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第六回


 落合左平次は雁峰山に二日続けての狼煙が上がった時、長篠城の将兵が俄かに上げた喚声を聞いて不思議に思った。

 昨日の朝から降っていた雨はその日の昼には止み、雨の形跡は夜を越えて残らなかった。朝の青白い空に立つ一本の煙は酷く緩やかに上っていくため、連日攻城が行われている戦場の印象とは、どこか真逆のものであるように思われた。併し、長篠城に篭る奥平勢があの煙から受ける印象は、真逆の真逆のようであった。

 山県昌景は長篠城の将兵が、狼煙の度に喚声を上げるのを怪訝に思っていたらしく、周囲の警戒を強めるよう指示を出しており、左平次もまた下達された令に従って周囲に目を配らせていたのであるが、同じ武田軍に属する者と思われる一人の大男が、何か不審に感じられた。

 長篠城は既に兵糧庫が焼き払われており、四日程で兵糧が尽きると言われている。武田軍としては無理攻めはせず、定期的に小規模な攻城を行って疲弊させつつ、守将の奥平貞昌に降服を促す方針を採っていた。そのため、攻めるにしても緊張感というものがなく、ただ死ななければよいという程度で、何の手応えもない戦に従事しなければならなかった。併し、一人だけ、周囲とは明らかに違い、緊張感を漲らせている男がいた。左平次は、その大男から目を離さなかった。

 昼、山県隊に攻城命令が発せられると、またか、といった風で、竹束を持った部隊がぞろぞろと移動していく。合図と共に城壁へ攻め掛かり、適度に弓矢を放ち、石を投げ、鉄砲を撃ち鳴らすも、誰もが退却の合図のことばかりを思っているため、前に出る者は稀であった。その中で、左平次が目を付けていた大男は、やはり前に出ようと必死であった。退却の合図が鳴らされると同時に、左平次は大男に飛び付いて、これを取り押さえた。

 大男を捕らえて陣所へ連行する最中、

「強右衛門!」

 と叫ぶ声が、城内から聞こえたように思われた。


 左平次が縛り上げた大男は、名を鳥居強右衛門勝商と名乗った。連行する途中に左平次が大男に名を訊ねると、いやにあっさりと素性を明かしたため、左平次もこれを意外に思ったが、それがどういう心理によるものなのかを知る暇もないままに、強右衛門の縄を持った左平次は山県昌景の元から高坂昌澄、さらには川を渡って医王子山の本陣へと回されることとなった。

 林道を覆う木々の葉は小風を浴びる度に光を明滅させ、足下に散った白い破片は形を変え、現れては消えていく。鳥の鳴声は林間に響き、人の足音は夏草の擦れ合う音に混ざって耳には届かない。林の奥が明るくなってきたかと思えば、林の先に何もない空間があり、その向こうに再び林が見えている。断崖の下に寒狭川という川が流れており、下流は長篠城の際を流れているそれであるらしい。東西に流れている寒狭川は、長篠城の西方で直角に折れ曲がって流れを南北へ変え、その曲がり角は水量が増すため、川を渡るためにはもう少し北へ行かなければならない。川に沿って北上すると、やがて水量が減り、流れが穏やかになる地点があるため、そこを選んで渡って行く。岩と岩の間を伝っていく時、川の流れは止まって見える程であったが、断崖の上からひらひらと落ちてきた緑の葉が、川面に触れると同時に弾けるようにして方向を変えた。縄に縛られた大男は一見して鈍重な印象を受けるが、その実、この川と同じものを持っているのやもしれないと左平次は思った。

 川を渡ると小山が見え、山頂の寺へ向かって行くための山道が現れ、それを上るとすぐに真田信綱が千人の部隊を率いて篭る陣所へ行き当たり、さらにその奥へ進むと武田勝頼の本陣がある。陣地は防柵に囲まれ、各所に土塁を築いて守りの備えとしており、陣地構築の一つを取っても武田軍が如何に精強であるかが見て取れる。やがて壮々たる大将が居並ぶ前へやってきた。

 山県昌景、高坂昌澄、真田信綱、真田昌輝、馬場信春といった重臣が顔を揃え、その中心にいかにも気性の激しいと分かる若武者が座っていた。それが武田勝頼であろうことはすぐに分かった。一介の雑兵に過ぎない左平次にとって武田軍の重臣は雲の上の存在であり、ましてや大名たる武田勝頼の姿を見ることなど一度もなかった。縄を持っているだけの左平次も、強右衛門が引き出されるという形ではあるが、どこか自分が引き出されているような錯覚を感じていた。この場所に於いて、目の前の大男こそが、自分に最も近しい者のように思われた。手の震えと、縄から伝わる感触とが、確かに一つのものとなって感じられたのである。

 左平次は声を発することもできないため、ただ強右衛門の受け答えを聞いているばかりであった。自身が奥平貞昌に従って長篠城に篭っていたこと。長篠城から抜け出し、岡崎城へ急援を求めたこと。織田信長が三万の大軍で以って急行していること。大男の口から現れる言葉は、武田軍の情勢を左右するものばかりであった。

 左平次は、自分と強右衛門とが同じ雑兵とは思えず、どこか距離を感じてしまった。併し、武田勝頼の提案に強右衛門が二つ返事で承諾した時、左平次は漸く引き戻された気持ちになった。

 武田勝頼の前から下がると、左平次は強右衛門に声をかけた。

「お前は運のいい奴だな」

「ああ、俺は運のいい奴だ」

「俺はお前が殺されるものだとばかり思っていた。それなのに殺されるどころか侍大将になることができるという話じゃないか。随分上手いこといったな」

「ああ、そうかもしれない」

 強右衛門は、それ以上何も言い返さなかった。穏やかではあるが、口を真一文字に締め、どこか緊張している面持ちである。

 やがて長篠城の向かいまで来ると、左平次は三人ばかりの護衛と共に強右衛門を連れて崖を下り、川原の際に立った。

「おい、俺だ! 強右衛門だ! 皆の者、よく聞いてくれ!」

 強右衛門が長篠城に向かって呼びかけると、塀の隙間からいくつもの顔が現れた。

 援軍は来ない。諦めて降服するべきだ。ただそれだけの言葉で、この幸運の大男は侍大将になることができるはずであった。強右衛門は言った。

「援軍は来る! 信長様が三万の大軍、三千挺の鉄砲を持って長篠城へ向かっている! あと二、三日の辛抱である!」

 その言葉を聞いた長篠城の将兵が沸き上がったのは言うまでもない。喚声が響き渡る最中、従っていた護衛は強右衛門を押さえ付け、再び崖の上へと乱雑に引きずり上げた。そして、再び本陣へ連行される道中、左平次は強右衛門の表情を見ていた。左平次は言う。

「俺はお前が侍大将になるものだとばかり思っていた。それなのに侍大将になるどころか殺されるのが目に見えているじゃないか。随分と馬鹿なことをしたな」

「ああ、そうかもしれない」

 強右衛門は、それ以上何も言い返さなかった。穏やかではあるが、口を真一文字に締め、どこか緊張している面持ちである。行く前と、全く同じ表情であった。

 山稜の端から、どことなく重たい灰色の雲が姿を見せ始めた。考えてみればおかしなものである。武田軍としては織田信長の大軍が迫っているというのであれば頃合を見て撤退するものと考えられ、長篠城を今日明日に落としたとしてもすぐに放棄されるのが関の山であった。全く何の価値もない城を落とすことに、一体どのような意味があるのか……。左平次は、出るはずもない問答を繰り返しつつ、やがて元の本陣へと辿り着いていた。

 武田勝頼を一とした武田家の面々が、先程と同じように顔を揃えていた。左平次らと共に強右衛門を引率した若侍が勝頼に事の次第を報告すると、意外なことに勝頼は顔色一つ変えなかった。

「一人の男が命を捨ててまで何をか成そうとしたわけである。望み通り殺してやれ」

 その勝頼の言葉が、強右衛門の命運を示していた。

 医王子山の北東、夏の乱雲が甲信に連なる山脈を越えて姿を現し始め、長篠城の上空を通り過ぎては設楽原の方角へ向かって姿を変えつつ流れて行った。やがてその乱雲は、設楽原すらも瞬く間に過ぎ、何の目的を持つかは定かでないが、やがて遥か彼方へと消えていくだろうと思われた。


 強右衛門が長篠城の前で逆さ磔によって処刑されたのは周知の通りである。強右衛門に関して後世に残された資料は少なく、どのような人物であったのかを知ることは容易いことではない。ただ、強右衛門が処刑された後、長篠城は武田軍の猛攻を凌ぎ切って落城を免れ、戦後は廃城となってその役目を終えたということだけを書き添えておきたい。そして又、武田勝頼率いる武田軍が設楽原に於いて織田・徳川の連合軍と決戦を行い、壮絶に散っていったことも史実の通りであるが、負け戦と分かっていて尚決戦を行おうとした勝頼の心情がどのようなものであったのか、各人の想像に委ねる他ないように思われる。


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