(4)
アネモネと会ってからというものの、どうも気持ちが沈んでいる。このまま家に帰ろうかと考えたけれど、今、兄の顔をみると油断して泣いてしまうかもしれない。なんとか元気づけようと考えたが、無駄だった。
そのままなんとなく足を運んだ先は駅前にある駐輪場だった。休日の午前中ということもあって、混み込みとした駐輪場。その端っこに立ち、過去の自分と兄の姿を頭の中で映写する。
この申し訳程度に開いたスペースで、日暮れまでずっと遊んでいた。警備員の人たちに「危ない」と何度も声をかけられても、こりずに遊んでいた。まだ公園が新設されていなかったあの頃、ここ以外に遊び場がなかったのだ。
夕陽の傾き、低いプラスチックの雨よけ屋根が織りなす煌めき。その景色は子供の目には新鮮であり網膜に鮮烈に焼きついた。だから、何度見ても感動した。それくらいに日が傾くと敦彦が毎回、感情を押し殺したような声でいうのだ。帰ろうか、と。
ここに越してきたのは 間宵がまだ園児と呼ばれていた時節だ。敦彦がちょうど小学校にあがったばかりの頃だった。そう、あれは二人の両親が死んだ翌年のことだ。
幼少の記憶なので定かではないが、もしくは美化されているかもしれないが、昔の敦彦は頼りがいがあり、とても優しかった。間宵にとってヒーローのような存在だった。しかし、母と父が共々に他界すると兄は段々無感動な人間になっていった。あの頃の鉄面皮のような顔を思い出す。冷たくあしらわれたことが何度もあったけれど、兄の本意を知っていたから一切の悪意はわかなかった。
諦めていたし、そんな兄を認めようとしていた。
冷たくて無感動な敦彦。そんな彼を変えたのは他でもない、沙夜という憑きものだった。よくいえば治し、悪くいえば唆し、敦彦は徐々に以前の姿を取り戻していった。
アメリカから帰ってきたばかりの頃はその変わりように驚かされた。事情があって怒りさえも覚えた。
そう。兄の性格も変わった。今では公園だってできた。
やはり、知らず知らずに変わっていく世界。
無常な世の中に身を投じている自分。
日常に恒久なんてものはない。
酷く空しい思考だった。
「……あれ、間宵ちゃん?」
顔見知りの女性が駐輪場に現れた。目が若干赤らんでいたのかもしれない。彼女は心配そうな顔つきで覗き込んでいる。間宵は慌てて目を拭って、表情をごまかした。
「美代子さん、こんにちは」
手嶋美代子という女性だ。三つ編みに銀縁メガネ。容貌や仕草からにじみ出る優等生特有のオーラ。兄から聞いた話によれば彼女には、『品行方正の権化』というあだ名があるらしい。ふとした経緯で知り合った敦彦の級友である。
「どうしてここに?」
「これから夏期講習なの」手嶋はにっこりと笑った。ここは敦彦が通う学校の最寄り駅だ。「それよりも間宵ちゃんこそ、こんな所でどうしたの?」
「い、いえ、なんでもないですよ。本当に……」
「よかったら話、聞くよ」
どうやら涙ぐんでいたのを見られていたようだ。
「……え、でも、夏期講習はどうするんです? 悪いですよ。そんなの……」
「学生はあくまで勉強する権利があるだけ。権利を生かすも殺すも自分次第なのだよ〜。やる気があるだけ十分だと思わない? 得られる結果はさして問題じゃないと思うんだ。優先順位をどちらに定めるかどうかは私は決めることだよ。私は今、間宵ちゃんの話を聞きたいな」
ふうと呼吸を整えてから間宵は口を開いた。
「……美代子さん。どうして人って勝手に変わっていくのでしょう?」こんなことをいい出した自分が少しだけおかしい。「しかも皆、わたしが知らないうちに変わってしまうんです。予兆くらい見せてくれたっていいと思いません?」
「人にはね、それぞれ別々の物語があるものだよ〜。人が認識できる他者の世界なんて本当に限られているんだから、しょうがないことなんじゃないかな」
「ええ、それはそうなんですけど……」
「そんなこと当たり前だって思った?」
「はあ、まあ……」
「当たり前なことでも大事なことなんだよ。ほら、世の中って刻一刻と変化していくものでしょう? それでも人はこの一日を日常だなんて呼びたがるの。それって無意識のうちに変わらない日々に憧れている証明だよね。だから仲のいい人が変化した時、嬉しくなるだけじゃなくって空しくなったりするわけだ。人が変わるのは当たり前。自然なことであって、当人の内側で起こることだよね」
「つまり、人が変わっていくようすは絶対に観測できない……ということですか?」
「うーん、そうだね。だって、わかるはずがないもの。一度物事を俯瞰してみることだね。主観性を捨てれば、いろいろ見えてくるよ。まあ、社会の側面だけだけど」そこまでいった後、突然手嶋はくすくすと笑いだした。「お兄ちゃんのことでしょ?」
「ひゃ、はい?」顔が熱くなったのを自分で感じた。「……ごほん。まあそうですね。兄のことです」
「ふふ。間宵ちゃん、可愛い〜」
「からかってますか? からかってますよね?」
「ん〜。あっちゃんくんは特にわかりにくいからね〜。彼、自分の感情をあまり表に出さないでしょ。隠そうとしているのかな。でもさ、逆に考えてみようよ。それこそが彼の見せる自身なんじゃないかな?」
「どういう意味です?」
「ありのままに受け止めればいいんだよ。感情を表に出さない人だ、っていう一種の情報じゃない。それだけのヒントがあれば、ある程度は勝手な想像ができるじゃない。ほら違った方法で考えてみなよ。適当な嘘ばかりをいう男の子よりは、あっちゃんくんはよほどわかりやすいよ。彼、絶対嘘とかつけないもの」
「ええ、まあでもそれは嘘とかヘタクソなだけですけどね」
「ヘタクソなのは慣れてないってこと」
「あはは、物は言いようですね」
「とにかくあっちゃんくんの場合は嘘をつかないし、余計なことばかりをいわない。だったら出てきたワードから適当な予測を立てて、知った気持ちになってればいいんじゃないのかな? それができることの全てだよ」
「あとは想像しろということですか? なんだか傲慢じゃありません?」
「わかった気になるのは若者の権利なんだってば」手嶋は微笑んだ。
……それもそうか。
いくら億万の言葉を尽くしたところで、人が人の心を現せるわけがない。もし、言葉だけで伝わるのならば、権利を守るために争ったり、潔白を証明するために口論したり、……しなくてもすむはずだ。
だったら寡黙な人も能弁な人も、結局は同じ穴の狢……なのかもしれない。
自分を見せない。いや、そもそも自分なんてものはない。
他人に見せる部分を独自が取捨選択して、“自分”という形を表現しているに過ぎないのだ。
わかりやすい人間なんていない。人は誰もがミステリアスだ。
そのように考えていくと、人の心をありのまま把握しようとする必要などないように思えてきた。
「ありがとうございました。なんだかすっきりしました」
「……それだけじゃないんじゃないかな?」
間宵はこんな炎天下にいながら冷や汗をかいてしまうほど、どきりとした。
手嶋はほんわかしている口調のわりにとても鋭い。
「まあ、野暮だと思ったら、話してくれなくてもいいんだけどね」
「いえ、聞いていただけるのなら聞いてもらいたいです」
意を決して彼女に話してみることにした。それはもちろん、友人の死についてだ。言葉を吐きだすために吸いこんだ空気がやけに重たく感じた。
「去年の冬にわたしは……つらい別れを経験しました」
「大切な人……だったみたいだね」
「はい。大好きな方だったんです。……そんな時、都合よく思い込めばいいんでしょうけど、わたし頭の固い人間なので……。ほら、草葉の陰から見守ってくれているとか、よくいうじゃないですか。空からいつでも見ていてくれるとか。そういうのを信じられないんです」
「間宵ちゃんは幽霊を信じてないの?」
「はい」断定口調でいった。
彼女の場合、信じたりはしない。
ではなく、信じることができない。
なぜなら憑きものという生物がいることを知っているから。
心霊写真。ポルターガイスト。金縛り。
世の中で起きる心霊現象のすべては心霊の仕業ではなく憑きものが起こしたことだ。一般人が視認できない生物が至るところで生活しているという話に過ぎない。簡単に説明がついてしまう。この世の中に不思議なことはない。
「……ロマンがないでしょうか?」
「そんなことないよ。それなら、それでもいいんじゃないかな」
「美代子さんは信じているんですか?」
「ううん。私は理系だしそういう非科学なものは信じてないな、基本的にね。怪奇現象が起きたとしても、それを偶然だと開き直っちゃうタイプの人間かも。だってこの世界が今まで亡くなった人たちで溢れかえっているだなんて気持ち悪いじゃない。一体、何人いると思ってるのって話だよね。でもね、信じたい時は信じるよ」
「信じたい時?」
「ほら、生まれ変わりって言葉があるじゃない? 誰かが死んだ時、違う生物となって、もしくは人間としてもう一度人生をやり直せるんだっていうやつ。そういう言葉を信じてる人は意外に多いよね。きっとその人にとっての生きる糧となるんだろうね。いいことをしていればもう一度やり直せる、報われる。どう考えても都合のいい解釈だよね。でもそれって悪いことかな? 理由がどうであれ、いいことをしようと思うことって、いけないことなのかな?」
「いえ、そんなことは……。とても素敵なことだと思います」
「だよね。だからそういう人たちと一緒にいる時は私の周りに霊はやっぱりいるんだよ。バカバカしい心霊映像を見ている時とか肝試ししている時とか……、怖がりたいと思った時にはいるよ。怖がりたくない時にはいない。まさに神出鬼没」
「あはは、なんだか世界が自分中心に回っているって感じですね」
「人間、誰もが唯我独尊。失恋ソングで共感したりするのに、想像上の物語を自分と照らし合わせたりするのに、やっぱり自分だけは特別だって信じているだね。唯一無二な存在だって思い込むと楽になるんじゃない。夢見がちなんだよ、どうしようもなく」
「それが、人間の本質的な思想であるような気がします」
「そう、その通り〜!」ここで手嶋は一番嬉しそうな顔をした。「例えば……そうだね……もし私が永遠の別れを味わった時は、つらいと思った時は、どれだけバカバカしくても霊魂というやつを信じてみると思うな」
「いないとわかっていても……ですか?」
「うん。人生は素数と同じだよ。一言でいえば、一番大事なのはなにが正しいのかじゃなくって、気の持ちようってやつなのさ」
「そう……かもしれませんね。ええ、わざわざありがとうございます。話を聞いてもらえて嬉しかったです」
「うん。じゃ、私そろそろ行かないと。またね」
「はい、さようなら」
手嶋に別れを告げてから、彼女は帰路を歩んだ。
そろそろ帰ろう。雨が本当に降り出しそうだった。
手嶋と話をしているうちに彼女の中の問題ごとが一つ決着した。
素数と一緒。
そっか。人生は割り切れない。




