3.絵本の長い眠り《特別な一日》
目が覚めると、僅かに埃が積もっている、見覚えのない部屋だった。
手で瞼をこすりながら、昨日のことを思い出す。
昨日は確か……御父様に、今日からここがお前の住む場所だって、小さな洋館に案内されて、本がたくさんあって、掃除して、邪魔になるから二階の部屋で眠って……そういえば、その途中でマフラーを見つけた気がする。
首元に手をやれば、ふかふかとした柔らかい布の感触が、手に伝わってきた。
海の月だから少し暑いと感じるけど、その暑さも含めて、なんとなく落ち着くような感じがした。
マフラーを思う存分堪能してから、布団替わりに使っていたシーツを、窓枠にかけて天日干しにする。
もう朝ごはんの時間だから、僅かな埃がついたシーツを水洗いする時間はないから、気休めにしかならないだろうけど、こうしといた方がちょっとはマシになりそうだ。
……後で掃除用具を持ってきて、綺麗にしよう。
いや、栄養失調気味のこの体で、出来るのかは微妙かもしれないけど。
部屋の隅に偶然見つけた姿見に、全身を映す。
少し汚れた、大きくて手が見えない白いシャツに、膝下の青いズボンを履いた、マフラーをつけた子供は、もうすぐ4歳になろうとしている男子の身長とは思えないほどに小さく、全体的に細かった。
自分の右手首を左手で握ってみると、鏡で見るのより何倍も細くて、本当に生きているのか心配になってしまった。……いや、僕なんだけど。
とりあえず朝ごはんを食べようと部屋から出て廊下に出ると、階段を降りていく。
僕から見て右の方にある扉を開けると、そこにはすでに、机の上に朝食が置かれていた。
……けど、明らかにおかしい。
パンが1つ置いてあるのはわかるよ?
……でも、それとスープ以外、机の上は真っ白って、どういうこと……?
1人で食べる場所にしては広いけど、そのほとんどがテーブルクロスの白しか見えないってどういうことなの!?
……なんとなく、“ボク”の記憶があるからそんなに豪勢な朝食ではないことは知ってたけど、まさかここまで酷いとは思わなかった……。
魔力のないやつなんて、早く死んでしまえって、遠まわしに言われているような気がする。
そう考えると、パンとスープがあるだけいいのかもしれないな……。
侘しすぎる食事に変な顔になりながらも、ご飯を食べる前の祈りの言葉を唱える。
「生命を分け与えてくれる動植物に、生育する緑の人々に、そして、我が神、カルマ神に祈りを」
パンを手に取り、食べなが……固っ!このパン、長期保存ができるようにすごい焼かれたパンだ!
つまり、保存食を朝食に出されている。
……なんかもう、子供に対してここまで徹底的にやれるって、逆に尊敬してくるよ……こんな人になりたくないって意味で。
そういや、さっきの祈りの言葉の中にあった「緑の人々」ってなんだろう?
肌の色が緑っていうことかな……。
もしかしたら、御祖母様入れてくれた知識の中にあるかも……あっ、あった。
どうやら、食べ物を作って提供してくれている平民の皆さんのことみたいだ。
ふーん……この国を治める王族は赤の人で、その手伝いをする貴族は、青の人っていうらしい。
なんか、黄の人っていう人たちもいるらしいけど……その人たちに関しては、よくわからなかった。
味気はないけど、少し楽しくなった食事に、知識をくれて本当にありがとうと感謝をしながら、パンの最後の一切れをスープに浸して食べた。
スープを飲み干したあとは、両手を合わせて何も言わずにゆっくりお辞儀をしてから、食堂を出た。
お皿は、必要最低限の仕事はしてくれるステラさんが回収してくれるから、そのままだ。
部屋から出て、僕は掃除用具を探しに行った。
ステラさんが絶対に掃除してくれるとは限らないし、こんな小さい体でできるのかどうかはわからないけど、少しでも自分でやっておきたい。
……でも、どの部屋を覗いても、掃除用具はなかった。
昨日ステラさんが持ってきたから、確かにあるはずなんだけど……もしかして、本邸の方から持ってきたやつだったのかもしれない。
そうなると、掃除用具を取りに本邸へ行く必要があるな……。
個人的に、本邸にはあまり近づきたくないし、向こうからも呼んだとき以外は来るなと言われているから、できれば行きたくないんだけど……あんな場所で生活してたら、いつか病気になってしまう。
誰にも見つからないように祈りながら、洋館の扉を開いた。
*
使用人などが入るような裏口から、こっそりと本邸へと入り込む。
キョロキョロとあたりを見回して、誰もいないことを確認すると、安堵の息を漏らした。
本来僕は、洋館に移った時点でこの本邸には何かの儀式があるときとか、誰かに許可をもらった時しか入れないことになってるんだけど……誰も見てないなら、いいよ、ね……?
掃除用具を取るだけ……と自分に言い訳しながらもう一度周囲を見回す。
真っ白な壁にふかふかの赤い絨毯と、埃1つない廊下は、僕が昨日まで見ていた場所と、まったく変わりない。
外聞が悪いと外に出されなかった僕は、ここにいるときも度々裏口から抜け出していたので、僕が今、屋敷のどこにいるのかはきっちりとわかる。
……あ、でも、掃除の時間になったときに使用人が取りに来た時に、掃除用具がなかったことに気がつかれたら、誰かに盗まれたとかそういう話になって、大事になる気がする。
だったら、掃除用具がなくなっていても、誰も気づかないような場所って……あっ。
掃除用具がなくなっても大丈夫な場所を思いついた僕は、絨毯の上を走りながら、誰かが来ないように気をつけて、階段の方へと向かった。
こうやって静かに、でも、早く移動したい時に絨毯が敷いてあると、何の音もしないからいいよね。
今度僕の方の部屋にも……って、あそこには僕が逃げなくちゃいけない人もいないし、そもそも、僕が頼んだところで買ってくれないだろう。そもそも、普通の常識じゃ、家族や家に来た客は、逃げる対象じゃない。
家族や家にきた人は逃げる対象だと認識している僕の頭と、御祖母様が与えてくれた知識が、初っ端から噛み合ってないのに苦笑しながら、絨毯の敷かれている階段をのぼっていく。
運良く見つからなかったので、今のうちにと走っていたから、早々に切れてしまった呼吸を整えながら、階段の手すりに手を添える。
手すりには木の文様みたいな模様があり、手すりの端には、綺麗な飾りがとめられている。
普段は触ると怒られてしまうため、滅多に触れない滑らかな手触りの手すりに少しうっとりしながら、三階へと上がっていく。
三階につくと、名残惜しげに階段から離れてから、少し急ぎ足でこの階の一番右端の部屋へと向かう。
使用人も召使も戻ってくる気配はないけど……あんまり長居し過ぎて見つかっても困る。
早足だった足は、いつの間にか駆け足になる。
息を切らせながらついたそこは、裏口からも、玄関からも遠い、人目につかないようにひっそりと存在する、小さな扉の前。
特殊な経路を辿らないとここにはたどり着けないから、そもそも人に見つからないってのもあるんだけど、それにしてはほかと比べて、扉に装飾も1つもない木の扉を見てから、僕は中へと入った。
小さなおもちゃ、使わなくなった道具など、いらないものを置くためにあるその部屋は、人一人が通れる小さな道と、奥に隠れるようにある小さなベッドまで、何も手付かずの状態で残っていた。
絶対撤去されているだろうと思った僕は、少しだけ嬉しく思いながら小さなベッドを触る。
ここは、この本邸で僕の部屋として使われていた場所だ。
横幅は狭いけど、高さがあるから大人でも入れるし、窓はないけど小さな明り替わりの物があるから、結構快適……って言っても、僕はこの生活しかしらないからそんなことが言えるけど、他の人がここに住んだら、住んで3日で何もやることがなくて狂うかもしれない。
それほどまでに、僕はここで何もしてこなかったし、行くとしても御祖母様のところだけだった。
これからは、あの洋館に沢山の本があるから、これから生きていく為に知識が必要な僕は絶対にやらなきゃいけないことだし、御祖母様ももういないから、思う存分今後の為に活動できる。
そう思ったとき、なんとなく、胸の奥がざわめいた。
何か、とっても大切なことに、気がついたような気がする。
けど、その場でじっとしても思いつかなかったから、ひとまず後回しにして、ベッドの傍にある掃除用具を手にした。
胸のざわめきはおさまらないけど、先にやることを済ませないと、僕の部屋になってるあそこまで帰る間に、誰かに見つかってしまう。
掃除用具は僕の健康の為にも早めに欲しかったから、自分で取りに来たけど、他の物はステラさんに持ってきてもらう為に、持ってきてほしい物のリストを頭の中で作る。
ステラさんがいればこんな強行軍、しなくてよかったんだけど……あの人、いつ捕まるかわからないから、掃除用具だけは本当に早く確保したかった。
埃っぽくて、部屋の中でマフラーを外すこともできないし。
掃除用具をもって部屋を出ようとしたとき、扉の傍にぽつんと置かれた、小さな何かが目に入った。
近づいてみると、それは、去年の誕生日祝いに貰った、御祖母様の花嫁道具の、簪。
それを見て懐かしいと感じた僕は、それを手にとった瞬間、あることを思い出した。
一瞬だけ動きが止まったあと、それを思い出さないように、振り切るように、扉を開けて部屋の外へと飛び出していく。
息が切れるまで走って、息が切れても走って、あの階段に来ても、手すりなんかに脇目もふらず、裏口へと走った。
僕の背丈でギリギリ届く裏口の取手をつかみ、勢いに任せてそのまま開けると、一目散に洋館へと走っていく。
もう嫌だ。どうしてあんなことを思い出しちゃったんだろう。
両手の指で数えるくらいしか過ごしてないのに、もう、成人のときまでは僕だって決めたのに。
なんで、“ボク”の……あぁもう!!
じわじわと浮かんでくる涙をそのままに、乱れた呼吸のまま洋館に飛び込み、昨日一夜を明かした、あの部屋へと駆け込む。
掃除用具を投げ入れ、扉を閉めてから、その扉にもたれかかる。
ずりずりと床へずり落ちていく僕は、そのまま、床に座り込んだ。
出るときに咄嗟に手に持ったのか、左手には簪が握られていた。
それを見た僕は、涙の濁流を、止めることができなくなった。
「……うっ、ひっく……うぁ……うぁぁぁああああ………」
どうして、どこかへいっちゃったの?ボクを、まもってくれるっていってたのに。
いじわるなおとうさまとおかあさまのかわりに、ずっといっしょにいるって、やくそくしたのに。
なんでいなくなっちゃったの?
一目で泣き慣れていないであろう泣き方と、それに乗じて出てきた小さな意識に、僕の意識は飲まれていく。
もっとおばあさまといっしょにいたかった!
もっと、おばあさまといっしょにおしゃべりしたかった!
もっと……おばあさまといっしょにいろいろなことがしたかった。
……御祖母様は、もう、この世界にはいないんだよ。
どうして?ずっといっしょにいてくれるって、いってくれたのに……。
……でも、おばあさまがいないなら、ボクは、ここにいたくない。
そんなこと言っちゃダメだよ。御祖母様は、君に生きて欲しいんだから。
でも、ほかのひとたちはこわいし、おとうさまはいじわるで、おかあさまはよくわからなくて、おにいさまたちはいたいんだ。
だれかと、なかよくなんてなれない。
大丈夫。僕は、君の代わりにその人たちと仲良くするよう、御祖母様からいわれているんだ。
だから君は、僕の命が終わるその時まで、眠ってて。
……うん。わかった。
きっと君に、いい夢を見させてあげる。
…………ごめんね。ありがとう。
……ボクもいつか、きみのそばにいくから。
だから、そのときまで……おやすみ。
「おやすみ。そして、誕生日おめでとう。“ボク”」
“ボク”を知る人間は、僕以外にはいなくなった。
だからせめて、僕だけでも“ボク”がいたことを、“ボク”のことを、覚えていよう。
今日という日を、生まれた日を、祝う人のいなくなった、“ボク”の為に。
誕生日なのに、ボクを祝ってくれる人はいない。
その言葉に蓋をして、心の奥底に閉じ込める。
成人するまでの間に、目が覚めるかもわからない長い眠りについた“ボク”には、必要ない感情だから。
それに、僕がいるなら、いらないよね?
この日が、僕らの誕生日で、“ボク”が完全に僕になった日、だった。
眠りについたモノ語りを、僕が起こすことは、もう、できない。
一話での眠りは、僕が起こそうと思ったら起こせる状態でした。
でも、ボクが自分で眠りについたので、ボクが起きようと思わない限り、ボクが起きることはありません。
ただ、僕が体験したことは、ボクにも夢として伝わるので、楽しい出来事ばかりが起こったら、ボクが目覚める可能性はあったりします。