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初夜と呼べない初夜のようなもの

「いいよ、それでマビルが信用してくれるのなら。とりあえず……お風呂、入っておいで」


 お風呂という単語にマビルは顔から火を噴きそうな勢いで、悲鳴に近い声を出す。これは『抱きますよ宣言』だろうか、そう思った。


「の、覗く気!? それとも、な、何、そのお風呂に先に入らせて、あれね、あれで、あ、ああああああた、あたしと」

「覗かないよ、安心して入っておいで」


 覗きたいといわれても困るが、覗かないと断言されても哀しい。しかし、トモハルは危険だった。


「覗くくらいなら一緒に入るよ」

「! っばっ!」

「冗談だよ」


 静かに笑って、茹でタコのように真っ赤になったマビルを抱き起こす。


「ミノルに電話するからさ、ゆっくり入っておいで」

「う、うん。の、覗いちゃ駄目だからね!」


 小さく笑い続けるトモハルに、マビルは腰が抜けかけた。

 知らない。こんなトモハルは、知らない。余裕たっぷりで少し意地悪な気がするトモハルは……知らない。


「あ、マビル」

「な、何」


 産まれたての小鹿のように震える足を、懸命に奮い立たせて歩き出したマビルを呼び止め、トモハルはさらりと。それでいて、熱い眼差しを投げかける。


「愛してるよ」

「! っ!」


 一目散にマビルは浴室へ駆け出した。ドアを閉めて、するすると床に倒れ込む、腰が抜けた。

 トモハルの声が、体温が、瞳が、吐息が。

 まだ、抱き締めれているような感覚だった。マビルは思わず。


「……ともはるー」


 小さく、名前を呼ぶと切なそうに、愛しそうにドアの向こう側にいるトモハルを見つめる。


「す、き」


 ……と、先程言っていたらどうなっていたのだろう。

 マビルは、よろめきながら立ち上がると浴室へ壁を伝って歩き、シャワーの蛇口を捻る。


 その頃、携帯電話を取り出したものの、一向に電話などかけないトモハルは一人天井を見つめている。

 それもそのはず、ミノルと呑むなどは嘘である。

 逃げだった、あれ以上傍にいたら必ずまた、マビルを泣かせてしまうだろうから、逃げる気でいた。無邪気に、寂しそうにくっついてきたマビルを、縛り付けたくなった。

 必死に自分を抑えようと戦い続けたが……不意に。

 自意識過剰かもしれない、だが、なんとなくマビルが自分を嫌いではない気がして。

 トモハルは、一か八かの賭けに出た。


「マビル」


 携帯をベッドに放り投げると、仰向けに倒れ込む。

 何度も名前を呼んだ、愛しそうに呼んだ。廻り廻って、得たチャンスを逃すわけにはいかない。


「絶対に、何が何でも……勝つ」


 どうしても譲れない、欲しいものが出来た。その為に必死に生きてきた。


「マビル、俺にしなよ」


 マビルの入浴、二時間半。

 色々考えすぎて、ボーっとシャワーを浴びていた。はだけ気味のバスローブを引き摺って歩いてきたマビルは、トモハルが差し出してくれたジュースを飲み干すと、小さく溜息を吐く。

 別に、万が一に備えて身体を綺麗にしていた……ということも、実はあったのだが。

 ともかく、茹った。

 全身真っ赤だ、だがこれならばトモハルに何を言われてもこれ以上赤くはならないだろうと安堵してもいた。


「何もしないから、先に寝ておいで」

「ちゃんと、手を繋ぎに来る?」

「うん」

「……絶対よ」


 意識が朦朧としているので、思いの外すんなりと言葉が出たマビル。ふらつく足取りでベッドに倒れこむと、スローで布団に潜り込む。


「……おやすみ」

「おやすみ」


 瞳を軽く閉じて、小さく溜息を吐いたマビルの耳元に顔を近づけたトモハルは。


「愛してる」

「! ぅっ!」


 思わず、硬直したマビルに追い討ちがかけられる。チュ、と耳に軽いキスをされた。

 背筋が一気に波打つ、心臓が跳ね上がる、これ以上赤くならないと思っていた身体が顔が、真っ赤になる。

 遠ざかる足音、ドアが閉まった音。

 跳ね起きたマビルは、震えながらベッドから転げ落ち、冷蔵庫から缶ジュースを取り出した。一気に飲み干す。


「ね、眠れない! 無理っ! 死んじゃうっ!」


 ふとマビルは、気がついた。

 ……手にしていたのはビールだったのだ、炭酸だとは思った、苦いとは思ったがまさかのアルコールだ。

 一気にアルコールが廻る、極度の緊張状態にあったのだから無理もない。

 慌ててぼやける視界でペットボトルを取り出すと、一気に流し込む。中和せねば、と思ったのだ。

 少し、身体も頭も冷えた気がした。

 再びベッドに潜り込んだマビルは、簀巻きのごとく布団に包まる。


「……マビル、これじゃ手を繋げないよ」


 思いの外早かったトモハルの戻りに、マビルは飛び上がるほど仰天した。慌てて簀巻き状態を解放し、にゅ、っと左手を差し出す。

 軽く吹きだすとトモハルはその手を握る。

 握られた手に安堵し、マビルは大きく息を吐いた。次は隣に寝転がるだろう、緊張気味にその時を待つ……が、隣に入ってくる気配がないのでマビルはそっと布団から顔を出した。

 見ればトモハルは、確かにベッドの上に転がっている。


「ね、ねぇ。入らないの?」

「……入っていいの?」

「え」

「え?」


 二人同時にすっとんきょうな声を出した。

 当然、隣で眠る予定だったマビルと、手は繋ぐが同じ布団に入ることは無理だと思っていたトモハル。

 沈黙が訪れる。が、トモハルが満面の笑みを浮かべて布団に侵入した。


「……一緒に眠るのは、久し振りだね」

「そそそそ、そうだね」


 微笑むトモハルを凝視してしまい、顔を赤らめ繋がっている手を、堪らず強く握り返す。


「おや、すみ」

「おやすみ」


 マビルは、強引に目を閉じた。左手が、心地良い。暖かく、安心する。

 もっと、傍に来てもいいよ。ぎゅ、と、してもいいよ。

 と、思っていたのは間違いないが、近づいている気がしてマビルは瞳を開いた。

 明らかに、にじり寄って来ている。もはや数センチで身体がぶつかる。知らぬ素振りで瞳を慌てて瞑るマビルの、その耳元でトモハルの声がする。


「ねぇ」

「!」


 寝たふりを続ける。寝ているわけがないが、反応に困ったからだ。

 マビルは震える身体を懸命に堪えながら、聴こえない振りをした。


「キスしていい?」

「!」


 寝たふりを続ける。

 不意に、瞳に何かを感じマビルは恐々瞳を開いて小さく叫んだ。


「キスして、いい?」

「!」


 触れてはいない。だが先程から空気の振動によって、触れているような錯覚を起していた。鼻が触れる、吐息がかかる。

 間近にトモハル、先程と同じ状況だ。


「嫌なら。嫌って言って」

「!」


 視線が交差する。手は握られたまま、何時の間にやら両手を握られており動けない。

 もはや、唇など触れる寸前だ。


「言わないなら……するよ」


 これは卑怯だ。とても、嫌だなど言えない。硬直し、何も言わずに瞳を閉じたマビルに、トモハルはそっと。

 唇を触れさせた、離れる。

 ほっとしたような、残念なような。瞳を開いてトモハルを見上げたマビルは、失敗した、と思ったのだ。

 愛しそうに、優しそうに、自分を見つめていたトモハルと視線が交差した。


「キスは、してもいいんだね?」

「キス、だけなら、いーよ」


 導かれるように、かたことで、返事をしてしまった。虚ろに上ずった声で、開いた唇をトモハルが見逃すわけがなく。


「マビルの彼氏よりキスは下手だけど、キス、してもいいんだよね?」

「キス、だけなら、い」


 最後まで言えなかった。あまりにも長すぎるキスは、マビルの思考回路を無茶苦茶にした。チカラなど入らない、なすがままだ。

 二人の吐息が幾つも幾つも、終わりがないほどに重なり合う。

 マビルの額に、頬に、瞼に、鼻に、耳に、首筋に、鎖骨に、肩に、脇に、腕に、手に、指に、背中に、全身にキスをする。 

 バスローブなど、とうに脱がされてベッドから落ちていた。そっと胸にキスをされた時に、ようやくマビルは我に返る。


「ちょ、キスだけって言ったのに! 何もしないって言ったのに!」



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