5 扉のそちら側
結婚式前日の午後、花嫁支度のための部屋は人の出入りで絶えず揺れていた。
運び込まれたドレスの裾が長椅子を覆い、鏡台の上には宝石箱や香油瓶がいくつも並んでいる。仕立ての確認に来た女たちが裾を持ち上げ、侍女たちは小声でやり取りを交わしながら、箱を開けたり閉めたりしていた。廊下まで花の香りが流れてきて、その部屋だけが祝祭の中心みたいだった。
エリンは扉の前で足を止めた。
昔なら、こんなふうに立ち止まる理由はなかった。
クラリスが新しい髪飾りを見せたいときも、不安をこぼしたいときも、扉は叩くためのものではなく、そのまま開けるためのものだった。最初に呼ばれるのが自分であることを、疑ったことなどなかった。
開け放たれた扉の向こうには、鏡の前に座るクラリスと、その肩へ手を添える母が見えた。
ヴェールの縁を見ながら、母がほんの少し角度を直す。侍女が差し出した真珠飾りを受け取り、こちらのほうが映えるわね、と静かに言う。クラリスは素直にうなずき、その声にやわらかく礼を返した。やり取りは自然で、美しかった。最初からそうあるべき形だったように見えるほどだった。
その脇を、箱を抱えた使用人が通りすぎる。
エリンに気づくと、足を止めて軽く頭を下げた。
「お嬢様、何かご用でしたら少々お待ちくださいませ。ただいま花嫁様のお支度の最中で――」
その言い方は何も間違っていなかった。
クラリスは明日の花嫁で、この部屋の中心にいるのは当然だった。ただ、その当然さが、扉の外に立っている自分の足元だけを少し変える。
クラリスが鏡越しに振り向き、エリンを見つけた。
「エリン、来てくれたのね」
うれしそうに笑う。
その笑みは昔と変わらないように見えるのに、今この部屋の中でその声を受けているのは、母であり、侍女たちであり、明日の式であり、この家の新しい形そのものだった。
「髪飾り、どちらがいいと思う?」
差し出されたのは、銀を細く散らした真珠飾りと、小さな花を象った古い意匠の飾りだった。どちらもよく似合うだろうと思う。たぶんクラリス自身は、もう答えを持っている。決めてしまった上で、最後のやわらかな確認だけを差し出しているのだと、今のエリンにはわかった。
昔なら、その迷いのかたちまで拾えた。
今は、そこまで手を入れる気になれない。
「どちらでも、きっとお似合いよ」
そう返すと、母が、まあ本当にそうね、と微笑み、花の飾りをクラリスの髪へ寄せた。侍女たちも口々に似合うと言い、鏡の中のクラリスは花嫁らしく華やいで見えた。
誰にも拒まれていない。
部屋へ入ろうと思えば入れるし、呼ばれれば近寄ることもできる。けれど、そこへ一歩踏み込んだところで、自分の立つ位置が戻るわけではないことだけは、もうはっきりしていた。
いちばん近くにいる人が、もう自分ではない。
その認識は、思っていたより静かだった。
胸の中で音を立てるのではなく、ただ少しだけ床が遠くなるような感覚だった。
「また後で来るわ」
そう言うと、クラリスは疑いもせずうなずいた。
「ええ、待っているわ」
その返事を聞きながら、エリンは微笑む。
昔なら、その一言だけで部屋の中へ入っていけた。今は、その言葉が扉のこちら側で静かに止まる。
廊下へ出て扉を閉めると、花の香りだけが薄く残った。
さっきまであんなに人の声が満ちていたのに、外は驚くほど静かで、その静けさがかえって、もう自分の入らない部屋の中をはっきり思わせた。
少し歩いた先の窓辺で、エリンは立ち止まった。
庭では明日のための最後の準備が続いている。白い布が運ばれ、花が入れ替えられ、石畳の上を人が行き来する。誰も忙しそうではあるけれど、慌ただしくは見えなかった。必要なことが必要な人の手で進んでいく、ただそれだけの光景だった。
それなのに、息が浅い。
エリンは窓枠へそっと手を置いた。
冷たい木の感触が掌に当たる。それでようやく、自分が少し震えているのだとわかった。
泣きたいわけでも、誰かを責めたいわけでもなかった。
ただ、自分だけが少し遅れて、この変化の形を受け取った気がした。
明日になれば、すべてはもっとはっきりするのだろう。
兄の隣にクラリスが立ち、人々は二人を祝福する。家は整い、何ひとつ壊れたようには見えない。
それでもエリンには、もう知れてしまったことがある。
自分はここにいてもよい。
けれど、もういちばん近い場所にはいない。
その事実を、うまく言葉にすることはできなかった。
それでも、胸の奥にはたしかに残った。
窓の外で風が吹いて、若い枝先が少し揺れた。
エリンはようやく手を離し、ゆっくりと歩き出す。
戻る場所がなくなったわけではない。
ただ、戻ったところで、以前と同じ場所には立てない。
それだけのことが、思っていたより深く痛んだ。




