第二話「走って、走って、自分の道」 11
「王子、ですか?」
ドーサックさんの口から飛び出してきた突拍子もない言葉に、私は首を傾げる。
「どうして国の王子様が出てくるんですか?」
確かにここは王国なのだから、王子様だっているだろうけれど。
「……お前なぁ」
おじさんは呆れたような眼差しを私に向けて、
「王子の顔くらい知らんのか?」
と、溜息混じりに訊ねてくる。私は首を横にブンブンと振った。
「知らないです。ほらだって、前にも言った通り私は異世界から」
「あー、分かった。お前が世間を禄に知らない馬鹿娘だってのは十分に分かった」
「本当なんですってば」
「とにかくだ」
私の抗議を無視して、ドーサックさんはいつの間にか困ったような笑みを浮かべている青年を手で指し示し、私に言い含めるような口調で告げたのだった。
「こちらのお方は現国王の長男、クラール様だ」
「へえ、国王の長男ですか……って」
絶句してから数十秒後、今までとは比にならないくらいの衝撃が私の心に走った。
「そ、それって、王子様って事じゃあないですかー!」
「え、えと。まあ、そうだね」
私の驚愕の叫びを聞いても、アハハハハ、と青年――もといクラール王子はいつも通りの笑い声を上げる。しばらく言葉を失ったまま、私は相変わらずの彼を惚けたように眺め続けていた。着ている服が豪華だし、最初から一般の人ではないとは感じていたけれど、まさか王家の人だとは考えもしなかった。
「凄くビックリしました……」
「ゴメンゴメン、騙すつもりはなかったんだけど」
呆然と呟く私に対し、クラールは髪を掻きつつ小さく頭を下げる。
「でも、どうして最初に教えてくれなかったんですか?」
「ほら、訊ねられなかったし。それに嘘はついてなかった筈だよ」
彼は茶目っ気たっぷりにウインクしながら、
「だって、僕は実際に城で働いているわけだからね」
「あ……」
言われてみると、確かにその通りだった。まともな王族なら城の公務に勤しんだりもするだろう。仕事をサボるような駄目王子も世の中にはいるだろうが、少なくとも私の眼前で微笑んでいる格好いい青年はそのような人間には見えなかった。むしろ、真面目に責務をこなしているようなタイプに思える。
と、そこまで頭を巡らせた後、自らがしでかしてしまっていた重大な過ちに、私はようやく気がついた。
「ごご、ごめんなさい王子様!」
「ちょ、ちょっと! いきなりどうしたんだい!?」
超高速で頭を下げては上げる運動を繰り返している私を見て、クラールは戸惑ったように声をかけてくる。私はペコペコするのを止めないまま、むしろ加速させつつ、
「だだだだ、だって! その、今まで散々御無礼を働いちゃったような気がするし!」
頭がこんがらがってしまい、微妙に敬語になっていないような謝罪になってしまう。私のバカバカ。
「別に気にしなくていいよ」
しかし、クラールは機嫌を全く損ねていない様子で、
「王子、っていう肩書きも気恥ずかしいしね。意識してもらわない方がむしろ有り難いくらいだ」
「王子様……」
私は動きを止め、顔を上げてクラールを見つめた。彼は照れくさそうに肩を竦める。
「クラール、でいいよ。町の人達にもそれで通ってるから。まぁ、呼んでくれない事の方が多かったりするんだけどね」
「はい、分かりました」
「ところで、クラール様。こちらへは何用ですかな?」
おもむろにドーサックさんが口を開く。ああ、とクラールは小さく声を上げた。
「いや、特に用はなかったんですけど。たまたま前に会った子がドーサックさんの店にいたので立ち寄ってみたんです」
それじゃ、いつもの奴を一つ下さい。そう告げた彼におじさんは小さく頷いて、棚の奥に置いてあったカスピトレス・ミトレアンドロアップルを取り出した。その時ようやく、私はどうしてドーサックさんがこんなに値段の貼る果物をわざわざ棚に並べていたのか理解した。多分、王子がよく買いに来るのでいつも常備しているのだろう。
おじさんから商品とお釣りを受け取った後、クラールは私に向きなおり、
「ああ、そういえば。まだ名前を聞いてなかったよ」
「あ、はい」
私は内心少しテンパりながらも、自らの名を口にした。
「ミズホっていいます」
「へえ、ミズホちゃんか。不思議な感じがするけど、良い名前だね」
彼は最後にもう一度ニッコリ微笑むと、
「それじゃあ、お仕事頑張ってね。ドーサックさん、今日はこれで失礼します」
「気をつけてお帰り下さい」
私達に軽く会釈して、クラールは店を出ていった。
「ああー、王子様だ」
「クラール様、こんにちは」
「クラール様、パンをお一ついかがですか?」
通りを歩いている間にもすれ違った人々から親しげに声を掛けられている所を見ると、どうやら彼はかなり庶民に親しまれている存在なのだろう。
――それにしても、王子様かぁ。
とんでもない人とお近づきになってしまったんだなぁと、去っていく彼の後ろ姿を眺めながら、私は改めて実感したのだった。




