第2話 「"逆境"という合言葉」
「『数学者』、解除」
ジルがスキルを解いた瞬間、背後からヌチャと粘液の体が滑る音がした。
「魔力を少しも感じさせない。魔法の使えない、世界を数式で偽造した下劣な理屈屋。……ええ、実に滑稽で、無益」
ジルの近くで、声が聞こえた。
振り返ると、そこには先程彼が捕まえた巨大スライムが、ゆらりと身体を滑らせていた。
(90億……!)
ゴポ。
突然、スライムが膨れた。
「再形成」が始まった。
白い骨が浮かび上がり、赤黒い神経、脈打つ血管が巻き付き、絡み合ってゆく。
そのグロテスクな肉塊の上を、完璧な人肌が薄く膜のように張られていく。
最後に現れた眼球は、ジルを見つめていた。
黄緑色の髪をふわり、と揺らす。
一見ただの少女。
だが、可愛らしい見た目とは裏腹に、とてつもないオーラを放っている。
空気がそれぞれに重くのしかかり、凍てつく。
「ん……?」
ジルは息を呑む。
目の前の少女の輪郭が、一瞬だけ揺らいで見えた。
(あれは……! いや、だが)
その一瞬の動揺を見逃さず、"それ"は唇の端を吊り上げた。
「ふーん……動揺ですか。くっだらない教師ごっこをしていた、過去の残滓ですか?」
「……くだらない?」
(いきなり現れたお前に、俺の何が分かるってんだ)
「分かりますよ。あなたが、あの人の言っていた"呪われし子"だって事ぐらいは」
「黙れッ!」
ジルの琴線に触れた──それだけだ。
「逆境」
刹那。
怒りが、動揺が、ただジルの理系脳を回す為だけのエネルギーに変換される。
過去の苦しみも全てを置き去る合言葉、1つで。
「いいでしょう。それぐらいじゃないと、楽しくないですから」
「蒼天より降り注ぐ、偉大な陽の光よ、我が"液魔"の名の下にこの掌に集いて一閃の輝きと化せ。 極大光!」
詠唱の後、少女が呟いた。
「結局何もしないなんて、愚かしい」
「そうかよ」
ジルは、案外余裕だった。
(通過後の"速度"1/xのマルチサークルでいけるか。速ければ速いほど……光なら)
「『数学者』、マルチサークル」
「まぁいいです。さようなら」
(魔法のための詠唱も出来ない、魔力も無い理屈屋なんて、所詮……)
ピカァン!
一筋の光が、少女から放たれる。
キイイイ゛イ゛ィィ…。
光は、ジルに直撃することなく、彼の目の前で静止した。
いや、0と1で紡がれた輪が、光を"静止した"と見まごう程にその速度を理論で歪めた。
(え? 今、何が……いやいや、きっとまぐれでしょう! そうでもなければ、この理屈屋は私の魔法を、ブツリホウソクを捻じ曲げた事に……!)
「ふふ……すっ、少しはやるようですね」
無意識に身体が震える。
(そんな……私は、魔王軍幹部級七将軍に選ばれたのに、どうして)
「やっぱ、魔法ってのは数式の前じゃその程度なんだよ」
彼女の脳裏に、ジルの嘲笑がこだまする。
──その程度?
「いいでしょう……見せてあげますよっ! この私、アーク・ベルトードの本気を!」
(私の……最高傑作で、理屈屋を完全否定します)
「彼方より紡がれ、ただ永遠に巡る大海。暴乱の豪風、冥府の央、始まりを夢見る火焔。全ての歩みを捨て去って今、"液魔"の名の下に顕現せよ!」
ジルはふわぁ、と欠伸を漏らす。
(魔法には詠唱が要るから……やはり効率が悪い)
「イヴィワールレプリカ!」
──90億の魔力量は、伊達ではなかった。
アークの足元からは大量の水、ジルと彼女自身を包むように、風が炎を巻き込んで吹き荒れている。
水火風三属性の超上級魔法。
「嘘でしょう……? この状況で、まだ笑っていられる? あなた正気じゃない……正常じゃない!」
「いいや、俺の脳は正常に働いている。この3つの解を持つ三次方程式を解くために、な」
(方程……式? この理屈屋、私のイヴィワールレプリカを、"方程式"で解くと言った? ふざけないで。この術は、膨大な魔力と世界の理を最も複雑に絡ませた私の最高傑作。それを、数式なんて原始的、無機質なツールで……!)
だが、アークの目の前で、信じられない光景が広がっていた。
炎と風が織りなす渦潮の中心で、ただジルは指を動かしていた。
その指先から伸びる光が、触れる魔力を捕捉、数値へと変換する。
ただ、解として代入されている。
「嘘……。ありえない。魔力の奔流が、概念へと分解されていく……!」
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気が付けば、アークの放った魔法は、跡形もなく消えていた。
「整数解じゃなかった。よっぽど細かくバランス調整されていたんだろうな」
ジルの脳裏には、彼が気付かない程の刹那、炎に飲まれる建物と、逆光で表情の見えない少女が浮かんでいた。
膝から崩れ落ちるアーク。
データ表示で彼女の保有魔力量が3桁に収まったのを確認し、ジルは彼女に近づいた。
「んー……その、なんだ。さっきは閉じ込めちまって悪かったな」
「何故です?」
「え」
「私は、あなたを、理屈を、心の底から見下していました。そして、あなたを殲滅してやろうと……」
ジルは少し悩んだ後、アークの質問に答えた。
「ちびっ子を正しい方向へ導くのが教師だろ? くだらないって言われたって、それが俺だし」
「ちびっ子……ですって? 私結構長生きしてますが」
「まぁ、ちびっ子かどうかはともかく、な」
ジルは立ち上がると、少し清々しそうに微笑んだ。
「詠唱が魔法を創るなら、数式で世界を変えてやる」
(馬鹿らしい……世界なんて変えられるわけないのに。でも、さっきの常識を論破する、答えを探す為の光は、何だか美しかった)
「ええ、理屈で変える。面白そうですね、それ」
アークは立ち上がると、ジルを力強く指差した。
「見届けてみましょうか。数式で世界が変えられるのか。よろしくお願いしますね、先生」
ジルの耳がピクリと跳ねる。
「……先生?」
それが、理数と魔法、冒険者と魔王軍が交わる最初の瞬間だった。




