10. やばい女
森を抜けると、いくつかの小高い丘に点在する牧草地を隔てた向こうに港湾都市テンベナの赤いレンガの壁が見える。別段急ぎもせずにまだ陽が高いうちにここまで来れたので、テンベナで宿を取るのは予定通り日没前には済みそうだった。時間に余裕があるのは幸いだ。同じ失敗を繰り返さないように宿選びは慎重に行うことにしよう。特にテンベナでは数日かそれ以上滞在することになるかもしれない。
テンベナはこの地方では最大の都市だ。現在もなお拡張を続けている巨大な町がすべて高い壁に囲まれているわけではないが、少なくともハステが居住しているらしい商業区は壁の中だ。門では普段から兵士による検問が行なわれている。基本的に手配犯などの特定の人物を発見するためのものなので普通の者は呼び止められすらしないし、門兵は領主の所有する正規兵なのでまず心配は無いと思うが、彼らとはまた別にノラッドが『フィノケリ卿の密偵』を発見するために配備した者が隠れている可能性もある。
ノラッドは密偵が何日の何時に門を通るかまでは予想できないだろうから、そう大勢を見張りに割くわけにはいかないはずだ。念のため、峠からまっすぐの位置にある門だけを避ければまず問題無いだろう。
そして実際特に問題もなく検問を通過し、一旦は目的地だった第二商業区に足を踏み入れた。だが私は途中で道を引き返し、門の近くの別の商業区に宿を取ることにした。同じ区域内ではいくらなんでも近過ぎる。ハステたちは常にノラッド小隊の監視下にあるだろうし、直接彼女らに会いに行かなくとも、見張りとうっかり鉢合わせする可能性が低くない。同じくノラッド小隊から最大要注意人物としてあらぬ嫌疑を掛けられている私はすぐにでも目に留まるだろう。
私は人の少ない壁沿いの裏路地へ入り、そこに一軒の寂れた宿を見つけた。壁の陰にあるため日当たりが悪く、まだ灯りを灯す時間でもないため、中は非常に暗い。傍らには馬を休ませる厩舎もあったため、私の望む条件に合致していた。
「期間を定めず、何日か部屋を取れますか?」
呼び鈴を鳴らしてしばらくしてからのんびりと出てきた腰の曲がった老爺にそう問いかけた。老爺はしばらく私の顔をじっと見た後、思いがけない返答をした。
「あんたが、ヌビクさん?」
幸い馬はまだ戸のすぐ外に付けてある。このまま走って逃げ去ろうかと踵を返すと、部屋の隅に置かれたソファに腰掛けていた一人の人物が手を振っているのに気が付いた。
私はすぐに足を止めた。
「日に三度も会えましたわね。そろそろ顔見知りになれたかしら?」
「それで、君は…何者なんだ?」
私が悪徳宿屋に騙し取られた金貨を取り返してくれた、あの異国風の不思議な女だった。
ソファの向かいにはテーブルを隔てて、まるで私のために置いたかのような粗末な丸椅子が一つだけあった。勧められたわけでもないが、私は着席する。
「うふふふ…予想通り、予想通りでしたわ!貴方のような方の考えることはお見通しですのよ。追われる身の方というのは心理的にこういう場所を選ぶものですの。別に門の近くだからって逃げるのに有利になるなんて事はありませんのに。でも正面の門を使わなかったことや、直接目的地へ出向く前に拠点を確保したあたりなんかは及第点ですわね」
「逃げるのに有利じゃないのかい。じゃあ他所に行けばよかったな」
「まぁ!」
望む返答が得られなかったのでついぶっきらぼうな態度を取ってしまったが、すぐに相手が恩人であることを思い出し、私は頭を掻いた。
「今朝は本当に助かったよ。どうもありがとう。なんだか僕のことを知ってる様子だけど、何が望みなんだ」
「わたくしはジッフェ=ニュールフプードと申します。さる御方の密命を帯びてこのテンベナ周辺で情報収集に当たっている者ですわ」
昼に会った際には名乗ることを避けた女は、今度はいともあっさりとその名を告げた。私がこの宿に現れたことで私の素性や行動に関するなんらかの裏付けが取れたのだろう。
「フィノケリ卿の密偵殿が僕なんかになんの用だい」
「ええ、私たちはノンドバドで調査を行なっていた際に貴方の…え?今なんとおっしゃいまして?」
「さる御方ってのはサーバリヌズ=フィノケリ卿だろ?君がそうだったんだな。僕は君と間違われているらしくて大変なんだよ。なんとかならないかい」
「な、何故それを…」
「やっぱりそうなんだな」
私が泊まる宿を見抜いて得意気になっていたあたりからなんとなく察したが、ノラッド曰く一流の実力を持つらしい密偵とやらは、どうやらいくらか迂闊な性格をしているようだ。もうしばらくくらいは不思議な雰囲気を保っていて欲しかったと思わなくもない。
「キー!」
ジッフェは目を硬く閉じ、両の拳を握り締めて悔しがった。今朝方私に対して大きな印象と恩を残したのは、私と何らかの交渉をするに当たって有利な立場に立つための下積みだったのだろう。どうやらミステリアスな雰囲気も一つの演出で、今の状態が素のようだ。正体を見抜かれたことでひっくり返されてしまったとでも思っているらしい。
「大丈夫だよ。今朝助けてくれたことは確かだし、恩は忘れてないから。出来る限り協力するよ。ノラッド小隊に与してる立場なわけでもなさそうだしね」
「貴方のほうこそ一体何者ですの?ご自分の所属していらした小隊から追われている今の状況について、よもや正確に理解していらっしゃるものとは思いも…いや、別に私の考えが至らなかったというわけではありませんわよ!ただ、何故?なんで?どうやって?」
実際、自分が追われている理由どころか、追われているという事実すらまったくの偶然によって昨日知ったばかりのことだ。それを正直に告げるべきなのだろうか。しかし、彼女が私に対して一体何を望むつもりなのかもまだ分からないが、私の情報収集能力を過大評価されている現状を利用できるかもしれない。
などと考えながらしばらく黙っていると、店主の老爺が宿帳と筆を持ってきた。
「はい…。名前とか、書いといて。お嬢の知り合いなら何日でも好きに泊まるといい。馬、厩舎に入れとくな。ごゆっくり…」
親切そうな店主で、その点についてはひとまず安心した。私は会釈を返し、宿帳に必要事項を記入した。
ジッフェが腰を浮かせて向かいの席から覗き込む。
「うわーっ!噂どおりの素敵な筆跡ですわねー?一体どなたに師事なさいまして」
噂にまでなってたのか。
「兄に…」
「お兄様は何をなさっていらして?教員?司祭?書道家?」
「ずっと病気で、死ぬまで寝てたよ」
「うっ…失礼致しました」
宿帳には一日あたり平均して二人ほどの名前が記入されている。日によっては名前が一つも無いこともある。食堂を酒場として宿泊客以外に開放している様子も無いし、寂れているように見えるのは今がたまたまというわけでもなさそうだ。重ねられた紙をめくって他のページを確認してみたら、ジッフェ=ニュールフプードの名を見つけた。既に三ヶ月以上も滞在しているようだ。ずっとこのテンベナのみで活動しているわけでもなさそうだが、自身が市外にいる間でも部屋は確保してあるのだろう。
「黙って、さり気なーく、人のプライバシーを盗み見るんですのね」
「君は違うのかい」
「私は立場上必要があってそうしております。もしや貴方も私と近い境遇でいらっしゃいますの?」
そんなはずはない、いや、そうかもしれない。といった感じで一人心の中でせめぎ合うように、そわそわと上目遣いでそう問いかけた。別に女性をからかうのが楽しいという悪趣味でもないのだが、なんだかいくらか勿体ぶって話したい気分になった。
「さて…どうだろうね。むしろ君が…君たちが僕の事をどこまでどう調べたのか聞きたいな」
「私たちは貴方がフィノケリ卿の関係者ではないということだけは理解しています。そこがノラッド=ランロー氏との明確な相違点ですが、確かにそれ以外の点においては彼らとさほど違いはないのかもしれませんわね。テンベナ義兵団入団以前の貴方の経歴については、貴方が自ら団に説明したそれ以外に何の客観的資料も存在しないのですから」
「資料なんて存在しなくて当たり前だ。たった一人の離れ小島の牧童の人生を記録する者なんてどこにもいない」
「では、本当に本当ですの?」
「本当に本当だよ」
「…本当に?」
彼女に私の言葉の真偽を確かめる術はこの世のどこにも存在しないし、私にも証明する術が無い。島を出る前の私を知っていた者は全員死んだのだから。つまり私は客観的には何者でもなく、ハッタリ次第で何者にでもなれる。リベイマ家の者になるのには手ひどく失敗したが。
「今更隠すつもりもございませんけれど、貴方については今後も調査を続けさせて頂きますわよ。ただ、私たちは貴方が誰かに命を取られたり、私たちにとって不利益な集団に与することになる以前に、貴方と友好関係を築いてお互い可能な範囲で情報交換を行ないたいと思っておりますの。その差し当たっての目的のためであれば貴方が何者であるかはこの際はっきりしなくとも構いませんわ。当面の間は」
「恩人に協力を惜しむつもりはないよ。だけど知ってのとおり、こっちはあんまり余裕のある状況じゃない。これ以上の助けを請うのは、僕が肝に銘じるといった君のあの言葉に反するけど、僕とエジヤ姉妹の安全に協力することを条件にしてもらいたいんだが、可能かい」
「喜んで協力いたしますわ。あの姉妹の安全は我がマスターの望みでもございますから。ヌビクさんはそれが目的でテンベナへ来たんですの?ハスタリメノ様ではなく?」
「そうだよ。オーリスさんも恩人なんだ」
色んな人に助けられていつもぎりぎりのところで生きている。恩人だらけだ。
「あれぇ、そうなんですの?それほど深い関係のようにも思えなかったですけれど。お酒を飲んで暴れたことを許してもらえたのがそんなに嬉しかったんですの?」
「そんなことまで調査してるんだ…」
「しかしエジヤ姉妹が狙われていることをご存知ということは、彼女たちが何者なのかもご存知ということでいらっしゃいますわね?」
私は一瞬彼女と視線を合わせて、一拍置いてから返答した。
「あの姉妹は、超能力者だよ」
「それだけですの?」
超能力者と言う説明を聞いて真顔で「それだけ」などと言えるということは、私が一瞬間を置いた理由についても察しているということだろう。協力を惜しまないなどと言っておきながら、早速信頼を損ねるようなやりとりをしてもいけない。
「彼女たちは高レベルのリドニッツ適性者だ」
言い終るや否やのうちに、ジッフェは手を叩いて天井を仰いだ。
「リドニッツ!はい、リドニッツと来ましたわ!その言葉をどこで知りまして!?」
そして拳を握り締めてガッツポーズした。
びっくりしたな。どうやら怪しいと目星を付けておいた私と言う人物が、よくよく探ってみても大した情報を持っていない小物なのではないだろうかと不安になっていたのだろう。実際偶然に次ぐ偶然によって知るべきでない知識を無駄に得てしまっただけのただの小物なのだが、普通の者では知らないようなことをいくらか知っているのは事実だ。それらの事柄の中に彼女にとって未知のものもあれば役に立てるのだが。
「樹海の秘密書庫だ。どうやら君も、僕が谷底に落ちてから再びノンドバドに現れるまでの数ヶ月の空白期間については調べが付いていないみたいだね」
「秘密書庫…秘密書庫!?なんですの、それは!ノンド聖域にそんな場所があるとおっしゃるんですの?貴方はずっとそこに?どこそれ!どこ!」
「それはノンド要塞の…、うん…?聖域…?君こそ今ノンド聖域といったかい。その呼び名は一体どこで知ったんだ」
「あっ、しまった!」
「………」
「………」
そして、示し合わせたかのようなタイミングで、主人の奥方と思しき老婆が茶を二杯運んできた。
「これはご丁寧に…」
「ごゆっくり…」
取っ手の無い湯呑みを両手で持ち、私たちは湯気の立つ茶を啜った。
一息吐いて、ジッフェが答えた。
「…あたくしは貴方がたの身の安全について協力すると申し上げましたが、持っている情報を何もかも包み隠さずお話しするとは申しておりませんわよ。ただ、貴方のほうはすべてをお話し下さるべきかと思いますわね。それが交換条件でなくって?」
「気になったから突っ込んだだけで、最初から無理強いするつもりはないよ。大体君は立場上、僕なんかの知らないことをいくらでも知ってるはずだからね」
「うん?お待ちなさいな!どうして貴方こそ聖域という言葉に反応したんですの?」
私は勿体ぶることをやめて淡々と回答する。
「秘密書庫を探索している時に、カナベロと名乗る不思議な男に出会ったんだ。その男は僕に三つの聖域を巡るように要求し、ノンド要塞のあの巨大な遺物がその内の一つだと言った」
「遺物?見慣れない金属で出来た箱のような物ですか?それがそんなに巨大なんですの?」
「金属製の機械もあったけれど、光を放つ巨大な水晶の方が重要だったと思うし、それ自体を聖域と呼んでいたような感じだったな」
「光を放つ巨大な水晶!?」
ジッフェは口に含んだ茶を噴出しかけたようで、口を押さえていた。
さっきからいちいちよく驚くな。情報が未知のものだったようで何よりだ。
「そうですわ!山賊団が発掘したモノというのはそれだったんですのね!やっぱり聖域の再調査の方を優先するべきでしたわぁー!」
どうやらジッフェやその同志達は誰も実際に発掘後のノンド要塞を訪れたことはないらしい。誰か一人でも訪れていれば必ずあれを発見するはずだし、あの奇妙な物体についての情報を共有しないはずもないだろう。ただ、『再調査』という言葉を使ったと言うことは、恐らくは山賊団が発掘を開始するよりも以前の段階で一度調査したことはあるのだろう。ノラッドの言葉が正しければジッフェたち密偵はテリリドニジグに関係する事柄のために動いている。聖域というキーワードによってテリリドニジグと繋がっているノンドもまた彼女らにとって重要な存在のようだ。
「行くのならくれぐれも戦いに熟達した人を複数連れて行くことだね。山賊団の首魁があそこに大量の虫人間を置き土産にしていったから」
「虫人間を置き土産!?人為的にそこに集めたってことですの?一体どうやって…ああっ、もう、どうやら聞くべきことは山積みのようですわね!もういい時間ですわ!無事に部屋も取れたようですし、食事しながらお話し致しませんこと?」
私の話す内容をすべて素早く理解し、そしてそれにいちいち大げさに表情を変えて驚く彼女と会話をするのは、正直言って楽しかった。私は食事の誘いに同意し、店主夫人の案内で一旦二階の部屋へと通された。荷物を下ろし、窓際で涼みながら今後の身の振り方を思案している内にもうすぐ食事の支度が整ったらしく、階下の夫人から呼び声がかかった。戸を開けると、別に食堂で待ってればいいものを、腰に手を当てたジッフェが私を待ち構えていたので、些か面食らった。
食堂には相変わらず私たち以外に客はいなかった。既に配膳された食卓に着いた私は、ジッフェの食前の祈りが終わるのを確認してから料理に手を付けた。
「貴方はお祈りなさいませんの?不心得極まりますわね!さあ、時間はたっぷりありますわ。何から何まで、一から全てお話頂きますわよ」
「…今から約十六年…テンベナ近海に浮かぶテリモロ島にて生まれた男児がヌビクと名づけられた…」
何から何まで一から全てと言われたので、突っ込み待ちでそう切り出したのだが、何故か彼女が止めようとしなかったので私は赤面しながら延々自らの生い立ちを語る羽目になった。私の陰鬱な幼年時代については生涯誰にも話すつもりはなかったのだが、彼女の巧みな相槌に誘導されてしまい、私は一層強く赤面しながら、それを今朝出会ったばかりの相手に対して打ち明けることとなった。
そして私が日々家族から疎まれ、迫害を受けていたことを話した時、彼女はついに涙までも流して私に同情した。これも密偵の会話術の一つなのかもしれない。そんなことに思い至らないほど私は人が良くないが、それでもこのことをきっかけに私はすっかり感動してしまって、まるで数十年来の親友同士のように、まさに何から何まで一から全てを打ち明ける結果となってしまった。
誰にももはや二度と話すつもりがなかったことはまだまだある。テリモロ島の住民すべてが突如虫化したこと。巨大水晶の中にいた人面虫が神と呼ばれていたこと。ゼームに嫉妬していたこと。その理由が彼が女にモテていたからということ。これは話したら流石にまずいだろう…あるいは話せば正気を疑われるだろう…などと言う歯止めは一切かからなかった。全てを話した。食事を平らげて、夜が更けても、菓子と茶を片手に私はひたすらぺちゃくちゃと、ほとんど一生分の言葉をまとめて使い切った。
その晩はなんとかまだ外が暗い内に部屋に戻ることが出来た。
私はベッドの上で一人頭を抱えた。
なんて女だ。こいつは危険すぎる。どうか、どうかせめてあの涙だけでも演技ではありませんように。




