第二章・英雄 その六
六月一四日
午前最後の授業である古文の授業を聞き流しながら、昨日の出来事を思い返している。
『希実香が三日も家に戻っていないか……』
喫茶こきりに戻り、霞さんに希実香のことを伝えると、どこか納得したように呟かれた。その後、霞さんは悠里と彼女に聞かれないように僕の耳元で小さく囁いた。
『今神くん…いや、奏くん。明日のいつでも良いから一人で来てくれ、話がある』
その言葉に小さく頷き、その日は解散とした。解散に関しては発案者であった悠里も納得していたので問題なくできた。
しかし日が変わったと言うにもかかわらず、未だに僕は絃城の小母さんの言葉に引っかかりを覚えている。今はどうか分からないが、あの頃は几帳面でしっかり者だった希実香が何の連絡も無しに家に帰っていないということに。
時が過ぎれば人は変わってしまうというが、本質の部分まで変わってしまうとはとてもではないが思えない。少なくとも、最後に病室で見た希実香の印象は昔と変わっていなかったように思える。
「――――と言うわけだ。今神、次のページの三行目から読んでくれ」
だが、それはあくまで自分の主観に過ぎない。僕は希実香から見たら変わってしまっているかもしれないし、変わっていないのかも知れない。だったら、どれが正解でどれが誤りであるのか判別は難しい。
「どうした今神? 今神、聞こえているか?」
多少考え込みすぎて頭が痛くなる。今まで聞こえていなかった音が耳に入ってくる。どうやら、古文の先生に当てられていたようだ。
「あ、いえ、すみません。もう一度お願いします」
「仕方ないな、次のページの三行目から読んでくれ」
「分かりました」
教科書を手に取り、指定されたページの文章をただ読み上げる。その間も、関係のありそうなことを記憶の中から検索する。引っかかる記憶は幾つかあるが、どれも確信には至らない曖昧な記憶の群れ。
「よーし、そこまでだ。次の文章は佐倉が読んでくれ。今日はこれで最後だ」
文章を読み上げていた口を閉ざし、考え事にあらためて集中しようとした。
「よし、今日の授業はここまでだ」
だが、授業が終わってしまったようで全員が席から立ち上がる。だから仕方なく合わせるように僕も立ち上がり、授業終わりの挨拶をする。
『ありがとうございました』
たったそれだけを言い終わると、昼休みになったためか一斉にクラスの大半が教室を出て行った。
だが、悠里はいつものように自前のパンを鞄から取り出しながら僕に話しかけてきた。
「今日は一段とぼんやりしてんな」
それに対し僕は言葉を返そうとしたが、言葉に詰まってしまう。いつものように言葉が出てこないのだ。
「重症だな…こりゃ」
「悪いね……ちょっと考え事しててさ」
ようやく出てきた言葉も悪態をつくような言葉遣いである。
「いや、なに。確かに昨日のアレは気になるさ。俺も少しばっかり気になって進学校にいる友人にいろいろ聞いたからな」
そう言いながら校内では使用禁止である携帯電話を取り出し、とあるメールを僕に見せ付けてきた。
「最近な、この進学校の中で流行ってるチェーンメールらしいんだが……これまた妙な内用でな」
そこには所々にスペースの入った気味の悪い内容が表示されていた。
「これが届いた生徒には不幸が起こるって評判らしい」
「別にチェーンメールなんてそんなものでしょ? 別におかしなことでも無いと思うけどね」
僕がそう返すと、悠里は手で僕を制しながら話を続けた。
「まあ、聞けって。これが届く奴の条件、それがまた奇妙でな」
「条件……?」
「まあ、条件って言うよりは身体的特徴だな。身長が160センチ前後で黒髪もしくは茶髪の女子に届くらしいんだ」
何故そんな、ある一定の人物を狙っているのか全く予想がつかない。
「それはまた……」
「で、それを送られてきた人物に共通して起きているのが失踪事件だ。もっとも、学校側では家出だとか言われているらしいがな」
「失踪事件……って、悠里!」
失踪、その言葉が先ほどまでの引っかかっていた部分に更に引っかかってくる。
「まあ、落ち着けよ。この話にはまだ続きがあるんだ」
そう言って悠里は僕の顔の前に手を置き、話を続ける。
「条件その二、過去に不幸を持つ者。それで、俺が独自に調べてみた結果……絃城希実香の名前があった。何の目的があって、誰がこんなことをしているのか知らないけどよ、そのうち大事になるぜ」
言い終わると同時に悠里は僕の顔の前から手を避け、もう片方の手で携帯電話をぱたりと閉じて鞄にしまった。
そして、僕に尋ねてくる。
「正直なところだが、俺はこの件から手を引いた方が良いと思う。もっとも、それはお前の意思しだいなんだけどよ……この話を聞いてお前はどうしようと思った?」
悠里の嘘は許さないといった風な視線に射抜かれ、どう答えるかを考える。だが、答えは一つしかないのもまた決まっていること……そう思っていた。
「幼馴染が関わっているんだ。僕は―――」
希実香を探し出す。そう言葉にしようとしたが声になる前に咽で詰まってしまう。いや、本当にそれだけなのだろうか?
幼馴染だからと言う理由だけで我が身を危険に晒すようなことを僕はするだろうか?
答えは否だ。
ならば、どうしてそんなことを口走ろうとしたのだろうか?
「僕は…どうしたいんだ?」
わからない。一体、何を言おうとしていたのだろうか?
「………ごめん。わからない……」
「わからない…ねぇ。まあ、いいか」
僕の返事を聞いた悠里は、煮え切らない答えに怒ることも無く手に持っていたパンに齧りつき、にやりと笑いながら言う。
「いつでも相談してくれや」
僕はそれに対し、ただ一言だけを述べるしかできない。
「……ありがとう」
その言葉に悠里は笑って返すと、昼休みの終了を知らせるチャイムと同時に自分の席に戻って行った。
その後、僕は午後の授業の間も考え続ける。
悠里の教えてくれた失踪事件。流行りだしたチェーンメールと、それが届く人の条件。そして希実香のこと。
考えれば考えるほどに意識はどんどん思考の渦に飲み込まれていく。
『今神くん…いや、奏くん。明日のいつでも良いから一人で来てくれ、話がある』
その言葉を思い出した頃には、学校の全ての授業は終わっていた。気がつけばホームルームの真っ最中だった。
「えー、それでは気をつけて帰宅するように」
担任の教師がそういうと、生徒達は一斉に立ち上がる。どうやらホームルームが終わったようだ。
「奏龍、今日は部活があるから先に帰っててくれ」
悠里は部活鞄を肩にかけながら、そう言って教室を出て行った。
別にそう言われずとも今日は用事があるから一緒に帰る事はできないわけで………そんなことを思いながら僕は、机の横に提げている自分の鞄を手に取り教室を後にした。
向かう先は喫茶こきり。
歩く足は次第に早歩きになり、いつの間にか走っていた。
バクバクと鼓動を刻む心臓が呼吸を妨げている。呼吸も息を切らすほどに荒れている。
―――ああ、何をこんなに焦っているのだろうか?
(少し冷静になれよ僕……焦っても仕方ないだろ)
そう心の中で呟くと、先ほどまで早鐘のように鼓動を刻んでいた心臓が落ち着きを取り戻したかのようにゆっくりと鼓動を刻む。走っていた足も気がつけば何時もの歩く速さとと大差のない速さに変わっていた。
(僕が焦っても仕方ないだろ。それに、焦ることはいつだってできるんだ)
精一杯、自分を落ち着かせることに神経を集中させる。
すると、荒れていた呼吸も次第に落ち着いてきた。そうだ、今は焦っている時ではないのだ。
身体も心も落ち着いたときには既に、喫茶こきりは目の前にあった。まるで、ここに来るまでの距離が自分を落ち着かせるためにあったのだと……そう思わせるかのように。
「流石に無関係ってことはないかな………」
悠里の調査結果と、これから霞さんが僕に話してくれることはきっと、何かしら関係のあることだろう。それに、あらかじめそう考えていれば慌てることも焦ることも無い。
僕は喫茶こきりの出入り口に当たる扉の前で小さく深呼吸をする。
既に何を聞いても良いように覚悟は決めた。
後は話を聞くだけだ。
自分に対して自問自答を幾らか行い、僕は喫茶こきりの扉を開き店内に入った。すると、何時ものように入店者を知らせるためのベルが、カランカランと鳴った。
店内を見回すと何時もならに三人は居る筈のお客が一人もいない。店内にいるのはマスターである霞さんと、たった今入店した僕だけだ。
「来たか……好きなところに掛けてくれ。勿論、カウンター席にだ」
つまり、霞さんはこの時間に僕がここに来ることを予想して人払いをしておいたのだろう。だが、そんなことのためにわざわざ人払いなんて事をして店の売り上げを下げても良いのだろうか。
「奏くん……そんな俗物的な考えはやめて欲しいな。それに、今日は休業中の札を扉に下げていたはずだ」
コトン、とコーヒーの入ったカップを僕の前に置きながら、霞さんは少し不機嫌そうに言う。
「僕としては勝手に心を読まれるほうが不本意ですけどね」
それに対して僕は、コーヒーをずずっと口に含んで言葉を返す。
「違いない」
霞さんは僕の言葉を聞いて怒るどころか、フフッと笑いながらそう返してきた。
「まあ、別に本気でそう思っているわけではないですからね」
「だろうね。そうじゃなければ簡単に思考なんて読めないさ………それはさておき、奏くん。君は何処まで知っているんだい?」
何が聞きたい……そう聞くのではなく『何処まで知っているのかい?』と聞いてくるあたりが霞さんらしい。
「希実香の通っている学校で不気味なチェーンメールが流行っている。そして、失踪事件の多発……ってことくらいです」
だから僕は知っていることをありのままに話す。実際には僕が調べたわけでは無いので知っているというよりは聞いているというのが正しいのだけれど、この際は気にしないで置こう。
「では、希実香ちゃんがその中に入っているということも知っているということで良いのかな?」
「ええ、それで良いです」
僕がそう答えると、霞さんは何かを考える仕草をする。そして考え終わったのだろう、次には口を開いていた。
「では、恭介が進学校でチェーンメールが始まったのと同時期に失踪したということは知っているか?」
「いえ……初耳です」
悠里の話を聞く限りでは、メールが届き失踪をする条件は女性であることが前提になっていた。しかし、実際にそうではないのだろうか?
「そうか……では単刀直入に言おう」
霞さんはそう言って、一瞬の間を空けてから言い放った。
「この事件は恭介が起こしている」
その瞬間、僕は自分の耳を疑った。そして、無意識のうちに頭の中を複数の疑問が走り抜けた。
恭介がこの事件を起こしている?
では何の目的があってそんなことをする?
それならばどうして希実香まで被害者の中に入っているのか?
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わから――――
「奏くん!」
繰返される思考地獄に終止符を打つかのように誰かの声と共に頬に軽い痛みと共に衝撃が奔った。その衝撃は頬に痛みと一緒に温かさを残した。それは霞さんの手だった。その手の上に自分の手を重ねるように置く。そこでようやく僕は、自分が霞さんに軽く頬を叩かれたのだと気が付いた。
「すみません……少し考え込んでしまったようです」
「全く……奏くんも遼くんも恭介も、一度考え込むと自分を見失ってしまうところは変わらないんだな」
「遼と恭介さんも……?」
「ああ、そうだよ。あの頃の君達は良い意味で似すぎていた。君たち三人は私達のために悩んで、必死に考えて、苦悩して……確かにそれは君達の良さであったさ。だがね、それが今の状況を生み出してしまった。そう――――」
何かを思い出すように、先ほどまで僕を見つめて話をしてくれていた霞さんはどこか別の場所を、全く違う遠い場所を見ながら口を開いた。
「あの頃の、他愛も無い口約束を果たすためにね」
そう言ってから、続けざまに霞さんは問いかけるかのように僕に言う。
「覚えているかい? 君たち三人がそれぞれに、涼香と由岐ちゃんと希実香ちゃんに言った言葉を」
僕たち三人があの頃に言った言葉とはなんだろうか?
言われればきっと思い出せる。けど、きっかけが無ければ記憶は勝手に思い出したりはできない。
『実はな は なんだ』
思い出せ。僕たちがそれぞれに言った言葉を。
『だからな は だけの になってやる』
大事な部分が抜け落ちてしまったかのように思い出せない。
「そうか……だが、それが普通の思い出というものだ。けどな、それをずっと忘れなかった男も居たんだよ」
それから先は言わずとも分かった。恭介さん……いや、恭介だ。
遼の眠る病室で見た恭介の眼は僕を見る事はなかった。まるで僕を見ることを拒んでいたかのようだった。
いや、それも少し違う気がする。あれは、あの場に僕がいなかったというようにも思える。
『俺達の時間も……こいつと一緒に止まっちまったんだな――――』
だけど、その後に消え入りそうな声で「ありがとうな、奏龍」。そう言ったときだけは、僕を僕としてちゃんと見ていてくれた気もした。
考えれば考えるほどに思い出すことも、推理することも難しくなっていく。
「恭介は……わた、いや、涼香と交わした口約束を守るために行動している」
その後に霞さんは嘲笑うかのような笑みを浮かべ、小さく呟いた。
―――それも、酷く歪曲した形でな
その呟きは、おそらく僕以外に誰かが居たとして、呼吸音が聞こえていただけでも聞こえなかったであろう程に弱々しく、小さな呟きであった。
「……僕は、僕は、何を言ったんですか?」
いくら思い出そうとしても、泥沼に足を引きずり込まれるかのように何も思い出すことができない。沈んでいくのだ。いくら思い出そうとしても、その、もっとも思い出したい記憶が。
「奏くん。君は誰に向かってその言葉を放ったかは覚えているかい?」
「ええ、覚えています」
あの頃の僕は由岐ちゃんに好かれていた。いや、正確には心の拠り所にされていた。だから僕はそれを受け入れた。そうすることで由岐ちゃんの気持ちが楽になるのならと。
「理由は?」
「僕は由岐ちゃんの支えになってあげたかった。姉兄の涼香姉さんにも、遼にも負けないくらい由岐ちゃんが好きだったから」
だけど、実際にはそうではなかった。涼香姉さんには恭介がいて、遼には希実香がいて………僕と由岐ちゃんは独りだった。僕は羨ましかった。僕に無いものがあの人達にあることが、溜まらなく羨ましかった。
だから、独りだった僕は由岐ちゃんに惹かれた。そして、好きになってしまった。
「その思いも、感情も、人として何も間違ってなんかいないよ。それは人が持ち合わせる感情なのだからね」
「霞さん、はぐらかさないでください……僕はあの時になんて言ったんですか?」
僕が少し声を低くしてそういうと、霞さんは悪かったというような表情をしてから口を開いた。
「君は英雄なんだろう? それも、由岐ちゃんだけのな」
その言葉を聞いた瞬間、今まで泥沼の中に沈んでしまっていた記憶の欠片が光ながら現れ、今まで完成し得なかったパズルの中に組み込まれ、記憶のパズルが完成した。
「そう…だ。どうして、こんなに大切な事を忘れていたんだろう」
恭介は涼香姉さんに、遼は希実香に、そして僕は由岐ちゃんに――――
だけど、あの場にいたのは僕たち六人だけのはずだ。霞さんはあの場にいなかった。なのにどうしてそれを知っているのだろうか?
ふと思い浮かんだ疑問を言葉にできぬまま、僕は霞さんの目を見つめる。
「そう怪しむ事はないだろう? 私は涼香から嬉しそうに自慢話をされただけだよ」
思い出し、懐かしむような表情で霞さんは僕に答えてくれた。
だけど僕には、その懐かしむような表情が何処と無く悲しみに包まれているような気がした。
「先ほどの話の続きだが、君はどうするつもりだい? これからも由岐ちゃんとの約束を守り続けるために思い出を守り続ける英雄でいるか。それとも―――」
僕はその言葉を最後まで聞き終わる前に、遮るように答える。いや、答えと言うよりも自分の意思の宣言と言うべきか。
「僕は今を生きます。それが、由岐のためになると思っていますから」
「それが君の答えか……だがね、希実香ちゃんの英雄には君はなれないぞ? あの時からも
これから先もずっと、希実香ちゃんの英雄は一人しかいないのだからね」
その言葉は僕の胸に深く突き刺さった。
けど、それでも僕は幼馴染を…いや、友達を助けたい。親友が守ってやれない今、その役目は僕が引き受ける。
例え誰も必要としていないとしても。必要ないと罵られても。
「僕はもう、大切な幼馴染を失いたくない」
それが僕にできることだから。
「そう…か、分かったよ奏くん。十七日だ」
「えっ?」
突然の日時指定に僕は若干戸惑ってしまう。だが、霞さんはそれすらも気にせずに続ける。
「その日の十六時に墓地公園にある笹宮家の墓の前に行くと良い。そこに恭介は来るはずだ」
その時、不意にカウンター越しの霞さんに僕は抱きしめられた。
「え、あの――」
「奏くん……君のそれは間違いなく強さだよ。私には持つことのできなかった本当の強さだよ」
「霞さん……?」
ぽたぽたと、僕の顔に生暖かい雫が落ちてくる。僕はそれが何であるのかと言うことも知っている。だから、どうしてそうなっているのかはわからないけど、顔を上げることだけはしなかった。
「すまない…すまないな奏くん。私には恭介を止めることはできない……だから、君に任せる。遼くんが居ない今、頼めるのは君だけなんだ」
震える声を無理矢理に殺したかのような声で霞さんに頼まれる。けど、僕にはその頼みを断る理由はないし、断るつもりも無い。
(けど……霞さんってやっぱり、涼香姉さんと同じ匂いがするんだよなぁ)
どこか懐かしい匂いを鼻に感じながら、僕は霞さんに抱きしめられていた。
今回に限って、文章の大幅追加を致しましたのでここで報告させていただきます。
文中『その呟きは、おそらく僕以外に誰かが居たとして、呼吸音が聞こえていただけでも聞こえなかったであろう程に弱々しく、小さな呟きであった。』の後ろからが、今回の修正で追加された文章です。
このような事にこの場を使ってしまいましてまことに申し訳ございませんでした。