12 振り返らない
テアに誘われるまま顔を出した小さな集まりは、一度きりでは終わらなかった。
二度、三度と続くうちに、誰が何を持って来る人なのかも、少しずつわかるようになっていった。
エイドリアンとも、そのたびに言葉を交わした。
次に会えばまた前の話の続きをする、それだけのことが自然になっていた。
だから王家の名を借りた初夏の交流会で、同じ顔ぶれの中に自分がいることも、今ではそれほど不思議ではなかった。
招待状が届いたとき、エリンは少しだけ指を止めた。
厚みのある紙には、見慣れた家々の紋ではなく、王家に連なる意匠が控えめに押されていた。初夏の夕べの交流会。庭園での茶会のあと、回廊に続く広間で朗読と歓談を、という簡潔な文面だった。
母はそれを一読すると、これはきちんとした装いで出るべき席ね、と言った。
声はいつも通り穏やかだったが、その穏やかさの奥に、わずかに張ったものがあるのをエリンは聞き取った。
当日、馬車が石畳をゆるやかに進み、開かれた門の向こうに灯りが見えた。
そこで初めて、王家ゆかりの庭園を開く交流会なのだと、景色として胸に落ちてくる。白い石で縁取られた小径の先に、低い灯りがひとつずつ点っている。庭園の奥では人々の声が低くやわらかく重なっていた。
それでも会場へ着いてみると、思っていたより息はしやすかった。
母はすぐに年長の夫人たちの輪へ入り、クラリスもその隣へ自然に収まった。
少し遅れて兄が加わるのを見て、エリンは、ああ、と小さく思う。あちらはもう、自分の立つ場所ではないのだと、こんな場ではことさらはっきりわかった。
けれど今は、それだけではなかった。
「こちらよ」
テアが振り返り、広間の奥へ軽く顎を向ける。
押しつけるでもなく、けれど迷う余地も残さない歩き方で、人の輪のひとつへエリンを連れていく。
そこにはテアのほかに、ここ数か月で顔を覚えた人たちがいた。誰も同じものに興味を持っているわけではないのに、そのばらつきがかえって心地よかった。
エリンは、その輪の中で笑っていた。
大きな輪の中心ではない。けれど、端に立っているわけでもない。
詩の一節から始まった話は、古い刺繍見本の意匠へ飛び、そこから誰かの持つ小さな香盒の色使いへ移った。エリンがその盒の蓋裏の金彩に触れると、持ち主の令嬢が意外そうに目を丸くした。
「そこを言われたのは初めてですわ」
「表も綺麗ですけれど」とエリンは言った。
「開いたときにだけ見える色のほうが、あとに残る気がして」
小さな笑いが起きる。
エリンもつられるように少し笑った。
前なら、こんなふうに自分から言葉を置くことはなかったかもしれない。けれど今は、それをそのまま差し出してよい場所があるのだと知っていた。
そのとき、ふいに視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた夫人たちの輪の向こうにクラリスがいた。
母の隣で年長の婦人に応じていたはずなのに、いつのまにかこちらを見ている。
どうして、そんなふうに見るのだろう、とエリンは思った。
咎めるようでもなく、呼び戻すようでもなく、ただまっすぐで、だからこそ意味がわからない。
次の瞬間には、クラリスはまた隣の婦人へ顔を向け、視線もほどけた。
それだけのことなのに、妙に心に残った。
「今、何を考えていたの」
テアの声に、エリンは我に返る。
「少し、ぼんやりしていただけです」
「嘘。何か見つけた顔だったわ」
「そうかしら」
「そうよ」
テアはそう言って、面白がるように目を細めた。
その視線が、ふっとエイドリアンのほうへ流れる。
「今夜は、ずいぶん長く話しているのね」
エリンは少しだけ困ったように笑った。
「そうかしら」
「そうよ」
そこへ、エイドリアンが静かに口を挟む。
「それは、私の話が長いせいかもしれません」
テアはすぐに笑った。
「まあ、それならそういうことにしておいてもいいけれど」
その言い方に、エリンは思わず目を伏せる。
テアはそれ以上は何も言わず、ただ満足したように一歩引いた。その引き方が、いかにもテアらしかった。
会が終わるころには、庭園の灯りはいっそうやわらかく見えた。
人々はそれぞれの馬車へ向かい、回廊から石段へ、石段から前庭へとゆるやかに流れていく。テアは別の家の令嬢に呼ばれて先へ行き、それでも振り返って一度だけエリンを見た。押し出すわけでもなく、引き留めるわけでもなく、ただ小さく笑う。
エイドリアンがエリンの少し横に立つ。
「お送りします」
問いではなく、静かな申し出だった。
エリンは一瞬だけ黙り、それからうなずいた。
「ありがとうございます」
石段のところで人の流れが少し重なった。
白い石は夜露を含み始めていて、灯りを受けた縁だけがかすかに光っている。エイドリアンは半歩先に降りてから、振り向いて手を差し出した。
前なら、エリンはたぶん一度ためらった。
けれど今は、その手の上にあるものが助けだけではないとわかっていた。
次の時間へ進むための、やわらかな申し出だった。
エリンは静かに息をついて、その手を取った。
指先が触れた、その瞬間だった。
背後に、またあの視線の気配が刺さる。さっき、夫人たちの輪の向こうから届いたのと同じ、まっすぐな気配だった。
「エリン」
背後で名を呼ぶ声がした。
今のクラリスの声のはずなのに、ほんの一瞬だけ、ずっと昔の響きに近く聞こえた。花を摘んでいた午後、何かを見つけるたび、まっすぐにこちらを振り向いて呼んでいたころの声に。
エリンはそれを聞いた。
たしかに聞いて、それでも振り返らなかった。
もう、あの呼び声に応じて戻る場所はない。
戻れないのではなく、戻る必要がないのだと、今はわかる。
前を向くと、回廊の先に馬車の灯りが見えた。
隣ではエイドリアンが何も急かさず、ただ手を離さないまま、エリンの歩幅に合わせている。
「少し冷えますね」とエイドリアンが言う。
「ええ。けれど、よい夜でした」
そう答えると、エイドリアンは小さく笑った。
「またお話しできると嬉しいです」
エリンはすぐには返事をしなかった。
断る理由を探しているのではない。ただ、その言葉の形を静かに確かめていた。
それから、ようやく言う。
「はい」
その一言は、思ったより自然に出た。
無理をしていない声だった。誰かの隣にいるためではなく、自分で選んで差し出した返事だった。
背後の気配は、もう振り返らなくてもよかった。
前へ進んでいく足音と、まだ少しだけ残る手のぬくもりだけで、今は十分だった。




