8. 旅立ちと再会
ホルズとの短い再会から一週間の後、私の旅立ちの日がやってきた。一週間という期間は何かしらの明確な理由があってゼームが設定したものだったが、彼は例のごとく私に謎をかけるばかりで、それについては仄めかす程度に留めていた。
「君はノンドバドでまず会うべき人がいる。必ず昼を回るよりも前に、エジヤ姉妹の家を訪ねてくれ」
エジヤ姉妹、即ちオーリスとアイリスは既に家を引き払って村を後にしたはずだ。現在は別の誰かがそこに住んでいるのか、あるいは空き家となった家に一時的に姉妹が帰って来るのがその日なのか、いくつかの可能性を考えてみたが、どうもはっきりとしない。
「恐らく、君にとっては嬉しい相手だろう。この情報は餞別代りとして十分に価値があるものだと確信してるよ」
そう言った彼の微笑みは無垢なように見えた。それが信用に値する何よりの材料だろう。そもそも彼自身がそれ以上話そうとしない以上、私に追及する意思は無い。この旅立ちはほとんど何から何まで彼のお膳立てのおかげで成り立っているのだ。情報が餞別代りなどと言ったが、実際に餞別として受け取った品はいくつもある。
「思ったとおりだ、よく似合うね!なんだか歴戦の風格すら漂って見える」
「そんなに大げさに言うってことは全然似合ってないんだろうな。ともあれ、ありがとう。印象深いこの品を僕が身に付ける日が来るとはね」
これはそのいくつかの餞別のうちの一つ。私はゼームから譲り受けた幅広の長剣を背負うようにして肩に提げた。かつてゼームが山賊の砦で大立ち回りをした際に振るったあの剣だ。その日以降も何度か彼が手にしている姿を見ている。この剣に強い印象を持っているのは私だけではないだろう。むしろゼーム自身が愛着を持っているべきだ。
「不慣れな間は少し重いかもしれないが、君に使って欲しいんだ。その柄と刃に染み付いた私の経験が君を守ってくれそうな気がするからね」
実際、片手で軽々と振り回していたゼームとは違って、私の筋力では両手を使って精一杯だ。
「なるべく実戦で使う機会が無いことを祈るけど、訓練については君が教えてくれた通りに頑張ってみるよ」
この一週間、私は旅支度の一環として自らゼームに剣の訓練を願い出た。彼は私の突然の願い出を快諾し、そしてさほど驚きもしなかった。私自身、戦う能力の必要性については前々から感じていたことだ。これまで起こった出来事を互いに反芻する日々の中で、ゼームは私のそんな心の動きをむしろ私よりも正確に認識していたのかもしれない。
「うーん…私のやり方のほうが、ホルズから教わったアレよりは良いだろうね。少なくとも、土台が出来るまでの間はね…。技を身に付けるためには土台となる基礎訓練が必要で、その基礎訓練を効率的に行なうために理論をまず知っておく必要がある。ホルズみたいな天才肌は理論の段階を飛ばして本能的に効率的な訓練が出来てしまうから、教える側に回るのは難しいんだろうな」
私がいくら剣に詳しくないとは言え、一週間で身に付く範囲に限度があることは分かっていた。ゼームはそんな私の限られた時間を、より長い時間をかけて訓練する方法を教えることにつぎ込んだのだった。
「まあ、ホルズのアレは…上級者向けだよな。君も天才肌のように見えるが、教師としても優秀なんだな。ホルズよりもハステさんよりもはるかにしっくり来る」
「ハスタリメノさんの講義については一度拝聴したいものだね」
起床した時点では窓の外はほぼ真っ暗闇だったが、靴紐を結び終えた時点では玄関扉越しに小鳥の囀りが聞こえていた。そして私たちは二人揃って、奇妙に大き過ぎる両開きの玄関扉を押した。この蝶番の音を聴くのもこれで最後だ。この謎めいた樹海の賢者の館を訪れることはこの先、二度と無いだろう。おそらくは。
朝靄の向こう、木々の頭上に白む空が見えた。
「昼までに村へ行けと言ったね?無理じゃない?」
途中で敵に殺されかけ、その後思い切り遭難したとはいえ、行きは森の中で丸三日も費やした。たとえゼームの導きがあっても流石にその日の午前中だけで踏破できる道のりとは思えなかった。
「村の広場で初めて会った時の私の言葉を覚えているかい。その朝、日が昇ってから家を出たと言っただろう」
「今日はこの足手まといが一緒だよ」
「実を言うと、あれは私の能力じゃないんだ」
そう言って彼は厩舎から馬を連れて来た。
「あれ?馬?よくこんな険しい樹海の奥まで連れて来れたね。てっきり村の厩舎に預けているのかと」
数ヶ月この屋敷で暮らしていながら、私はこの時点まで屋敷の傍らに馬が存在しているということにまったく気がつかなかった。厩舎がいくらか離れた場所に位置していたとはいえ、私は生活の中で彼の匂いや音、鳴き声を一切認識することがなかった。
「私が彼を連れてくるのじゃない。まったくその逆さ。特別な馬なんだ。外への道はすべて彼が知っている」
馬はいくらか見たが、そんなに賢い馬がいるだなんて思いもしなかった。この森は、何から何まで不思議なものばかりだ。
これも君への餞別と言いたいところだけど、と、前置きして、ゼームは馬の老齢を理由に都への長旅に耐えないとし、既に引き取り手として話が付いているらしいテンベナの商家の住所を私に手渡した。
「つまり峠の向こうのテンベナ市までの足としては使わせてくれるってことかい。何から何まで恩に着るよ」
「いいや、本当は私自身が付いていきたいところなんだけれど、すまない、今は出来ないんだ。ここでお別れだ」
私は馬の背を撫でていたが、その言葉で振り返った。
「君とは必ずまた会えるだろうな」
別れの挨拶の定番として曖昧な再会の予感を仄めかすといった類のものではない。私の言葉は心底からの確信に基づいていた。この森でこれまで起きた出来事を振り返れば、彼が『聖域』を巡る旅に関わるつもりが無いとは思えない。私と道中を共にする意思を持たない理由についての確証は無いが、かつてカナベロが告げた言葉の中に引っかかるものがあった。――聖域への旅は競争なのだ――。そして私はそれを成し遂げんとする候補者の最初の一人ではない。では、その最初の一人とは――。
「そうだね。また会おう、必ず」
互いに向き合った私たちは、互いに一歩を踏み出し、我先にと言わんばかりに互いに右手を差し出し、握手を求めた。彼の右手を掴んだ私の右手に、さらに彼の左手が乗った。
「私は君の友達になれたかい」
そう言った彼の瞳の奥を覗き込むようにして、言葉の真意を窺っている自分に気付いた。少なくとも今だけはこんな邪悪なことはやめるべきなのだろう。私は誠意の表現として、目を逸らした。
「君はいつも僕を助けてくれたのに、ぶっきらぼうに接してしまって悪かったと思ってるよ。正直に打ち明けると、僕は君に嫉妬してたんだ。君は能力もあるし、見た目も良いし、何より女の子にモテてたからね…。一方的に対抗意識を燃やして、わざと友情を抱かないようにしてたんだ。でも、それも終わりだよ。どうか友達と呼ばせてくれ」
「ああ、ヌビク!良かった、ありがとう!」
私が打ち明けたことは何から何まで本心だった。かつて彼とは永久に敵対し続けようなどと心に誓ったこともあったが、その誓いはこの時点で自動的に破棄されていた。
だが、私の右手を握り締めるゼームの両手に、私も左手を添えた時、カナベロの言葉が再び頭の中に去来した。
これは競争なのだ。
再びゼームの瞳を見つめる。彼が私と友情を築いたことに喜んでいるのは芝居などではない。それははっきりと分かる。だが、彼自身もこの思いが生涯続くものとは思っていない。彼の喜びの輝きに奥にあるものは、未来に必ず起こる裏切りへと向かう悲しみだった。
「最初から私に嫉妬する必要なんて無いんだよ。君と私は似た者同士、むしろもう一人の自分のようなものだと感じてる。君は私で、私は君だ。この言葉をどうか覚えておいてくれ」
「また哲人になったのかい。ともあれ記憶しておくよ」
私が馬の背に跨り、ゼームがその首を軽く叩く。老いた馬は事情はすべて分かっていると言わんばかりに、快活に歩き出した。
「さようなら。ホルズの予言はきっと外れるはずだ」
「ありがとう。さよなら」
手を振るゼームの姿をしばらく見ていたかったが、それはすぐに木々に阻まれた。
「でも、僕の直感だとホルズのほうが正しい気がするんだ」
鞍の上でうたた寝している間に森を抜けた。畑や民家が開けた土地にまばらに、雑然と散らばっている。数ヶ月ぶりに見るも何の変化も感じられないあのノンドバド村の風景だ。陽はまださらに高くへと昇り続けている。正直最初は半信半疑だったが、本当に昼前に間に合ってしまったらしい。行きと帰りでとんだ違いだ。何日もの間樹海を彷徨い、何度も死ぬような思いをしたのは一体なんだったのか。
「おまえは本当に素晴らしい馬だな。テンベナで引き取られた後はどうなるんだろう?齢だし、食肉にされるのかな?なあ、放してやろうか?」
そう言って首を叩いてみても歩調は変えない。あまりにも賢い馬なので言葉くらいは分かりそうな気がしたのだが、森を歩く能力とそれは別物なのか、あるいは理解した上で己の運命をありのまま受け入れるつもりでいるのか、どちらなのかは分からない。だが、振り向きもせず寡黙に、健気に歩き続ける様子が誰かに似ているような気がした。
「オーリスさんの家に行けと言っていたな。場所、分かる?一度行ったことあるよな」
話しかけても、やはり返事は無い。いきなり返事をされてもびっくりして落馬するだけだろうと思うのでそれは別にいいのだが、別の場所へ歩いて行って昼を回っても困るので、私は念のため手綱を打った。彼はすぐに私の指示通りに方向修正した。
すぐに青い屋根が見えてきた。
徐々に近付きつつ外観を観察する限り、特に荒れている様子も無い。ぐるりと周囲を回ってみる。施錠されていない厩舎の中は空っぽだったが、つい最近まで使われていたように思われた。私はそこに馬を繋ぎ、やや緊張しながら玄関先の階段を登った。この階段を登ったのはまだほんの数回なんだな。他人の家に対して勝手な言い分だが、古い我が家に戻ってきたような懐かしさを感じる。
戸を三度叩く。待てども返事は無い。それを何度か繰り返す。やはり返事は無い。
あのゼームがあれだけ思わせぶりに来訪を勧めた以上、うっかり日取りを間違えたということはまずありえないだろう。中に誰かが居るはずだとの確信の元、耳を澄ませてみたら物音よりも先に匂いに気が付いた。食欲をくすぐる匂いだ。恐らく中で誰かが昼食の準備をしていたらしい。しかし私の来訪に気付いて動きを止め、息を殺して隠れている。どうやら中に居る相手もまた、あまり無闇に来訪者を迎え入れるような立場ではないらしい。ふと斜め上を見上げると、私が背伸びしても届かなかったあの窓が開いていた。
会いたくない人物が複数居る境遇なので、誰かも分からない相手に対して声を出したくはなかったのだが、埒が明かない。私はやむを得ずゼームの笑顔を信用することにした。ごめんください、と声を上げつつ再び戸を叩いた。
内側から扉を何かで小突くような音が聞こえた。
ほんの一瞬考えて、すぐに思い出した。身長の低いアイリスが玄関扉の覗き窓から顔を出すために使う踏み台の音だ。
そして覗き窓が開かれ、視線が交差した。
私は絶句し、石のように硬直した。私が産毛一本を動かすよりも前に、覗き窓が閉じ、扉が開かれた。その際のほんの僅かな振動で私は足を掬われて階段を転げ落ちそうになったが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「死んだはずだが」
目の前に姿を現したその小柄な人物は第一声でそう言いつつ、私のつま先から顔の間で三度ほど視線を往復させた。その間も私はやはりまったく動けずにいたが、その短い名前だけがぽろりと口からこぼれた。
「メセ」
家の中で昼食の支度をしていたのはメセだった。私は知らぬ間に天国にでも来てしまったのだろうか。それともやっぱりあの時、私も死んでたのかな?
「メセ」
もう一度呟いてみる。生きている?何故だ?どういうことだ?私は確かにあの時、空中でばらばらになって舞い散る彼女の四肢を見たはずだった。となるとやっぱり私も死んだのかな?
「メセ」
「しつこい。何度も呼ぶな」
「ごめん」
「なんで生きてる」
「え?ごめん。君こそ一体どうやって…くっ付いたんだ?」
彼女の細い声と端的な言葉は氷を徐々に溶かすように、私の意識を混乱から醒ましつつあった。それで私はようやく意味のある言葉を発することが出来た。
「もげた手足がくっ付くことはない。生やした」
「手足って生えるものなの?」
「適性者としての俺の固有の能力だ。俺以外の者は生えてこない、はずだ。おまえこそどうやって頭部を…」
「えー…超能力ぅー…?そうだったのか。なんだよ…ははは…。良かった。本当に、僕は君が生きているだなんて本当に…ははは、あははは…」
ついに事情を理解した私は心から安堵のため息を吐き、たまらず笑い出していた。いつまで経っても笑いを止めない私は、そのまま笑いながら家の中へと招き入れられた。例の食卓の例の席に着席した後もまだ笑っていた。
メセが生きていた。しかも見るからに健康な状態で。私を庇って死んだ少女は居なかった。あそこに居たのはただ私を庇って戦ってくれた少女で、そしてその少女は今生きてここに居る。樹海の書庫で超能力者について、テリリドニジグについて調べる中、ことあるごとにメセの存在を思い続け悲嘆に暮れた日々がすべてこれ以上無い形で報われた。
礼を…命を救ってもらった礼を言わなければ。
「へぇ…ははは…。治療が必要ってのは君のことだったのか。なるほどね…はは…。まだ村に居ると言うことはやはりまだにょきにょき生えてきてる途中なんだろうね?道理で…脚がやたらと太くて短い」
礼を言わなければ。
「手足は生え揃っている。元々この長さだ」
「ははは」
後でいいか。しばらくひたすら笑っていたい。
「手足の再生だけなら一週間程度で済むはずだったが、今回は内臓の損傷が問題だった。それでも心臓と脳が無傷で、互いの接続が断たれていなかったのは幸いだ。どちらかが失われていればこの村で治癒することがそもそも不可能だった」
「ははは、弱点をぺらぺら喋るね。ニャキさんに怒られ…あっ…そう言えば、ニャキさんは一緒じゃないのか?」
私はようやく馬鹿みたいな笑いを止めることが出来た。ニャキが私を歓迎するとはまったく思えない。それどころかメセの居る家に上がっているところを見られでもしたら命を何かしらされかねないだろう。
「ニャキは外出中だ。昼に人と約束があると言っていたから、昼を過ぎるまでは戻らない」
以前メセはニャキのことをマスターと呼んでいたはずだったが、あまりに自然な流れだったのと、私自身がこの時有頂天だったこともあり、呼び方が変わっていることにまったく気が付かなかった。
「なるほど。だから必ず昼前に行けってね…」
話している間、テーブルの傍らにじっと立っていたメセが、台所へと踵を返した。
「丁度いい。昼飯を食べていけ」
恐らく、これまでの人生で誰かから食事を勧められて一番喜んだのはこの時だったろう。
「へぇ、君が料理かい。また丸焼きかい?」
ニャキが居ないと知ったらもうこっちのものである。私はもはや自宅以上にくつろぎきって、再びへらへらと笑いながらメセの肩越しに台所を観察した。
「肉料理にかける肉汁のソースかい。香辛料に香辛料をかけたことと言い、同じモノを重ねるのが好きだね?別にそうじゃない?匂いは結構良いね。っていうか…なんか…全体的にちゃんとしてる…?」
無闇に上から目線である。上機嫌というものも時として危険であるのは言うまでもないが、メセはこの程度の態度を気にかけるような人物ではないという信頼もあった。
土地が同じである以上、手に入る材料や調味料も似たり寄ったりになる。私はひたすら食べる側だったが、一日三食ゼームの作る料理で暮らす中、この地方の献立についてそこそこ詳しくなっていた。後で知る事になったが、ゼームは料理の腕についてもプロ並みだった。
「ここしばらく料理くらいしか楽しみがなかった。いつも作り過ぎていた。食う奴が居るのは丁度いい」
そしてメセについても、以前の樹海での有様と比べると天と地の差ほどに料理の腕を上げていた。また、ゼームといい、メセといい、材料や器具にかなり金をかけている。私は舌を肥やしすぎたことをすぐ数日後に後悔することになる。
元々作りかけだったこともあり、仕上げだけ行なって料理は完成した。配膳については私も手伝い、すぐに準備が整った。食事よりも作ること自体が目的だからなのか、一般的な昼食と比べるとだいぶ豪華だ。
メセの料理は期待通りに味も申し分無かった。私はもはやこの世のすべてが自分のものになったかのような幸福感で満たされていた。向かいの席にちょこんと座ったメセが料理を口に運ぶ姿を視界に入れるたびに、既に満たされまくった幸福感がさらに追加でどぶどぶ注がれ続け、中毒症状でも起こしそうだ。旅立ち初日から幸先が良いなんてもんじゃない。どう考えてもここが頂点である。
私は食事中、メセが無口なのをいいことに、まるで堰を切ったように一人で言いたいことを捲し立て続けた。崖から落ちた後、ゼームに拾われてしばらくそこで療養生活を送ったこと。――そもそもメセはゼームの存在すら知らないはずだったが、私はお構い無しだった――。知恵を絞って秘密書庫の入り口を暴いて見せたこと。そこで不思議な男と出会い、巨大な遺物へと導かれたこと…。無論、その遺物の中に居たものが神と呼ばれる存在だったことは伏せた。ほら吹きと思われたくないからだ。それ以上の理由は無かった。
「わけがわからん」
たまに返ってくる率直な感想が心地よかった。




