(2)
沙夜と敦彦。しばらくの間、二人の意見が衝突していた。
論争の主題は「明日、海へ行くか、行かないか」という点にあった。
「絶対、行くんですよ!」
「嫌だ! 絶対、行きたくない! しかも間宵と一緒にだなんて狂気の沙汰だ! あいつだって嫌がるに決まってる!」
「だったら間宵さんの了解が取れたら、ご主人様も一緒に行くんですよ!」
「ああ、いいよ。絶対に無理だと思うけどな……」それだけいって敦彦はもう一度眠りについた。
沙夜は水着を脱いでいつもの服装に着替える。
黒を基調とし赤い蝶ネクタイの施されている衣服だ。
そのまま部屋をあとにし、対面にある間宵の部屋をノックした。時刻は九時三十分。
ドアに吊るされたプレートには、可愛らしい文字で「まよいの部屋」と書かれていた。
寝ている時はそれを裏返して、「就寝中」となっているはずなので、そこから彼女がすでに起きていることがわかる。
部屋の中から存在をアピールするような大げさな足音が聞こえた。
「はーい」
間宵が姿を表した。白色のワンピース姿をした彼女が敦彦の妹とにあたる藤堂間宵、彼女も“見える人”である。
フラットな沙夜と対象的なグラマラスでありながらスレンダーな体型の少女だ。
「あら、沙夜ちゃん。どうしたの?」
「おはようございます。あの……間宵さん……」
早速、沙夜は海へ行きたいという思いつきの提案をプレゼンすると、間宵は賛同してくれた。
「海? 海か、海海。いいね海! うんうん、沙夜ちゃんもたまにはいいこというじゃない!」
「えへへー」と照れてばかりはいられない。どうやらバカにされているようだ。「って“たまには”? “たまには”ってどういうことですか!」
「言葉の綾だよ。あ、もしかして、わたしが水着をあげたから? だから水着姿を誰かに見てもらいたくなったの? なんだ、ちゃんと女の子らしいところもあるのね」
「いえ、水着姿なら、すでにご主人様には見てもらいました」
「……え? あっそう……。へえ……」
「ところでどうして、私に水着をくれたのですか?」
「うーん、特に理由はないよ。別にいらないやつだったし、なんとなく。それ昨年の水着だったんだけど、今年きてみると随分苦しくってね。ほら成長期ってやつなのかも。困っちゃうよね、毎年新調しなくちゃいけないんだよ」
見せつけるように、(きっと本人に悪意はないのだろうけれど)ぎゅうと胸を寄せた。
たわわ……。たわわ……。たわわ……。
兵器的な胸が、沙夜の目前で実っている。
「そ……んなに……困ってるのですか?」
ダメだ。涙でうまく言葉を紡げない。
「うん。特にね、出るとこが……出ちゃうのよ」
「……アナタハ、悪魔デスカ……?」
「え? なになに? どして顔を真っ赤にしてるの?」
沙夜は新しく言葉を学んだ。
無垢な言葉は時として人を傷つける。
富豪が貧民を無意識のうちに虐げる時のように……。
◆◇ ◇◆
乳魔人こと間宵から逃げるように部屋に戻ると、敦彦がベッドに寝転がってテレビを見ていた。
沙夜はその隣に腰をかける。
「どこに行ってたんだ?」と敦彦。
「間宵さんのところです。海に行きたいと提案してきました」
「へえ、間宵はそれでなんて?」
「賛同してくれましたよ。ずいぶんと乗り気でした。明日行くことが決定しました」
「あいつめ……。血迷ったか」苦々しい顔を見せたあと、ごろんと寝返った。「僕は海なんかよりも、“たまには”ゆっくり映画でもみたいな」
「なんです? 映画? 噂には聞いたことがありますが、私、一度も見たことありません。はい」
「え? 行ったことないのか」テレビモニタに目をやった。「あ、これこれ、この映画。すごく面白そうだと思わないか?」
テレビに偶然映った映画のCMを指差しながら、敦彦は嬉々とした表情を浮かべた。
明日から上演開始と大々的に宣伝されている。
主は絶賛しているのだが、沙夜にはセンスのいい映画だとは思えなかった。タイトルが特に酷い。
けれどその気持ちを思ったまま、ご主人様に伝えるわけにはいかない。
「ええと……はい、いいと思いますよ。にこりん」
お世辞をいいながら満面の笑みを作ってみる。
最近になって沙夜は、空気を読むという意味を学習した。近頃この手口をよく利用する。常習犯だ。
愛嬌を振舞うなど従来の彼女には無縁の言葉だった。
ずいぶんと狡い生き方をするようになってしまった。
「だよな! 泰誠がバカにするんだよ! 僕のセンスは人外のものだってさ」
敦彦は沙夜のお世辞に物凄く嬉しそうな顔をしてくれた。
そんな顔が見れるのなら、狡い生き方でもどんとこいだ。
世の中では女性たちが媚を売ることを非難したがる人が多いけれど……。
大切な人に笑顔を向けていたい。大好きな人に笑ってもらいたいから笑顔をふるまう。
それらの行為は悪いことではないはずだ。少なくとも沙夜はそう思う。
「それにしても、せっかくの夏休みなんだから、“たまには”なあ、ゆっくりしたいもんだよなあ。なにも考えずにふらふらとしてたい」
ここでまた、たまには、だ。
“たまには”というのが最近の流行りなのかもしれない。
そうだ……。
だったら沙夜も流行に乗っかって、“たまには”大切な主に恩返しを試みてみようか。
敦彦とは半年という歳月を共にしてきたが、彼には返しきれないほどのたくさんの恩がある。
体を張って守ろうとしてくれたこと。
つらくなった時に駆けつけてきてくれたこと。
沙夜の罪を認め、飲み込み、一緒に背負ってくれたこと。
体調を崩した自分のためにベッドを使わせてくれていること。
これから先も守り続けるから自分らしくいてくれといってくれたこと。
しかし、彼は沙夜に恩があるといった。
お前が僕の憑きもので本当によかったといってくれた。
身に覚えがない。全くといっていいほどない。
たしかに間宵を救う際に沙夜も尽力した。
けれど、沙夜は彼が特殊な力を供給してもらっている、だからその恩返しをしているに過ぎない。
いうなればそれが普通の使われ方なのであり、憑きものとして当たり前のことをしているだけだ。
二人の間に恩というものがあるのならば、それだけで清算されているはずだ。
沙夜の計算では、こちらにお釣りがくるほどだ。
だから沙夜は恩を返すのだ。
恩返し。具体的にどういうことをすればいいのだろう。
そこで沙夜は藤堂間宵の知恵を借りてみることにした。
◆◇ ◇◆
「どうしたの?」
再び対面の部屋まで足を運んで間宵に事情を説明すると、彼女は不思議そうな顔で眉をひそめた。
「え? お兄ちゃんに恩返し?」
「そうです。なにかいい策略はありませんかね?」
「策略ねえ、そうだなあ……。やっぱしプレゼントが一番手っ取り早くて、いいんじゃないかな」
「ほほう、プレゼントですか。たしかに私プレゼントというものに憧れていました、はい」
「ただ、相手が相手だからなあ。気をつけてね沙夜ちゃん。一筋縄では行かないよ」
そう述べ、苦々しく顔をしかめる間宵。
「は? 気をつけて、とは?」
「子供の頃にね、わたし、豚の貯金箱をお兄ちゃんにプレゼントしたことあるんだ。ほら、背中に硬貨をいれるやつあるでしょ。『好きな動物はなに?』って聞いた時に迷わず『豚』って答えたから。よほど豚が好きに違いないと思って、小学生のなけなしのお小遣いで買って、お兄ちゃんに渡したの。そしたら、お兄ちゃん……あいつ……、なんていったと思う?」
「なんといったのです?」
「僕は……」間宵は敦彦の口まねをする。結構似ていた。「……豚は好きだけど、それは食べることだけに限ったことだ。見た目はどんな動物よりも嫌いだよ。だいたい、こんなにピンクの豚は現実的じゃないだろ。こんな気持ち悪いものにお金をいれるのか? 冗談じゃない」
「む……むごい」
「酷いよね! 信じられないよね! わたしそのせいで人にプレゼントする時、躊躇するようになったんだから。前にあの人は『黄色が好きだ』っていっていたけど、ああ、本当に心から慈しんでいるのだろうか……みたいな感じにね。まあ、今のお兄ちゃんはどうだろう? だいぶ、丸くなったみたいだし」
「丸くなった……ですか?」
「丸くなったよー。本当に冷たかったんだから」
「はあ、そうなのですか」
「とにかく沙夜ちゃんも心してかかりなさい。物欲が薄いあの人を満足させられるものなんて、きっと地球上にはないよ」自室の方に目を配りながら、それだけいって振り向き、「月の石でも探してきたら?」と意地悪そうに微笑んだ。
沙夜は敦彦の部屋に足を踏み入れながら考えた。
さて、なにをあげれば喜んでもらえるだろうか。
まさか、月の石を探しにいくわけにもいくまい。
しばらく熟考した末、沙夜は妙案を思いついた。
そういえば敦彦は観たい映画があるといっていた。
そうだ。彼に映画のチケットをプレゼントしよう。
我ながらグッドでナイスなアイデアだ。
あ!
そこで致命的な欠点に気がついた。
沙夜はお金を持っていない。




