第八話
薄暗い森の中。
村に戻る帰り道では、ユウトとリーシャはお互いに喋ることなく、黙々と歩き続けた。
ユウトの少し前を歩くリーシャは、先程見せた弱弱しさを一切見せることなく、いつもの毅然とした態度だった。
やがて、薄暗い森の獣道も終わりに差しかかった。数メートル先から、月光が漏れだし、明るく照らしている。
ユウトは、前に歩くリーシャの華奢な背中をぼんやりと見ながら、思いを巡らした。
結局、仲直りはできたのだろうか。確かにリーシャの事を知り、ある程度は理解することができたのかもしれない。だが、それはそれで、仲直りしたとは言えないのでは……
そこまで、考えが及んだユウトは少ない語彙の中から謝罪の言葉を選び、まさにそれを口にしようとする。
その瞬間。
急に止まった、リーシャの身体に後ろから激突する。
「……いきなり、止まってどうしたんだ?」
問い掛けるが、当のリーシャは何かを探るような目つきで前を見つめるばかりで反応しない。
その姿を、訝しげに思った直後。
凄まじい爆裂音が、ユウトの聴覚を叩いた。
この《夢の世界》にまだ二日程度しかいないものの、ユウトはその音が何の音であるか、瞬間的に察した。
──魔法だ!
そう、脳が認識した瞬間、神経を張り詰め、自分の中の警戒レベルを一気に上げる。
前にいるリーシャも腰に剣がないものの、その背中からは圧倒的な威圧感を発し、警戒しているのがわかる。
だが、数秒経っても何も起こる気配は微塵もない。
それに、首を傾げるユウトの耳が、リーシャの叫び声を捉えた。
「──空よ!」
声につられるように顔を上げたユウトの視界に入ったのは、どこからか打ち上げられた緑の閃光だった。
ちょうど、ユウトとリーシャの頭上。そこで、光は発散し、村全体を包み込むようにその光は粒子へと変わり、地上に落ちていく。
その現象は瞬く間に終わり、再び夜空は闇色を取り戻す。そして、森の中はまるで誰もいないかのように静まり返った。
何も起こった様子はない──と、ほっと胸をなで下ろすユウトに、直後、様々な情報が襲い掛かった。
獣の咆哮。人の悲鳴。狂ったような声。爆音。燃え盛る炎の火柱。
それら、全ての情報が村から運ばれてくる。
「……いったい、何が……」
呆然と立ち尽くすユウトに、リーシャが声を掛けた。
「行くわよ!」
瞬間、バンッという音ともに風を叩くと、リーシャの姿は薄暗い森を抜け、村に向かって走り出していた。
それに、追随するように、ユウトはその背中を追いかけた。
僅か数秒で村にリーシャとユウトは辿り着いた。
しかし、そこで起きていたことは、目を疑うような光景だった。
きちんと並んでいた平屋は灼熱の炎で焼かれ、あちこちから黒煙が立ち昇っている。
辺りには鮮血が飛び散り、地面に染みこんでいる。人間を焼くような異臭が村中を立ちこめ、悲鳴と獣咆哮が聴覚を刺激する。
その地獄絵図のような状態を創り出しているのはそれだけではなかった。
魔物が人間を襲うどころか、人間が人間を襲っている。
襲う人間は、白目を剥き、口からはだらしなく涎を垂らし、手には武器を持っている。
度胆を抜くような光景を、思考を停止し、視線を走らせるユウトはふと違和感を覚えた。
何かがおかしい。
刹那、いくつかの思考が脳裏をよぎった。
襲われている側に共通点が存在するのだ。
襲われる人間は、必ず武器を持たず、オロオロと辺りを見渡すばかりで、魔物に対して恐怖の色を浮かべている。
そこまでなら、おかしくない。だが、それだけなく魔物に異常なまでの拒否反応を示しているのだ。
この《夢の世界》では、魔物は日常的に遭遇するものだ。なのに、魔物の存在自体を否定するような態度はおかしい──この《夢の世界》の住人なら。
すなわち、襲われているのは、《探求者》だけなのだ。
そして、村人と魔物は協力をするように、《探求者》を蹂躙している。
人間と魔物が協力する。
この《夢の世界》に来て、日は浅いが、それがどれだけ異常なことは理解できた。
だが、現にユウトの眼前でそれが行われているのだ。まるで、統制がとれたような光景を『有り得ない』の一言だけで片付けることは出来ない。
その時、隣から震え、悲痛に満ちた声が聴覚に触れた。
「……だめよ……そんなの……」
リーシャは苦しそうにクシャと顔を歪めると、
「やめて────ッ」
絶叫し、武器も持たず、魔物集団に向かって駆けていく。
だが、リーシャがそこまで辿り着くことはなかった。
あと数メートルというところで、リーシャは不可視の障壁に衝突し、跳ね返される。
地面に二、三回バウンドし、地に突っ伏した。
「……なによ、これ……?」
そのリーシャの声に応えるように、その不可視の障壁だったものは、二人の前に姿を現した。
それは、緑の障壁として、二人を囲むように出現した。その高さは闇色の夜空に届くほど高く、強度は高速で駆けるリーシャを容易く跳ね返したことから、相当なものだと推測できる。
「……こんなもの、突き破ってやる!」
起き上がったリーシャが再び、障壁に向かって突進する。
その堅固な障壁に衝突する寸前、リーシャは拳を振り上げると、それに向かって叩き込んだ。
しかも、その拳は普通の拳ではなかった。
薄桜色に染まった拳──魔力によって、強化したものだ。
だが。
薄桜色の円弧を描いて撃ち込まれた拳は、ごきゅという嫌な音をたて跳ね返される。
痛みにか、リーシャの顔が歪められる。
しかし、それでもリーシャは障壁を殴ることを止めなかった。
まるで痛みを感じないかのように、途切れることない殴打を放ち続けた。
やがて、その白く、小さな拳は擦り剥け、徐々に赤く染まっていく。
さらに、その連打は緑の障壁すら真紅に染め上げていく。
「……なんで…もうやめろよ!」
ユウトは、嗄れ声で叫んだ。
「……そんなに殴らなくても、壊れないのはわかるだろ! ……なのに、なのに……なんで、やめないんだ!」
その声に、リーシャは嗚咽の混じった声で叫び返した。
「……今、今ここで私が助けないと……私が私でなくなるのよ!」
その悲痛な叫びとともに、《探求者》の悲鳴が途切れることなく、ユウトの聴覚を刺激する。
目の前の現状に、ユウトは悔しさを噛みしめた。
──どうすれば。どうすればいいんだ。
──俺達は、目の前で人が、《探求者》が傷つき、死んでいくのをただ黙って見ていることしか出来ないのか!
その時、無音の絶叫するユウトに、理性が囁いた。
考えろ。
いったい誰が。誰がこんなことをしたのか。
おそらく、この状況を打ち破るにはこの障壁を創り出した本人を叩くしかない。
瞬間、ユウトの脳神経に電気パルスが走った。
一人いるじゃないか。全てことをたった一人で行える人間が。
魔物の統制を可能にし、それでいてリーシャほどの人物を容易く止めることができる人間が。
果たして──その推測は合っていた。
「……ユウト君の言う通り、そんなことしてたら、あなたの拳の方が壊れるわよ」
喧騒の中、静かな声が響いた。
ひとりだけが落ち着いた様子で、ゆったりした足取りで、ひとりの女性が障壁の外側から近づいてくる。
まるで、今の空のような腰近くまである闇色の長髪。
腰には上等な装飾が施された剣。髪と対照的なほど白い肌。
ふくよかな身体つき。
それは、違うことなくリーシャのパートナーだった女性だった。
その目の前の出来事に、リーシャもユウトと同じ結論に達したのか、絞り出すように声を漏らした。
「……あなただったのね、これをやったのは……許さないわよ、ローザ!」
ぎりっ、と歯を食いしばるリーシャに、ローザは面白いものでも見たかのように、ころころと笑う。
「あははは、面白いこと言うわね、リーシャ。許さない? なんで? 私はただ、危険なごみを処分してるだけじゃないの」
「……危険なごみですって」
「そうよ。《探求者》を危険なごみと言わずして、他になんて言うのかしら? あんなのクズ、生きてる価値すらないわ」
冷淡に言い放つローザに、リーシャは半ば呆然と問いかけた
。
「……なんで、あなたは……そこまで《探求者》を憎むの?」
「なんで? そんなこと分かりきったことでしょ! あいつらが持っているかもしれない理不尽な力のことを、知らないわけないよね?」
《探求者》が持っている理不尽な力。
この場合で指すのは、一つしかない。
「……《夢の法則》か」
喘ぐようなユウトの呟きに、ローザはにやりと笑った。
「そう、その通りよ。イメージの具現化のような危険な力を使われたら、この世界がどうなるかわからないもの。私は正しいことをしているのよ」
リーシャが腕を横に振り、叫ぶ。
「そんなのおかしいに決まって──」
「あら、リーシャこそ知っているはずよ。理不尽な力は排除すべき──これはこの世界では、正しいことぐらい」
ローザがリーシャの声を遮って言った。
その言葉に、悔しそうにリーシャは顔を俯いた。
ローザが言っているのは、おそらくリーシャが《鬼神》と呼ばれるようになった時の過去のことだ。
リーシャの故郷の村の人々は、理不尽な力を持つリーシャに対して、無視という態度で排除しようとした。
「だけど、やっぱりそんなの間違ってる! たったそれだけで、それだけの理由で殺すなんて……だいたい、《探求者》全員が《夢の法則》が必ずしも使えるわけじゃないだろ!」
ユウトの叫びに、ローザの表情が、突如怒気に満ち溢れるものに変わった。
「たった、それだけだと」
剣呑な眼差しをユウトに浴びせ、口調まで変わる。
「たった、それだけなわけねぇだろ! アリスのせいでどれだけこの世界が変わったと思ってるんだ! アリスさえ、《探求者》さえいなければこの世界はもっと平和だったんだ! お前らの欲望のせいで、私の両親は魔物に殺されたんだ!」
ローザの怒りの声に、ユウトは叫び返した。
「そんなの、逆恨みだ! あんたは、《探求者》に憎しみをぶつけてるだけだ! そんなことしても、何も解決するわけじゃないだろ!」
その叫びに、ローザはく、くっと歪に笑う。
「そうさ。だけど、それがどうした! たとえこれが私の逆恨みだとしても、探求者が《夢の法則》を使えるかもしれない危険性が変わるわけじゃない」
開き直った口調に、呆然とするユウトに、ローザは残忍な笑みを浮かべ、口調を戻し、更に続けた。
「──それに、ユウト君言ったわよね。『探求者の全員が《夢の法則》を使えるわけじゃないのに、襲うのはおかしい』って……私もそれぐらいわかっているわ。だから、可能性のあるものは魔物と村人に任せて、確実に使える人間は私が直々に殺してあげるわ」
そこで、ローザはいったん言葉区切り、ユウトを意味有り気に見た。
「──ねえ、《探求者》で《夢の法則》を使える霧神優斗君」
ローザの言葉に、ユウトは思考の硬直を余儀なくされた。
……俺は、リーシャの忠告通り、誰にも言ってないはずだ。
《夢の法則》を使えることは愚か、《探求者》であることも。
なら、知る手段はないはずなのだが…………いや、一つだけあった。
俺が《夢の法則》を使ったのは一度しかない。知る瞬間はその時のみ。
つまり。
「……見てたのか。オレとリーシャが決闘してたのを」
ユウトの声に、ローザが哄笑する。
「ハハハハハ、そうよ! その通りよ! 今夜の目的は他の誰でもない。あなた達、二人よ! 理不尽な力は、一生誰にも受け入れられることなんかない。それを刻み付けながら、死になさい!」
ローザが哄笑しながら、腕を上に振り上げる。
その動きに合わせて、頭上に無数の緑色に輝いた剣が突然、出現する。
その刀身は細く、剣と言うよりは針と言ったほうが正しいかもしれない。
ユウトも完全に魔力の流れを感知できるわけではない。
だが、その剣が魔力で創られたものだということを悟った。
そして、同時に気付いた。
この障壁は、リーシャと自分を足止めするものだと思っていた。
だが、違う。
これは、足止めではなく、閉じ込めておくもの。
『檻』だ。
「死になさい」
短い死の宣告とともに、ローザの腕が振り下ろされる。
同期するように、無数の剣がユウトとリーシャを襲いかかった。
一本、一本の殺傷能力は低い。だが、無数の光となって襲いかかった針は、ユウトとリーシャの身体の至る所にあたり、服を切り裂き、肉を傷つける。
思わず、地面に片膝をつき、頭を抱えるように腕で覆った。
耳元に迫りつつある空気の唸りが、ユウトの聴覚に触れる度に、ヒヤッとした悪寒が襲う。
このままでは不味い。
そう判断したユウトは、頭を抱えながら、頼りになる師匠に視線を移した。
リーシャはユウトと同じ体勢だった。
地面に片膝をつき、頭上から無数に降り注ぐ針にたいして、頭を覆っている。
だが、その目は死んではいなかった。
黒色の瞳は爛々と輝き、絶体絶命の状況にも関わらず、諦めていない。
そして、リーシャが不意にこちらを向き、視線が交錯する。
言葉は発していない。
しかし、ユウトは確かにその視線が言葉を伝えたように感じた。
──タイミングを合わせて。
瞬間、リーシャの口が高速で言葉を刻み始めた。
ローザに悟られない小さな──だが、この世界に認識されるほどの声量で呪文を紡ぐ。
針による長い爆撃が止まり、静寂が訪れる。上空を仰ぐと、今まで夜空を覆っていた光の針が消えていた。
しかし、それも一瞬のことだった。
「──もう一度よ」
ローザの声に、再び凄まじい勢いで、夜空が緑光で覆われ始める。
が、その一瞬の静寂をリーシャは見逃さなかった。
その空隙をリーシャの凛とした声が貫き、掲げられた片手の前に桜色の魔法陣が出現する。
「爆発せよ!」
その叫びと同時に緑の障壁を、多数の爆発が飲み込む。
目の前を砂塵が覆い隠し、爆音が聴覚を叩く。
砂塵のなか、リーシャが突如叫んだ。
「──ユウト、今よ!」
刹那。
ユウトは、地面を蹴り上げると緑の障壁に向かって駆ける。
その目的は、障壁を壊すためではない。
《夢の法則》の力で、障壁自体を改変するため。
普通の状況であれば、ローザに何らかの妨害を食らってしまう。
だが、今は砂塵で隠れてその位置を把握することはできない。
──この数秒間が勝負だ。
ユウトは心の中で叫ぶと、近くの障壁にそっと触れた。
続いて、イメージを創り出す。この障壁を魔力から脆い物質に書き換えるイメージ。
だが。
いつまで経っても、その障壁が書き換わることはなかった。
ユウトの手が感じるのは、固く、それ以上の前進を拒絶するもの。
「……なんで、なんで《夢の法則》が使えないんだ……」
「教えてあげようか」
うろたえるユウトの聴覚に、砂塵の向こうからローザが愉快そうな声が触れた。
「《夢の法則》には、一つの特性があるのよ──使い手によって変わる、というね。あなたみたいな《身体強化系》がアリスのような《物質変換系》を使えるわけもないでしょ。もっとも、《物質変換系》だったら、会った瞬間に殺してたけどね」
ユウトが初めて《夢の法則》を使った時の違和感。それは、そもそも使える種類が違ったからということになる。
万事休すか。
ユウトとリーシャは武器を持ってない。
それに加え、《夢の法則》の《身体強化》を使ってもあれを生身で突破できるとは思えない。
魔法を使おうとしても、今度はその前にローザから攻撃を受けて終了だ。
いや、あと一つ切り札がある。
その時、砂塵が晴れ、障壁の外側から、ローザがユウトの考えを読み取ったかのように言葉を紡いだ。
「……さっきから、思ってたんだけどー、リーシャなんで、あなたが持っている理不尽な力を使わないのー?」
ローザのからかうような口調に、リーシャの肩がぴくりと震える。
「あーそっかー、もしかしてあなた、使わないんじゃなくて、使えないんじゃないの?」
地面に片膝をついたままのリーシャは、顔を俯いてその表情はわからない。
だが、もう隠しようもない身体の震えは、ローザの言葉を肯定してるのと同じだった。
「ふーん、やっぱりそうなんだ。でも、しょうがないよね。あなたが力を制御できなかったら、周りを傷つけるかもしれないもんね」
「……やめて……」
「でも、それでもいいじゃない。リーシャが助ける必要なんてどこにもないのよ。力を思う存分奮って、そこの弟子と《探求者》を殺せばいいでしょ」
「……やめてよ……」
リーシャの震える声が、力なく漏れ出た。
身体も同じく震え、その様子からは先程まで見せた闘志は微塵も感じられない。
その姿にローザは満足そうに微笑むと、腕を振り下ろそうとし──止めた。
ローザの足元に、魔物に吹っ飛ばされたのか、一人の少女が転がってきたからだ。
その少女は全身が傷つけられ、至る所から血が流れている。
まだ幼く、小学生三年生ぐらいだろうか。
それにしても、命までは奪われてないということは、ローザが殺さずに痛めつけた後に殺せ、と魔物に命令を下しているのか。
転がり込んできた少女に、ローザは一瞥すると嫌悪の表情をつくる。
しかし、少女はローザが人間だからか、救いを求めるような視線を向けると、弱弱しい声を出す。
「……助けて……ください……」
それに、ローザはころころと愉快そうに笑った後、残忍な笑みを浮かべた。
「ごめんねー。私、あなたみたいな人間が嫌いなの」
そう言うと、ローザは足を振り上げ、足元でうずくまる少女のお腹に蹴りを入れる。
ごすっという音ともに、少女が再び吹っ飛ばされる。
しかしそれでも、地面に横たわる少女から震える声がユウトの聴覚を刺激した。
「……たすけて……たすけて……たすけてください……」
ユウトは思い切り奥歯を噛みしめると、地面を掻いた。
黒く染まった指先には、相変わらず顔を俯かしたリーシャの姿があった。
「リーシャ……おい、リーシャ……」
目頭が熱くなり、絞り出すような声が漏れる。
「いつまで……そうやってるつもりだよ……リーシャはこれでいいのかよ」
リーシャの顔が上げられ、黒色の瞳がこちらに向けられるのを感じながら、ユウトは尚も続けた。
「何のために、強くなったんだよ……何のために、力を貰ったんだよ……人を守るためじゃないのかよ!」
「……で、でも……私の力が暴走したら──」
リーシャの震える声を、ユウトは叫ぶことで遮った。
「なら、その時はオレが止めてやる! どんな力を持っていても、オレはリーシャの存在を認めてやる! ずっと、傍にいてやる!」
ユウトの声に、リーシャははっと目を開き、瞳が揺れる。
そして僅かに、本当に僅かに笑みを浮かべた。
「あなた、無茶苦茶よ。自分で何言ってるか分かってるの? この《夢の世界》で最高峰の実力者を止めるって言ってるのよ」
「わかってるよ」
ユウトの答えに、リーシャは立ち上がった。
その瞳にすでに迷いはなかった。
錯覚かもしれないが、ユウトはその黒色の瞳にちらりと真紅の炎がよぎったように見えた。
リーシャが小さく口を動かした。
そこから出た微かな音は、魔法の詠唱ではなかった。
小さくて、聞き取りにくかったが、ユウトは確かにその言葉を聞いた。
──ありがとう。
リーシャがローザをきっと睨む。ローザも決着の時が来たと感じたのか、睨み返す。
「これで──終わりよ!」
ローザの声に合して、上空で緑色に輝く剣が回転始め、貫通力が増していくのがわかる。
「死になさい」
その宣告とともに、腕が振り下ろされる。その動きに同期するように、剣が回転しながらユウトとリーシャに向かって落ちてくる。
リーシャは頭上から緑の閃光が殺到してくる光景を一瞥すると、静かに呟いた。
「──《記憶付加》」
瞬間、リンという音ともに、ユウトの視界を真っ赤な閃光が覆った。
反射的に目を瞑り、数秒経過した後、ゆっくりと目を開いた。
そこに居たのは、当然リーシャであるはずなのだが、一瞬、ユウトは目を疑った。
リーシャのアイデンティティーともいえる桜色の髪が、僅かであるが赤く染まっている。
リーシャの身体は赤い光を纏い、まるで服のように形が変化している。
《夢の法則》を使っている時の現象と酷似しているが、それとは何か違うような気がする。
手にはどこからか現れた巨大な斧を握り、下ろしていた髪はいつの間にか一つにまとめられている。
さらに、特徴的だったのはその魔力量だ。
魔力を感じたことが今までほとんどない、と言っても正しいユウトでも簡単に感じられる量だ。
リーシャの全身から溢れるように魔力が放出され、それは止まることはない。
その姿は、まさに《鬼》と呼んでもおかしくなかった。
ユウトは視線を周囲に走らせた。
ユウトとリーシャを襲おうとしていた細身の剣は、緑の障壁に突き刺さり、一本も地面に落ちていない。
そこで、初めてリーシャが動いた。片手に巨大な斧を持ち、ローザの方にゆっくり歩いていく。
「……ひ、ひぃ……」
悲鳴を上げながら後ずさるローザに関係なく、リーシャは巨大な斧の重さを感じないかのように、緑の障壁に向かって軽く薙いだ。
あれだけ苦労した、緑の障壁がガラスが割れるような音をまき散らしながら、破壊をされるのを目の前で簡単に行われたのを見て、ユウトは呼吸するのも忘れ見惚れた。
「さて、ローザ。色々やってくれたけど、最初の宣言通り──許さないわよ!」
強固な壁を破壊したリーシャが、ローザとの距離を縮めながら言い放つ。
それに、ローザの慌てた、恐怖に満ちた声が響いた。
「ま、魔物共! リーシャを襲いなさい!」
その声に、今まで《探求者》いたぶっていた魔物が赤く目を光らせ、一斉に目標を変える。
多数の魔物が地を駆け、近づいてくるのを目を離すことなく、リーシャは静かに言った。
「ユウト、戦えるわね」
「ああ」
そのユウトの声に、リーシャは微笑を浮かべる。
「──なら、ローザを頼んだわよ」
それだけ言うや否や。
バンッ、という風を叩く音を残しながら、リーシャの姿が掻き消えた。
恐るべき速さで、地を駆けたのだと認識した時には、リーシャの姿は魔物の集団の中にあった。
魔物は、リーシャの姿が消えたように見えたのだろう。一斉にせわしなく顔を動かし、その姿を探そうとする。
その姿がまさか自分達の集団中に混じってるとは思わなかったのか、リーシャの姿を見た瞬間、その赤い眼光が大きく開かれたようにも感じた。
続いて、一斉に五匹の魔物がリーシャに飛びかかる。
だが、そこまでだった。
リーシャは自身から溢れる赤色の魔力を左手でつかむと、地面に叩きつけた。
叩きつけられた魔力は地面を抉り穴をつくりながら、波動となり五匹の魔物に襲い掛かる。
その波動は魔物の存在そのものを消し去った。
直後、遅れるように轟音が聴覚を叩く。
魔法ともいえない技。
魔力をただ叩きつけただけ。
魔法に比べれば詠唱がないので、発動までの時間は遥かに短いが、威力は魔法に遠く及ばない。
だが、それは理不尽な力を持っているからの戦法だ。
残りの多数の魔物に囲まれながらも、リーシャの顔から余裕の色は消えることはない。
リーシャが斧を片手に飛びかかっていくのを見て、もう大丈夫だろうと判断し、ユウトはローザの方を向き直った。
そこには、恐怖の表情を張り付かせたローザが立ち尽くしていた。
手には派手な装飾が施された両手剣が握られている。
それをユウトは一瞥すると、地面に落ちていた質素な片手剣を握った。
おそらく、《探求者》を襲うために村人が使った剣なのだろう。装飾類は一切なく、ただ《斬る》ためのもの。
「あなたごときが、私に勝てると思っているの?」
ローザがやや余裕を取り戻した声で、ユウトに向かって言う。
ユウトはそれに、にやりと笑って応えた。
「なんだ、リーシャがいないと随分余裕なんだな?」
「……お前、絶対……殺してやる!」
憤怒の表情を浮かべるローザに向かって、ユウトは突如地面を蹴って、その間合いを詰めながら、同時に思考を巡らせる。
──ローザは完全に呪文詠唱型をメインで使う魔導士だ。そして、呪文詠唱型の特徴は高火力に対して、その詠唱の時間が必要なこと。
──つまり、詠唱させる時間を与えず、先手を取り続けるのが最も有効な手段だ。
間合い詰めつつあるユウトは、走りながら下段に剣を構えた。
同時に、魔力の流れをイメージしながら、体内の魔力を剣に纏いその威力と強度を強化する。
本来なら、こんなにも短時間で魔力の流れを感じることができない。
だがそれは、リーシャから溢れ出る魔力が、否応なくユウトにその存在を感じさせた結果だった。
「シッ!」
視界の端で、剣が白光に包まれるのを確認しながら、ユウトは短い気合いの叫びとともに、剣を振り上げた。
突然、間合いを詰めてきたユウトに対して、僅かに戸惑いの表情を浮かべながら、ユウトに向かって、ローザはやや遅れ気味に、緑色に染まった剣を振り下ろす。
緑と白の閃光が二人の中心で交差し、火花を散らす。
ユウトはそれを見ながら、腕に力を入れ、お互いの剣を巻き込んだままに上に振り上げた。
魔力の衝突したことによって生じたエネルギーが、ユウトの誘導によって上空に放たれ、お互いの剣を空に飛ばした。
いくら魔法がメインのローザだからと言って、(自称)《夢の世界》のトップクラスの実力をもつ相手に、純粋な剣術の腕で勝てるとは思っていない。
だが、いくら熟練者と言えど不意打ちに続き、予測不能な事態には一瞬の硬直を余儀なくされる。
上空に飛んでいく二本の剣を、ローザの視線が追う。
ユウトはその隙を見逃さなかった。
上空を舞う剣に視線を移したい気持ちを抑え、ユウトは左手に体内の魔力をかき集め、ローザの無防備な身体に、青白色に染まった拳を放った。
威力自体はそこまで高くはない。
だが、ローザの不意を衝くには十分だった。
よろり、とローザが体勢を崩すのを確認しながら、今度は大気中に存在する魔力の流れを操って、剣を呼び寄せる。
剣を視認することなく、ユウトは腕を振り下ろす。
それに完全に同期して、剣が手に収まる。
一連の動作に、ローザの顔が驚愕に塗り替えられる。
剣を掴み損ね、慌てて魔力の障壁を創り上げるが、その威力までは殺しきることは出来なかった。
吹っ飛ばされるローザを見ながら、ユウトは再び無防備なローザに猛攻を咥えるために、地を疾走する。
その時、鋭い叫び声が響いた。
「動くな!」
同時に、ユウトの身体が動かなくなる。
どんなに、全身に力を籠めても身体が軋むだけで動くことはない。
「散々、調子に乗ってくれたじゃない」
前を見ると、ローザが憤怒の表情を浮かべながら、近づいてくる。
「……なんで……この魔法は魔物にしか聞かないんじゃ……」
「あら、いつ私がそんなこと言ったのかしら……この魔法は、緑の粒子を浴びた全ての生き物を支配下におくのよ。まあ、発動に時間にかかるけどね」
勝利を疑わない顔で、ローザは先程取り損ねた剣を拾いながら、その距離を詰めてくる。
何か手はないのか。
必死に身体を動かそうとしながら、ユウトは頭を働かせる。
──あの魔法は、村人と魔物を操っていたんだ。おそらく、人も支配下に置けるというのは嘘じゃない。
──なら、なんで俺とリーシャが障壁の中にいる時に、これで動きを止めなかったんだ。そうしたら、確実に殺せるはずなのに。
──もしかしたら、同時に二つの命令を下せないのか。もし、そうなら今は、俺の動きを止める以外の命令を下せないはずだ。それなら──。
ローザが近づいてくるのを確認しながら、タイミングを計る。
チャンスは一度しかない。
遅すぎても、早すぎても駄目だ。
ローザがユウトの前に立ち、残忍な笑みを浮かべ、剣を振り上げる。きらりと月光に反射し光り輝く。
──い、ま、
「だ──!」
絶叫し、瞬時にイメージを脳内に創り出す。
果たして、《夢の法則》の方が《魔法》よりも優先度が高いはず、というユウトの考えは間違ってはいなかった。
直後、ユウトの身体が白光に包まれ、イメージ通りに足を振り上げる。
ゴスッ、という音ともにユウトの膝がローザの鳩尾に入る。
その場に崩れ落ちるローザが握る剣を蹴り飛ばし、ユウトはローザの首筋に剣を添えた。
「オレの勝ちだ」
そう、宣言したもののユウトは、ここからどうするか迷った。
ユウトが今までしてきた試合なら、ここで終わる。
その先──つまり、相手が死ぬまではやることない。
だが、この《夢の世界》では殺すまでやらないと、何をされるか分からない。
もしかしたら、魔法を使われて状況が逆転するかもしれない。
だけど、俺には出来るのか。どんなに酷いことした人でも、俺に人を殺すことが出来るのか。
剣を持つ右腕が微かに震える。
そして、震えながら強張った手で剣をテイクバックし、首に向かって──
振り下ろせなかった。
どんなに憎んでいたとしても人を殺すことはユウトには、出来なかった。
もし、突然ローザが襲ってきたら、躊躇なくユウトは剣を振り下ろしただろう。
だが、無抵抗な相手の命を奪うことは出来なかった。
その時、剣を力なく下げるユウトに鋭い声がかけられた。
「何してるの! 早く、意識ぐらい奪いなさい!」
その声にはっと意識を戻し、そちらを向くと、リーシャが疾走し近づいてくる姿だった。
何をそんな急いで。
そう、言おうとしたユウトは瞬間、大気中の魔力が不自然にローザに流れていくのを感じた。
咄嗟に、ローザの方を向き、
「何をするつもり──」
ユウトが叫ぶより速く、一つの乾いた響きが聴覚に届いた。
しゃん。
それが、リーシャがローザの心臓を突き刺した音だと悟るのに、ユウトは数秒要した。
斧はいつの間にか剣へと変化しており、それはローザの胸を見事に貫いていた。
だが。
ローザは、最後の抵抗かにやり笑った後、掠れた声で呟いた。
「……もう……遅い……わ……」
刹那、ローザが横たわる地面が緑色に輝いた。地面には魔法陣が刻印され、徐々に発光量が増していく。
緑色のエネルギーの奔流が空に打ち上げられるのを、ユウトとリーシャは黙って見ているほかなかった。
一度、発動した魔法を発動途中で止めるのは不可能だからだ。
やがて、それは上空まで上昇すると、各地に向かって四散していく。
「……何だったんだ……」
呆然としたユウトに、リーシャの震える声が聴覚に触れた。
「……不味いわ……あれは、確か支配下においている魔物全てを操る魔法を解除する魔法……一気に全国の魔物がこの村に向かってくるわ」




