退く帝と竜、念願叶う偉丈夫、愁う錬金の魔女
「アリトレス!」
頭上から聞こえてきた声に、帝王・アリトレスが顔を向ける。
「フィアーマ……さっきの咆哮は、ヤツのあれか?」
「えぇ。ごめんなさい、私としたことが……」
大地に舞い下り、近づけてきたフィアーマの上あごを撫でる。
「あぁ、いいさ。過去を覆すなんてできねぇんだしよ。――さて、全軍撤退、か」
アリトレスは軽やかにフィアーマの背に乗り上げる。
フィアーマは翼を羽ばたかせて飛び上がり、砦上部と地面の中間あたりで滞空した。
「聞けッ、ロッソ帝国の者たち! 現時点を持って、我らロッソ帝国はここ、アルヴァ砦を放棄する! いいかッ、アルヴァ砦は放棄だ! これから帝都に脅威が迫る! 今すぐ全軍撤退しッ、帝都防衛に尽力せよ! ロッソ帝国軍、撤退だ!」
アリトレスの言葉に、砦中にこだましていた喧騒が少しずつ落ち着きを見せていった。
やがてロッソ帝国兵たちは、躊躇い、戸惑い、悔恨、憎悪、様々な感情を吐露しながらアルヴァ砦から撤退していく。
ある程度自国の兵たちが砦から出ていく様を見送ると、アリトレスとフィアーマもまた、帝都に向けて飛翔を始めた。
「それで、どうだった? 三年ぶりの白竜は?」
「あと少しのところまで追い詰めたわ。でも、途中から横槍が入ってしまって……」
フィアーマの言葉に、アリトレスは目を細めた。
「横槍? お前ならそのくらい払えるだろ?」
「えぇ……そのつもりだったわ。でも……あの愚竜とは別の、大いなる存在が加担していたわ。背中に少女を乗せて、ね」
「……そりゃまた、面倒だったな。で、なんだ? その少女ってのは」
「水を操っていたの。私めがけて、何度も氷の槍を突きつけてきたわ」
「魔導士、か?」
「ごめんなさい、そこまで判別はつかなかったの。――魔力を感じたけれど、きっと大いなる存在が放つものね」
アリトレスを持ったまま腕を組み、訝しげに首を傾げた。
「はッ、まぁいいさ。――どうやったって、俺たちに敵うヤツはいねぇんだから、よ?」
*
「くそッ、絶好の機会だったというのに……帝王を、討てなかった……」
アルベルトは鋭い剣幕を浮かべ、思い切り地面を殴りつけた。
「オレは……まだ弱い、ということか……」
震える拳を見つめながらうな垂れていると、頭上から声がした。
『ふん、一挙両得が成せるほど、世は甘くない、ということだ』
知的で冷淡な声。確かめるまでもないと、アルベルトは顔を上げることはしない。
「なにが言いたい……」
『貴殿がこの戦いに参じた理由はなんだ? 妹を救うことだろう? 帝王が来るなど、誰も予想だにしなかったはずだ。であれば、妹を救うことが出来た。そして偶然にも帝王が現れ、挑み、こうして生き延びている。これを幸運だと思うのだな』
ベアルの言葉に、アルベルトは返す言葉が浮かばなければ、気力も湧かなかった。
そしてふと顔を上げ、立ち上がった。
「マリアは?」
アルベルトと同様に、帝王が放った風の衝撃で吹き飛ばされたマリア。
視線を左右に振り、やがて向こうの壁にもたれかかる少女の姿が見えた。
足早に駆けつけ、肩に手をかけて顔を覗き込む。
目をつむり、脱力した表情は壊れた人形のよう。
「ま……マリア?」
アルベルトが狼狽すると、背後から知的な声が静かに言う。
『案ずるな。受けた衝撃で気を失っているだけだ。とはいえ、幾分か内傷はあるだろうがな。それはアルベルト、貴殿もまた然り』
よく目を凝らし、耳を澄ませば、確かに生命の鼓動が感じ取れる。
『さて、どうする? 救護兵の到着をここで待つか、自分の足で傭兵団と合流するか』
「……オレは動ける。自分で行こう。それと、マリアも連れていく。いいな?」
『あぁ、むしろそう願いたい』
アルベルトはマリアを抱きかかえると、砦の中に歩みを進めた。
「傭兵団と合流する前に、アーレを。それと、地下の独房も開けておく」
『好きにするがいい。我が咎めることでもない』
アルベルトはそのまま地下に向かい、妹・アーレと合流する。
ベアルの姿をさらすことはできないため、アーレの助力を得ながら、捕虜収容所の独房すべての扉を解錠した。
*
湖畔の木々が、急に吹き荒れた突風に逆撫でされる。
「やはり、ここにいたか」
ゾルは砦周辺の林を飛び越え、南方に広がる森林の、水馬が治める湖へとやってきた。
「すまない、古き友よ。熱による消耗があったのでな、早々にこちらに赴いたのだ」
水馬は申し訳なさそうにうな垂れる。
「いや、英断だ、感謝する。――ルナよ、そなた無事だったか?」
水辺に座り、膝下を水中に浸からせているルナは、ローブと胸当を外し、上着を脱いで下着姿になっている。
水を浴びたように、全身に雫が滴っている。
「うん、まぁ、無事、だったよ」
どこか素っ気ない、淡々とした口調。
「そうか……いや、あれだけ赤竜の炎に巻かれたのだ。無傷ではあるま――」
「大丈夫って言ってんじゃん!」
叫ぶルナの声には、明らかな怒りが宿っていた。
それはゾルにも、水馬にも伝わっている。
ゾルにとって、ルナの怒りの原因として思い浮かぶものといえば、やはり――。
なるべく静かに、ゆっくりとルナに歩み寄り、小さな体の斜め後ろに体を伏せた。
そして大きな頭をルナの横に下ろし、語りかける。
「ルナよ、先ほどは本当にすまなかった。あのままそなたを手に乗せていたら、吾輩は無意識にそなたを握り潰しかねなかったのだ。ゆえに――」
すると、ルナが勢いよく立ち上がった。
ゾルに体ごと振り向くや否や、上あごを平手で思い切り引っぱたく。
ルナの鋭くつり上がった目が、ゾルの瞳を見据えた。
「あたしを放り投げたことなんて、もう、どうでもいい。それより……人の心配するより、自分の心配したらどうなの? あんた、自分の体、ちゃんと見てみなよ。自分がどれだけ傷だらけで、ボロボロなのか、分かんないの?」
まったく思いもよらないルナの言葉に、ゾルは呆気に取られた。
ルナの睨む目を見つめ、束の間の沈黙の後に、笑った。
「ふはは……ふむ、ルナの言う通りだ。吾輩は確かに傷だらけだな。しかし、吾輩は竜である。この程度の傷、数日も安静にすればいずれ癒える」
ゾルは穏やかにルナをなだめたつもりでいたが、ルナの剣幕は綻ぶ様子がない。
ルナは再びゾルの上あごに平手打ちをする。
「そんな傷だらけで、なんであの時、赤竜のところに飛んでったのよ……? あんた、魔法の耐性、ないんでしょ? それなのになんで、なんで飛んでっの……? 撃ち墜とされるどころか、最悪……殺されたかも、しんないんだよ……?」
「……どうやら、酷く心配させてしまったな」
「……あったりまえじゃん。……あんた、言ったよね? あたしが色々失くした分を償わせてくれって。あたしのために尽くしてくれるって。それなのにさ、死にに行くようなことして……約束、破る気だったの?」
「そのようなつもりはなかった。あの時、吾輩が赤竜の下に向かったのは、勝てることが――いや、赤竜を撤退させることができると、確信していたからだ。吾輩はそなたと……ルナと交わした約束を破るつもりは一切ない。せめて、それだけは解ってほしい」
ルナはゾルから目を背け、深く息を吸い、肩を落としながら吐いた。
「いいよ、分かった、解ったよ。もう少し、あんたを……ゾルを信じてみる」
「あぁ、感謝する、ルナ。――水馬よ、そなたにも礼を言わねばな」
ゾルは頭を持ち上げると、水馬と視線を交わした。
「なに、その必要はない。我は、そこの錬金術師――ルナに受けた恩を返しただけ」
「恩……? ――ルナよ、そなたいつの間に、水馬に恩など売ったのだ?」
「知らないよ……むしろ、あたしが聞きたいくらい」
ルナとゾルが不思議そうに水馬を見ると、踵を返して湖中へと沈む手前だった。
「古き友、そしてルナよ。此度の戦い、そして勝利――見事であった」
「ううん、あんたが力を貸してくれたからってのもあるよ、きっと。ありがと、ネビア」
ルナの言葉を聞いたところで、水馬――ネビアは音も波紋も立てることなく消えていった。
「ほぉ……古き友が、名を告げたか」
「うん。ゾルは知らなかったの? 名前で呼ぶとき、なかったじゃん」
「いや、知っていた。だが、己の名をひけらかすことを嫌っていた」
「……なんで?」
「音に威厳がないゆえ、らしい」
「音……あぁ、ネビアって名前が、女っぽいから?」
「うむ」
「ネビアって、普通の動物じゃないけど、性別ってあるの?」
「あるともないとも言い切れん。だが、雌雄でいうなら、友は雌にあたる」
「……は?」
ネビアが雌であると知り、ルナは間抜けな顔で、間抜けな声を漏らした。
「友は気高く、荘厳であろうとしている。それゆえか、滑らかな音を持つ己の名を、嫌っているのだ」
湖面に小さな泡が立った。そこにネビアがいて、ルナとゾルの会話を盗み聞いてるように。
「じゃあ……あたしもあんまり名前で呼ばないほうが、いいの?」
「いや、友自らが進んで名乗ったのだ。周りに誰もいないことを踏まえた上でなら、名を呼んでも良かろう」
それからゾルは巨体を持ち上げる。
「さあ、衣をまとうのだ。王都に戻るぞ」
「アルベルトとマリアは?」
「共和国の傭兵団と共に帰還するだろう。先に戻り、出迎えてやるといい」
「……分かった、そうする」
ルナは脱ぎ捨てていた上着、胸当、ローブを身につける。
差し出した白く大きな手にルナが乗り込むと、ゾルは巨翼を羽ばたかせ、一気に大空へと舞い上がった。
ルナはゾルの手から顔を覗かせる。
鬱蒼としていた林は焼き尽くされ、歪な黒色に染まっていた。
「これが……戦争、なんだね」
変わり果てた足下の風景を、ルナは愁いを帯びた眼差しで見下ろしていた。




