第三章・記憶 その三
1998年 火葬場
久我峯遼は久我峯院から笹宮家に引き取られ笹宮遼となった。桐生に拾われる前の家族であった者達の事は何一つ記憶に残しては無いが、遼はそれで良いのだと心のどこかで思っている。
遼は久我峯院にいた頃、桐生に言われ続けてきたことがあった。
『明日のことを考える必要はねぇんだ、今が幸せならそれで良いんだ。過去も未来も関係ねぇ、大事なのは今なんだ。今を生きろ』
その言葉を言う時の桐生の顔は笑っていた。だから、遼もその言葉を真実だと疑うことをしなかったし、疑おうともしなかった。
「遼くん、確かに辛いのはわかるが……先生へ手向けの言葉くらい言っておいた方が良いんじゃないかい? こうして先生の顔を見ることもこれが最後なのだからね……」
その結果、二年間の毎日を義姉と義妹や奏龍、恭介、希実香たちと明日を考えず、今だけを見て走ってきた。
しかし、その結果に見逃してきたモノも多かった。得るものが多ければ多いほど、失うものも等価に増えていたのだ。
その中に、捨てられて性を失って生きることを諦めかけていた遼を救ってくれた久我峯桐生と言う男の存在もあった。
「涼香姉さん……俺さ、先生に教えられたことがあったんだ」
「教えられたこと……それは?」
「先生は、今を生きろって言ってた。未来も過去も関係ないって、大事なのは今なんだって……それでさ、俺は先生の言葉を信じたんだよ。けどさ――――」
遼は次の言葉を涼香に伝えようと必死に声にしようとするが、思うように声が出ずに涙が我先にといわんばかりに溢れ出して来る。
「今は本当にそれで良いのかなって……大事な人を失ってまでさ、今を楽しんで良いのかなって……俺、先生のこと見失ってさ、それで、俺ばっかり幸せで…俺、オレは――――」
ようやく出てきた言葉も後悔の言葉であった。それほどまでに、久我峯桐生と言う男の存在は遼の中では大きなものであった。
「なあ、遼くん……確かに先生は君にとって大事な人だった。けどね、それは私達にとっても同じことなんだ。私もあの先生が死んでしまったことは未だに信じられない」
「だったら、だったらどうして涼香姉さんはそんなに落ち着いてられるんだよ! 先生と、先生とは二度と会えないんだ……先生はもう笑ってくれないんだ、先生はもう話してくれないんだ……それを、それを――――」
だが、そんな遼の心すらも涼香は慰めてくれた。落ち着かせてくれた。
「だけどね、それを後悔してはいけないんだ。先生は言ってた、後悔だけはするなと。初めから後悔するような人生を送るなと」
涼香のその言葉は何処までも優しく、何処までも静かであった。
「だから、私は後悔だけはしない。それは、先生との思い出を汚すことになると思うから」
そして、涼香は遼のことを強く抱きしめる。
まるで、何かに脅える小動物をなだめるかのように優しく、そして強く。
「遼くんは先生と過ごした日々を後悔したことは在るかい?」
「……そんなわけない、そんなはずないよ」
遼がそう答えると、涼香は笑うように遼に言う。
「だったら、それで良いじゃないか。先生に別れの言葉を伝えることができるのは今だけなんだ。先生に言われたんだろ? 今を生きろって。だったら、その言葉をもう少し信じれば良いんだ」
その時、遼は気が付いた。涼香の顔こそ微笑んではいるが、その身体は小刻みに震えているということに。
だから遼は涼香に小さく頷いた。これ以上、大切な人を悲しませたくなかったから。これ以上、何一つ失いたくなかったから。
「俺…先生に別れの言葉を言ってくるよ。先生に伝えたいことたくさん残ってるから」
「うん、それが良いよ。私はお花摘みに行って来るから先に行っていてくれ」
「お花摘み…?」
涼香の言葉が理解できずに遼が聞き返すと、涼香はにっこりと笑いながらあるものを指差す。その指が挿す方を遼は眼で追うと、お花摘みの意味を理解して顔を少し赤くしてから桐生の遺体のある部屋に向かって早歩きで立ち去った。
それを笑顔のまま見送った涼香は誰もいなくなった廊下で小さな声で呟く。
「先生……遼は本当に良い子です。だから、どうか……見守っててあげてください」
掠れた声で、本当に小さく涼香は呟いたのだった。
『恭介……残念な知らせだけど落ち着いて、よく聞いてね』
それは絃城家に引き取られてから初めて見る義母の辛そうであり、悲しそうな顔であった。だから、恭介は直感で本当に良くないことが起きたのだと悟った。
その瞬間に心の準備はしていたはずだった。しかし、義母から告げられた言葉は予想以上に辛く苦しいものであった。
『桐生先生が先日、久我峯院の道場で亡くなっていたの……』
その瞬間、恭介はどっと身体の芯から力が抜けていくのがわかった。それほどまでに恭介にとって久我峯桐生と言う存在は大きなものであった。
―――なぁ、義母さん。先生の死因ってわかってるの?
しかし、恭介はその辛い状況でもそれだけは聞かなければいけないと思った。だから尋ねた。
『本当に良いの……?』
―――うん。先生の最後は知っておかないといけないから
『死因は……銃殺らしいの。現場には複数の銃痕と薬莢が落ちてたって検察の人が言ってた』
―――嘘…あの先生が……銃殺って……
そこから先の会話は全く頭に入っていなかった。その日から、恭介の頭の中には桐生の顔と、久我峯院で暮らしてきた日々と、桐生の言葉がぐるぐると駆け回った。
それこそ夜も眠れぬほど否定し続けて、毎日その事実を受け入れようとした。けど、そのどちらもできなかった。
だからこそ恭介は桐生の言葉を必死に思い出し、受け入れようと、自分に対する暗示のように頭の中で桐生の言葉を再生し続けた。
『明日のことを考える必要はねぇんだ、今が幸せならそれで良いんだ。過去も未来も関係ねぇ、大事なのは今なんだ。今を生きろ』
―――そうだ、大事なのは今なんだ
その日に、恭介の心は半分壊れてしまったのだろう。桐生と言う恭介に生きることと人生を与えてくれた人を亡くし、残ったものは初めて心から好きだと思えた涼香が生きていて自分と付き合っているということのみ。
だから、恭介はそれを希望に歩くことを止めなかった。
―――先生、俺、絶対に足を止めないよ。涼香がいるだけで十分だから
「そうだ…俺には涼香がいる。先生、俺、頑張るから」
火葬場のトイレの鏡の前で恭介は小さく呟く。そして、恭介は自分の頬を気合を入れるかのように叩くと、男子トイレを出ようとした。
だが、男子トイレから少しはなれたところで眼を潤ませながら涼香に何かを言っている遼の姿と、涼香の姿があったために男子トイレから出るに出られなかった。
だから恭介は男子トイレの入り口のあたりでその様子を眺めながら、二人がいなくなることを待った。
だが、遼だけが廊下の奥に消えたというのに涼香だけはその場で何かを呟いて動こうとはしなかった。
恭介には何故か、その姿が泣いているように見えた。だから、なりふり構わずに立ち尽くしている涼香の所に走った。
「涼香…どうして泣いてるんだよ……?」
「私は……泣いてなんて無い……」
恭介はその言葉をすぐに嘘だと思った。だから、自分の眼に映った涼香のことを言葉にする。
「だったら…だったらどうして辛そうなんだよ…どうして苦しそうなんだよ…?」
「それ…は……ぐす…恭介…恭介―――」
その言葉に言葉を返す前に涼香は泣き崩れていた。恭介の胸に頭を預け、恭介が先ほど見た遼のように、子供のように涼香は泣いた。
「落ち着くまで泣けば良いんだ……そうすれば涙と一緒に辛いことも流れ出ていくからさ……」
「だったら…私は最後まで…泣けないよ」
その言葉に恭介はどうしてと聞き返そうとしたが、聞き返すよりも先に涼香は恭介に言うのだ。
「だって……泣いてしまったら先生との思いでも全部流れてしまうから」
「涼香………」
恭介はより一層強く涼香のことを抱き寄せる。
「恭介…?」
「だったら…だったら俺がお前の代わりに全部覚えててやるから、頼むから……そんな表情しないでくれよ…」
それは、恭介の本音であった。育ての親である桐生を失ってしまった今、恭介に残された心の在り所は絃城の家でも希実香でもなく笹宮涼香の唯一人だけであるからだ。
だから恭介は考えた。
―――俺から…涼香まで離れていったら何が残るんだ?
その問いに対する答えは恭介の中には何処にもなかった。何故なら、既に恭介と言う人間は笹宮涼香と言う人間を心から愛していたから。
リヒテンベルグと言うドイツの作家は言った、恋は人を盲目にさせると。恋は異性に強く惹かれ、、逢いたい、独り占めにしたい、一緒になりたいという欲望であると言える。
現在、恭介はその状況に陥ってしまっている。もっと酷く言うのならば、笹宮涼香という一人の少女に依存してしまっているのだ。
だからこそ恭介は涼香が離れていくことを恐れる。久我峯桐生と言う依存の対象を既に一人失ってしまったから。
―――そうだ……涼香がいるじゃないか。先生、安心してくれ。俺には涼香がいるからさ
この瞬間から、絃城恭介と言う少年の心は歪んでしまった。
胸の中で泣いている涼香から見えないが、確かに恭介の顔は歪んでいた。泣き笑いをした仮面のような歪んだ表情を。
「恭介……私はもう泣かない。これで最後にする……だから、もう少しだけ泣かせてくれ……」
「ああ……」
恭介は胸の中にいる涼香の頭を心底愛おしそうに撫でながら、自分が歪んでしまったことに気が付くことは無かった。




