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—エニシ—  作者: 酢橘
第1巻

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第一話 一枚の紙

第一話 一枚の紙


「……あれ?」


イトナミ・カルマが目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。


木々の隙間から陽の光が差し込み、風が葉を揺らしている。


聞こえてくる鳥の鳴き声も、どこか知らないものばかりだった。


「どこだ、ここ……?」


ゆっくりと立ち上がる。


確か営業先からの帰り道だったはずだ。


仕事を終え、駅へ向かっていた。


そこまでは覚えている。


だが、その先の記憶がない。


スマホを取り出してみる。


画面は点く。


だが電波は一本も入っていなかった。


「圏外か……これは困ったな」


周囲を見回してみる。


人の気配はない。


道らしい道も見当たらない。


とりあえず歩いてみよう。


そう決めて森の中を進み始めた。


しばらく歩いた頃だった。


前方から女性の声が聞こえてくる。


「おかしいですね……」


どこか困ったような声だった。


「こっちだったと思うんですけど……」


カルマは足を止める。


人だ。


少なくとも自分以外の誰かがいる。


少し安心しながら声のする方へ向かった。


木々の間を抜ける。


そこには銀色の長い髪をした女性が立っていた。


穏やかな雰囲気を纏っている。


けれど今は周囲を何度も見回していて、少し困っているようだった。


「あの」


カルマが声を掛ける。


女性は驚いたように振り返った。


「あっ」


そしてカルマを見るなり、ほっとしたように微笑む。


「良かった……人がいたんですね」


「それはこっちの台詞かもしれません」


カルマが苦笑すると、女性も少し恥ずかしそうに笑った。


「実は少し道に迷ってしまって」


女性は申し訳なさそうに言う。


「少し、ですか?」


カルマが尋ねる。


「たぶん」


女性は真面目な顔で頷いた。


思わず吹き出しそうになる。


どうやら本当に迷っているらしい。


「よかった」


カルマがそう言うと、女性はきょとんと目を瞬いた。


「え?」


「迷子が僕だけじゃなかったみたいで、少し安心しました」


カルマは肩を竦める。


一瞬の沈黙。


そして女性は小さく吹き出した。


「ふふっ。それは良かったですね」


「良くない気もしますけど」


カルマが苦笑する。


今度は二人で笑った。


状況は全然笑えないはずなのに、不思議と少し気が楽になった。


「ちなみに、どこへ向かっていたんですか?」


カルマが尋ねる。


「町ですよ」


女性が答える。


「それなら目的地は同じですね」


カルマが頷く。


「あなたも町へ向かっていたんですか?」


女性が首を傾げる。


「たぶん」


今度はカルマが真面目な顔で答えた。


女性は思わず吹き出した。


「真似しましたね?」


「少しだけです」


カルマが笑う。


そんなやり取りをしているうちに、初対面の緊張はどこかへ消えていた。


女性は軽く頭を下げた。


「私はオーファといいます」


「あ、すみません」


カルマも慌てて頭を下げる。


「僕はイトナミ・カルマです」


「カルマさん、ですね」


オーファは柔らかく微笑んだ。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


互いに名乗り合った、その瞬間だった。


ふわり、と光が舞う。


カルマの目の前に一枚の紙が現れた。


「……え?」


思わず手を伸ばす。


手のひらほどの大きさの紙だった。


そこに文字が浮かび上がる。


名前:■■■■■■


カルマは目を瞬かせた。


名前が読めない。


文字が滲み、崩れ、まるで壊れているようだった。


「どうしました?」


オーファが不思議そうに尋ねる。


「いえ……なんでもありません」


カルマは慌てて首を振る。


もう一度紙を見る。


だが気付けば紙は消えていた。


見間違いだったのだろうか。


そう思ったが、妙に現実感だけが残っていた。


「それじゃあ、もしよろしければ一緒に行きませんか?」


オーファが言う。


「一人より二人の方が安心ですから」


「そうですね」


カルマも頷いた。


正直、何も分からない世界だった。


それでも一人ではなくなった。


それだけで少し安心できた。



幸いにも町は思ったより近かった。


森を抜けると、小さな町が見えてくる。


「帰ってこられました……」


オーファが心底ほっとしたように呟く。


その様子を見て、カルマは少し笑った。


本当に迷っていたらしい。


町の外れにある建物へ近付いた時だった。


「オーファ先生ー!」


元気な声が響く。


建物から数人の子供たちが飛び出してきた。


「見つかったー!」


「また迷ってたの!?」


「心配したんだからね!」


子供たちに囲まれ、オーファは肩を縮めた。


「す、すみません……」


「絶対また森で迷ったでしょ!」


少年が呆れたように言う。


「少しだけです」


「絶対うそ!」


子供たちが笑う。


オーファも困ったように笑った。


そのやり取りを見ているだけで、なんだか温かい気持ちになる。


すると一人の少女がカルマを見上げた。


「その人だれ?」


「あっ」


オーファが思い出したように振り返る。


「カルマさんです」


「森でお会いして、一緒に戻ってきたんですよ」


「迷子仲間だ!」


少年が叫ぶ。


「仲間ですね」


オーファも頷く。


「認定早くないですか?」


カルマが言うと、子供たちはまた笑った。


しばらく賑やかな時間が流れる。


すると少女が首を傾げた。


「カルマさんは、これからどうするの?」


「それが……」


カルマは言葉を探した。


帰る場所はない。


事情を説明しても信じてもらえないだろう。


「正直、まだ決まってなくて」


「お家は?」


「帰れそうにありません」


「宿は?」


「ありません」


子供たちの表情が変わった。


「えっ」


「じゃあ今日寝る場所ないの?」


カルマは困ったように笑う。


「そうなるかもしれません」


子供たちは顔を見合わせた。


そして次の瞬間。


「じゃあ泊まっていけばいいじゃん!」


少女が即答した。


「空いてる部屋あるよ!」


「ご飯も食べていきなよ!」


「決まり!」


「え、いや――」


カルマが口を開く。


だが子供たちは聞いていない。


「こっちこっち!」


「部屋案内する!」


「早くー!」


腕を引っ張られる。


背中を押される。


気付けば建物の中へ連れて行かれていた。


「まだ心の準備が――」


「だめー!」


「聞いてないなこれ」


カルマは苦笑した。


子供たちの歓声が響く。


つい数時間前まで、自分は森で一人だった。


どうすればいいのかも分からなかった。


この世界で生きていけるのかさえ分からなかった。


それなのに。


「早く早くー!」


「ご飯なくなるよー!」


「なくなりませんよ」


オーファの少し慌てた声が飛ぶ。


子供たちは大笑いした。


「ははっ……」


思わず笑みがこぼれる。


自分でも驚くほど自然な笑いだった。


知らない世界だ。


不安が消えたわけじゃない。


それでも。


少しだけ。


本当に少しだけ。


ここなら大丈夫かもしれない。


そう思えた。


少し離れた場所で、その様子を見ていたオーファが小さく微笑む。


子供たちは人が好きだ。


そして、人のことをよく見ている。


そんな子供たちが初対面の相手にここまで懐くのは珍しかった。


「ふふっ」


自然と笑みが漏れる。


カルマはまだ気付いていない。


けれどもう、子供たちは彼を仲間として迎え入れていた。


そのことが少しだけ嬉しかった。



その夜。


与えられた部屋のベッドに腰を下ろし、カルマは静かに息を吐いた。


見慣れない天井。


知らない世界。


それなのに、不思議と心は少し落ち着いていた。


オーファ。


子供たち。


今日出会った人たちの顔を思い出す。


すると、ふと目の前に光が現れた。


昼間の紙だった。


カルマは思わず身を乗り出す。


そこには新しい文字が刻まれていた。


名前:■■■■■■


役職:孤児院院長


「院長だったのか……」


昼には無かった文字だった。


増えている。


なぜだろう。


どういう仕組みなんだろう。


分からない。


ただ一つだけ。


名前の部分だけは、相変わらず読めなかった。


「やっぱり……」


何度見ても。


目を擦っても。


変わらない。


「なんなんだろうな」


月明かりが部屋を照らしている。


紙の上で、読めない文字だけが静かに揺れていた。


――第一話 終

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