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呼ばれた声の向こう  作者: サク


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5/8

5 扉のそちら側


結婚式前日の午後、花嫁支度のための部屋は人の出入りで絶えず揺れていた。


運び込まれたドレスの裾が長椅子を覆い、鏡台の上には宝石箱や香油瓶がいくつも並んでいる。仕立ての確認に来た女たちが裾を持ち上げ、侍女たちは小声でやり取りを交わしながら、箱を開けたり閉めたりしていた。廊下まで花の香りが流れてきて、その部屋だけが祝祭の中心みたいだった。


エリンは扉の前で足を止めた。


昔なら、こんなふうに立ち止まる理由はなかった。

クラリスが新しい髪飾りを見せたいときも、不安をこぼしたいときも、扉は叩くためのものではなく、そのまま開けるためのものだった。最初に呼ばれるのが自分であることを、疑ったことなどなかった。


開け放たれた扉の向こうには、鏡の前に座るクラリスと、その肩へ手を添える母が見えた。


ヴェールの縁を見ながら、母がほんの少し角度を直す。侍女が差し出した真珠飾りを受け取り、こちらのほうが映えるわね、と静かに言う。クラリスは素直にうなずき、その声にやわらかく礼を返した。やり取りは自然で、美しかった。最初からそうあるべき形だったように見えるほどだった。


その脇を、箱を抱えた使用人が通りすぎる。

エリンに気づくと、足を止めて軽く頭を下げた。


「お嬢様、何かご用でしたら少々お待ちくださいませ。ただいま花嫁様のお支度の最中で――」


その言い方は何も間違っていなかった。

クラリスは明日の花嫁で、この部屋の中心にいるのは当然だった。ただ、その当然さが、扉の外に立っている自分の足元だけを少し変える。


クラリスが鏡越しに振り向き、エリンを見つけた。


「エリン、来てくれたのね」


うれしそうに笑う。

その笑みは昔と変わらないように見えるのに、今この部屋の中でその声を受けているのは、母であり、侍女たちであり、明日の式であり、この家の新しい形そのものだった。


「髪飾り、どちらがいいと思う?」


差し出されたのは、銀を細く散らした真珠飾りと、小さな花を象った古い意匠の飾りだった。どちらもよく似合うだろうと思う。たぶんクラリス自身は、もう答えを持っている。決めてしまった上で、最後のやわらかな確認だけを差し出しているのだと、今のエリンにはわかった。


昔なら、その迷いのかたちまで拾えた。

今は、そこまで手を入れる気になれない。


「どちらでも、きっとお似合いよ」


そう返すと、母が、まあ本当にそうね、と微笑み、花の飾りをクラリスの髪へ寄せた。侍女たちも口々に似合うと言い、鏡の中のクラリスは花嫁らしく華やいで見えた。


誰にも拒まれていない。

部屋へ入ろうと思えば入れるし、呼ばれれば近寄ることもできる。けれど、そこへ一歩踏み込んだところで、自分の立つ位置が戻るわけではないことだけは、もうはっきりしていた。


いちばん近くにいる人が、もう自分ではない。


その認識は、思っていたより静かだった。

胸の中で音を立てるのではなく、ただ少しだけ床が遠くなるような感覚だった。


「また後で来るわ」


そう言うと、クラリスは疑いもせずうなずいた。


「ええ、待っているわ」


その返事を聞きながら、エリンは微笑む。

昔なら、その一言だけで部屋の中へ入っていけた。今は、その言葉が扉のこちら側で静かに止まる。


廊下へ出て扉を閉めると、花の香りだけが薄く残った。

さっきまであんなに人の声が満ちていたのに、外は驚くほど静かで、その静けさがかえって、もう自分の入らない部屋の中をはっきり思わせた。


少し歩いた先の窓辺で、エリンは立ち止まった。


庭では明日のための最後の準備が続いている。白い布が運ばれ、花が入れ替えられ、石畳の上を人が行き来する。誰も忙しそうではあるけれど、慌ただしくは見えなかった。必要なことが必要な人の手で進んでいく、ただそれだけの光景だった。


それなのに、息が浅い。


エリンは窓枠へそっと手を置いた。

冷たい木の感触が掌に当たる。それでようやく、自分が少し震えているのだとわかった。


泣きたいわけでも、誰かを責めたいわけでもなかった。

ただ、自分だけが少し遅れて、この変化の形を受け取った気がした。


明日になれば、すべてはもっとはっきりするのだろう。

兄の隣にクラリスが立ち、人々は二人を祝福する。家は整い、何ひとつ壊れたようには見えない。


それでもエリンには、もう知れてしまったことがある。


自分はここにいてもよい。

けれど、もういちばん近い場所にはいない。


その事実を、うまく言葉にすることはできなかった。

それでも、胸の奥にはたしかに残った。


窓の外で風が吹いて、若い枝先が少し揺れた。

エリンはようやく手を離し、ゆっくりと歩き出す。


戻る場所がなくなったわけではない。

ただ、戻ったところで、以前と同じ場所には立てない。

それだけのことが、思っていたより深く痛んだ。

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