第三章・記憶 その一
1989年 墓地公園
墓地公園の直そばにある海から波の音だけが静かに響いている。波の音以外が聴こえて来ないほどに墓地公園は静かであった。
そんな墓地公園で、一つの墓石の前で一人涙を流している少年が居た。墓石に刻まれている文字は所々が欠けてしまっていて良く見なければ読み取れないような状況になっている。
そんな墓石の前で、少年は声を殺して涙を流している。目を真っ赤に腫らし、目の下には黒く濃い隈ができている。まるで、何日も前からそこで泣き続けているかのように。
『おい、ボウズ』
そんな少年に、声をかけた人物が居た。
『どうして声を出してなかねぇんだ。辛いだろ、苦しいんだろ?』
少年はそれに小さな声で答えた。
――泣いても、家族は帰ってこないから
『くだらねぇよ』
その言葉を聞いて、少年は泣きすぎて充血してしまっている眼で話しかけてきていた人物を睨みつける。
――何も知らないくせに……俺の辛さなんて分らなく癖に!
『知らねぇさ。けどな、帰ってこないって分ってんだったら少しでも自分を救ってやれよ。助けてやれよ。お前は生き残ったんだろ? だったら自分を大事にしろよ』
その時、少年は声の主の顔を初めて眼にした。
そこにあった顔は、何故か泣いているように見えた。
だから、少年は尋ねていた。
――おじさん、どうしてそんな顔してるんだよ?
『さあ、どうしてだろうな』
そういうと、少年に向かってその大きな掌を差し伸べた。
『なあ、行く場所がねぇなら俺の所にこねぇか? 俺がお前の居場所を作ってやるからよ』
少年はその差し伸べられた大きな掌を掴まずには居られなかった。久しく見る、人の温かさがそこにはあったから。
『ボウズ、お前の名前は?』
――恭介
1993年 路地裏
セカイはこんなに理不尽なものだったのか。親に捨てられ、性を無くし、生きることすらも億劫になるほどの絶望を知り、孤独を知った。。そして、涙は枯れてしまったと思った。それでも、死ぬことは怖かった。
だから、彼は生きることを諦めなかった。どんなに醜くても、必死になってただただ生きることを望んだ。初めの一週間は死ぬほど辛かった。食べるものも無く残飯を漁り、寒さに凍え、毎日が死と隣り合わせの生活だった。
その時に、心が死んでいなかったことをこれほど嬉しく思ったことはない。
『コレはまた、随分と………』
けど、そんな生活を終わらせてくれた人がいた。
『お前、捨てられたのか?』
男の人か女の人かが微妙なラインの声だったが、言葉遣いから男の人だと悟った。
その声に、彼は首をこくりと縦に下ろした。
『そうか、そりゃ辛かっただろうな。けど、安心しろ。今日から俺がお前の親になってやる。どうだ、嬉しいだろ』
その言葉を聞いた瞬間、彼は声の主の胸元でわんわん泣き出した。今まで溜まっていた寂しさを、孤独を、その辛さを……彼は嬉しかった、救われたと思った。
『よしよし……今まで辛かっただろうな。お前、名前はなんていうんだ?』
彼はその恩を、その記憶を生涯大切にしようと幼い心に誓ったのだった。
『……遼』
1996年 久我峯孤児院
「無形と言っても型がねぇんじゃねえって言てんだろっ!」
そう叫ぶは、久我峯無形流の指導者が久我峯桐生である。
「身体の軸をブレさせるな、呼吸を整えろ、相手の動きを見誤るな、相手から一瞬でも目を逸らすな!」
遼はその言葉に無言で頷き、組み手をしている桐生を射抜くような視線で見据える。
「場の空気を支配しろ、相手の気配を飲み込め、相手の呼吸を感じろ」
言われていること、それは武術家にとってどれも基本的な事……らしい。
「それで良い。だがな、お前が俺を飲み込もうなんざ十年は早ぇな」
「っ!?」
その瞬間、遼と桐生の視線が重なる。ほぼ、それと同時だった。
金縛りにあったかのように遼の身体が動かなくなり、桐生から視線を外す事ができなくなる。
桐生の足がゆらりと揺れたかと思うと、次の瞬間に遼は綺麗に投げ飛ばされていた。
「ぐぇっ」
投げ飛ばされ、床に強く叩きつけられるように落ちた遼は、蛙がつぶれた時のような声が自然に漏らした。
「今のが『抜け』と『入り』だ。後は相手を『点』に見立てて『円』を描くように身体を動かすんだ。するとアラ不思議、今のお前みたいに綺麗に投げ飛ばされる。どうだ、面白いだろ」
桐生は言い終わるなり、床に寝ている遼を肩に担ぎ上げるとげらげらと笑った。
「ま、俺くらいになればあの状態から壁を足場にして着地するなんざ朝飯前だけどよ」
「先生…苦しい………」
そういわれて、桐生は肩に担いでいた遼のことを見る。そこには首を支点に身体をぷらぷらと吊らしている遼の真っ青になった顔があった。
つまり、桐生が担いでいたと思い込んでいた遼の身体は、実のところ担がれてはおらずに首吊り状態であったということだ。
「お、ついうっかりしちまったぜ」
そう言って、道場の縁側まで来たところで桐生は遼の身体をゆっくりと床に下ろした。
「先生のうっかりは人を殺すぜ?」
道場のにあたる場所に生えている木の上から陽気な声が聞こえてくる。桐生は苦笑いをしながら、声のほうに向かって呟くように言う。
「馬鹿は高いところがなんとやら……か」
「あっ、先生、今俺のこと馬鹿って遠まわしに言っただろっ!?」
「ほれ、そんだけ元気があるなら手合わせでもするぞ。一度くらい勝って……一撃くらい入れてみろよ恭介」
「何で言い直したんだよ!? 分ったよ、今日こそ絶対に勝ってやるからな。勝負だ先生!!」
猫のような仕草で木の上から飛び降り、恭介は桐生が戻っていった道場に走っていく。遼はそれを見て思うのだ。
先生に拾われて良かったと。
あの時に生きることを諦めなくてよかったと。
自然に、遼は笑顔になっていた。縁側の床に座って、道場で桐生に勝負を挑んでいる兄弟子である恭介を眺め、そして、その相手を務めている桐生を眺める。
「ん、なんだ。お前も混ざりたいのかよ……そうさなぁ、お前等二人まとめて相手にしてやる。お前もこっち来いや」
「その余裕なくしてやるっ―――って、のわっ!」
桐生は無駄の無い円運動で流れるように技を入れようとしてきた恭介を受け流し、そして軽く壁に向かって投げる。
恭介は壁を足場にして何とか着地し、再び桐生のことを射抜くような視線で見据える。
「ほれ、早くこっちにこねーと恭介がリタイヤすっぞ」
「遼っ、今日こそ先生に勝つぞ!」
遼は二人の声にこくりと頷き、桐生の後ろに滑り込むように回り込み、腰をゆっくりと下ろして構える。
「おりょ、遼……お前にしちゃ随分とまぁ。けどな、後ろを取ったからって必ずしも有利になるわけじゃねぇってこと教えてやるよ」
桐生は今まで構えてすらいなかった状態から、ゆっくりと腰をおろして構えの状態に移る。
そこからは一方的な試合になった。いや、大人と子供の遊び状態になっていた。
前方からは恭介が左右にステップを踏みながら桐生に飛び掛るが、桐生はそれを半身ずらしただけで回避し、背中を軽く押す。そのせいで後ろから追い込むように攻めようとした遼に恭介が体当たりをする形で飛び込み、あっけなく二人が床に倒れる。
桐生は軽く飛び上がったかと思うと、真横にあった壁を蹴って急加速をし、床に倒れている恭介と遼の襟首を掴み肩に担ぎ上げる。
恭介と遼はそれで敗北したのだということを自覚する。
「ちょ、ああもう……また負けちまったよ」
「先生大人気ないよ……少しくらい手加減してくれてもいいじゃんか」
遼の言葉を聞いた桐生は、少し馬鹿にしたように笑いながら答える。
「別に手加減してやっても良いけどよ……それじゃお前等も納得しないだろ?」
けらけらと、それでいて真面目で、そして何処までも陽気な人間。それが恭介と遼が思っている桐生の人間像である。
「ちぇー、今度こそ絶対に勝ってやるからな」
「いつか、俺も絶対に先生に勝ってやるからな」
「おう、いつでも掛かって来い」
満面の笑みを浮かべながら、桐生は恭介と遼の頭をわっしわっしと撫でる。
その大きな掌はゴツゴツとしていたが、恭介も遼も嫌な顔をするどころか何処か嬉しそうである。まるで兄弟のような二人を見て、桐生も安心したように微笑むのだ。
「む、そろそろ時間か……恭介、遼。今日の稽古はここまでだ」
桐生は道場の壁に掛かっている掛け時計を見て、まるで今思い出したというように言う。
「え、先生が時間云々を喋ってるって事はさ、また増えるのか?」
「いいや、今回は違うぞ。今回はなぁ……知りたいか?」
意地の悪そうな笑みを浮かべ、桐生は恭介と遼に尋ねる。
「知りたいかって聞かれると聞きたくなるじゃんかよ」
「先生、今日は何があるの?」
恭介と遼は特に考えるわけでもなく、桐生に遠回しにだが教えろと言った風に答える。
すると桐生は、その言葉を待っていたというように口を開く。
「そこまで言うなら教えてやる。実はな、今日は新しい門下生の親御さんが来るんだよ」
そう言って桐生は嬉しそうな顔をする。
「門下生って……へぇ、この道場に新しく人が入るのか。なあ、先生?」
それに対し、恭介は不思議に思ったことがあったのか桐生に対して聞き返す。
「なんだ、恭介?」
「それって何人来るんだ?」
恭介の言葉に、遼も便乗するように桐生に尋ねる。
「先生、俺もそれは気になったんだけど……」
二人の疑問を聞いた桐生は、ニヤリと口元を歪めてから言葉を放つ。
「二人だ。二人もこの道場に仲間が増えるんだぜ」
「二人…か。まあ、二人でも居ないよりだったら居た方がスズメの涙ほどでも月収は増えるからいいかぁ」
恭介は桐生の言葉にそう呟くと、遼も、そうだな、と言ったようにうんうんと頷く。
だが、桐生は聞いて二人の頭を少し強めに、ぐりぐりと撫でる
「恭介、遼。お前等はそんなこと気にしないで良いんだよ。俺はお前等が幸せになれればそれで良いんだ。今も十分に楽しいしな」
そういい終わると、二人の頭の上に乗せていた掌を戻し、桐生の執務室のあるほうに向かって桐生は歩いていく。
恭介と遼は、その後ろ姿を見ながらお互いに呟く。
「「俺達って…先生に拾われてなかったらどうなってたんだろうなぁ」」
今の現状を幸せだと、幸福だと思う二人はそれ以上何も呟くことは無かった。