第六話
ユウトの目の前の視界が変わり、身体を包み込む青い光が消える。
真っ先に視界に入ったのは若草色の雑草が生い茂っている丘だった。
どうやら三人は丘の上に転移したようで、丘の下には広い大地が広がって見えた。
和やかな光景に、ユウトの頬が思わず緩む。
しかし、次の瞬間、様々な情報がいっぺんに襲い、それらを上書きした。
獣の咆哮。悲鳴。血の匂い。人間の死体や一部。
それらが、ユウトの脳内に流れ込み、思考を停止させる。
空はまだ昼のはずなのにオレンジ色に染まり、丘の下には草木ひとつ見当たらない。
この広い荒野全体が魔物の姿で埋め尽くされ、あちこちで人間──探求者の悲鳴が聴覚を刺激する。
視界に、ユウトを昨日襲った《ゴブリン》から名前の知らない魔物まで、様々な魔物が暴れ回っているのを捉える。その数は百はくだらない。
そこまでユウトは周囲から情報を読み取ったところで、自分の愚かさを呪った。
…………俺は全く何も分かってはいなかった。一歩間違えれば死んでしまう世界。これこそが戦場なのだ。
…………それなのに俺はただ《強くなりたい》、それだけの理由でこんな場所に来るなんて。
その時、呆然と立ち尽くすユウトの目が、一匹の魔物のぎらつき、赤く光り輝いた目と合った。
言葉は発してなどない。
だが、ユウトは確かにその魔物が喋ったように思えた。
──殺す!
殺戮衝動に駆られように、その魔物がユウトに向かって一直線に歩みを進める。
それを見て、ユウトは身体を動かそうとするが、恐怖により手と足が強張り、動けない。
その身体はまるで別人に乗っ取られたように、ユウトの命令を聞くことはない。
舌も強張り、声ひとつ出せない。
やっとのことで、手を柄に添えるが今度は震え、上手く握ることが出来なかった。
一歩また一歩と、重々しい足音が聴覚に触れる度に、《死》の瞬間が刻々と近づいてくるのを、ユウトは感じた。
動け! 早く!
半狂乱でユウトは心の中で絶叫する。
刹那。
澄んだ声が、ユウトの思考と身体の硬直を打ち破った。
「爆発せよ!」
ユウトに近づきつつあった魔物を爆発が飲み込み、吹き飛ばす。
同時にユウトの視界に映っていなかった魔物にも大きくダメージを与えた。
「無理なら、ユウトはここで待機してなさい!」
隣から、リーシャの声がユウトの中に響いた。
その声にはっと意識を確かにし、リーシャの方を向くと、黒色の目がユウトの身を案じるように、瞳を覗き込む。
その瞬間。
ユウトの脳裏に幾つもの記憶が蘇った。
幼い頃から、何度も何度も受けてきた失意の視線。
周りから貼られるレッテル。
期待から失望に変わる瞬間。
見捨てられる。
幾つもの忌まわしき記憶が、そう告げる。
…………ようやく、自分の存在を認めてもらったのに、俺はここで再び失うのか?
「……い、いやだ……」
子供の泣き声のようなものが、ユウトの口から漏れる。
そして、そのまま強張る手で腰に装備した剣を引き抜いた。
ユウトの手に握られたのは、一振りの刀だった。
その刀身は薄く透き通り、白銀に輝いている。
刀身の長さは、腕一本分はあろうかというものだ。
「……ユウト……何をするつもりなの?」
リーシャが訝しげに声を出す。
だが、ユウトの頭にその言葉は届かなかった。
震える手で、刀を握りなおすと。
「──うおおおおおッ!」
己を叱咤するように絶叫し、丘の下にいる魔物達に向かって斬りかかって行く。
後ろで、リーシャとローザが何か叫んでいるかユウトの耳には入らなかった。
脳内には、すでに先程リーシャから教えてもらった《魔法》や《夢の法則》のことなど残ってなかった。
見捨てられたくない。
ただ、それだけの思いでユウトは無茶苦茶に刀を振り回す。
それはもう《技》と呼べるものではなかった。
醜く、ユウトの今の心境を表したかのような攻撃だった。
だが、そんな攻撃が当たるはずもなく──。
二、三撃を一匹の魔物に当てることもなく、刀が空を斬る。
一連の攻撃を出し切り、腕を伸ばしきったユウトの顔に、名前も知らない魔物の蹴りが当たる。
後ろに大きく吹き飛ばされ、二、三度バウンドし、ユウトは地面に叩きつけられた。
慌てて、身体を起き上がらせようとするが、ユウトの身体を別の魔物の醜悪で、太く、剛毛が生えた足が乗せられる。
魔物の体重がユウトにのしかかり、うめき声とともに肺から強制的に息が漏れ出た。
惨めだ。
ユウトは口の中に広がる血の味を噛みしめながら、心中で呟いた。
強くなければいけないのに、俺は地面に這いつくばったままだ。
地面からいつまでも届かない、高い空を見上げるだけの存在。
名前も知らない魔物がユウトを取り囲む。
眼光は鋭く光り、口から涎がたれ、威嚇するように唸る。
そして、ユウトの視界の前で大きく鋭い爪を振り上げ──。
ガキイイイン。
爪と金属が擦りあうような音がユウトの聴覚を刺激した。
見ると、リーシャの握った金色の剣が爪をそれ以上の前進を阻んでいた。
そこから、ユウトの目の前で、リーシャと魔物の力比べが行われた。
全身を毛で覆われたその魔物の筋肉とリーシャの細い腕では、どちらが競り負けるかなど分かりきったことのように思えた。
だが、一瞬リーシャは顔に苦悶の表情を浮かべた後、剣をギュと握る。
途端に刀身が薄桜色に光り輝くと、リーシャは剣を一閃した。
その必殺の斬撃は、魔物の爪を容易く破壊し、本体を襲う。
続いてぐぎゃあああ、という断末魔をとともにその魔物の身体を吹き飛ばした。
リーシャは、地面に寝転がったユウトを庇いながら、周囲に油断なく視線を走らせる。
その視線で魔物も実力を察したのか、なかなか襲ってこない。
だが、余りにも数が多すぎる。
いったいどうするつもりなのか、と思考を巡らせるユウトの聴覚が、リーシャの叫び声を捉えた。
「──ローザ! 今よ!」
そのリーシャの声を合図にして、丘の上にいるローザが両手を前に突き出す。
同時に、もうすでに詠唱は終えていたのか、その手の前で大きな緑色の魔法陣が出現する。
直後。
緑色の魔法陣から目が眩むような緑の光が放出され、天空を覆う。
その幻想的な光景によって、時が止まったかのようだった。ユウトも魔物もその光景に、動くのを止め、天空を仰いだ。
やがて緑色の光は、粒子に変わり、まるで雨のようにきらきらと魔物の集団全体に降り注いだ。
数秒後、全ての光が降り終わるが、何も起こる様子はない。
ユウトは、魔物に囲まれている状況なのも忘れ、無意識の内に囁いた。
「……いったい、何のために……」
「……見てればわかるわよ」
隣でリーシャがそっと囁き返す。
その時。
ローザの威圧するような声が荒野中に響き渡った。
「──動くな!」
たった一言。
しかし、その一言が与えた効果は絶大だった。
荒野に存在する魔物が一律に動きを止める。
中には必死に足や腕を動かそうとする魔物もいるが、虚しく空を切るだけだった。
ユウトはその異様な光景に戦慄した。
たった一人の人間が無数の魔物を従える。眼前でまさにそれを見ているユウトは、声を漏らした。
「……あれが、ビーストテイマー……だけど、あれは……」
ユウトが知る《ビーストテイマー》はゲームの中では魔獣使いだが、あれでは《使役者》というよりは──。
「……魔物を支配する《女王》。それが、ローザの異名よ……私のよりもずっと立派な異名よ……」
リーシャがユウトの言葉を引き継ぎ、最後はどこか哀切な思いを込めた声で言った。
だが、表情を一転し、剣呑な顔でキッとユウトを睨んだ。
「なんで、勝手に突っ込んだの! ユウトは魔法の使い方もまだちゃんと出来ないのに、何を考えているの! もし、私が間に合わなかったらどうするつもりだったの!」
「オレはただ……ただ……」
見捨てられたくなかったんだ。
その言葉はユウトの口から出ることはなかった。
代わりに、ユウトはその言葉を握り潰すかのように、グッと拳を握り締めた。
それで、リーシャはユウトの内心を悟ったのか、肩に手をそっと置く。
心の中を見通すような暗闇の瞳がユウトをしっかりと捉え、静かに告げた。
「……強くなりたい……その気持ちは良いわ……でもね、焦る必要はないの……あなたはあなたの速度で強くなればいいのよ」
──でも、それじゃ駄目なんだ!
脳内でユウトは叫んだ。
そして、それは続いて言葉として、ユウトは発した。
「……それじゃあ、意味がないんだ!……強くないと、結果を示さないと……また惨めになるだけだ! 力がないとそうなるんだ!」
取り返しのつかないことをしようとしている。
その自覚はユウトの中にあった。
だが、その感情の爆発は止まることなくユウトは叫んだ。
「──アンタにはわからないだろ! 力がないことがどれだけ……辛いか!」
ユウトの肩に置かれた白い手が微かに強張った。
追随するように、リーシャの口から苦しそうな声が漏れた。
それは、今までユウトに見せていた大人ぶったものではなく、子供のそれだった。
「……ユウトにだってわかんないわよ! 理不尽な力を持ってると、どうなるかなんて! どんな風に見られるかなんて! わ、私は……私はね……」
リーシャの言葉を嗚咽が上書きする。
その瞳から涙がこぼれ、顔を小さな手で覆った。
しかし、それでも涙は小さな手から溢れ出て、地面に滴り落ちた。
そこにいたのは、毅然とし、戦闘の時の鬼気迫る態度ではなく、戦闘が終わった後に必ず見せた脆く、儚い姿だった。
泣かせるつもりはなかった。
こんなはずじゃなかった。
その二つの思いがぐるぐるとユウトの中を駆け巡った。
やがて、リーシャは泣き止むとごしごしと服の袖で乱暴に顔を拭く。
続いて、ユウトの顔を一切見ることなく、ぼそりと呟いた。
「……私は近くの村に行って、生き残った探求者を受け入れてくれるように、交渉してくるわ……」
そう言うと、リーシャが静かに詠唱を始め──一言、囁いた。
「転移」
瞬間、リーシャの身体を青白い光が包み込む。
そして、寸秒後にはその姿はシュンという音とともに溶けるように消えた。
リーシャが居なくなった荒野を静寂が訪れる。
その静寂を破ったのは、ローザの声だった。
「……ユウト君に何があったかは知らないし、詮索するつもりもないわ……でも、覚えておいて。あの子にも人には簡単に話せない過去があるのよ」
横に立ちローザが、魔物を意のままに操り、荒野の奥に返すのをただ黙っていた。
探求者の大部分──と言っても、四十人近くは助かったようで、ローザとユウトは口々にお礼を言われ、順番にリーシャが交渉している村に転移した。
一度使った魔力は中々戻らないらしく、ローザとユウトは日が暮れるまでその作業を続けた。
何回も練習し、ユウトがようやく転移魔法の呪文を暗唱できるように覚えた頃、その作業は終わった。
私たちも行きましょうか。
そう言った時も、ローザの声はユウトの頭の中には中々、入って来なかった。
青白い光がユウトとローザを包み込む最後の瞬間まで、ユウトの心は苦悩の思いを抱えたままだった。




