにルーサの無事を確信した。
それとあれは真実だと。
ルーサは師の仇ではない。
「まだ聞いていませんでしたね。貴方の願いは何でしょう?」
「え?」
「途中で夢魔に邪魔されましてね。あれは人の闇を好むのです。」
「・・・」
どこからが夢なのか・・・
「さぁ」
願い事は
「ある人物の居場所を教えてほしい」
「それはどなたです?」
「ルーサという男だ」
青年は肺の中の空気を搾り出し、新たは空気を吸い込む
「私の兄弟子だ。お礼が言いたい。」
それと自分はもう糧を得たのだと。
妻と二人の子供。
暖かい家庭。
それと優しい記憶
「いいでしょう。その願い叶えましょう」
どこから吹き込むのか魔物のマントを風が揺らす。
それは自らの意思で動くかのように広がって部屋全体を包み込む。
深海の闇が迫ってくる。
しかし、それは母胎の中のように暖かな闇だった。
一際大きな風が吹いて視界が開けた。そこには何も変わらない部屋があった。
魔物の姿はこつ然と消え、静寂があたりを支配する。今の魔物さえ夢魔が魅せたものなのか・・・
そんな思いでソレがいた場所を見つめた。
するとそこには一枚の紙切れが置いてあった。そこに書かれてあったのは、見知らぬ住所だった。
男の話はここで終わった。
「へぇーそれでそいつはルーサとかいう奴に会えたのかい?」
「会えたでしょうね。彼が魔物と呼んだやつは気まぐれですが嘘吐きではありませんから」
男の話の間にさらにグラスを三杯ほど空けた。
思考力は半分麻痺しており、男がまるで魔物と知り合いのように話している事にも疑問を持たなかった。
「それにしても魔物に夢魔ね〜・・・」
「ええ。こんな夜は注意が必要ですよ」
満月が炯々と輝く。
ああ、今日は満月だったのか
何故か私には月の姿が理解できた。ここは室内で、窓がないにも関わらず。
「そんなにご利益があるなら試してみようかね」
冗談交じりに笑った私に男は告げた
「そうですね。必要なものは満月と銀杯に満たした水と鏡ですよ」
「はははっありがとさん」
「では、私はこの辺で失礼しますね。もう大分長居をしてしまいました。」
「ああ。そうかい。帰るのか。」
男は音も無く席を立つ。
振り向いて行ってしまうところで私は男に声をかけた。
「なぁ話のカイってのはあんたの事か?」
「いいえ。違いますよ」
男は此方を見ずに告げた。
「そうかい」
男はそのまま行ってしまった。
私は手元にある酒を飲み干した。
・・・味が無い
それほどまでに飲んだのだろうか
パチリ
夢の覚める音がした
私は家に帰る列車の中で目を覚ましたのだ。
―カイはね。私の夢に掴まった人の名ですよ
「君は余計な事ばかりしますね」
「フフッ人間は面白いからね。暇つぶしにはもってこいだよ。」
夜の中で黒と赤が対峙した。
「あのカイってやつもボクのおかげだよ?ボクがああしなきゃ、あいつはルーサを殺しちゃっただろうよ。君は後味の悪い思いをしなくてすんだのだから、感謝ぐらいしてもらいたいよ。」
赤い髪を持つそれは空中でひらりと舞う。
闇に溶ける黒い者とは反対にそれはくっきりと浮かび上がる。
「君が勝手にやったことでしょう」
「まぁそうだけどね」
「よほど夢魔は暇なのですね」
「ボクタチは好き勝手にやるのが性に合ってるのだよ。契約に縛られるなんて真っ平だ」
後半の言葉を吐き捨てる。
「それにね。限りない欲望を持つ人間の願いを叶えるほど酔狂ではないのだよ。」
そう言ってそれは消えた。
「バイバイ。ジン。魔物の名を持つ哀れな咎物よ。」
残ったのは静けさだけ。
やがて影も夜の中から消えうせた。
月だけが何も無かったかのように夜道を照らす。
夢と現と魔の道を




