10. 酔っ払って暴れる
再び世界が縦回転したような気がしたが気のせいだったかもしれない。しかし私はいつの間にやら現世に舞い戻っていた。
最初私は、自分はしばらく失神していたのだと思ったのだが、後で聞いたところ、不思議なことに私の体や言葉は私自身の制御下から解放されたままずっと動き続けていたらしい。正体を失っていたのは事実なので、気を失っていたと言い換えても間違いではなさそうなのだが、周囲からはそうは見えなかったと言うことだ。
何が何だかよくわからないのだが、私の記憶が再開した場所はオーリスの家の玄関先だった。肉体に戻ったばかりの私の魂は、自分の体のどちらが頭でどちらが足なのか区別がつかないほどの有様だったが、少しずつ鮮明になりつつあった意識で最初に認識したものは男と少女が怒鳴り合う声だった。言っている言葉の意味は理解できないが、声の調子からすると明らかに憎悪を込めて罵り合っているのがわかった。
「誰だ。どうでもいいが。セリトか。向こうに居るのは、シャマビ姉さん…いや、姉さんは虫になったか…ああ、あれ…誰だったかな…レニタフ…一体なにが…ど、どうなって…」
雨乞いの祈祷師のような奇妙な抑揚の囁き声はどうやら自分の唇から漏れ出していたらしい。辛うじてそれを理解したのは、言葉の内容は支離滅裂だったが、シャマビ、レニタフ、と、自分しか知り得ないであろう組み合わせの人物の名称を認識できたためだ。男は私の声に気付いたらしく、怒号の標的を私へと変えた。
「黙ってろ毛虫野郎!!」
男の声は私の真上あたりのすぐ側で聞こえているのだとわかった。同時に口の中の泥の味も認識した。私はどうやらセリトに首根っこを掴まれたまま両足両膝両手両肘を最大限に活用しながら外を移動しているらしい。
地面が随分ぬかるんでいた。そう言えばオーリス家に居た時ににわか雨の降る音を聞いたような気もする。聞いていないような気もするが。とにかく、この時は降っていなかった。いや、降っていたかもしれない。しかし月が出ていたのは覚えている。
「ああ…意味がわからない。ここはどこだ…?…ここはどこだよ!!…夢じゃないのか。地獄じゃないのか。うう…ひ、ひどく悲しい…いや、そんなでもないかな。今は夜なのか?よく見たら何も見えない。真っ暗だ」
実際には月明かりの下で目が慣れてきたところだった。口の中の泥を出すため唾を吐いたら自分の腹にかかった。よく見ると服には泥以外のものも付いている。一体誰のものなのか、どうやら嘔吐物らしい。
「まさか記憶が無いとでも抜かすんじゃないだろうな。貴様があのクソガキを挑発してキレさせたせいで家に居られなくなったんだろうが!」
「ちょっと!今クソガキって言いませんでした!?言ったよね!おい!」
私が正体を失っている間に何が起こったのか。修羅場ならその間に済ませておいて欲しかったのだが。
瀕死の毛虫がもがくようにぐにゃぐにゃと外を這う私たちに向けて、離れた場所から呪いの言葉を投げていた少女は、当然虫になった私の姉などではなく、幼い頃に創世絵巻で見た破壊神のような真っ赤な顔をしたアイリスだった。
多分だが、すごく怒っているようだ。間違いなく激怒している。多分。
「僕が、挑発しただって?あの子を?有り得ない…僕は…人にそんなことは…」
昼間、私たちが初めてその姿を見た時に彼女の周囲にまとわりついていたじっとりと陰気に湿った薄紫色の空気は、今はもうすっかりその色を変え、彼女自身の炎でからからに乾ききって黒煙まで渦巻いているかのように見えた。たった半日でここまで対照的な表情を見せてくれるとはまるで想像しなかったことだし、想像することすら想像もしたくないことだったが、最悪なことにこれは想像ですらなくどうやら現実のようだ。
彼女は元々は外まで私たちを追いかける気は無かったらしく、ずっと敷居の内側からなにやら喚き続けていたのだが、クソガキ呼ばわりをされて怒りが沸点に達したらしい。脇に置いてあったサンダルを引っ掴むとそれを履く間も惜しんで両手に持ったまま、よろめきながら玄関先の坂道を駆け下りてきた。どうやら姉に制止された後もまたいくらか飲んだらしく、彼女も見るからに泥酔しており、転ばなかったのが奇跡にも思える足取りだった。
「素晴らしい奇跡だ。信仰の賜物だ。それなのにどうして救われなかったんだろう」
呟いても返答は無かった。聞こえなかったのか、酔っぱらいのうわ言と思われたのか。実際自分でも言っていることがよくわからないので酔っ払いのうわ言以外のなんでもないのだが。
「ああ、すまんな!クソガキとは失言だった。許してくれこのゴミクソ以下の肥溜めのドブミミズが!…げぇ!」
アイリスはこちらへ向かってまっすぐ駆けてくると、金髪男の減らず口が閉じる前にそこにサンダルをねじ込もうとした。セリトはそれをかわそうとしたようだが、同じくひどく酔っ払っているらしい彼は泥で足を滑らせ、私の襟首をつかんだまま尻餅を搗き、私は顔面から泥の中に落ちた。
「痛ぇ!」
「痛…。いや、そんな痛くないな。でもすごく悲しい。あと、すごい痛い…助けてくれ…」
突き付けられたサンダルは踵の厚い木の板の部分で、体勢を崩したセリトの頭頂部を偶然に捉えたらしく、金色のハリネズミのような石頭が軽快な音を立てた。そして泥を吐き捨てたばかりの私の口は先ほどの十倍ほどの量の泥で満たされた。
セリトは尻餅の体勢から右手を地に突き、それを軸にして左腕と首を無闇に振り回して勢いをつけ、普段のキザな身のこなしとはまるでかけ離れた不恰好な無駄だらけの動きで立ち上がった。
「ははは!おい、泣いているのか!わははは」
そして振り向きざまに私の顔を見ると腹を抱えて笑い出した。私はどうやら泥まみれでもそれがわかるほどの量の涙を流していたらしい。私は体の調子がつらいのか、何かを思い出して悲しんでいるのか、またはそれ以外の何かか、自分の感情がまるで掴めなかったが、泣いていたのは事実だったようだ。
「ううう」
横からはアイリスがセリトに殴りかかっている。私もついでに何発か殴られた気がするがよく覚えていない。
「畜生!この…畜生!あんたなんかなあ、あんたなんか、畜生!ブタ野郎!」
先程のサンダルの一撃は予想外らしかったものの、やはり体格差がありすぎるせいか、セリトは子犬とじゃれるように楽々とアイリスの殴打をいなしていた。
「へえ、おい、ははは、おい、お…おい!やめろ、このボケが!見ろ、流血沙汰だぞ!」
片手でアイリスを止めながらもう片方の掌を自分の額に当て、彼はようやく自分が出血していることを知った。セリトは咄嗟にアイリスを払いのけるように腕を振ろうとしたが、その動作の途中で、少女に手を上げることは騎士道精神に反することだと気付いたようだ。彼は不自然に動きを止めて身を翻すと、混乱した様子で何やら叫びながら駆け出した。アイリスは必死の形相で彼を追い掛け回した。
「うおっ、なんだこいつ。足速っ。来んな!こっち来るな!ヌビク、なんとかしろ!」
セリトは私の背後に回りこむと、私の両肩を掴み、私を盾にするように前へと突き出した。基準が理解出来ないのだが、彼の騎士道精神はこの行為は許可するらしい。アイリスは目の前の障害物である私の頭を、まるで勢いよくカーテンを開くかのように平手で一撃した。
「アイリス!こらぁっ!やめ…やめなさい!いい加減に…あっ、うわはっ、ぎゃあ!」
ついにオーリスも玄関から飛び出してきてアイリスを止めようとしたが、彼女は比較的足取りがしっかりしていたにもかかわらず、ぬかるんだ坂道で足を滑らせ、見事に頭からすっ転んでしまった。彼女はそのまま坂の下まで転がり落ち、全身泥まみれになったものの、すぐに立ち上がって駆け寄ってきた。
「いい加減にしなさい!はぁはぁ…ほんとにごめん…こんなの…あー…ごめんなさ…あーもう!」
オーリスは背後からアイリスを羽交い絞めにし、その動きを封じた。豊かな栗色の髪は泥まみれになり、それを結んでいた紐も取れてどこかに落ちたらしい。腰まである長髪は振り乱され大きく広がっていた。
「畜生!そもそもその顔がムカつくのよ。三日月みたいな顔しちゃってさ…バカにしてんのか!何個かクレーター作って箔付けてやる!」
「ワハハハ」
セリトは再び得意げな荒々しい笑いを取り戻し、右手の人差し指でアイリスの顔面を指したまま再び歩み寄った。その指先は彼女の小さな鼻に触れるほどまで近づいた。
アイリスは最初は全身で激しく抵抗したが、力では姉にかなわないと観念したのか、掴まれた両脇を振りほどくことはあきらめ、自由な両足でなんとかセリトの顔面を蹴りつけられないかとばかりに、裸足の両足をばたつかせていた。しまいには蹴りが届かないことも理解したらしいが、同時に自分の足から飛ぶ泥は届くことも発見したらしく、わざと足下の泥を掬うように蹴り上げてひっかけてきた。
「バーカ、バーカ!何見てんだ!あんたもよ!あんたも男前にしてやろうか。このドチビ!ヘンタイ!」
たまたま視界に入った私が、セリトと違って飛んでくる泥を避けようとしないことに気付いたのか、アイリスはもっぱら私のみに向けて泥と罵声を飛ばすようになった。私はそんなアイリスを横目に、顔面に泥を浴びながら言った。
「割と、どうでもいいことなんだが…それにしても、な、何故…何故この子は…この人はこんなに怒っているんだい」
言葉を柔らかくするために何かと前置きしてから喋ることは日常的にあるが、泥酔していた私は正しい言葉を選ぶことができなかった。「どうでもいい」という文句は完全に逆効果で、その場に居た全員の神経を逆撫ですることになってしまった。
「ヌビクリヒュくんもそういう事言うのいい加減にやめなよ!」
オーリスにまで怒られてしまった。アイリスとセリトも何やら喚いていた。
様子から察するに、どうやら私が原因でこのバカ騒ぎに発展したのは事実らしい。
私は状況を把握するにつれて混乱してきた。いや、自分が混乱しているということを思い出せる程度に冷静になったと言うべきだろうか。
「僕の…いや…僕の…僕のせいなのかい?こ、この有様は。その…言いにくいんだけど、正直なところ…よくわからないと言うか…記憶が一部欠けてるんだが…」
私の心の中を占めていた最も大きな感情は、正体不明のものを除けば、恐怖だった。私がなにやら大それたことをしたらしく、私自身はその記憶がまるで無い。他人が犯した罪を被せられ、冤罪を証明する方法が何も無い。そんな恐怖に似ている。しかしそれは実際冤罪などではないらしいのだからなおのことどうしたらいいのかわからない。
記憶をたどる。正体を失う前に最後に見たもの、聞いたものはなんだっただろうか。縦回転する世界だっただろうか。瞼の裏側だっただろうか。どこかまったく異次元の美しい光景だったか、この世の終わりに吹き付ける乾いた風の音か、または神の声だったかもしれない。いや、それを聞いたのはきっと正体を失っていた間のことだ。
「おい、はぁはぁ、寝るな起きろこの間抜け!覚えてないなら何度でも教えてやる。貴様のせいでこうなったんだ」
また気が遠くなりかけたが、セリトの声で引き戻された。
そうだ。セリトの声だ。記憶を失う直前のことだ。セリトの冷めた一言、彼が私に向けて投げた、この上無いほどの侮蔑の視線を伴った冷徹で悪意溢れる一言を引き金に、私の世界は弾けてしまったのだ。
そしてその直後の、世界が縦回転した瞬間に私を襲った冷たい何かのことを思い出した。
やはりあれは怒りだったのだ。
悪いのは全てこいつだ。何もかもがこの野郎のせいだ。こいつがあんな非情な言葉を口にしなければ私は正気を失うことなく、いざこざを起こすことも無かったのだ。
「僕のせいだって?本当にそうかい?平気で嘘を吐くんだなこの野郎!こんなアレになったのは全て君のアレだろ!責任だろ!」
失われていた私の感情はまた一つ取り戻された。
セリトが私の中に呼び起こしたものは「怒り」の感情だった。
私は生まれて初めての強烈な憤怒を込めてセリトを睨み付けながらそう言った。しかしそれは上手く伝わらなかったらしく、セリトはまったく調子を変えずに言い放った。
「無理矢理責任転嫁するな!完全に貴様のやらかした奇行のせいだろうが。具体的には、貴様があの子供の顔を執拗に触ろうとしたり、女たちの使っていたコップの口を舐めまわしたり、尺取り虫みたいに這いつくばってテーブルの下から…」
「うおおおおおおおぉぉぉーああぁ!やめろ!!」
感情の歯止めが炸裂した。私はセリトに飛びかかった。不意を突いたことも幸いし、私はセリトを泥の上に引き倒すことができた。が、そのまま馬乗りになり顔を殴りつけようとしたところ、突き出した腕を掴まれ逆に頭の方向へ投げ飛ばされてしまった。
「なにしやがる!」
「殴る!君を殴るんだ。ああ、君が!君が全部悪いんだ。絶対に許さない」
私は起き上がると再びセリトに飛びかかろうとしたが、足を滑らせてその場で再び顔面から地面に倒れ込んだ。
「うへえ…!」
「ハハハ、とうとう完全にぶっ壊れちまいやがったのか!ウハハハ」
「ちょっと、ねぇ、やめなよ!ほんとにどうしちゃったの」
こちらを指さしてまたしても馬鹿笑いを始めたセリトの横からオーリスが仲裁に入ろうとしたが、彼女も笑いを堪えているかのように見えた。そんなに私の姿が間抜けだったか。
「笑うな!」
私は返り討ちにあうことはわかっていたが懲りずにセリトに掴みかかった。もうこうなってしまった以上、それ以外他に何ができただろうか。
セリトは私の突然の反逆に腹を立てたような様子は無いが、相手が男だから容赦する必要は無いと踏んだのか、今度は頬骨のあたりを一撃殴り返された。
「鼻や歯は狙わないでおいてやるつもりだが、私もそれなりに酒が入っている故、保証はできんぞ。そのくらいにしておけ」
「調子に乗るなキツネ野郎!大体今までよくも散々アレしたりしてくれたりしたな。僕に…僕や…世界に対するこれまでの傲慢と、あと…あと色々に対するツケを払ってもらうからな!」
でたらめに拳を突き出していたら、十発殴られる間に一発くらいはこちらからも当てられるかと思っていたのだが、二十発殴られても一発も当たらなかった。私はもう痛みなどどうでもよくなってしまい、とにかくセリトの鼻をへし折りたい一心で暴れ続けた。
「あぁん、もう、ほんと仕方ない子だなあ!やめなさい!こら!」
オーリスが、先ほどアイリスにしたように後ろから私を羽交い絞めにした。
「う、うわ、うわっ!」
純粋に私の力がオーリスよりも強かったかどうかの自信も無いが、女性に対して全力を出して抵抗することは私の潜在意識が拒否したため、私はそれを振りほどくことはできなかった。それに突如抱きつかれたせいで錯乱してしまい、解き放たれ自由になったアイリスがセリトの尻を後ろから思い切り蹴りつけるまで、自分が今暴力沙汰を起こしているなどと言うちっぽけな事象は完全に忘れてしまっていた。
再び暴れ出したアイリスに驚いたオーリスは私をほとんど突き飛ばすような形で手を離すと、先ほど私がセリトに掴みかかったときのようにアイリスに飛びかかり、二人して地面に転がった。セリトはそれを見てまたげらげら笑っている。
「笑うなと言った!」
私が、泥酔状態にありながら、セリトの後頭部に向けて突き出した拳が振り向いた瞬間のその鼻っつらを捉えるタイミングを一瞬で計算できたのはほとんど奇跡だった。彼の嫌味な細く高い鼻は他の誰でもないこの私の拳によって一瞬大きく歪み、金髪野郎は泥まみれの顔に驚愕を湛えたまま全身を後ろに仰け反らせた。
「今日は奇跡のバーゲンセールだな」
「おお…おおぉ…とうとうやってくれたな…貴様、貴様…てめえ、優しくしてればつけ上がりやがって…オレが一体何をした!?このウジ虫野郎がぁぁ!」
「やるかこの野郎!」
「とっくにやってんだろ!」
私とセリトがお互いの肩に掴みかかり、その後はもはやわけのわからない乱闘だった。最初からずっとわけのわからない乱闘だった気もするが。暴れ回りながら一回嘔吐したが、吐いてる最中も殴られた。私が吐いてる様子を見てか、アイリスも直後に嘔吐していた。
セリトはサンダルで殴られた際の傷から流れた血液や泥が入ったせいで両目ともほとんど開けられなくなってしまったらしく、私の拳を何度か顔面に受けることになった。それでも七割方の攻撃は受け流していたのでこいつは本当に凄腕の剣士なのかもしれないと、殴られながら呑気にそう思った。
オーリスはセリトを止めようとすると振り払われたし、私を止めれば身動きできない間に私がセリトやアイリスから集中攻撃を受けたので、もはやどうするべきかわからず右往左往していた。
流石にだんだんと虚しくなってきたのでやけになって泥の上にうつぶせに倒れ込むと、セリトはそれ以上私を攻撃しようとはしなかった。
巨大な疲労感がゆらゆらとやって来た。先ほどの凍りつく縦回転の世界とは違い、安らぎと呼べるほどのものではなかったにしろ、それは僅かな温もりを伴っていたため苦痛とは感じなかった。私の魂は螺旋を描きながら吸い込まれていった。
なんだか色々忘れていることがある気もするがもうどうでもいい。このままどこかへ行ってしまおう。
長い一日がようやく終わった。と言うか、無理矢理ブツ切りにして終わらせた。