10. 九つの杯
オルテンシア号がタプアを去ってから幾年月も過ぎた。
本の国は変わらぬ速度で発展し、しかし影は消えないほどに広がっている。一進一退のバランスを保ちつつ、タプアは知識と神秘を抱えている。
本の国の次期女王として、フィスキエンティアが王位に就いた。彼女は王位に就く前に何冊もの本を書き残し、王位に就いてからも本を書いていた。
だが、フィスキエンティアは自分は一冊だけ書き上げられない本があるといって、何年も何年も同じ本の執筆をしていた。
カルテの街に、女王は時折お忍びで訪れることがあった。決まって書き上げられない本を持っていった。
初めてカルテを訪れた時の記憶は別れに染まっていた。
始まる前に出会った人との別れの話を、フィスキエンティアはずっと書き終えられない本に記していた。
日記という名の本を抱え、フィスキエンティアはカルテの街の外れ、未だ解き明かされない影の国の領域と隣合う門に立っていた。
供回りも遠ざけて、一人門に佇む。
あの日見送った少年の姿を思い返しては、少女の頃のように日記を抱きしめる。
あの船で過ごした一月が近いような遠いような。そんな懐かしさをフィスキエンティアは感じていた。
別れの日からずっと、彼女は少年のことを忘れた日はなかった。
「ティシュア……」
少年の名を呼ぶ。九つの杯を意味する名だ。そして、九つの杯が何を象徴としているかも、フィスキエンティアは時間をかけて突き止めていた。
けれど、意味がわかった分だけ、それは自分にふさわしくないと思ってしまう。
どれだけ望んだところで叶わないことを知っているからだ。
それでも、諦めきれずにフィスキエンティアはカルテの門前でティシュアを待っていた。
もう何度目かもわからないほど門の前に立つ。そして、何もないことに落胆して帰っていく、その繰り返しだ。
今回も日が高くなる前から黄昏時まで立ち尽くしていた。
あまり待たせすぎても供回りを困らせるだろう。フィスキエンティアは影に背を向ける。
そこへ風に乗って青年の声が耳に届く。
――フィス。
王位に就いて以来誰も呼ぶことのなかった名に、フィスキエンティアは足を止めた。
大人びた声音だが、はっきりと彼の声だとわかる。
震える手を握りしめ、フィスキエンティアは、フィスは振り返った。
目の前には、眼鏡のつるを照れ臭そうにいじる青年が立っていた。
「君に書き上げられた分だけ、戻ってきちゃった」
フィスは言葉を失い、ただ彼に駆け寄る。
彼はフィスを受け止め、フィスはしかと彼に抱きつく。
「ティシュア……!」
フィスは彼の名を呼ぶ。
九つの杯、「願いは叶う」という意の名前を。




