第三話
「ふぐぅ……」
奇妙なうめき声とともにユウトの意識が覚醒する。
重い瞼をゆっくりと持ち上げたユウトの目に、白光が差し込み、思わず目を細める。
ユウトの視界に真っ先に入り込んできたのは、木目が入った天井だった。
今まで見て、感じたものはすべて夢だったのでは、と期待を込めて起き上がるが結局見えたのは、見覚えがない木造の部屋だった。
ユウトが寝ていたのは簡素な部屋で、調度品はユウトが寝かされていたベットと数脚の椅子しかない。
ユウトが起き上がった瞬間、足に微かな痛みが走った。
ユウトが覚えている限り、足に怪我を負ったのは大木の根に引っ掛けた時だ。つまり、それはゴブリン達の存在を肯定するものだった。
「……夢じゃないのか」
全てが夢であったことを期待していたユウトはぼそっと呟いた。
その呟きは誰にも聞かれることなく、虚空へと消えるかと思われた。
だが。
「その表現は適切ではないわ」
部屋の奥からした声に、ユウトは驚愕しつつもそちらを振り向いた。
そこにいたのはユウトをゴブリンから助け出した、桜色の髪の女剣士だった。
ユウトの記憶にある格好と違い、少しラフなものになっている。その少女は腕を組み、部屋の奥からユウトを穏健な表情で見ていた。
恐らくこの少女が自分が意識を失った後、わざわざこの場所まで運んできてくれたのだろう──そう判断したユウトは口を開いた。
「まずはお礼を言っておくよ、助けてくれて、ありがとう……それで、今アンタが言ったのはどういう意味だ?」
「別にそのままの意味よ。深い意味はないわ」
その少女の意味をいまいち理解できず、首を傾げるユウトに、桜色の髪の美少女は子供を諭すように言った。
「つまりね……ここは、アナタが居た世界じゃない。《夢の世界》という、アナタにとって異世界なのよ」
「……それは、比喩か何かか?」
「違うわ。いい加減認めなさい。ここは、あなたが居た世界ではないことを」
ユウトはその少女の言葉の真意を計りかねた。
その少女が嘘をついているとは思えないし、もちろんユウトもゴブリンに襲われたり、不可解な現象を目にしている時点で、ここは自分が居た世界だとは信じていない。
しかし、それでも矛盾するようだが、ここが異世界であるということを信じたくはなかった。
僅かな希望とも言えないものにしがみつくユウトは、ふと少女の言葉を辿った。
今何か、不自然なことを言ってなかったか。
たしか、この少女はこの世界の事を《夢の世界》と表現していたような──
疑問の思ったユウトはそれをそのまま、口に出した。
「……なあ、なんでこの世界の事を《夢の世界》って言ったんだ?」
すると、少女は微笑をその整った顔に浮かべながら、答えた。
「あら、そんなの決まってるじゃない。向こうの世界に居たアナタなら知っているはずよ。アリスが行った異世界の事を」
その少女の一言にユウトははっと目を見張った。
アリス。
そう言われて、ユウトが思い出すのは一つしかない。
誰もが一回は読んだことがある世界でも代表的なお伽噺。そのお伽噺の名前は、ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』。
そのアリスが行ったのは、少女が指摘した通り、確かに《夢の中の世界》だった。
もし、本当に《夢の世界》が存在していたとしたら。
アリスが実際に《夢の世界》に行ったとしたのなら。
その《夢の世界》に今度は俺が来たのなら。
「……そんなことが──」
「──あるのよ」
続く言葉を、桜色の髪の少女が塗り替えた。
「それにアナタもあの辺りにいたんだから、見たんじゃないのかしら。とても大きなお城を」
その少女の言葉でユウトは記憶を思い返した。
学校から離れて、初めて意識が戻った場所で見た光景。正確に言うと、その時に見た白亜の西洋風の城。
あの時は何にも思わなかったが、今、この少女にここが《アリスが訪れた夢の世界》だと指摘されて思いついたことがあった。
つまり、あの城がハートの女王の城なのだ。作中に描写がないものの、ユウトが考え付くお城、と言ったらそれぐらいしかない。
「……ここは本当にアリスが行った《夢の世界》なのか」
ユウトは無意識の内にぼそりと呟いた。ここが自分がいた世界、というよりは納得することができる──とまだ完全に腑に落ちないものの、半ば無理矢理ユウトは得心した。
「その通りよ。わかってもらって何よりだわ」
そこで、新たに少女の言葉に疑問を抱いたユウトは、再びそれをぶつけた。
「……ちょっと待て。なんで、アンタがアリスのことを知っているんだ?」
ユウトのその疑問に、その少女は肩をすくめただけだった。
「なぜって、それはこの《夢の世界》でもアリスは重要な役割を果たしたからよ。元々この《夢の世界》は、あなた達、外の人間──この《夢の世界》で《探求者》と呼ばれる人間がいた世界と何ら変わらなかったのよ……アリスが来るまではね。アリスはこの《夢の世界》から、一度帰った後、何度もこの世界に来たとされているわ」
そこで、その少女はいったん言葉を切った。その真剣な眼差しはこの後が重要であることを物語っていた。
「それでも十分異常だったのに、何度も二つの世界に移動する度に、アリスはこの《夢の世界》の《法則》に気付いたどころか、それを使用することすら可能にしたのよ」
「この《夢の世界》の《法則》……? それってどういうものなんだ?」
それに対してその少女の答えは簡潔だった。
「イメージの具現化よ」
その返答にユウトは、はっと息を呑んだ。
この《夢の世界》の《法則》を目の当たりにしたことがないユウトでさえも、その《法則》の危険性を理解することが出来た。
イメージの具現化。
もし、そんなことが出来るのなら、この異世界は無茶苦茶になっているはずだ。
皆が、自分の欲望を叶えようとするのだから。
いや、むしろこの《夢の世界》がまだ世界という形を成していること自体が、ユウトにとっては驚きだった。
その少女はユウトの内心を悟ったのか、苦笑した。
「アナタが思っているほど、《夢の世界》の《法則》は甘くないわ。使える人間も限れているし、そもそも使い方がはっきりしていないのよ……でも、アリスはそれをやってのけた。何度もこの世界に来る度に、アリスはこの《夢の世界》の事をつまらなく感じていった。で、アリスは願ったのよ──『この世界よ、変われ』、と」
それ以上はその少女が話さなくても簡単に予想できた。
アリスが願い、イメージしたことでこの《夢の世界》が変わり、ファンシーな世界からゴブリン達が生息する世界に変わってしまったのだ。
それだけではあるまい。
ゴブリンがユウトに行った矢が爆発する攻撃、目の前から突然消えた現象──あれもきっと、アリスが願い、この《夢の世界》に刻印したイメージの具現化の結果なのだ。
なんというところに来てしまったのだろうか。
ユウトは感慨深い思いでそっと心中で呟いた。
異世界に行く。そんなことは、所詮お話の中だけでユウト自身の身に起こってしまうとは、予想も出来るはずもない。
すると、俺はこれからどうなるのだろうか。
従来のお話通りだと、俺は聖剣を携え、魔物を切り殺し、囚われのお姫様を助けに魔王を倒しに行く。
そこまで、考えてユウトは自身を嘲笑った。
学校では除け者にされ、使えるのは最弱の剣術。
体格はほっそりとして、とてもじゃないが剣で長時間戦える筋力はない。
そんな俺に回ってくる役柄など、せいぜい勇者の付き人になれるか、なれないかだろう。勇者本人ではなく。
考えていることが表情に出てしまったのか、苦虫を潰したような顔しているであろうユウトにその少女は、優しく声を掛けた。
「……それで、アナタはこれから、どうするつもり? もし、アナタが元の世界に帰りたい、と思うのなら私はそれを手伝ってあげるわ」
その少女の提案にユウトはしばしの間考え込んだ。
俺は、果たしてあの世界に帰りたいと思っているのだろうか。
この《夢の世界》に来る前は、あれほどあの世界から逃げたい、と願っていた俺が。
結局、あの世界に帰ったとしても惨めな思いになるのは目に見えている。
「……オレは元の世界には帰りたくない……あの世界には、もうオレの居場所なんかないんだよ……オレが出来損ないだから……」
ユウトからこぼれた声は、まるで別人が喋っているかのような乾いたものだった。
「なんで……そんなことを言うの」
少女の震えた声がユウトの聴覚に触れた。
「……アナタがどんな境遇に居たかは聞かないわ……だけどね、自分のことをそんなに卑下しないで」
あんたには分からないだろう。
ユウトは胸中で呟いた。
強さも何もかも持っているあんたには。
俺のように、居場所をなくし、自身を否定されたことがないあんたには。
その少女は、何も言わないユウトを見て、静かに続けた。
「……帰りたくない、そうアナタが望むならそれでもいい……代わりにアナタは何を望むの?」
「──ッ」
その少女の言葉がユウトの頭で何度も反芻し、電撃が走ったかのような刺激が全身を貫いた。
何を──望むの?
それは、ユウトの母親を殺したあの男が、ユウトに向かって最後に言った言葉だ。
もう、そのことはずいぶん前に忘れていたと思っていた。
しかし、その言葉にユウトの身体が反応した──それは、ユウトの記憶の奥底に、何度もユウトが忘れたいと思っている過去の出来事が眠っているということを明確に示していた。
「……オレが……望むのは……」
ユウトの喉が潤いを失い、声が掠れる。
しかし、ユウトはただひたすらに自分に問い掛け続け、あの日の問いに懸命に答えようとしていた。
…………俺が望むものはなんだ。平穏? 元の世界に戻ること?
…………いや、違う。そんなことじゃない。俺が望むのは──
「……オレは……強くなりたい……」
それがユウトの出した答えだった。
それは、この少女を見て、思った事でもあった。
なぜ、ここまで強くなれるのか。戦えるのか。
ユウトはそれが知りたかった。
だが、その少女はその答えを聞いた瞬間、顔を微かに強張らした。
続いて、その可愛らしい小さな口から発せられた言葉は、ユウトにとって予想外のものだった。
「……付いてきなさい」
「……え……」
ベットの上でぼんやり座っているユウトに構わず、その少女は部屋のドアまでかつかつと音をたてながら歩き、ドアに着く直前で振り返った。
「──私がアナタにその資格があるのか、試してあげる」




