第2話 「面影」
戦斧が唸りを上げて、ジルの下腹部を狙う。
刹那。
避けられない軌道。
咄嗟にジルが声を放つ。
「『数学者』──マルチサークル!」
空間がゆらぎ、彼の前に円盤が現れた。
ただの円ではない。数多もの数式と幾何学的な光の軌跡が編み込まれた、精密なる“数の盾”。
戦斧は出来上がった円を貫通した。
「な……なんだと……?」
戦斧の主であるフルの顔から、余裕が剥がれ落ちる。
──斧もろとも。
「おっと、危ない危ない」
ジルは何事もなかったかのようにそこに立っていた。
「一体どうやって!」
フルは焦る。
(嘘だろ、俺の戦斧が)
「いや、だから0に何かけても0だろ?」
ジルの言葉が、フルの思考を斧のごとく切り倒す。
「『数学者』、解除」
呆れながらも、勝利の余韻に浸るジル。
ただ、静かな空気が残った。
それすらを切り裂くように、次の瞬間──
「逃げて、ジル! 閉じ込めていたスライムが――!」
オルタの声が割り込んだ。
安寧の時間はどこにも無かった。
「──私を初見で封じるなんて。面白そうなワンちゃんですねぇ」
「まぁ足元のゴミは違いますが」
その声は、ねっとりと粘膜のように耳奥に貼りついてくる。
それでいて、意思だけは異様に明瞭だった。
発声源は、オルタの上にいるスライムの核、中心部から。
「オルタ、お前が逃げろ!」
ジルがオルタに呼びかける。
その真っ最中に、スライムはぐにゃりと形を「再構成」している。
白い骨が浮かび上がる。
そこに赤黒い筋繊維が巻き付き、脈打つ管が絡み合ってゆく。
人肌がそれを包むように形成される。
最後に眼球がコポ、と浮かび上がった。
髪がふわりと揺れる。
唇の両端が吊り上がった。
「ふふ」
一見ただの少女。
だが、可愛らしい見た目とは裏腹にとてつもないオーラを放っている。
空気がそれぞれに重くのしかかり、凍てつく。
「なん…で」
ジルの喉が詰まった。
目の前の少女の輪郭が、一瞬だけ揺らいで見えた。
「エマ?」
その名は無意識に口をついて出た。
かつての教え子と重ねてしまっている。
「ジル、こいつはあなたの生徒じゃない!」
「こいつは、げ…」
少女は視線を下げる。
足元に、オルタがいた。
「自己紹介は出来ますので、黙ってください」
「騒がしくするようであれば、分かりますね?」
立ち位置だけじゃない。
生物としての上下。
それをオルタは理解した。
「よろしい」
フルはただ傍観するしか無かった。
(オルタの奴、あれに踏まれてやがる)
(どうする?助けた方がいいか?)
(ここでデケェ貸しを作っておけば、って)
(絶対無理だろ…!そもそも、あいつを悠に超えるバケモノをどう…)
天から、閃きの雷がフルを突き刺す。
フルは勇気を振り絞った。
「やるしかねぇか」
小さく呟き、目の前の脅威に向かって歩みを進める。
「私はアーク・ベルトード」
「冒険者を見極めに、という建前でここに潜入していました」
彼女の前には、目で狂気を語っている狼がいた。
「理系脳でも、ちゃんと楽しませてください」
「ちょっと待て」
「その女には興味無いんだろ?」
「だったらそいつだけ渡してくれりゃぁ、俺らはとっとと消えるからよ」
そう提案したのはフルだった。
汗を滝のように流している。
膝は震え、奥歯を噛み締めた。
恐怖に屈する。
たとえ無様でも生き残ろうとしている。
そんな気概を感じ取ったのか、アークはオルタを放り投げた。
「せいぜい、みっともなく逃げてください」
呆れた様子だったが、それでも標的はジルであることに変わりはない。
吹き飛ばされた衝撃でオルタは気絶した。
フルはオルタの腕を掴んで引きずるように離脱した。
「こいつ、重ったい!」
フルは内心ホッとしていた。
(上手くいったぜ!クビにした ジルも処理できる、生き残るための最善を尽くした!)
「さて、これで邪魔がいなくなったのです、が」
「感謝を述べるお時間を与えましょうか?」
ジルは、ただ突っ立っている。
戦う意思を持たず、虚な目をしている。
「エマ…」
「唐突ですが、あなたの嫌いなものを当ててみても宜しいですか?」
ジルは、ハッとした。
(まさか、俺が何度も、思い出さないようにしていた)
(あの、狂った家族の事を?)
「..好きにしろよ」
ジルは目を伏せる。
次の瞬間ーーその伏せた瞳が、射るように鋭くなった。
「"文極"、ですね?」
「っ」
(やめてくれ、それ以上は何も…何も言うな....!)
ジルの中で抑え込んでいた何かが、喉奥までぶり返してくる。
腑が、煮えくり返る。
(やめろ やめろ やめろ!)
アークの口角があり得ないほど上がった。
「いつだか、聞いたことがありますね」
「"文極"の王家に捨てられ、"文極"に拾われた…」
ジルの耳が、ピクリと反応した。
(違う、違う!)
心の叫びは、すぐに打ち砕かれた。
「図星のようですね。雷狼の少年よ」
ジルの、全身の毛が膨らむ。
「やめろっ!」
ジルの、目の色が変わった。
悲しみ、空虚だった瞳が、憎悪と数学を孕んで蘇った。
「おぉ!やっとやる気になってくれました?」
「でも残念ですね。あなたと私では、スライムと魔王程なのに」
ーーだが。
理系に「比喩」は通じない。
「スライムは、お前だろ」
その瞬間、空間が鳴った。
ジルの周囲に、数式が浮かぶ。
ーーこれは、スキル使用無しの、"攻撃の構え"。
戦闘が始まる。
「私は魔法を大の得意としていますが」
「スキルを全く使わないというわけでもないんです」
アークは胸にそっと手を当て、目を瞑る。
「スキル『破壊砲』」
「後悔を導く変革の光。無意味を穿ち、貫け 」
紫の、血のようにドロっとした光が、
ゆっくりと、確実に、ジルの心臓を貫かんと迫り来る。
それを引っ張るように、白い光が交差する。
ジルの視線の端に一瞬、懐かしい影が映った。
《先生、右に》
ゆったりとした唇の動き。
温かみのある声音。
(今のは…)
ジルは咄嗟にかわす。
だが、尻尾の毛先が、放たれた紫の光に掠める。
身体中が酷く痛む。
空気が毛を撫でるだけでも、雷に打たれるような痺れが襲いかかる。
(なんでだ、ちょいかすっただけだろ!でも分かった、こいつ)
「ちっともエマに似てねえや!」
ジルの中で、何かが吹っ切れた。
右手をバッドマークに折り曲げ、
親指を脳天に突き立てるようにして構えた。
(思い出したくもねえモン、思い出させやがって、)
(この、魔力量だけのネバネバ野郎が!)
「スキル『逆境』!」
ジルの背中から白い煙が溢れる。
彼の足元の空気が波打った。
ーーそれはまさに、"反撃の狼煙"。