9. 密偵
しかし楽しい時間というものはいつだって短い。完全な有頂天の状態で普段以上に思慮を著しく欠いていた私は、必ず昼を回ってはいけない、というゼームの忠告を完全に忘れ去っていた。そもそも私がここに到着した時点で既に昼食時だったのだ。元々優雅に食事を楽しむ時間など無かった。
「誰か来た」
私のおしゃべりを遮るメセのそのだしぬけの一言で、私は笑顔のまま凍りついた。
「誰」
咄嗟に席を立ち上がった。
「ニャキのはずだ。だが、妙に早い。誰かを伴っているようだ」
「まずい。隠れないと」
私と対照的に、落ち着いて着席したままのメセはゆっくりと視線を玄関扉から私へと移す。
「何故」
「何故ってそりゃあ…、うん…そういえばなんでだろう…。でもとにかく僕がここにいるとまずい気がするんだ。多分この勘は正しいよ」
「じゃあ地下室にでも入ってろ」
私が地下室の入り口まで引き下がる時には、既に私も外に人の気配を察知していた。話し声が聞こえたのだ。外にいる者同士での会話だったそれはすぐに室内への呼びかけに変わった。
「メセ。戸の閂を上げてください」
ニャキの声だ。
「下げていない」
「はぁ…また言いつけを守っていないのですね。では、そのまま地下室へ下がりなさい。同行している方に貴女の姿を見られると都合が悪いので」
不幸中の幸い程度ではあるが、私にとっては都合の良い状況だった。しかしメセを見られたくないと言う割りには、メセの存在そのものについては同行しているであろう人物に対して明け透けだ。容貌を確認されるのがまずいということなのだろうか。
地下室は上階よりは暗いものの、完全な真っ暗闇でもなかったので、私とメセは明かりを灯さずとも互いの顔を確認できた。玄関が坂の上に存在する家にはよくある造りで、地下室でも坂の下の地上に向かう窓があるのだ。私はいざという時のための脱出路を確認した安心からいくらか落ち着きを取り戻した。室内にはオーリスの仕事道具であろう大掛かりな醸造設備がそのまま置き去りにされていたが、室内は清潔さを保っており、カビなどによる悪臭も、ネズミや害虫の痕跡も無い。オーリスの性格上元々室内の掃除や整頓も行き届いていたと思われるが、この家が無人だった期間は短いようだ。
私たちは上階での会話の内容を聞き取れるように地下室の扉を半開きにし、それぞれ階段の中腹に腰掛けた。
「残念だな。リドニッツのお嬢さんに一度御目に掛かりたかったのだが」
リドニッツ…一部の立場の人間にしか知り得ないであろう単語が早々に飛び出した。そしてこの威圧感のある低い声にはよく覚えがある。隠れなければならないと直感したのは正しかったようだ。
「気になるでしょうね、ノラッドさん。貴方が帝国騎士団に在籍していた頃にはまだ実用化されていなかったはずですから」
ノラッド=ランロー。私がかつて所属していたテンベナ義兵団ノラッド小隊の隊長であり、ニャキに依頼されオーリスら姉妹やハステの監視をしている男だ。そして今知ったが、どうやら元騎士団員でもあるらしい。
「テリリドニジグでは料理も教えるようになったのか?」
「…なんだこれは?メセ、何故二人分も食事が出されているんです」
私は背筋が凍りついたが、隣にいたメセが声を上げた。
「おまえの分だ」
「既に上がった後のように見えますが」
「急にひどく腹が減った」
少しの沈黙の後、椅子を引いて食卓に着く音が聞こえた。
「料理に加えて、ユーモアも教えるらしいな」
「あの通り、少し変わった子です。騎士団と言えば、副隊長のリデオ=ドロウィク氏もかつて団で貴方に近い立場だったはずですが、どうやらリドニッツの存在をご存じなかった様子でしたね。どの程度の範囲に情報が共有されているものなのですか?」
「今は知らんが、当時は騎士団内でもごく上層の者にしか知らされていなかったはずだ。俺はたまたまだ。下っ端だったが、たまたまランロー家の人間だったから階級は関係なかった。しかし、俺に訊ねるような事か?君のほうが詳しいかと思っていたが」
「遺憾ながら、私の所属する研究グループと騎士団ではそれぞれ指揮系統が独立していて互いの連携に齟齬があるんですよ。父がテリリドニジグ所長と騎士団長を兼任していた頃は当然完全に連携していたはずなんですけれどね。現在の騎士団長は貴方の大好きなフィノケリ卿ですよ。ハステさんのお父上です。何故私の旅に特に必要でもない騎士団員が、しかもフィノケリ卿の実のご子女が護衛として就けられたのか、お察し頂けますか?」
「騎士団は…フィノケリ卿はテリリドニジグやエズチカ将軍を警戒しているのか…?かつて蜜月関係にあったと言うのに、時の流れは残酷だな」
「しかし今回のハステさんの離反については、フィノケリ卿の指示ではなく彼女自身の判断と見ています。彼女の人となりはよく調査しましたが、私を欺くために道化の仮面を被っているなどということは決して無いと結論付けました。彼女についてはあれが素面ですよ。お父上とは違ってね…」
「その通りだ。真に恐ろしいのはハスタリメノ自身ではなく、彼女の背後、フィノケリ家だ。フィノケリ卿は私的に多数の隠密を抱え、帝国中に網を張り巡らせている御方だ。監視任務をしている俺たちも気付かぬ内に監視されていた可能性があることが最近判明した」
「それは困りますね。しっかりして下さいよ。間者の目星は付いているのですか?」
「リデオから報告があった。…ヌビク=リフュルシュという名に覚えはあるか?」
私は再び階段から転げ落ちかけた。
「…最初はいちいち記憶するに値しない方だろうと考えていましたが、今となってはよく覚えていますよ。まさか彼がそうだったとおっしゃるのですか?まだかなり若い、少年のようでしたが」
メセが私の顔をじっと見ていた。私は無言でぶんぶんと首を振った。
しかし身を隠して本当に正解だった。知らぬ間に私ごときの想像力をとうに超える程度にひどい状況に発展していた。
「俺がフィノケリ家に出入りしていた頃にはもっと若い者も居たが、当然隠密としての実力は一流だった。それも対象を欺くための要素の一つなんだろう。実際俺たちも奴がフィノケリ家の差し金だったなどとはまったく思いもしないことだった。何しろ樹海の山賊征伐任務が決定するより前に入団してきたのだからな」
思いもしないのは当たり前である。思い違い以外の何物でもないのだから。
「そうおっしゃるからには、彼の素性については調査したんでしょうね?」
「リデオの報告を受けてからすぐに改めて彼に関する情報を洗った。入団の際に提出した書類には苗字は書かれていない。いつ頃からリフュルシュと名乗り出したのかは不明だし、リフュルシュという苗字は帝国はおろか外国でも例が確認できなかった。由来は不明だが恐らく一時を凌ぐだけの使い捨ての偽名だろうな」
由来ならセリトに聞いてほしい。私だって知らない。彼がその場の思いつきで勝手に命名したのを成り行きで名乗るようになっただけなのだから。
「入団時の能力審査には俺も立ち会ったが、確かに奇妙に矛盾する点があった。学校は一切出ていないとの申告にも関わらず、読み書きは完全にこなしていた。特に書き文字については素晴らしく美麗である。と、他の隊長の追記がある。これで商売が出来るくらいだとも書いてあるな」
まったく自覚が無かった。食うに困ったらその道で生きることにしよう。
「また、馬術も不自然に卓越している。故郷での職業は牧童で、戦闘経験はまったく無いとの申告だったにも関わらず、両手に武器を持ったままで馬を完全に操ることが出来た。おそらく乗馬の能力を隠し続けることが自らの任務でなんらかの不利益を生むと判断して、意図的に隠さずにおいたのだろう」
牧畜を軽視しているな。いくつかの仕事については馬上、あるいはロバで行なっていたのだ。生業にしていたのだから当然それに関する能力は身についている。
「となると、隠していただけでいくらかの戦闘能力も持ち合わせていた可能性があるわけですか?」
「そのはずだ。リデオの指揮下で班行動していた際、多数の虫人間に襲撃されたそうだが、何度か奴らの攻撃をかわしながら一体も討伐せず、しかも無傷でこれを凌いだとのことだ。奴の言が真実ならそれがほぼ初戦闘だったはずだが、まるでそうは見えない判断力だったそうだよ。その後メメトー人のリドニッツに襲撃された際にも不自然に生還している」
「それと似た状況は私にも覚えがありますよ。この額の傷を御覧なさい。彼が虫の攻撃を回避したためにたまたま近くに居た私がこれを負う羽目になったというわけです。あの至近距離で虫の瞬発力に対応するのは並みの人では不可能ですので、回避は偶然だと思っていましたけれどね…」
この状況でニャキの姿を見ることは出来ないが、あの時額に負った傷は痕となって残ったらしい。
「決定的なのはその後だ。あんたの目の前で崖下に落下したそうだな。一旦はあんたのメセが救出したようだが、すぐに爆発に巻き込まれて再び落下した。爆発はメセすら致命傷を負う程の大規模なものだったにも関わらず、ひと月以上の後に奴が再び要塞に現れたのをリデオが確かに目撃したらしい。五体満足だったそうだよ」
「…なんですって?生きているのですか?まさか!」
「言った通りさ。そのまさかだ。死んだということにしておいたほうが後々何かと動き易いにも拘わらず、何故奴がわざわざリデオの前に姿を現したのかは定かではないが、恐らく警告だったのだろう。奴はその気になればリデオたちを生き埋めにすることも出来たが、それはしなかった。何故か?これ以上ハスタリメノに関わるな、もしも警告を無視するのであれば、次は容赦はしない…。そう伝えたに他ならない」
好き勝手に無茶苦茶妄想言いやがって。全部聞いてるぞ。ふざけるな。
「実を言うと、彼には日誌を盗まれています。それに気が付いた時には既に彼は崖の底でしたし、文字が読めるほどの上等な人間だとも思っていなかったので情報が漏れた可能性については今の今まで考えていなかったのですが…、これはさすがに私が甘かったようですね」
「内容の暗号化はしていたのか?」
「はぁ?もちろんしていましたよ。ただ、テリリドニジグ所員共有の暗号法を使っていましたので…通常であれば解読は非常に困難なものなのですが、よりによって相手がテリリドニジグの情報に通じているフィノケリ卿の手の者であるというのは非常にまずいことです」
「情報提供に感謝する。これで奴がフィノケリ卿の密偵であることは裏が取れたようだな。フィノケリ卿はテリリドニジグで行なわれている非人道行為を許せないのだろう。だが恩師であり、共に過酷な戦場を生き抜いた仲でもあるエズチカ将軍を失脚させることは望んでいない。だから得意の隠密を使ってあんたの行動を抑制することで、将軍の勢力に対して圧力をかけているんだ」
「ふーむ、困りましたね。私もハステさんや彼女のお父上とは仲良くしたいのですが…。ヌビクさんを始末してしまうと宣戦布告になりかねませんが、放置するわけにもいきません」
「俺たち民間の傭兵にうってつけの任務ってわけだな。こっちはこっちで奴を始末する動機はある。あんたとの関わりは一切他言しないことを約束する」
「大事を取って貴方がたとは人目に付くところではお会いしないようにしていましたが、正解でしたね。配下の方々にも徹底して通達をお願いします」
まさに今この会話を最も聞かれるべきではない相手が直接その耳で聞いてるなどとは想像もしていないようだ。これじゃまるで本当に隠密じゃないか。
相変わらず真顔のまま、メセが私の顔をじっと見ていた。友好的であるため忘れがちだが、彼女はニャキに対して完全に従順な存在だ。命令を受けずに今すぐ私を殺すようなことはないだろうが、下手をすると私の存在を上階のニャキやノラッドに伝えるだろう。
私は階段を下まで降り、メセを手招きして呼び寄せた。
「違うんだ」
とりあえず真っ先にそう耳打ちした。他に言葉は出てこない。何しろそれだけがたった一つの真実だからだ。
「俺に判断をする権利は与えられていない」
彼女は私の目を見ることをやめ、普段の伏し目がちな様子に戻ってそう囁いた。言葉だけを受け取るならその真意を判断することは出来ない。だが、敵対する意思があるのならそもそもまともに返事はしないはずだ。
「そこの窓から脱出しようと思う。君はどうする?」
「テンベナ市の第二商業区一丁目のツツジ通りに一軒の酒場がある。ハステはそこだ」
どうする、という問いかけに対する返事はなく、彼女はその情報だけを私に告げた。私が密偵であればハステの居場所など当然把握しているはずなのだが、彼女は先ほどの食事中の私の話のほうを信用してくれたのだ。…と言うか、そもそも私の与太話をちゃんと聞いててくれてたんだな…。かつてないほどの感謝の念が私の心の奥底から湧き上がってきたが、――非常に不甲斐ないことに――またしてもお礼の言葉を口にすることを忘れていることに気が付いたのは既に窓から体を半分乗り出した時点だった。私は振り向き、メセの顔を見た。やはり無表情のままじっとこちらを見つめ、両手を下ろして直立している。この距離で聞こえるほどの声を出せば上階にも聞こえかねない。私は声無く口だけをありがとうと動かすことしか出来なかった。
幸いなことにノラッドは馬を玄関先に付けていた。厩舎の中は見られていないだろう。私は身を低くしながら建物の裏を回り、首尾よく馬を回収して走り出すことが出来た。
ノラッド=ランローお墨付きの馬術で、私は北に向けて出発した。
ノンドバド村とテンベナ市は峠によって隔てられている。小隊の行軍では三日を費やした道程だ。さすがのゼームの馬でも途中の村で一泊せざるを得なかった。譲り受けた品の一つである背嚢は展開することである程度の防寒性と撥水性を持つマントにもなるのでその気になれば野宿も出来るが、それはあくまで非常手段だ。旅人用の安宿を借りたほうが賢明だろう。
夕暮れ前にはなんとかたどり着いた。テンベナ側から来た時にも一度通過した峠の宿駅だ。方向が違うため私の旅では無縁だが、しばらく行った先には温泉地もあるので、ノンドバドと行き来する旅人よりもそちらへの客のためにいくらか人通りがあり、簡素ではあるが宿や商店も複数見られる。
行きの行程では町外れの広場に軍のテントでの野営だったし、さらに遡ってテンベナでしばらく浮浪児生活をした時代はずっと野宿だったということもあり、自ら宿を手配するのは初めての経験だった。やや緊張したが、最初に入った宿に部屋の余裕があったため、すぐに決めることが出来た。
「晩と朝の飯つきで銀貨二枚だ。厩舎は別料金で後払いだからちゃんと引換証を貰ってきな」
面倒くさそうに宿帳を記入しながらぶっきらぼうにそう言った髭面の店主に、私は銀貨を支払った。当然これもゼームからの餞別の一部である。私は森を出る時に生まれて十六年で初めて金銭というものを所有し、またこの時初めてそれを使用したのだった。この時点では特に何事もなかった。昼食と比べてひどく質素な夕食を平らげた後、早々に眠りに就いたのだが、問題が起こったのは翌朝の出発時だった。
昨日の昼食と比べてひどく質素な朝食を平らげた後、私は引換証を持って厩舎を訪れた。厩舎の入り口でやはり馬を伴った旅人らしい金髪の若い女とすれ違った。彼女はそれなりに人を惹きつける程度の容姿の持ち主ではあったが、私は下心などではなく、直感的に妙にその女が気にかかり、すれ違った後も立ち止まり、振り向いてその姿を目で追った。
「ごきげんよう」
おもむろに、女は自分が見られていることはお見通しとばかりに振り向き、首を傾げ微笑んだ。
金髪は北国出身の人間によく見られる身体的特徴だが、彼女の肌の色については温暖なこの付近の出身の者よりも心持ちやや濃く、むしろ南国出身者に近く見えた。しかし金髪は根元から同じ色で、長い睫毛も同様の色をしていることから地毛であることが察せられる。細く高い鼻や薄い唇についても帝国北部の人間に近く、三白眼気味の大きなブラウンの目や全体的に凹凸の少ない輪郭については外国人のそれと、髪や肌以外の特徴も東西南北入り混じっている。帝国人のみならず外国人としてもやや不思議な姿だ。複雑な混血人種なのかもしれない。
「どうも…」
旅の初心者である私は、旅人同士というのはすれ違いに声を掛け合う習慣でもあるのだろうか、などと考えつつ短い挨拶と会釈を返した。あまりじろじろ見るのも失礼だろうと思い至り、敢えて急いで前方に向き直り、厩舎の中へ踏み入った。
「あんたか。一泊で料金は二十枚だよ」
恐らく親子なのだろう、主人と同様にやたらとぶっきらぼうな若い厩舎番は、そう言いながら私の馬を連れて来るため奥へと引き下がった。
「二十枚ってのは銅貨でいいのかい」
「当たり前だろ?銀貨で支払ってくれるって言うのか?」
私は財布を取り出して、中身を確認する。馬を連れてきてもまだ私が代金を準備して居ないことに苛立った様子で、厩舎番は舌打ちをした。
「一つ聞きたいんだが、」
私は彼が近くへ寄るのを待ってから、質問した。
「これ、どっちが銅貨だい」
男は信じられない馬鹿を見るような目つきで私の顔をじっと見た後、私の両手それぞれに乗せられている二種類の硬貨に視線を落とした。どちらかが銅貨で、そうでないほうは金貨である。
上述したように、私はこれまで金銭というものをろくに利用したことがない。当然ゼームから銅貨と金貨の見分け方くらいは教わったのだが、私の目にはどちらも似たような黄色にしか見えなかったのですっかり忘れてしまっていた。
「…こっちだよ。こっちが銅貨だ。そいつを二十枚だ…」
彼は赤みの薄い明るい黄色のほうを指してそう告げた。都合の良いことに、私は銅貨を丁度二十枚だけ持っていたので、手の上のそれをすべて渡した後、皮袋の中身をすべてじゃらじゃらと彼の両手の上に零した。
「まいどあり」
私は引換証を返して、厩舎を後にした。この調子で進めば今晩はテンベナで宿を取れるか、などと思いつつ大きく伸びをしてから鞍に跨ると、まだ数歩も進まない内から背後で呼び声がした。振り向くと、店主と厩舎番が二人してこちらへと駆け寄り、どう見ても私に対して呼びかけている。私が馬から降りた時には既に二人は間近まで来ていた。
「何か忘れたかな」
やたらと興奮した様子の店主がまるで追い立てられるように大急ぎで口を開く。
「宿代の計算を間違えてた。追加で支払ってくれ」
私はその時点でようやく不穏な雰囲気に気が付いた。
「…ぴったり銀貨二枚なのを間違えることがあるんです?」
「正しくは銀二枚と、銅九十九枚だ。さあ、支払ってくれ!」
そして私はついにはっきりと自分が何の過ちを犯したかを理解した。
デウィーバ銀貨は銅貨百枚、そして金貨一枚は銀貨百枚に相当する。
私は赤みがかったくすんだ黄色の硬貨を一枚取り出す。
「わかりました。金貨で支払うので、お釣り貰えますか。銅貨九千九百一枚」
「ふざけるな!銅貨だ!銅貨で支払うんだ」
私は詐欺を働かれたこと自体よりも、このとんでもなく雑な文句で私が再び騙されるほどに頭の悪い人間と見られていたことに対して猛烈に腹が立ってきた。
「黙れバカ!おい、この腐れ馬丁!よくも騙したな。返せよ、泥棒!僕の金貨!二十枚!」
「なんだと、あの金貨は一度俺たちに支払っ…金貨だと!金貨など知らん!」
騒ぎを聞きつけて、あるいは金貨二十枚という言葉に釣られてか、徐々に周囲に人だかりが出来てきた。私が大勢の人間に注目されることが大の苦手なのは以前に書いた通りで、その病気が治癒することはずっとないのだが、どうやら怒りに我を忘れている間だけはそれが気にならなくなるとこの時初めて気が付いた。
「ちっ、ちくしょう、泥棒!泥棒!泥棒!おいっ、まだ持ってるんだろ!そうだ、金貨を二十枚も置いて店の外に出るわけないし、こんな短時間で金庫にしまえるはずもない。持ってるんだろ!ジャンプしてみろよ!」
「もういい、追加料金なんか要らん!とっととこの町から消えちまえ!」
「待てよ、金を返さずに行くつもりか」
私が牙を剥き、衆目が集まったことで失敗を悟ったのだろう。二人は宿へと引っ込もうとしたが、私は回り込んで阻止した。
私が金銭の価値というものをほとんど理解していないことは事実ではあるが、金貨が銅貨の一万倍の価値であることと、一万倍という数字の大きさそのものについては理解しているつもりだ。ここで諦めて引き下がる訳には行かなかった。
なんとかして奴らに返金させなければ。脅しでもなんでもいい。
「おまえら、こんなことをして無事に済むと思うなよ!僕の…私の父親が何者なのか、貴様らどうやら気が付いていないらしいな!」
彼らは私のことを世間知らずの金持ちのボンボンと思っているに違いない。それを利用してみよう。
私は胸を張って顎を反らし、私よりも背の高い彼らをまるで見下ろすようにして睨み付けた。
「おい、貴様らのような田舎者でも、ベルナ=リベイマの名くらいは当然知っているんだろうな?私はリベイマ家の次男、ヌビク=リベイマだ!親父に言いつければこんなしょぼい宿など、すぐ明日にでも更地だぞ!さあ、二人仲良くテンベナ港に沈みたくなければ今すぐ両手と額を地に着けてみろ!」
そこまで言い切ると、群集さえも一斉に静まり返り、秋の風の音だけが通り過ぎた。私は冷や汗のみならず震えまで出始めるほどに自らの発言を後悔した。唐突に設定をまくし立て過ぎたし、あまりにもリベイマ家の人間になりきり過ぎた。とんでもなく芝居くさい。
しかしそれでもそれを猿芝居と一蹴できるほどリベイマの名は軽くないらしく、徐々に沸き起こり始めたどよめきには大根役者に対する嘲笑よりも、不安や動揺の気持ちが強いようだった。
「リベイマの一族って全員金髪じゃなかったか?」
馬丁が店主に向けてそう囁いた。
「いや待て、隔世遺伝かもしれんぞ」
「女子は複数居たと思うが、息子は長男のセリトだけじゃなかったか?」
「ああ、確かにそのはずだ。だからこそ跡取り問題が町の噂になってた」
そして思った以上にリベイマ家について詳しかった。
私は駄目元で声を上げてみる。
「なによ!女に見えなくて悪かったわね!」
「おまえさっき自分で次男って言ってたろ」
周囲にどっと笑い声が起こった。
なんだこりゃ…。最悪。
「何がリベイマだ。おまえのような小僧が金貨なんか持ってるわけねえだろ。とんだ因縁つけやがって。袋叩きになる前に失せな!」
どうやら下手な芝居などをしたせいで群集の同情までも失ってしまったようだった。へたりこんだ私の元に馬が歩いてきて、頭上でぶるると鼻を鳴らして私を慰めた。
「ああ、ありがとう。クソッ…高い授業料だったな。じゃあ…行こうか…」
私は再び馬に跨った。群衆の中には野次などを飛ばす者も少なからず居たので、急ぎ足で町を抜け、森の街道に入った。やっぱり森が落ち着く。町なんかクソ食らえだ。
食料を買って出る余裕もなかったので、昼食には最初から携帯していた干し肉を齧るしかなかった。旅立って最初の食事を絶頂にしてあまりにも急激に貧相になりすぎる。そうだよ、ホルズ。おまえの言ったとおりだ。とんでもない予言を残してくれたな。
決して満腹になったはずなどはないが、食後に水筒の水を一口飲んで木陰に腰掛けている内に私はうたた寝してしまっていた。日陰で休むには丁度いい季節でもある。以前この道を通った時とは大違いだ。
木々のざわめきを子守唄にして少し経った頃、馴染みのない石鹸のような不思議な柔らかい匂いが鼻をくすぐっていることに気が付いた。ゆっくりと目を開け、傍らを見るとそこに女が一人座っていた。今朝方すれ違った異国風の女だった。
「あら、お目覚めですの?お隣、お邪魔しております」
さすがに多少は驚かされたものの、やはり直感的に危険な人物のようには思えなかったため、私はそのまま身じろぎせず、じっと彼女の銅貨色の瞳を見つめた。
「今朝からずっと後を追って参りましたの。お声掛けしようかとも思ったのですが、お眠りになられてしまったので…。それにしても、繋ぎもしていないのによく逃げませんでしたわね」
彼女はちらりとゼームの馬を見た。
「別に彼は逃げたっていいんだ。それより、君は?」
私は同年代の者に対してするような言葉遣いでそう問いかけた。不思議な風貌の彼女の年齢を予想することは難しいが、間近で見ると私とさほど違いはないのではと思えるほどの幼さも含んでいるのを見つけることができたのだ。少なくともまだ二十歳手前だろう。
「名乗るほどの者ではございませんわ。それにしても今朝は災難でしたわね。これ、取り返しておきましたので、お渡し致します」
「取り返したってまさか…」
彼女が差し出した皮袋の中を確認すると、金貨がきっちり二十枚入っていた。一枚を指でつまんで、陽にかざしてみる。赤みの無い明るい黄色だった。
「う、うわぁ!そのまさか!あ、ありがとう!まさか戻ってくるなんて。ありがとう!」
私は手元の皮袋と彼女の顔を何度も交互に見ながらまるで一心不乱に礼を口にした。
「わぁ、意外と素直にお喜びになるんですのね」
「一体どうやったの?」
「そんなことはお気になさらず」
彼女はにこにこと微笑みながら私がはしゃぐ様子を見つめていた。そうだな。深く考えないことにしよう。
彼女は微笑を崩さず言葉を続ける。
「確かに今朝のトラブルは平静を失っても仕方ない出来事でしたけれど、今後はもうあのような衆目を集める行動はお控えくださいまし。貴方の旅は今後、これまでよりもずっと慎重さを、そして人を見る目が要求されるものとなります。今日のように都合よくたまたま助けてくれる者が居合わせるなどとはよもや考えないように」
「肝に銘じるよ。我ながら本当になんであんなにおかしなことをしたんだろうね?しかし、君は一体…?」
「名乗るほどの者ではございませんわ」
彼女は先ほどの言葉を繰り返し、立ち上がった。
「さあ、ヌビクさん、またお会いしましょう。テンベナまでの旅、道中これ以上何事も起きないことをお祈り致します」
女はうやうやしくお辞儀をすると、ごきげんよう、と言い残して自らの馬に乗って去っていった。
彼女の後姿を見送った後、私も立ち上がり、金貨の入った袋をしっかりと体に巻きつけて気持ちを引き締めた。
ん?そういえば何故彼女は私の名前を知っていたんだろう。宿帳でも見たのだろうか。
あ、そういやさっき自分で大声で名乗ったな。なるほど。




